Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

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峠旅・南飛騨 観音峠から蓮坂峠へ!

2006-10-25 21:57:24 | Weblog
≪峠旅・南飛騨 観音峠から蓮坂峠へ!≫

 霊峰御岳の山麓には魅力的なエリアが点在している。東の開田村、南の王滝村、北の高根村、西の小坂町。町村合併で消えたところもあるが、何度訪れても感動できる場所でもある。今回は地図にもあまり記載されていない観音峠と蓮坂峠を4人で訪れてみた。

 車を下呂温泉のど真ん中、飛騨川(金山以北を益田川とも言う)の河川敷に停める。先ずは旧の旅館街を抜けて「ふるさとの杜」へと上がる。日曜の朝でもあり、下呂に宿泊したと思われる観光客が朝市に群がっていた。ここには白川郷から移築された合掌作りの民家が数戸建てられていた。

 縄文橋の辺りより下呂萩原線の林道に入る。杉林の合間から朝日が指し込む下をひたすら上に上がって行く。下呂の町並みが遥か下に見えるころ、大林の集落に着く。ここは山腹に数戸が建つ隠れ里みたいな場所であった。道を確認するため、民家に声を掛けると、わざわざ主が道まで降りてきて丁寧に教えてくれた。都会では味わえない人情である。

 道は更に上部へと上がり、何度も脇道に迷いながら小坂方面の看板を見付ける。幾つものカーブを経て高度を上げると前方に紅葉した稜線が見えて来た。その最奥が峠のようだ。時より道に転がる糞を見付けては熊ではないかと噂をする。多分、それは猿のモノのようだった。

 観音峠は標高1200m、昭和62年に農免峰越連絡林道下呂小坂線として完成したという。ここはツバメやヒヨドリ、サシバやハチクマといったワシタカ類が秋になると南方へ渡って行くのが観察出きるそうだ。なかにはアサギマダラという渡りをする蝶を見ることもあるという。

 観音像を奉る立派な峠碑を後にして小坂方面への下りに入る。ここより道はダートとなり、砂利の浮石に注意しながら自転車を進める。同行のKさんはロード専門のトライアスリート、不慣れなMTBに四苦八苦しているようで気の毒であった。

 小坂側は今も広葉樹林が残り、始まりかけた紅葉が美しい。荒れた路面は徐々に安定してきて走りやすくなる。斜度が緩くなった辺りよりは余裕も出て来て、周りの景色を楽しみながら写真を撮る。林道と平行する大洞川はそれほどの渓谷でもなく、穏やかな流れが眼下に望めた。

 峠名の由来となる観音滝は見過ごしてしまったようだ。ここは観光地でもなく、案内の看板もなかった。この道路はかつての小坂営林署の森林鉄道の軌道跡のようで、道の各所で廃レールを活用した構造物を見る事が出来た(菊水橋の手前では石造りの橋台が今も残っていた)。

 鹿山の集落に出たところで林道は終わり、完全舗装の道を走って湯屋温泉へ向かう。ここの開湯は室町時代とか、二酸化炭素を含む炭酸泉で、温度は25度前後。別名サイダー泉とも言うらしい。道路端に設えられた湯飲み場で未体験のサイダー泉を味わった。

 落合で小坂川に出会い、左折してJR高山線小坂駅へ向かう。ひなびた駅のベンチで昼食を取り、更に益田川の右岸を南下して上呂を目指す。ちなみに中呂という地名もある。

 萩原町野上より馬瀬の中切へ越える蓮坂(地図の表記は連坂)峠(900m)へ向かう。この林道は平成7年に完成し、現在、萩原側は舗装されたが馬瀬側は今も酷いダート道であった。

 午前中の峠越えで脚のパワーを使い果たしたのか、快調に飛ばすUさんやKさんに徐々に離される。時より自転車を止め、水分補給と脚のストレッチを試みる。何とか元気を取り戻し、先行する二人を追いかける。Hさんは少し後方のようだ。

 峠に4人が揃い、今日の峠旅を振りかえって話しに花を咲かせる。かつてこの峠は馬瀬の住人が生活道路として頻繁に通ったという。峠の地蔵さんが二つ、石室の中に奉ってあった。

 荒れたダートの下りに注意しながら馬瀬へ下りる。時間はすでに午後3時を回り、タイムオーバーのために当初計画の柿坂峠は諦めた。馬瀬より萩原へ抜ける日和田トンネルを抜け、更に益田川沿いに下って下呂温泉へと戻った。

 日本の隅々まで舗装された現代において、ダートの峠道は貴重である。そこを走ることは大変な労力と忍耐力を必要とするが、何か身体の奥に眠っている野生が甦るようで嬉しい。幸い、岐阜県にはまだまだ未舗装の林道が多くあり、今後もワイルドな峠旅を楽しみたいと思っている。

峠旅・裏木曽 鞍掛峠から真弓峠へ その2!

2006-10-19 21:36:00 | Weblog
≪峠旅・裏木曽 鞍掛峠から真弓峠へ その2!≫

 御岳の南山麓に位置する滝越、それは王滝川を遡った最終集落でもある。春と秋に開催されるアドベンチャーレースの時だけは若者達で賑わうものの、今は15軒ほどの民家が残るのみの寒村である。木曽ヒノキの伐採が盛んなころの面影はもうどこにも無かった。

 この周辺は平家の落人伝説の地でもある。鎌倉時代、相模国の三浦半島一帯を支配していた三浦氏の末裔が東美濃より山を越え、王滝周辺に住み付いたという。加子母、付知、滝越の三浦姓の始祖となる三浦太夫の話しは興味深いものがある。

 集落で唯一のお店となる平沢商店(今は閉店とか)の自販機でスポーツドリンクを買う。蕎麦屋が一軒あると聞いていたが先を急ぐ旅でもあり、そそくさと通過してしまった。白巣峠を越えて付知に戻るのであればここで右折をすることになる。

 更に王滝川沿いに下ると立ち枯れたヒノキが林立する池に出会う。昭和58年9月14日、王滝村を震源地とする長野県西部地震が発生した。マグニチュードは6.8、濁川の一帯は地滑りや土石流に襲われ、多くの犠牲が出たという。死者29名、今も行方不明の方がいると聞いた。

 氷ヶ瀬の貯木場のところで右折し、ウグイ川沿いに付けられた林道を上りはじめる。路面状態は比較的フラットで走りやすく、それほどの苦労は無かった。しかし、同行の若い連中は元気そのもので、どんどんと先へと行ってしまい、一人静かに大自然を味わう羽目となった。

 余りの遅れを心配したOさんが迎えに来てくれ、最後の上りをサポートしてくれた。多分、峠に早く着いた仲間は、遅い私が熊に食われているのではと噂をしていたに違い無い。

 稜線の上部をトラバースするようになり、林道は東方向へと続いていた。真弓峠は鞍部の一番低い所を岐阜県側へ越えたところで、ゲート付近よりは眼下に付知川源流の雄大な風景が広がっていた。その真下にはこれから下るワインディングロードが紅葉の海の中へ消えていた。

 この下りが恐怖であった。木曽側の締まったダートとは打って変わり、砂利のゴロゴロした不安定な路面で、ルートの選定に気を使う。途中、Nさんがパンクをしたようで、ホイールを外して修理をしていたが、「大丈夫ですか!」と声だけ掛けて横を走り去った。

 最近のMTBは例外無くサスペンションを装備している。今回、私一人がリジッドサス仕様で、路面からの強烈な振動に苦労させられた。昔人間は肘と膝の屈伸を最大限活用して荒れた路面をやり過ごす。ダート道を快調に飛ばす連中を見ると流石にサスペンションが欲しくなった。

 井出ノ小路谷に出会うところで全員が集合した。他に転倒などのトラブルも無く、無事に走り切ったようである。ほっとする間もなく、最後のウィニングランへ入る。舗装路も出始め、満面の笑顔で快走する仲間の表情が印象的であった。

 付知の観光センター跡に付いたのは午後の4時頃、舞台峠の先を出発したのが午前8時前であったので、約8時間の走行となる。二つのビッグ峠、紅葉の海の国有林、森林鉄道跡と感動の連続の自転車旅であった。

峠旅・裏木曽 鞍掛峠から真弓峠へ その1!

2006-10-18 21:21:58 | Weblog
≪峠旅・裏木曽 鞍掛峠から真弓峠へ! その1≫

 辺境の地に憧れる自転車乗りにとって、御岳の南部に位置する裏木曽一帯の峠は垂涎の的でもある。付知川の左岸に立ちはだかり、東美濃と木曽を隔てる阿寺山脈は標高1.900m前後を有する。その山脈を越える峠は三つ、北から鞍掛峠(1.408m)白巣峠(1.380m)真弓峠(1.490m)である。

 今回、鞍掛峠と真弓峠へ日帰りで訪れた。メンバーは9名、それぞれが自転車の道の達人であり、レースやシングルトラックで鍛えた面々で心強い。

 舞台峠の先に車をデポし、そこよりスタートする。15分程で御厩野から上がってくる道と合流し、県道442号「白草山公園線」へと入って行く。舗装はされているものの可也の勾配で息が切れる。御厩野川沿いに道はグングンと高度を上げ、左岸に渡ってヘアピンを曲がるとゲートに出会う。その先よりはダートとなり、後輪の空転に苦労させられることとなる。正面の山の斜面を見上げると上部に横切る道が見えた。別の道が合流しているのかなと思いたいところであるが、それは我々がこれから上がる道であった。

 前方に鞍部が見え、東屋も確認できるようになると峠は近い。最後は山の斜面をトラバースするように峠へ辿りついた。この林道は昭和37年に王滝のヒノキを切り出すために作られたそうで、工事用のトラックが崖から落ちて犠牲者が出たという。峠の石仏はその慰霊のためであろうか。

 昭和54年10月28日、御岳が有史以来の噴火をした。その時、下呂の住人たちは鞍掛峠に上がり、目前に噴煙を上げる御岳をここより眺めたという。生憎と今日は曇り模様で望むことは出来なかった。

 更にゲートを通過し、小坂・王滝営林署の管轄となる国有林へと入って行く。林道はダートといっても良く踏まれていて安定しているため、自転車の走行に支障はなかった。一般車の来ない静かな道を団子になり、お喋りを楽しみながらのんびりと走る。木々の紅葉も最盛期で、緑の熊笹に映える赤や黄色のコントラストが美しい。

 やがて林道は三浦(みうれ)貯水地の湖畔へと至る。干上がった湖底には立ち枯れた木の根っ子が整然と並んで異様な風景を見せていた。大きく西岸より回り込み、かつて森林鉄道の貯木場があったと思われる場所へと出た。

 ここで右折し、林鉄の軌道跡のルートへと入って行った。ススキの原を過ぎ、再びゲートを越えてダム湖の断崖を行くことになる。その高さは10m程であろうか、一本のワイヤーが古いレールの柱を利用して横に張ってあるが、石に乗り上げて右側に転倒すれば、最悪ダム湖に落下という事態となる。

 軌道跡は藪で覆われ、釣ヤが通るのであろうか、一本の道が続いていた。時より現れる木製の橋にキモを冷やす。枕木と分厚い板が貼ってあるものの、腐り始めてコケが生えているために滑りやすい。

 先行者の後ろ姿を見失わないように必死で付いて行く。藪の下には大小の落石が隠れているために油断が出来ない。突然、橋の向こうトンネルが現れた。長さは50m程か、向うの出口が見える。それぞれがライトを付け、自転車を担いで歩き始める。トンネルの中は水没しているため 、枕木や飛び石を頼りに通過する。一部には落盤の箇所もあり、いずれは崩壊するのかもしれない。

 大きくカーブを描く木製橋梁の上でランチタイムとした。周りは紅葉の海、見下ろす河原には枯れた大木の根っ子が累々と横たわっていた。その先には青く静かに佇む三浦湖があった。

 最後、左にカーブする真っ暗なトンネルを貫けるとゲートに突き当たり、舗装路へと出る。全員トラブルもなく、林鉄の廃道化した軌道跡を走破出来てほっとする。このルートが通れるのも時間の問題であり、訪れるのなら今の内かもしれない。ちなみにこの森林鉄道は三浦堰堤(ダム)建設のために昭和13年に完成し、昭和51年に廃線となったそうである。

 ここより滝越へは下り一方、快適に自転車を走らせる。途中、真っ暗なトンネルが現れ、ライトの明りを頼りに進むものの、どこが壁やら天上かもわからずにキモを冷やす。ここでまたもやMさんがサングラスを落とすが、なんとか見つかったようだ。




東海道・草津宿から京都三条大橋へ!

2006-10-03 22:17:57 | Weblog
≪東海道・草津宿から京都三条大橋へ!≫

 草津宿から三条大橋間は中山道と同じルートで、古くは東山道であったという。667年、天智天皇によって遷都された大津京が置かれたことでも分かるように、京都と大津は密接な関係にあり、天皇や公家が行き来した場所でもある。京から山科を経て逢坂峠を越えて大津に至る道はどのような地形を行くのか興味があった。

『草津宿』
 東海道と中山道の追分となる草津宿は古くから賑わったという。今も当時の本陣があり、内部を公開していて往時の大名行列などの資料に触れることができる。適度な幅の街道が大津に向かって続いていた。

 矢橋道標は名物の「姥ヶ餅屋」の庭先にあった。当時のお金持ちはここで右折し、矢橋湊から琵琶湖を船で大津へ向かったという。現代でいうグリーン車みたいなものであろうか。

 野路の玉川は平安の歌人、源俊頼が
「あすもこむ野路の玉川萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」(千載和歌集)
と歌ったことや、安藤広重が浮世絵に描いたことでも有名な場所であるそうだ。当時は湧き水があったというが、現代は水道水で再現されていた。

 道は時より右左折し、やがて近江一ノ宮となる建部大社の前へ出る。大社の鳥居からは瀬田の唐橋がはっきりと確認できた。

 橋を越えると石山へ至る。石山寺は少し街道から離れているため、先を急ぐ。膳所の辺りでは、道は複雑に右左折を繰り返すため、迷わないように注意する。

 義仲寺の前で記念写真を撮る。塀の上からバナナの葉が繁っているのが異様であるが、芭蕉の名の意味がバナナを指すことは知られていないようだ。

『大津宿』
 京阪鉄道の踏み切りを渡って坂を上がると大津宿へと入ってゆく。道は琵琶湖より一段と高い位置を通っていたようである。古い家並みの残る中に露国皇太子遭難之地という碑があった。

 札ノ辻で左折し、逢坂峠への登りに入る。右手に蝉丸神社下社の鳥居が見えた。道はそれほど急な坂ではなく、容易に逢坂山関所跡の碑がある峠に辿りついた。

 一旦下って山科へと向かう。途中に山科追分があり、左宇治とあった。何故か大阪へ向かう道は京都を通っていない。“禁中並公家諸法度”で知られるように徳川幕府は公家と大名が近づくの嫌い、参勤交代の大名が江戸へ向かう時、京都を通らないよう山科から大津へと通したという。

 山科の中心部を通り、再び小さな坂を上ることになる。その途中に亀の水という場所があり、今も水が湧いていた。

 小さなコブを過ぎればあとは京の街並みへ下るだけ。蹴上で琵琶湖疎水のインクラインを右に見て三条大橋へ向かう。

 東海道の西の終点となる三条大橋は人で賑わっていた。弥次さん 喜多さんの像の前で写真を撮り、ゴールの証とした。

 まだ東海道の全線は踏査できていない。焦らずに暇ができれば残りの区間を走ってみたい。ここまで走ってきて感じたことは、思ったよりも当時の雰囲気が色濃く街道筋に残っていることであった。これはガイドブックからも、最新の映像からも感じることのできない体験であると思う。是非とも自転車なり徒歩で旧街道を訪ねてみる事をお奨めする。