異文化異聞記

異文化に絡んだつれづれをつづる記録。

異才現る。

2012-06-13 14:46:38 | Weblog
語学くらい地道で粘着質な繰り返しを伴うものはないと思う。大概は環境の助けを借りないと学習自体が続かない。ある程度できるようになったら旅行や留学するとかして常に刺激がある状態を保っていかないとプラトー(上達しない時期)に耐えられないものだ。少なくとも、つい最近までそう思い込んでいた。

昨年は怒涛の1年。今年もその余波でようやく日常生活が戻ってきたのがつい最近。アラビア語も中国語もずーっと休んでいた。一旦休むと再開が億劫になるのが人間の常。最近ようやくアラビア語は再開したばかりである。こちらは2週に一回なのでなかなか覚えないものの、そのペースのゆるさが生活の負担にならないのである。

休む前にはいつものおばさまグループにモロッコ男子と結婚した女性、ドバイ大好き娘、イタリア人、学生君、定年紳士など多彩なメンバーが加わっていたけれど、現在、この初級クラスは定番のおばさまグループと学生君の編成になっているようだ。

この学生君は実はただものではない。小学校から語学に興味を持ったそうで、ラジオとテレビの中国語番組を中心に勉強し続け、HSK1級を取得。そして中国語の次はハングル、これも新聞を読めるところまで。この辺までを中学にはクリアしている。英語は学校の勉強だけで英検準1級まで。

そして、大学に進学してからは、もう水を得た魚のように、奔馬のような探究心を大学の全学教育「ロシア語」「スペイン語」「韓国語」「ギリシャ語入門」などで発散し、さらにテレビとラジオで基本をいれたアラビア語を「イスラム教の聖典クルアーンを読み解く」で深めている。信者じゃないのに、授業で習ったからといってアル・ファーティハを朗々と詠唱するではないか。http://muslimjapan.com/quran.html

彼は今20歳。既に学ぶことの深さと楽しさを知っている。井筒俊彦が語学の天才で30カ国語を研究ができるレベルで使えたという話は有名だけど、それがどういうことなのか、どのようにその語学力を身につけていたのか最近、この20歳の男の子を見ていて想像がつくようになった。学ぶことは喜びで苦行ではなく、また金銭で贖う必要もなく、そしてここまで徹底しても全く構わなかったのだ。

「じゃあ、中国語できるんですね。」
「一番最初にやった言葉です。」当たり前という憮然な表情と懐かしそうな表情が見て取れる。
「じゃあ、中国語で私は金がないは?」
「我没有钱。」
「韓国語で?」
「나는 돈이 없어。」

付け加えておくが、末恐ろしいことにこの子の専攻は語学ではなく医学である。学ぶということ全てに彼の喜びがあるのだ。多分、ある種、天がくれた才能。

最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。