今日は母の日。気が付けば・・・贈り物をおくっていた側から、もらう立場になった年月の方が長くなっていた。今年も息子達から早々に”思いやりの塊”が届いた。 ありがたいことである。まぁ、それほどの親孝行はしてもらった記憶は薄い気はするのだか…💦自分達の生活に追われる中でも、母のコトを気にとめくれるだけでも幸せだとしみじみ。。
毎年、母の日なのにホントに良い息子達に恵まれたとコチラが感謝してるくらいだ(*´-`)
母の日と言えば・・・
忘れる事のない小学校の頃の思い出がある。
それは…
母の日の前には、学校で終礼の時にカーネションの造花が配られたコト。『みなさん、お母様に感謝してお渡しいたしましょう。』との先生のお言葉。
机の上にのせたランドセルの上に、『つぶさないで持って帰って下さいね』と先生が一本ずつ配ってまわった。
殺風景だった教室にカーネーションの赤い花が列にならび、子供心ながら‘’きれいだなぁ~‘’と思った記憶がある。
その中で、私のランドセルの上にのせられているのは皆と違う ”白いカーネション” である。
赤色の花が続く列の中で、ひときわ目立つこの白いカーネションが、当時は嫌で仕方がなかった。
でもそんな中で、ほんの少し気持ちが楽になったのは、クラスの中でもう一人”白いカーネション”が配られていた子がいたことである。
富美ちゃんである。生まれて間もなく数時間後に母親が亡くなった私とは違い、低学年の頃にお母様が亡くなった富美ちゃんは記憶が新しい分、私よりずっと複雑な心境であったろう。
今は一人親世帯など珍しくもない時代なので、違う色の花を児童に渡したら差別だ!と叩かれそうな話であるが、当時はそう決まっていたのだ。。
…学校から帰宅した後、ランドセルの下の方に押し潰され、ほぼ原形を留めていない ”白いカーネション”を、祖母がみつけ整えて仏壇に供えてくれていた。
子供の頃を思いおこすと…
母親のいない事よりも、いないことで人と違うことや、物珍しいがる同情がこもったような態度をされるコトの方が嫌でたまらなかった。
生まれた時から母親はいないのだから、ワタシにとってそれが当たり前の日常で、足りない分は家族が充分補ってくれたおかげで、さしたる不便もなく過ごしていたから、これといった特別な感情はなかったのだ。
しかし、だんだんに知恵がついてくると他のヒトと異なるこの状況を有利に働かせた方がいいのでは?など感じた時は、
本やマンガから得た知識をたよりに…周りの期待に?こたえるべく『母の愛を知らない可愛そうな私』を演じた記憶も(^_^;)
……だが次第にそんな自分にもシラケてきて、
”母親がいない事を知ったところでヒトは誰も助けてはくれないし何も変わらない。わざわざ他人が面白がるような話題を提供してやることもなかろう…と、
『ヒトはヒト、ワタシはワタシ』とだんだん腹がすわってきた。
大人に一歩近づいた瞬間である。
ある意味、自分自身を守り、その後の成長の中で作られていった人格の礎になった出来事だとおもっている。
時はながれ・・・・
そんな私も母になり・・・
初めての出産に挑み、息子が生まれた瞬間に『あぁ、私は死なずにちゃんと子供を産むことができた!この子をちゃんと育てれば、今までの母親がいなかった自分は全てチャラになる!』と思った。
とはいえ…
産後すぐの夜昼ない生活の中で、手探りで慣れない子育てを一人でやっている不安からか…
一度だけ『…こんな時は…母親が生きていればアレコレやってくれるのだろうな…』と、他人を羨みベソをかいたこともある。
でもお母さんになったとたん、半ベソをかいている時間も感傷的雰囲気に浸っている暇もなかったし、
やはり、愛くるしい息子の顔を見ているだけで、ただただ嬉しくて楽しくて、自然に力が湧いてきて幸せな気分になれた。
動物だって子育ては自分一人?でやるんだから、逆にヒトの手を借りるというのは不自然なんじゃないか。。。など屁理屈を言ったりしていた。
息子達のおかげで、ワタシも人並みになれた…そんな感情。
逆に…こんな乳飲み子を残して逝った実母がホントに哀れに思えた。。
ワタシは今まで…そんな実母の無念の思いに答えられるような生き方をしていただろうか。。
一人の人間が命をかけて産み落としただけの価値のある人間だったのだろうか。。と自らを省みて後悔することしきり。。
今や…
命の絆は繋がれてワタシも‘おばあちゃま’という肩書きも貰えました。
いつの日か…
会うコトも話すコトも出来なかった実母に会う日がきたら…
『不十分な生き方をだったかもしれないけれど…幼子を残して逝ってしまった貴女の命を繋ぐコトだけはちゃんと出来ました。』と、言おうと思ってます。
____この世に生まれた誰もがみんな誰かの子で、誰にもお母さんがいるね。貴女の一部にお母さんはいるよ____そんなコトをしみじみと。。。
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