間もなく戦後71年目の終戦記念日を迎える。今では、戦後とか終戦記念日とか云はれても、殆ど実感がない世代が多くなっている。あれから70年余も過ぎているのだから当然のことだろう。
終戦記念日の度毎に、当時11歳だった当方には忘れられない出来事が幾つかある。その一つは、雑音が多くてよく聞き取れない「玉音放送」を聞いていた亡父(18歳から28歳までロサンゼルスで移民として働いていた。)が「これで終わった。あのアメリカと戦って勝てる訳がない戦争だったからな・・」と亡母にしんみり話していたことだ。
戦時中、亡父は勿論、戦争批判に類する話は一言も云わなかった。その亡父から意外にも「勝てる訳がない戦争だった」との一言の意味を知るようになったのは、中学・高校に進学し、社会や歴史の授業で米国について学んでからのことだった。勝てると教え込まれ、信じていた子供達にとってもショックだった敗戦だったが、亡父は戦中から、戦争の結末を予見出来ていたのだろう。
その二は、終戦のかなり前のある日、当方の田舎の湾岸に避難して来た2000t程の輸送船に対し、空襲があり、何発かの爆弾が投下された。幸いにして命中はしなかったが、軍記物の本に出ているような大きな水柱が上がった。そんな光景を漁港を見渡せる道の側溝に身を屈めながら目撃したこと。終戦後、この輸送船が積んでいた米穀が搬出され、約300戸の全戸に何袋かの米が配布された。食糧難の最中、このお米は村人にとっては予期せぬ贈り物となった。お陰で何年振りかで白米を腹一杯食べた記憶は今も鮮明に覚えている。
その三は、終戦後、港の市場に水兵さんの水死体が、日を異にして何体か収容され、筵(むしろ)にくるまれて安置されていたこと。胸には夫々ネームが縫い込まれていた。その時見た若い「板橋二等兵」さんの死顔は、色白で安らかに眠っているようだった。大人達の話では、終戦を悔やんで終結港に向かう輸送船等からの投身自殺者が何件もあり、「板橋上等兵」さんもその一人だったそうだ。勝つと信じて軍務に服した若者が、何故に自ら命を絶ったのか、その純粋な死生観のことを理解したのは、大東亜戦争史観について学んでからのことであつた。
思い出は以上の三点だけにとどめておくが、兎に角、終戦時、報道統制のタガが外れたことによる伝聞情報や、人々の志向や価値観は、あの時を境にして劇的に変わった。そんな変化を子供心に諸々体感させられた。当時は、貧しさに耐えることは出来ても、我々子供達も、新しい時代にどう対応するかについては、全くの無知蒙昧な状態だった。しかし、村人たちはそんな時代でも、自暴自棄になることなく、必死で生きて若者達を育て、今日の「ふるさと」の再生に力を尽くして呉れた。71年経った今年も、辛かったが温かかった終戦当時の村の様子なども、色焦ることなく脳裏に焼き付いている。
終戦前後の思い出は、世代、当時の居場所や環境により様々だ。現代の若者には関係のない歴史の一齣かも知れないが、時代が変わっても「温故知新」の教えに則り、せめて終戦記念日の歴史的意義について暫し考えて貰いたいものである。
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