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松岡城址の秋を観る会

2011-11-13 19:27:01 | 
     神楽舞
    15年後、リニアが通る      

新聞紙上で紹介もあって
町内の城跡を観る会に行ってみた。
城址愛護会主催
自然愛護会、町史学会、健康友の会共催
町と区が挙げての開催。

地元に居てもなかなか訪れる機会のない城跡

パンフレットから

この城を築いたのは、平安時代、前九年の役(1056~62年)で敗れた
陸奥の国安部貞任の次男、仙千代が市田郷の牛牧村に逃れて来て
郷民に推されて地頭となり、松岡を名乗り、松岡平六郎貞則と称した。
その最初の居館は、上市田の「古城」の地に構えたといわれている。

その後興隆期Ⅰ(南北朝、室町)南北争乱の世になるにつれ平坦の地にあった「古城」から
段丘先端の要害の地に城を構築、移った、それ以降およそ200年松岡城が本拠地になった。

興隆期Ⅱ(応仁の乱以後の戦国時代前期)

守護小笠原氏が家督争いで分立するに及んで、国内の統制が乱れ、豪族が互いに争う
戦国の世になり、松岡氏も近郷の豪族を従えた。 そうした中で、松岡氏は諏訪上社の
神事や御射山祭の神事で頭役を何回も務めている。 その頃の城主頼貞・貞正2代の時は
松岡氏の最盛時であったと考えられ、領地も現在の山吹・市田・座光寺・上郷の一部を
領有し、下條氏・小笠原氏と並ぶ南信濃の大豪族となった。

興隆期Ⅲ(戦国時代後期)天文23年1554年 

甲斐の武田信玄は、自ら大軍を率いて伊那に入り
抵抗の素振りを見せた鈴岡城の小笠原氏と神峰城の知久氏を攻め落とした。
その様子を見た松岡氏は抵抗は無理と考え、武田の軍門に降り自領の安堵を図った。 
松岡氏は50騎の軍役をかせられた。 一騎に対し5人ほどの従卒を要したので
松岡氏は出陣の際には200人余の軍兵を出したことになり、その力の大きさが偲ばれる。

衰亡期(安土桃山時代)

天正10年(1582年)織田信長の軍が伊那郡に侵入し、飯田・大島両城を陥落させ
その後、高遠城までも攻め落とした。 この時、市田郷の瑠璃寺・松源寺・安養寺などは
いずれも兵火によって焼けてしまった。
ところが、信長の急死により、伊那郡は徳川家康の勢力下に入り、郡司菅沼小大膳定利が
知久平城にあって、上下伊那郡を支配した。
ところがこのころは、信長の死後豊臣秀吉と徳川家康のどちらが後継者となるか
決まっていなかったので、信濃の豪族も去就を決めかねていた。

そうした天正13年(1585年)松本の小笠原貞慶は、徳川方から豊臣に変心し
徳川方の保科氏を高遠に攻め、逆に小笠原貞慶は、大敗を喫して松本に退いた。

この時松岡右衛門佐貞利は徳川家康に誓詞を入れて臣服を約して居ながら
小笠原貞慶に味方し高遠の攻撃に向かったが、形勢が不利と見て途中で引き返した。

ところが、それを家臣の座光寺次郎衛門が、伊那郡司菅沼貞利に密告した。
その後所領は没収された。

ここに500年続いた松岡氏の支配は終わりを遂げた。


天候にも恵まれ、野点にも肖れ
友人知人にも多く合えて、歴史に触れる事が出来た一日でした。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
パンフレットから (kokoro)
2011-11-14 08:00:22
お茶碗さんへ
パンフレットにやさしく書いてあったので
アップしてみました。
標高560メートルの地ですが
流石、お城あとだけに見晴らしも良く、広くて
雄大、野点のほかに紙芝居、コカリナ、童謡
太鼓と、会場に響き、楽しかったです。
返信する
秋がいっぱい・・・ (お茶碗)
2011-11-13 22:38:05
読み応えのあるブログはkokoroさんならではの心を感じました。
私たちは歴史の上、ご先祖様の上に生きていることに感謝です。

飛行機雲かな?と思いながら長いまっ直ぐな雲を私も見ました。
もうすぐ本格的な寒さが来ますね。
風邪に注意です。
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