無門関の44則です。「助けては断橋の水を過ぎ、伴っては無月の村に帰る」と読みます。
この話の前には、芭蕉和尚という人が、「杖があるなら、もう一本やろう、ないのならもう一本奪おう」という一節があります。
宗教には、助けを求める人には大いなるものが手をさしのべ、神仏の助けなどいらないという高慢な人は突き落としてしまうという部分があります。
しかし、禅ではその助け(すなはち杖)は自分の中にあるのです。自分の中の杖をたよりに人生を歩んでいくのなら、橋のない川を渡ることができ、月の出ていない真っ暗な夜道を帰っていくことができるのです。しかし、それを外に求めるのなら、真っ逆さまに地獄に堕ちてしまうのです。
人間は弱いものなので、カリスマ的な宗教家を崇拝したり、有力な政治家に頼ったりするものですが、それらが間違っていれば、自分も不幸のどん底におちてしまうのです。杖(頼りにするもの)は、真理の言葉であったり、自分の腹の底から出てくる叫びなのです。釈尊は「自灯明、法灯明」という言葉を遺されました。自らをよりどころとし、真理をより所とするのです。
この話の前には、芭蕉和尚という人が、「杖があるなら、もう一本やろう、ないのならもう一本奪おう」という一節があります。
宗教には、助けを求める人には大いなるものが手をさしのべ、神仏の助けなどいらないという高慢な人は突き落としてしまうという部分があります。
しかし、禅ではその助け(すなはち杖)は自分の中にあるのです。自分の中の杖をたよりに人生を歩んでいくのなら、橋のない川を渡ることができ、月の出ていない真っ暗な夜道を帰っていくことができるのです。しかし、それを外に求めるのなら、真っ逆さまに地獄に堕ちてしまうのです。
人間は弱いものなので、カリスマ的な宗教家を崇拝したり、有力な政治家に頼ったりするものですが、それらが間違っていれば、自分も不幸のどん底におちてしまうのです。杖(頼りにするもの)は、真理の言葉であったり、自分の腹の底から出てくる叫びなのです。釈尊は「自灯明、法灯明」という言葉を遺されました。自らをよりどころとし、真理をより所とするのです。