○まったく自然を征服するなんて、とんでもないことです。
私は山寺の和尚ですから山が好きで、青年の頃この高尾山から見える山は全部歩こうと思って、ずいぶん歩き回ったものです。
ここの住職になる前は、信州松本の寺におりましたので、北アルプスの山々にもずいぶん登りましてね。
本当に山に登るのが好きな私ですが、いつも聞くたびに嫌だなと思うのは「山を征服する」という言葉です。
山の高さが幾千メートルあろうとも、頂上に登ったことがなぜ、その山を征服したことになるんでしょう。
まるでアリが人間の足下から頭の上まではいあがって、「われ人間を征服せり」と言うのと同じようなものじゃないですか。
そんなのは本当の登山の精神ではありませんよ。
山歩きの好きな本物のアルピニストは、山に対して非常に敬虔です。
むしろ山を畏れて、山の自然を損なう様ないたずらをしちゃあいけない、という慎みをもっている。
それなのに生半可な人は、「あの山を征服するんだ」なんていう気持ちで出かけていく。
○私たち宗教者にとっては、それぞれ宗門の霊山があって、そこへ登るのが一つの修行になっております。
私どもの方では奈良県の大峰山や木曽の御嶽山が霊山になっており、私もずいぶん登りました。
今年もまた大峰山に登りますが、そういう山に登るときには、みんな白装束に身を包んで、みんな一つの決まった言葉を唱えながら登って行くんです。
20人くらいの団体で登って行くんですが、歩きながら先達が「六根清浄」と唱えますと、あとに続いている者がみんなで「六根清浄」と繰り返す。
また先達が「お山は晴天」というと、みんなで「お山は晴天」、
そして先達が「引き上げたまえ」というと、みんなで「引き上げたまえ」と繰り返しながら一歩一歩登っていく、
それも足の弱い者に歩調を合わせて登っていくんです。
○この「六根清浄」というのは単なるかけ声ではなくて、
身体の五官と心が清らかになるようにという願いの言葉で、
山に登ることによって身も心も清めようというわけです。
私はこの唱え文句が好きなんですが、特に「引き上げたまえ」というのがいいですね。
○いかにも山の神様に引き上げてもらうという感じでしょう。
私は山寺の和尚ですから山が好きで、青年の頃この高尾山から見える山は全部歩こうと思って、ずいぶん歩き回ったものです。
ここの住職になる前は、信州松本の寺におりましたので、北アルプスの山々にもずいぶん登りましてね。
本当に山に登るのが好きな私ですが、いつも聞くたびに嫌だなと思うのは「山を征服する」という言葉です。
山の高さが幾千メートルあろうとも、頂上に登ったことがなぜ、その山を征服したことになるんでしょう。
まるでアリが人間の足下から頭の上まではいあがって、「われ人間を征服せり」と言うのと同じようなものじゃないですか。
そんなのは本当の登山の精神ではありませんよ。
山歩きの好きな本物のアルピニストは、山に対して非常に敬虔です。
むしろ山を畏れて、山の自然を損なう様ないたずらをしちゃあいけない、という慎みをもっている。
それなのに生半可な人は、「あの山を征服するんだ」なんていう気持ちで出かけていく。
○私たち宗教者にとっては、それぞれ宗門の霊山があって、そこへ登るのが一つの修行になっております。
私どもの方では奈良県の大峰山や木曽の御嶽山が霊山になっており、私もずいぶん登りました。
今年もまた大峰山に登りますが、そういう山に登るときには、みんな白装束に身を包んで、みんな一つの決まった言葉を唱えながら登って行くんです。
20人くらいの団体で登って行くんですが、歩きながら先達が「六根清浄」と唱えますと、あとに続いている者がみんなで「六根清浄」と繰り返す。
また先達が「お山は晴天」というと、みんなで「お山は晴天」、
そして先達が「引き上げたまえ」というと、みんなで「引き上げたまえ」と繰り返しながら一歩一歩登っていく、
それも足の弱い者に歩調を合わせて登っていくんです。
○この「六根清浄」というのは単なるかけ声ではなくて、
身体の五官と心が清らかになるようにという願いの言葉で、
山に登ることによって身も心も清めようというわけです。
私はこの唱え文句が好きなんですが、特に「引き上げたまえ」というのがいいですね。
○いかにも山の神様に引き上げてもらうという感じでしょう。