柴山全慶老師の『越後獅子禅話』(のちに『人生禅話』と改題)の一節です。
さて、もしこのデデン!の一声をわれわれ人間の一生に比べたならば、どのようなことに当たるでしょう。「オギャー!」とあげた産声と見るべきではないでしょうか。
この「オギャー!」の一声こそは、全く文字通りに無念無心、無垢清浄であります。○この一声には、大臣になりたい野心もなければ、お金持ちになりたい欲望もなければ、学者になりたい希望もないと思います。また、ホームレスに(※きたろう言い換え)なったら恥ずかしいという思いもなければ、汚い着物を着ては他人に笑われるとも考えていないでしょう。
「澄み渡り」と原文にありますが、実は澄むの澄まないのという、分別心の汚れさえないほど澄み切っているのが「オギャー!」の一声なのであります。
これこそ神の一声、天真仏の一声ではないでしょうか。
天あることを知らず、地あることを知らず、美醜あることを知らず、自他あることを知らざるのこの一声こそ、天地一杯、宇宙一杯に鳴り響いた一声でなければなりません。
私は「天地いっぱい」という言葉にひかかってきましたが、同じことを内山興正老師もおっしゃっています。
眼耳鼻舌身意の六識の下には深層心理の末那識と阿頼耶識がありますが、真っ暗な阿頼耶識の奥に光の世界があるのではないでしょうか。
これを朝比奈宗源老師は「仏心」といい、臨済禅師は「一無位の真人」といい、親鸞聖人は「光明」と言ったのではないでしょうか。
また、内山興正老師や道元禅師は「自己」という言葉を使われますが、自分自身という意味ではなく、これら「仏心」などと同じような意味だと私は思っています。
阿頼耶識の奥に広がっているのは「天地」あるいは「宇宙」なのではないでしょうか。
さて、もしこのデデン!の一声をわれわれ人間の一生に比べたならば、どのようなことに当たるでしょう。「オギャー!」とあげた産声と見るべきではないでしょうか。
この「オギャー!」の一声こそは、全く文字通りに無念無心、無垢清浄であります。○この一声には、大臣になりたい野心もなければ、お金持ちになりたい欲望もなければ、学者になりたい希望もないと思います。また、ホームレスに(※きたろう言い換え)なったら恥ずかしいという思いもなければ、汚い着物を着ては他人に笑われるとも考えていないでしょう。
「澄み渡り」と原文にありますが、実は澄むの澄まないのという、分別心の汚れさえないほど澄み切っているのが「オギャー!」の一声なのであります。
これこそ神の一声、天真仏の一声ではないでしょうか。
天あることを知らず、地あることを知らず、美醜あることを知らず、自他あることを知らざるのこの一声こそ、天地一杯、宇宙一杯に鳴り響いた一声でなければなりません。
私は「天地いっぱい」という言葉にひかかってきましたが、同じことを内山興正老師もおっしゃっています。
眼耳鼻舌身意の六識の下には深層心理の末那識と阿頼耶識がありますが、真っ暗な阿頼耶識の奥に光の世界があるのではないでしょうか。
これを朝比奈宗源老師は「仏心」といい、臨済禅師は「一無位の真人」といい、親鸞聖人は「光明」と言ったのではないでしょうか。
また、内山興正老師や道元禅師は「自己」という言葉を使われますが、自分自身という意味ではなく、これら「仏心」などと同じような意味だと私は思っています。
阿頼耶識の奥に広がっているのは「天地」あるいは「宇宙」なのではないでしょうか。