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行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

人間(じんかん)に光あれ①

2020年08月25日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
宣言の最後の「人間に光りあれ」はすてきな一文だと思います。
人間を「じんかん」と読む場合は、世間という意味合いが多いですが、人間の複数形の人々と考えてもいいと思っています。
周防の遠崎の僧 月性には「人間(じんかん)いたるところに青山(せいざん)あり」という詩がありますが、「世の中にはどこにでも死に場所があるものだよ」という意味になると思います。
本当は「人の世に光りあれ」でもよかったのでしょうが、「人の世」が二度出てくることになるので「人間に光りあれ」にしたのかもしれません。
いずれにしても、「光」とは何でしょうか。栄光とかという意味ではなく、私は「光明」だと思っています。つまり人々の心の中の差別をおこす闇を照らす光明でなければならないと思うのです。ある意味すごく宗教的な一文だと思っています。光明が人々の心の闇を照らし続け、差別がなくなっていくことを願うばかりです・


全國に散在する吾が特殊民よ團結せよ。
 長い間虐(いじ)められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によつてなされた吾らの爲めの運動が、何等(なんら)の有難い効果を齎(もた)らさなかつた事實は、夫等(それら)のすべてが吾々によって、又他の人々によつて毎(つね)に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたわ)るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際(このさい)吾等(われら)の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者(かっこうしゃ)であり、實行者であつた。陋劣(ろうれつ)なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剝はぐ報酬として、生々しき人間の皮を剝取られ、ケモノの心臓を裂く代價(だいか)として、暖(あたたか)い人間の心臟を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸(か)れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享(う)けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印(らくいん)を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠(けいかん)を祝福される時が來たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ)なる行爲によつて、祖先を辱しめ、人間を冒瀆してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦いたはる事が何なんであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃(がんぐらいさん)するものである。
 は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ。
大正十一年三月

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