すでに人生の旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。(中村元訳『法句経90』)主体的に生きることと自分勝手に生きることは全く逆の方向を向いている。自我が小さくなればこそ、主体的に生きることができる。
こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。(中村元訳『法句経91』)4月は新しい生活が始まる。進学、転勤したら、前の生活に未練を残さず、新天地で精進しよう。
財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の跡の知り難いように。(中村元訳『法句経92』)その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の跡の知り難いように。(中村元訳『法句経93』)偏らない心、こだわらない心、とらわれない心、それが般若心経の空の心なり、広く広く、もっと広く
御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人。このような境地にある人を神々でさえも羨む。(中村元訳『法句経94』)苦しみや悩みは自分の感情に支配されていることと、自分中心の考え方からくることがわかると、自分を小さくすれば苦しみや悩みも小さくなることがわかる。
大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、深い湖は汚れた泥がないように、そのような境地にある人には、もはや生死の世は断たれている(中村元訳『法句経95』)心が揺るぎなく、心が澄み渡っている人は輪廻から脱して行くということだが、これは難しい。
正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人。そのような人の心は静かである。ことばが静かである。行ないも静かである。(中村元訳『法句経96』)何ものかを信ずることなく、ニルヴァーナを知り、生死の絆を絶ち善悪をなすによしなく、欲求を捨て去った人。かれこそ実に最上の人である。(『法句経97』)他人でも物事でも自分の思い通りにしようとするから苦しむのだ。思い通りにしようとしないことが安らぎの一歩。
仏教でいう「苦」は思い通りにならないことによるので、他人を支配したり思い通りにしようとすることは他人に「苦」を与えてしまうことになる。
村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。(中村元訳『法句経98』)人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛着なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。(『法句経99』)仏教用語の「愛着」とは自分に都合のよい見方、考え方。「愛着」→「思い通りにならない」→「苦しみ」。「愛着」(自分の都合)が苦しみのもと。
こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。(中村元訳『法句経91』)4月は新しい生活が始まる。進学、転勤したら、前の生活に未練を残さず、新天地で精進しよう。
財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の跡の知り難いように。(中村元訳『法句経92』)その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の跡の知り難いように。(中村元訳『法句経93』)偏らない心、こだわらない心、とらわれない心、それが般若心経の空の心なり、広く広く、もっと広く
御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人。このような境地にある人を神々でさえも羨む。(中村元訳『法句経94』)苦しみや悩みは自分の感情に支配されていることと、自分中心の考え方からくることがわかると、自分を小さくすれば苦しみや悩みも小さくなることがわかる。
大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、深い湖は汚れた泥がないように、そのような境地にある人には、もはや生死の世は断たれている(中村元訳『法句経95』)心が揺るぎなく、心が澄み渡っている人は輪廻から脱して行くということだが、これは難しい。
正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人。そのような人の心は静かである。ことばが静かである。行ないも静かである。(中村元訳『法句経96』)何ものかを信ずることなく、ニルヴァーナを知り、生死の絆を絶ち善悪をなすによしなく、欲求を捨て去った人。かれこそ実に最上の人である。(『法句経97』)他人でも物事でも自分の思い通りにしようとするから苦しむのだ。思い通りにしようとしないことが安らぎの一歩。
仏教でいう「苦」は思い通りにならないことによるので、他人を支配したり思い通りにしようとすることは他人に「苦」を与えてしまうことになる。
村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。(中村元訳『法句経98』)人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛着なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。(『法句経99』)仏教用語の「愛着」とは自分に都合のよい見方、考え方。「愛着」→「思い通りにならない」→「苦しみ」。「愛着」(自分の都合)が苦しみのもと。