戦後、未解決の凶悪事件は、かなりの数にのぼっています。警察の方もご苦労なさっているわけですが、凶悪事件が解決して、平和で安全な日本であること望みます。
その一方で、冤罪事件もあとを絶ちません。全く関係のない人が、犯罪者として世間にさらされ、大切な人生を無駄にしてしまうことになるのです。これほど残酷なことはありません。実際に犯罪被害に遭われた方も気の毒ですが、無実の罪を着せられて苦しむ方もこの世の生き地獄を味わうことになります。人は、見かけや感覚的なもので判断されやすいものです。そのことが差別や無実の罪を生むことになります。犯罪捜査の過程で警察に寄せられる情報や、インターネットの書き込みの中には、どうみても人を見かけで判断していたり、根拠のない情報もあります。
仏教では、ウソをつくことを戒めます。「無実の罪」を作る人も犯罪者と同様の罪になることを考えて、慎重に発言しなければなりません。
その一方で、冤罪事件もあとを絶ちません。全く関係のない人が、犯罪者として世間にさらされ、大切な人生を無駄にしてしまうことになるのです。これほど残酷なことはありません。実際に犯罪被害に遭われた方も気の毒ですが、無実の罪を着せられて苦しむ方もこの世の生き地獄を味わうことになります。人は、見かけや感覚的なもので判断されやすいものです。そのことが差別や無実の罪を生むことになります。犯罪捜査の過程で警察に寄せられる情報や、インターネットの書き込みの中には、どうみても人を見かけで判断していたり、根拠のない情報もあります。
仏教では、ウソをつくことを戒めます。「無実の罪」を作る人も犯罪者と同様の罪になることを考えて、慎重に発言しなければなりません。
葬式仏教は、徳川がつくったという人がいますが、鳥羽僧正の『鳥獣戯画』には、猿の僧が葬式をしている姿が描かれています。
最近の、「葬式仏教批判」などを見ていると、この「冤罪」の代表格のような気がしています。葬式をブッダが否定したという「ウソ」、葬式仏教は日本だけという「ウソ」。これらは、明治時代以降、誤った方法で「真の仏教とは何か?」を考察された結果、出て来た謬説です。でも、「冤罪」を作っている人は、「イメージ」だけで、我々日本仏教の僧侶を批判します。端的に愚の骨頂といえましょう。