○親鸞は、自分は愚禿親鸞である、つまり自分ほど愚かなる人間はいない、と言っております。
○生命あるがゆえに、人間はどれほどの罪咎をつくっているやもしれませぬ。
○魚行けば水濁るで、人は生まれたら生まれただけこには問題が起こる。それが人間というものです。
○ですから、高度な発達には、必ず高度な欠陥がついて回ると見ていいのです。
○そのことを、よく承知した上での人間生活というものを、私は望みたい。
○何もかも満足ということは、これはどんな偉い人が出てきても、この地上にはありません。
○生きるということは、不満足と欠陥の連続であります。
○しかしながら、人間には、その不満足や欠陥を、逆に美しいものとしてとらえることができる。
○お茶のほうに「数寄者」ということばがあります。
○数寄とは奇数、すなはち数が割りきれないということであります。
○数寄者は、この割り切れない世の中を、逆に美しいものと見て、その中で人間生活をはかってゆく人間のことです。ですから、この数寄者的精神でゆくならば、私は逆にどんなものでも割り切れていくのではないかと思うのです。
【言葉を味わう】
欠陥だらけなのが当たり前だと思えば、何も苦痛ではないと思います。
人生は美しいものがあって、完璧でなければならないと考えるのは、苦痛ですし、迷いというものでしょう。
足りないものがあって当たり前。これが「知足」の心です。