行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

烏鷺滝が中道について語る

2011年11月11日 | 禅の心


○仏教の本質は中道にある。

○中道とは、右と左の真ん中を行くことではない。

○中道とは、右と左から離れて考えることである。

○中道とは、右と左にとらわれないことである。

○お釈迦様は、出家前の快楽にあふれた生活と、出家後の苦行のどちらからも離れて考えられた。そこで、中道を悟られたのじゃ。

○主義を持たないことではなく、主義から離れて考えてみることが大事なのです。

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立花大亀老師が「数寄者」について語る

2011年11月08日 | 禅の心
○親鸞は、自分は愚禿親鸞である、つまり自分ほど愚かなる人間はいない、と言っております。
○生命あるがゆえに、人間はどれほどの罪咎をつくっているやもしれませぬ。
○魚行けば水濁るで、人は生まれたら生まれただけこには問題が起こる。それが人間というものです。
○ですから、高度な発達には、必ず高度な欠陥がついて回ると見ていいのです。
○そのことを、よく承知した上での人間生活というものを、私は望みたい。
○何もかも満足ということは、これはどんな偉い人が出てきても、この地上にはありません。
○生きるということは、不満足と欠陥の連続であります。
○しかしながら、人間には、その不満足や欠陥を、逆に美しいものとしてとらえることができる。
○お茶のほうに「数寄者」ということばがあります。
○数寄とは奇数、すなはち数が割りきれないということであります。
○数寄者は、この割り切れない世の中を、逆に美しいものと見て、その中で人間生活をはかってゆく人間のことです。ですから、この数寄者的精神でゆくならば、私は逆にどんなものでも割り切れていくのではないかと思うのです。

【言葉を味わう】
欠陥だらけなのが当たり前だと思えば、何も苦痛ではないと思います。
人生は美しいものがあって、完璧でなければならないと考えるのは、苦痛ですし、迷いというものでしょう。
足りないものがあって当たり前。これが「知足」の心です。

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三日(さんじつ)相見わざれば 旧時の看を作す(なす)こと莫かれ( なかれ)

2011年11月04日 | 禅の心
「三日、その人に会わなかったら、その間に進歩をしているかもしれないので、昔のままに評価してはならない。」
以前にも述べたと思いますが、福澤諭吉が徳島の若殿様に会いに行った時、若殿様の行儀が悪くて諭吉は気分を害した事がありました。しかし、そんな若殿様でも、年齢とともに立派になり、明治維新で活躍したということが著書である福翁百話に残っています。
結婚相手を探したり、会社の新入社員の採用をする時などに、結婚相手や志願者についての情報を、その人の昔の知り合いから得るのは悪い事ではないのかもしれませんが、やはりその人の現在の姿を見る事が大切だと思います。

人は常に進歩したりあるいは逆に後退したりしているものです。特にこの事は教育関係者は心して行かなければならないことだと思います。

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山田無文老師が自動車について語る

2011年11月01日 | 禅の心
山田無文老師が39年前に次のようなお話をされていました。
「今日の社会の混乱は・・・・・自動車が悪いのだ。
 あの冷たい車という機械の中に入ると、人間の心も機械のごとく冷却し、人間性を喪失せざるを得ないだろう。
 自動車に乗って、高速道路に出て、規定の料金さえ払えば、人間はみな平等の権利を持つのである。
前の車も、後ろの車も横の車も敵である。車に乗れば四方八方敵ばかりである。
これが今日の社会人の習慣づけられた性格ではなかろうか。一部過激学生に言わすと、教授も敵、学長も敵、理事会も敵、文部省も敵、佐藤内閣も敵である。
 いったい味方はどこにおるのであろうか。マイカーだけ。横に座っておる助手の妻と、後ろに乗せた子どもたちだけが味方である。マイホーム主義というのは、畢竟マイカー生活から割り出されたものではなかろうか。
 車の中は狭いのだから、両親や兄弟も別の車に乗ってもらわねばならぬ。両親が別の車に乗られるとたちまち敵になってしまう。なんと味気ない世相であることよ。」

車社会に限らず、文明とは、日本人の持っていた「和」の精神までも失わせるのでしょうか。



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