行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

弱き者は幸いなり

2013年07月12日 | 禅の心
○体の弱い人は良い人生を歩む。なぜなら体の弱い人の気持ちがよくわかるから。
○悩みの多い人は良い人生を歩む。なぜなら悩みの多い人の気持ちがよくわかるから。
○いじめられっ子だった人は良い人生を歩む。なぜならいじめられる人の気持ちがよくわかるから。
○思いやりをもてとよく言うが、自分で辛い体験や苦しい体験をしていると、心の底から思いやりということがよくわかるのじゃ。

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烏鷺滝が人間の愛憎について語る

2013年07月09日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
○誰にでも憎しみの心はある。
○生きている限り他人を憎む心はあるんじゃ。
○私は、誰も憎みませんとか、人を殺そうと思ったことなどありませんなどと言うのは単なる偽善者なんじゃ。
○誰にでも憎しみあまって人を殺したいと思うことはあるはずなんじゃ。
○親鸞聖人は次のようにいうておられる。


「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへずさふらふと、まうしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことを、たがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなわちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのそふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。」

○わしらが人を殺すことができないのは、人を殺す縁が備わっていないからなのじゃ。
○悪い縁があれば、親鸞聖人でも百人、千人殺すこともあるというておられる。
○人間は良い縁に恵まれることが大事なんじゃ。
○良い縁に恵まれるために、人間には信仰、信心が必要なんじゃ。

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主体性のない生き方を地獄という

2013年07月05日 | 禅の心
次の文章は、「無門関」「碧巌録」にある『南泉斬猫』というお話です。

東西の両堂猫児を争う、南泉提起して云く、道ひ得ば即ち切らず。衆無對、南泉猫児を斬って両断と為す。南泉、趙州に問ふ、趙州便草鞋を頭上に於いて戴いて出づ。南泉云く、もしなんじ在らば、猫児を救い得ん

東堂と西堂の雲水(お坊さん)たちが、「この猫は俺たちのものだ」と、猫を奪い合って争っていました。師匠の南泉和尚がやってきて、猫の首をつかんで「この猫のために何か言ってやれ。そうしたら猫の命を助けてやるぞ」と言いました。しかし誰も何も言うことはできませんでした。南泉和尚は、ばっさりと猫を斬り殺してしまいました。
そこへ、弟子の趙州が帰ってきました。南泉が趙州に今の話をすると、趙州は履いていた草履を自分の頭に載せて出て行ってしまいました。南泉は、「趙州がいたら猫は死なずにすんだものを」と言いました。

前回の続きです。
趙州は草履を頭に載せて出て行ってしまいました。
猫を殺したのは南泉和尚でしたが、自分も一緒に地獄に落ちると趙州は言いたかったのではないでしょうか。履き物の下にある世界は地獄です。頭の上に履き物を載せたのは地獄に落ちることを意味しているのです。みんなが誰かが何か言うだろうと思って、猫は死んでしまいました。南泉和尚が猫を殺したのですが、見ていたみんなも同罪です。さらに、その場にいなかった趙州も同罪だと趙州は言いたかったのでしょう。人ごとではないのです。自分のこととして考えれば、趙州も同罪なのです。趙州はその場にいなくて、猫を助けてやれなかったからです。「かわいそうに」と人ごとのようにいうのではだめなのです。主体は自分なのです。猫の死を悲しんでいるのはあくまでも自分なのですから。

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誰が猫を殺したのか

2013年07月02日 | 禅の心
次の文章は、「無門関」「碧巌録」にある『南泉斬猫』というお話です。

東西の両堂猫児を争う、南泉提起して云く、道ひ得ば即ち切らず。衆無對、南泉猫児を斬って両断と為す。南泉、趙州に問ふ、趙州便草鞋を頭上に於いて戴いて出づ。南泉云く、もしなんじ在らば、猫児を救い得ん

東堂と西堂の雲水(お坊さん)たちが、「この猫は俺たちのものだ」と、猫を奪い合って争っていました。師匠の南泉和尚がやってきて、猫の首をつかんで「この猫のために何か言ってやれ。そうしたら猫の命を助けてやるぞ」と言いました。しかし誰も何も言うことはできませんでした。南泉和尚は、ばっさりと猫を斬り殺してしまいました。
そこへ、弟子の趙州が帰ってきました。南泉が趙州に今の話をすると、趙州は履いていた草履を自分の頭に載せて出て行ってしまいました。南泉は、「趙州がいたら猫は死なずにすんだものを」と言いました。

さて、このわけのわからない話をどう解釈したらいいのでしょう。実は、私にはさっぱりわかりません。
ただ、言えることがいくつかあります。まず、南泉和尚が、「誰か何か言え」と言ったのに誰も何も言わなかった点です。誰かが「猫を殺さないで下さい」と言えば、南泉和尚は猫を殺さなかったでしょう。難しく考えることではないのですが、猫の命を助けて欲しいと、子供でも言えることが、大人は言えないのですね。当たり前のことを当たり前にできることがいかに難しいことかということです。
憲法の改正の議論が行われようとしています。しかし私は難しいことを言う必要はなく、「自分も子供も孫もみんな平和でいたい」「いつまでも日本の平和が続いて欲しい」と言うことに尽きると思っています。憲法を改正しようがしまいが、平和を願うという気持ちがなければいずれ戦争に巻き込まれてしまいます。みんなが「戦争はいやだ、平和な世の中でいたい」と言うことが大事なのです。
雲水たちが「誰かが何か言うだろう」と、他人まかせにしていたように、他人事として考えていたのでは、猫と同じように、斬り殺されてしまいます。猫は私たちや子供、孫の姿なのです。平和ということを、自分のこととして考えることが大事なのです。戦争になれば子供や孫が戦場にかり出されるのですから。
何事も自分のこととして考えようと南泉和尚は言いたかったのだと私は思っています。

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