行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

禅語(6)真空不空

2015年04月10日 | 禅の心
真空不空は菜根譚にみえる言葉です。

般若心経に「色即是空 空即是色」とあります。

現実主義(色)に偏るのでもなく、虚無主義(空)に偏るのでもない。中道をいこうというわけです。

中道というのは、真ん中を歩くということではなく、「道に中る」すなはち、真理にかなった生き方ということなのです。

平和を願い、人権を大切にすることは、偏ったことでも何でもありません。

世界の平和は実現していませんし、人権問題も解決していません。

しかし、平和を願い、人権を大切にすることは人としての真理に近いことだと私は考えます。

人殺しをしたり、人権を侵害することは決して正しいことではありませんし、理にかなったことでもありません。

とらわれないということは、真理を追究していくことでもあるのです。

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禅語(5)・・・扶過断橋水 伴帰無月村

2015年04月07日 | 禅の心
無門関の44則です。「助けては断橋の水を過ぎ、伴っては無月の村に帰る」と読みます。

この話の前には、芭蕉和尚という人が、「杖があるなら、もう一本やろう、ないのならもう一本奪おう」という一節があります。

宗教には、助けを求める人には大いなるものが手をさしのべ、神仏の助けなどいらないという高慢な人は突き落としてしまうという部分があります。

しかし、禅ではその助け(すなはち杖)は自分の中にあるのです。自分の中の杖をたよりに人生を歩んでいくのなら、橋のない川を渡ることができ、月の出ていない真っ暗な夜道を帰っていくことができるのです。しかし、それを外に求めるのなら、真っ逆さまに地獄に堕ちてしまうのです。

人間は弱いものなので、カリスマ的な宗教家を崇拝したり、有力な政治家に頼ったりするものですが、それらが間違っていれば、自分も不幸のどん底におちてしまうのです。杖(頼りにするもの)は、真理の言葉であったり、自分の腹の底から出てくる叫びなのです。釈尊は「自灯明、法灯明」という言葉を遺されました。自らをよりどころとし、真理をより所とするのです。



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禅語(4)和敬清寂

2015年04月03日 | 禅の心
和敬清寂・・・千利休の言葉です。

「和」は、和え物の和です。同じものが仲良くするのではなく、性質の違うもの通しが一緒に何かをしたり、仲良くすることです。

和敬清寂は、別々の4つのことがらではなく、和→お互いに敬い合う→すがすがしくなる→落ち着くというふうに、一つの概念として考えることができます。

千利休は、茶席では、武士も町人も関係ない、東軍も西軍も関係ないと考えました。

現代風に言えば、貧しい人も富める人も、同じ人間として、一つの空間でひとときを過ごそうということです。

お茶の席に自民党も共産党も関係ありません。個性は違っても同じ人間なのです。

相手や自分にレッテルをはって、がんじがらめにしてしまうほど、悲しいことはありません。

澤木興道老師の言われる、「撃ち方やめ」が禅の心であり茶の心です。攻撃をやめたところに、真実はあるのです。



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