ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【祝賀会】難波先生より

2013-04-16 12:07:37 | 難波紘二先生
【祝賀会】昨4/14(日)、宇和島市で開かれた「万波誠先生 腎移植1000例記念祝賀会」に出席、講演を行い、一泊して戻って来た。朝、9:38宇和島駅発の特急「宇和海」に乗ろうとしたら、「昨日の豪雨のため、予讃線は不通です」といわれ、松山行きの「宇和島交通」バスにあわてて乗った。松山からタクシー、水中翼船を乗り継いで呉港へ。呉からはJRバスで西条駅へ、そこで豊栄行き芸陽バスに乗り換え、17:30頃やっと家に戻った。やはり8時間かかる。


 行きは光畑先生と呉港で落ち合い、高松からは西先生の白いベンツにピックアップしてもらい、宇和島まで直行だったので楽だった。さすが、ベンツは乗り心地が違う。車内でノートパソコンを開き、PPTスライドの修正ができた。
 西先生が「よく酔いませんね」という。バスの中だとそれが起こるが、ベンツは揺れ方が違い、小振動がなく、大きなゆれもバスのようには揺れない。サスペンションが違うのだと思う。


 帰宅してから西先生から電話があり、昨夜、高松へ帰る途中、すごい集中豪雨で運転が恐いほどだったそうだ。宇和島ではそんな模様は全然なかったのに。土砂崩れが起こった理由がよくわかった。
 広島・呉から参加した中河原さんら「難波塾」の4人も車で帰ったので、同じく難儀したことだろう。太刀掛さんは透析患者だがいよいよ6月に結婚するそうだ。おめでとう。早く臨床研究の修復腎移植の番が回ってきてほしい。


 今回は前使っていたMacBookでなく、MacBook-Proにパワーポイント・スライドを入れて行った。ところが、液晶プロジェクター用の映像信号アウトプットのコネクター形状が変わっていたり、用意してもらったEPSON液晶プロジェクターの光軸調整つまみが、右いっぱいになっているのに気づかないで、プロジェクターを左に移動したりと、不手際があった。(新しいプロジェクターでは、斜めから投影しても正像が写るように調整つまみがある。)それで、15:00開会の予定が10分くらい遅れた。


 その上、私が30分の予定を10分もオーバーしてしゃべったので、開宴が16:00過ぎになった。申し訳ないことをした。
 企画実行にあたられた、司会の野村さんほか、NPOの役員の皆さんご苦労様でした。


 前の晩、午前2時までかかって作成したスライドだったが、スクリーンが小さい上に、文字中心のスライドだったので、後ろの人は全然読めなかったと思う。
 最後に魯迅の言葉「道は初めからあるのではない。人が歩いた跡が道になる」を引用して、信州の和田峠は黒曜石の一大産地であり、日本最大の露頭があること、これを目当てに海抜1600メートルの峠の両側から、頂上まで旧石器時代人が歩いて登ったこと、これがそもそも「中山道」ができた始まりだという話をしたのだが、メッセージが伝わったかどうか… 和田峠で採取した黒曜石の矢尻は大事にしていたのですが、いざ写真を撮ろうとしたら、今回は見つからなかった。


 講演では「病気腎移植」の始まりは、1981年にあるという話をした。この年、市立宇和島病院で、特発性腎出血のため摘出された腎臓を、透析患者の要望に応えて万波さんが移植した。それが「瀬戸内グループ」最初の「修復腎(病腎)」移植である。
 (これが公表されていたら、後の「病腎移植騒動」はなかっただろう。何しろ、東大医学部卒の教授がおこなった日本最初の腎移植は「病気腎」を用いたのだから。)
 これは1956(昭和39)年3月に新潟大学病院で行われた。ドナーは特発性腎出血の患者だった。
 この話は「日本の臓器移植」の歴史に関する本にはみな書いてある。阪大の高原史や東邦大の相川厚は、勉強不足のため知らないのか、不都合なので無視しているだけだ。


 オーストラリア・ブリスベーンでおこなわれたニコル教授の「小径腎がんのある腎臓」を移植に用いる方法も、2006年の「病気腎移植」騒動以前に日本に伝えられていた。
 全米泌尿器科学会でニコル教授が2004年に発表した抄録が、帝京大学堀江教授により日本語訳され、彼のコメントを付したものが「全米泌尿器科学会演題抄録集」として、2004年の「日本泌尿器学会総会」で配られていた。ある製薬会社が冊子として出版し、宣伝のため会場で配布。後日、全国の泌尿器科医にも配られている。


 「産経」と「東京」がブリスベーンでニコル教授の取材を終えた後、記者がこの件で堀江教授に取材申し込みをしたら、高原から堀江教授に電話があり、「あの件は話すな」といわれ、結局、取材を拒否されたそうだ。歴史の面白いところは、このように、時が経つとだんだん真相が明らかになる点にある。


 私の『第三の移植』原稿も、もう4年越しになり、後「エピローグ」を書けば終りかと思っていたが、新事実が出てくるので、まだ他の章を加筆修正する必要がありそうだ。
 
 徳洲会本部からも大勢出席者があり、2007年6月にローマでお会いした大野先生や、京大脳外科出身で万波さんを宇和島徳洲会病院にスカウトした、佐藤副理事長にも再会できた。患者さんが主体で、約200人くらいの参加者か。報道関係は、「毎日」八幡浜通信所記者の出席しかなく、残念だった。(当日の写真をさっそくメールで送って下さった、呉の中河原さん、お礼申し上げます。)


 珍しく万波先生が多弁になり挨拶で20分くらいしゃべった。当時、読売新聞の記者が彼を犯罪者扱いして、「早く白状して楽になったらどうですか」と詰問したそうだ。それに「使える腎臓ならどうして元に戻さないのか」ともしつこく聞いたそうだ。これを記者に納得してもらえなくて、歯がゆい思いをしたらしく、延々と説明をした。この6年の間に溜まったストレスをぶちまけるような話しぶりだった。


 聞いていて、耳鼻科の教授が講義でしゃべった話を思い出した。「気管支内異物」の話で、「右の気管支はほぼ横に分岐しているが、左気管支は下向きに分岐しているので、間違って呑みこんだ異物は左に詰まりやすい。これは取り出すのが非常に難しい」という話の後、あるエピソードをしゃべった。


 気管支にビー玉かなにかの異物を詰まらせた子どもが母親に連れられて来た。取り出すのに苦労していると、後ろから母親が「入ったものなら取り出せるでしょう」と甲高い声で口を出したので、つい頭に来て、
 「そういうわけに行きません。二階から飛び降りることはできても、飛び上がることはできんでしょう」
 と言い返したという話だった。
 (右と左のどっちが鋭角だったかは、図譜を調べないといけないほど忘れていたが、このエピソードだけは忘れずに記憶していた。)


 この記者に「腎臓の局所解剖と血管走行」を説明してもわかりっこない。比喩というかアナロジーで説明する必要があっただろう。万波さんは主賓席で私の横にいたが、途中で病院から呼び出しがあり、花束贈呈の頃にはもういなかった。相変わらず彼らしい。


「麻野涼」さんにも初めてお目にかかった。ずいぶん長身で若々しいのに驚いた。後で聞くと、1950年生まれで「段階の世代」の最後だそうだ。


 会場内は禁煙なのでちょっと祝賀スピーチの合間に、「毒ガス」を吸いに出てみると、最初うずたかく積まれていた『死の臓器』が残り8冊になっていた。(閉会後、二次会で聞いたら、売り切れたそうだ。)麻野さんから同書第2刷りをプレゼントされた。ありがとうございました。
 書誌を見ると、「初版2月15日」、「第2刷り3月25日」となっているので、約40日で2刷りが出たわけだ。今の出版事情では、これは珍しい。(日本泌尿器科学会や日本移植学会の総会で「書籍販売コーナー」に置いてもらうとよいだろう。)


 小川先生は「臨床研究10例」について、英語論文を書いておられるようだし、次は今月末の札幌での「日本泌尿器科学会」がどうなるか楽しみである。
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