【一字違い】
9/14のメルマガに【柿の実の熟れる頃】という項目を立て、<「柿の種」は寺田寅彦の随筆集。確か「柿の実の熟れる頃」という小品が日本の作家にあったはずだ>と書いた。
ところが「週刊新潮」10/1号の「未読の名作」欄に、文芸評論家の川本三郎が島崎藤村『桜の実の熟する時』という小説を取りあげているのを「発見」した。「柿」ではなく「桜」だった。この小説は未読だから、題名だけを覚え違いしていたのだろう。おそらく藤村の他の小説や評伝を読んだ際に、タイトルを不完全記憶したものと、誤解の原因が判明した。
山形県の「佐藤錦」ならともかく、野生のヤマザクラの実は「さくらんぼ」というくらい小さいから、「熟れる頃」という語感とは合わない。
手元に「日本文学全集7:島崎藤村集2」(新潮社, 1962/3)があり、平野謙が解説を書いている。「家」「桜の実の熟する時」「ある女の生涯」「嵐」の4作が収められているのに、長編「家」についてくどくどと、それも広津和郎の「藤村覚え書」(1943)に依拠して書いているのにあきれた。こういう人物が昔は「知識人」として通用していた。収録された全作について、簡にして要を得た「解説」を書けなければ意味がない。
藤村は姪と不倫して日本に居辛くなり、1913(大正2)年、「パリに脱出」。第一次大戦中の1916(大正5)年に帰国し、1919(大正8)年1月に「桜の実の熟する時」を刊行している。藤村は1930(昭和5)年、脳出血の後遺症に喉頭がんを発症し、重体となり死の床にある先輩(1歳上)の田山花袋に「田山君、この世を辞してゆくとなると、どんな気持ちがするものかね」と平気で聞いた「無神経人間」である(山田風太郎『人間臨終図鑑』)。
島崎藤村を持ち上げたのは、評論家の平野謙で『島崎藤村』(岩波現代文庫、2001/1)という評論集もあるが、この作品には一切ふれていない。それをまた、川本三郎がなぜ「教養人のための<未読の名作>一読ガイド」に取りあげたのか?
掲載写真は「新潮文庫」版である。意図が見え見えだ。
さてその藤村だが、柳田泉・勝本清一郎・猪野謙二の鼎談会に、その分野の専門家が加わった座談会記録『座談会:明治・大正文学史(全6冊)』(岩波現代文庫, 2000/2)の第二分冊にある、「国木田独歩と島崎藤村」には平野謙も参加していて、PP.169-264と100頁ちかく議論しているが、誰も「桜の実の熟する時」を話題にしていない。
小説の良し悪しは、冒頭の文章と結尾の文である程度わかる。
「木曽路はすべて山の中である」で始まる『夜明け前』(第一部)は、平田篤胤の国学に心酔した青山半蔵の人生の転変を描き、篤胤の遺著から「一切は神の心であろうでござる」を括弧ぐるみ引用することで終わる。文章がしまっている。
『桜の実の熟する時』は、こうなっている。
「日陰に成った坂に添ふて、岸本捨吉は品川の停車場から高輪へ通う坂道を上がって行った。」(冒頭)
「まだ若いさかりの彼の足は踏んで行く春の雪のために燃えた。」(終り)
同義反復や形容矛盾があり、文章としてなっていない。これは駄作だ。著者の権威は関係ない。川本三郎ともあろう人が、わざわざこれを推薦した理由が、ちっともわからない。
私見では、藤村には処女歌集『若菜集』(春陽堂、M30/8)の
「高楼」(改題=「惜別の歌」)
<遠き別れに耐えかねて、
この高楼(たかどの)に登るかな
悲しむなかれ我が友よ(原文「わが姉よ」)
旅の衣を整えよ>
のように、旧制高校で愛唱されたものもある。作曲:作曲:藤江英輔と歌唱(倍賞智恵子)が素晴らしい。
http://www.uta-net.com/movie/96759/
藤村は、本来は叙情的作品に優れていたのだが、「自然主義」に影響されて、小説の駄作を書くようになり「私小説」の元祖となった。
人格が分裂病的でころころ変わるから、昭和の初めに軍国主義が台頭するとすぐに便乗して、「大東亜文学者会議」では万歳三唱の発声人になり、東條英機の「戦陣訓」の文章の校閲まで引き受けている。そのことを承知している「戦中派」作家の山田風太郎は、田山花袋の臨終には30行を費やしたが、藤村の最期にはたった10行しか触れていない。
平野謙は戦前の共産党「スパイ・リンチ殺害事件」の関係者であり、事件後に転向し、上記文学者会議で藤村の「万歳三唱」を目撃している。戦後は再転向し「進歩的文化人」になった。
従って、彼の理想にかなう人物が島崎藤村なのである。
9/14のメルマガに【柿の実の熟れる頃】という項目を立て、<「柿の種」は寺田寅彦の随筆集。確か「柿の実の熟れる頃」という小品が日本の作家にあったはずだ>と書いた。
ところが「週刊新潮」10/1号の「未読の名作」欄に、文芸評論家の川本三郎が島崎藤村『桜の実の熟する時』という小説を取りあげているのを「発見」した。「柿」ではなく「桜」だった。この小説は未読だから、題名だけを覚え違いしていたのだろう。おそらく藤村の他の小説や評伝を読んだ際に、タイトルを不完全記憶したものと、誤解の原因が判明した。
山形県の「佐藤錦」ならともかく、野生のヤマザクラの実は「さくらんぼ」というくらい小さいから、「熟れる頃」という語感とは合わない。
手元に「日本文学全集7:島崎藤村集2」(新潮社, 1962/3)があり、平野謙が解説を書いている。「家」「桜の実の熟する時」「ある女の生涯」「嵐」の4作が収められているのに、長編「家」についてくどくどと、それも広津和郎の「藤村覚え書」(1943)に依拠して書いているのにあきれた。こういう人物が昔は「知識人」として通用していた。収録された全作について、簡にして要を得た「解説」を書けなければ意味がない。
藤村は姪と不倫して日本に居辛くなり、1913(大正2)年、「パリに脱出」。第一次大戦中の1916(大正5)年に帰国し、1919(大正8)年1月に「桜の実の熟する時」を刊行している。藤村は1930(昭和5)年、脳出血の後遺症に喉頭がんを発症し、重体となり死の床にある先輩(1歳上)の田山花袋に「田山君、この世を辞してゆくとなると、どんな気持ちがするものかね」と平気で聞いた「無神経人間」である(山田風太郎『人間臨終図鑑』)。
島崎藤村を持ち上げたのは、評論家の平野謙で『島崎藤村』(岩波現代文庫、2001/1)という評論集もあるが、この作品には一切ふれていない。それをまた、川本三郎がなぜ「教養人のための<未読の名作>一読ガイド」に取りあげたのか?
掲載写真は「新潮文庫」版である。意図が見え見えだ。
さてその藤村だが、柳田泉・勝本清一郎・猪野謙二の鼎談会に、その分野の専門家が加わった座談会記録『座談会:明治・大正文学史(全6冊)』(岩波現代文庫, 2000/2)の第二分冊にある、「国木田独歩と島崎藤村」には平野謙も参加していて、PP.169-264と100頁ちかく議論しているが、誰も「桜の実の熟する時」を話題にしていない。
小説の良し悪しは、冒頭の文章と結尾の文である程度わかる。
「木曽路はすべて山の中である」で始まる『夜明け前』(第一部)は、平田篤胤の国学に心酔した青山半蔵の人生の転変を描き、篤胤の遺著から「一切は神の心であろうでござる」を括弧ぐるみ引用することで終わる。文章がしまっている。
『桜の実の熟する時』は、こうなっている。
「日陰に成った坂に添ふて、岸本捨吉は品川の停車場から高輪へ通う坂道を上がって行った。」(冒頭)
「まだ若いさかりの彼の足は踏んで行く春の雪のために燃えた。」(終り)
同義反復や形容矛盾があり、文章としてなっていない。これは駄作だ。著者の権威は関係ない。川本三郎ともあろう人が、わざわざこれを推薦した理由が、ちっともわからない。
私見では、藤村には処女歌集『若菜集』(春陽堂、M30/8)の
「高楼」(改題=「惜別の歌」)
<遠き別れに耐えかねて、
この高楼(たかどの)に登るかな
悲しむなかれ我が友よ(原文「わが姉よ」)
旅の衣を整えよ>
のように、旧制高校で愛唱されたものもある。作曲:作曲:藤江英輔と歌唱(倍賞智恵子)が素晴らしい。
http://www.uta-net.com/movie/96759/
藤村は、本来は叙情的作品に優れていたのだが、「自然主義」に影響されて、小説の駄作を書くようになり「私小説」の元祖となった。
人格が分裂病的でころころ変わるから、昭和の初めに軍国主義が台頭するとすぐに便乗して、「大東亜文学者会議」では万歳三唱の発声人になり、東條英機の「戦陣訓」の文章の校閲まで引き受けている。そのことを承知している「戦中派」作家の山田風太郎は、田山花袋の臨終には30行を費やしたが、藤村の最期にはたった10行しか触れていない。
平野謙は戦前の共産党「スパイ・リンチ殺害事件」の関係者であり、事件後に転向し、上記文学者会議で藤村の「万歳三唱」を目撃している。戦後は再転向し「進歩的文化人」になった。
従って、彼の理想にかなう人物が島崎藤村なのである。
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