【渥美半島の旅】
5/2〜5/3と渥美半島の付け根にある「三河三谷温泉」で一泊し、4人の仲間で渥美半島の田原市歴史資料館に渡辺崋山の訪ね、より南の田原市古田町にある作家杉浦民平が寄贈した蔵書の図書室を訪ねた。その後、半島南端の伊良子崎まで達し、半島の太平洋岸沿いに北上し、岡崎市の新幹線口で解散し、新幹線を乗り継いで午後6時過ぎには自宅に戻った。
短い旅だったが、地元のIさんが愛用のBMBを運転して、解説付きで案内してくれたので、実り多いものとなった。厚くお礼申しあげたい。
三谷温泉のホテルからは、三河湾(渥美湾)がよく見えた。名古屋には学会などでよく行くが、あれは伊勢湾の奥にあるので、三河湾をじっくり見るのはこれが初めてだった。風がつよいところらしくて、豊川という川の河口あたりに巨大な風力発電装置が林立していた。(写真1)
(写真1)
この風力を利用してウィンドサーフィンも盛んで、ホテルの自室眼下の会場でも若者がサーフィンに興じていた。(写真2)
(写真2)
このサーフボードは重いものかと思っていたら、岸についたら若者が軽々と頭上に持ち上げて運び始めたのには驚いた。素材はますます頑丈で軽量になっていく。
半島の南端、伊良湖岬灯台の近くで珍しいものを見た。西側(三河湾側)が広い平野になっていて、そこに2基の火力発電所と多数の風力発電塔があり、間の平地は見わたす限り、大きくて背が高く、頑丈な温室が並んでいる。(写真3)
(写真3)
これが中学校の教科書にも載っている「電照菊」の栽培地だそうで、通夜葬儀につきものの白菊はここから全国に供給されるという。
これから団塊の世代が後期高齢化を迎え、「2025年問題」が近づくわけだが、出生率は回復せず死亡者数は増えるばかりだから、人工的に電灯で日照時間を調節して、季節に関係なく葬儀用の花を生産・供給する白菊栽培はビジネスとして大いに伸びるだろう。
堺屋太一は『団塊の世代:<黄金の十年>がはじまる』(2008、文春文庫)で、
<「団塊の世代」は、過去においてそうであったように、将来においても数々の流行と需要を作り、…年老いて行くことであろう。>
と繰り返し述べているが、「電照菊」による葬儀用白菊のビジネスというのも、団塊の世代が生みだす最後の需要だな…と思った。
聞けば、八郎潟の米生産農家と同様に、JAと関係なく販路と供給のルートを開拓してきたという。夜は沢山の電灯が輝いて、美事な夜景が出現し、それを見に来る観光客も多いという。ここには鉄道もないが、立派な道路が太平洋岸にも湾岸にもあり、菊の輸送にも観光客の訪問にも利用されている。それどころか、自動車道とは全く別に、半島一周のサイクリング・ロード整備も行われていた。
おそらく電照菊の育成に必要な電力も、かなりの部分が風力、太陽光パネルによる時給なのではないか、と思った。これはアイデアと構想力の勝利であろう。
この伊良子崎近くのホテルに上がると、目の前の太平洋中に、三島由紀夫が「潮騒」の舞台とした神島(小説では「歌島」)が浮かび、伊良湖岬灯台がある丘が右手に見える。
(日本語WIKIによると、三島は <1953年(昭和28年)3月と、8月 - 9月に、三重県鳥羽港から神島(かみしま)に行く。八代神社、神島灯台、島民の生活、例祭神事、漁港、歴史、漁船員の仕事や生活、台風などについて取材し、翌年の1954年(昭和29年)6月10日、『潮騒』(新潮社)を発表する。ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』に着想を得たこの恋愛小説はベストセラーとなり、東宝で映画化された。神島を舞台に選んだ理由を三島は、「日本で唯一パチンコ店がない島だったから」と、大蔵省同期の長岡實に語ったという。『潮騒』は第1回新潮社文学賞を受賞した>とある。)
私は「神島」というと、和歌山県田辺市沖にある南方熊楠ゆかりの神島(粘菌の宝庫)しか知らなかったので、もうひとつの「神島」があるのを知り、素直に驚いた。こちらは伊勢神宮に奉納する魚を捕るのを生業としてきた人びとが住む島だそうだ。
写真4左手の、海に浮いた小山のような「神島」は三重県鳥羽市に属している。写真右の丘の向こうに灯台がある衣良湖岬突端(愛知県田原市)からは目と鼻の先に見える。ここから鳥羽や伊勢には、海上交通だとわずか50分で行けるという。岬の太平洋側には自然ビーチ「恋路が浜」が半島を北に向かって伸びている。夏は海水浴客で賑わうという。「恋路が浜」は能登半島にもある。(写真4)
(写真4)
同じ「神島」でも二つは全く違った。旅にはつねにこういう「発見」があるから楽しい。
行きの新幹線の中で、蛮社の獄と渡辺崋山の自死との関係についての新書(松岡英夫「鳥井耀蔵:天保の改革の弾圧者」中公新書)を読んでいて、「護持院ヶ原の敵討」にも二つあることを知った。鷗外の「護持院ヶ原の敵討」(天保6年:1835)は有名だが、弘化3(1846)年にも同じ「元護持院二番ヶ原」で敵討があったという。
この時討たれたのは、蛮社の獄を仕組んだ元江戸町奉行・勘定奉行の鳥居甲斐守耀蔵の元家臣の本庄茂平次という男だ。茂平次は長から出てきて、江戸で町医者をやっていて、鳥井耀蔵の部下のスパイに見込まれて耀蔵の手先となった。その茂平次が、金銭上のトラブルでとか鳥居の指令によるとか異説があるが、剣術師範の井上傳兵衛という武士を闇討ちで殺害した。
傳兵衛の養子、弟、弟子の三人が、8年がかりで仇を探して全国を行脚、護持院ヶ原で義父と師の敵を討つという話である。
この弘化3年の敵討ちについては、旧幕臣で後ジャーナリストになった栗本鋤雲(じょうん)の回想録と平出鏗二郎(こうじろう)の『敵討』があるようなので、いずれゆっくり読んでみたい。
鏗二郎『敵討』(明治42=1909年)に対して、鷗外『護持院ヶ原の敵討』は大正2(1913)年の発表で、鷗外が前者を意識しなかったはずがないと思う。平出は明治44(1911)年に死んでいるから、仮に鷗外の「史伝小説」が「歴史そのまま」でなく、東京帝大歴史資料編纂室にいた鏗二郎の作品を下敷きにしていても、抗議することはできなかった。
実際、二つの作品には登場人物と敵討ちの動機は異なるが、プロットや仇を求めて全国放浪するところや、仇が見つかる切っ掛けとか、仇討ちの場所とか、偶然の一致にしてはあまりにも類似点が多いように思われる。
こうしてまた新たな疑問を抱えこんでしまった…。旅にはいつも新たな「発見」がある。
5/2〜5/3と渥美半島の付け根にある「三河三谷温泉」で一泊し、4人の仲間で渥美半島の田原市歴史資料館に渡辺崋山の訪ね、より南の田原市古田町にある作家杉浦民平が寄贈した蔵書の図書室を訪ねた。その後、半島南端の伊良子崎まで達し、半島の太平洋岸沿いに北上し、岡崎市の新幹線口で解散し、新幹線を乗り継いで午後6時過ぎには自宅に戻った。
短い旅だったが、地元のIさんが愛用のBMBを運転して、解説付きで案内してくれたので、実り多いものとなった。厚くお礼申しあげたい。
三谷温泉のホテルからは、三河湾(渥美湾)がよく見えた。名古屋には学会などでよく行くが、あれは伊勢湾の奥にあるので、三河湾をじっくり見るのはこれが初めてだった。風がつよいところらしくて、豊川という川の河口あたりに巨大な風力発電装置が林立していた。(写真1)
(写真1)
この風力を利用してウィンドサーフィンも盛んで、ホテルの自室眼下の会場でも若者がサーフィンに興じていた。(写真2)
(写真2)
このサーフボードは重いものかと思っていたら、岸についたら若者が軽々と頭上に持ち上げて運び始めたのには驚いた。素材はますます頑丈で軽量になっていく。
半島の南端、伊良湖岬灯台の近くで珍しいものを見た。西側(三河湾側)が広い平野になっていて、そこに2基の火力発電所と多数の風力発電塔があり、間の平地は見わたす限り、大きくて背が高く、頑丈な温室が並んでいる。(写真3)
(写真3)
これが中学校の教科書にも載っている「電照菊」の栽培地だそうで、通夜葬儀につきものの白菊はここから全国に供給されるという。
これから団塊の世代が後期高齢化を迎え、「2025年問題」が近づくわけだが、出生率は回復せず死亡者数は増えるばかりだから、人工的に電灯で日照時間を調節して、季節に関係なく葬儀用の花を生産・供給する白菊栽培はビジネスとして大いに伸びるだろう。
堺屋太一は『団塊の世代:<黄金の十年>がはじまる』(2008、文春文庫)で、
<「団塊の世代」は、過去においてそうであったように、将来においても数々の流行と需要を作り、…年老いて行くことであろう。>
と繰り返し述べているが、「電照菊」による葬儀用白菊のビジネスというのも、団塊の世代が生みだす最後の需要だな…と思った。
聞けば、八郎潟の米生産農家と同様に、JAと関係なく販路と供給のルートを開拓してきたという。夜は沢山の電灯が輝いて、美事な夜景が出現し、それを見に来る観光客も多いという。ここには鉄道もないが、立派な道路が太平洋岸にも湾岸にもあり、菊の輸送にも観光客の訪問にも利用されている。それどころか、自動車道とは全く別に、半島一周のサイクリング・ロード整備も行われていた。
おそらく電照菊の育成に必要な電力も、かなりの部分が風力、太陽光パネルによる時給なのではないか、と思った。これはアイデアと構想力の勝利であろう。
この伊良子崎近くのホテルに上がると、目の前の太平洋中に、三島由紀夫が「潮騒」の舞台とした神島(小説では「歌島」)が浮かび、伊良湖岬灯台がある丘が右手に見える。
(日本語WIKIによると、三島は <1953年(昭和28年)3月と、8月 - 9月に、三重県鳥羽港から神島(かみしま)に行く。八代神社、神島灯台、島民の生活、例祭神事、漁港、歴史、漁船員の仕事や生活、台風などについて取材し、翌年の1954年(昭和29年)6月10日、『潮騒』(新潮社)を発表する。ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』に着想を得たこの恋愛小説はベストセラーとなり、東宝で映画化された。神島を舞台に選んだ理由を三島は、「日本で唯一パチンコ店がない島だったから」と、大蔵省同期の長岡實に語ったという。『潮騒』は第1回新潮社文学賞を受賞した>とある。)
私は「神島」というと、和歌山県田辺市沖にある南方熊楠ゆかりの神島(粘菌の宝庫)しか知らなかったので、もうひとつの「神島」があるのを知り、素直に驚いた。こちらは伊勢神宮に奉納する魚を捕るのを生業としてきた人びとが住む島だそうだ。
写真4左手の、海に浮いた小山のような「神島」は三重県鳥羽市に属している。写真右の丘の向こうに灯台がある衣良湖岬突端(愛知県田原市)からは目と鼻の先に見える。ここから鳥羽や伊勢には、海上交通だとわずか50分で行けるという。岬の太平洋側には自然ビーチ「恋路が浜」が半島を北に向かって伸びている。夏は海水浴客で賑わうという。「恋路が浜」は能登半島にもある。(写真4)
(写真4)
同じ「神島」でも二つは全く違った。旅にはつねにこういう「発見」があるから楽しい。
行きの新幹線の中で、蛮社の獄と渡辺崋山の自死との関係についての新書(松岡英夫「鳥井耀蔵:天保の改革の弾圧者」中公新書)を読んでいて、「護持院ヶ原の敵討」にも二つあることを知った。鷗外の「護持院ヶ原の敵討」(天保6年:1835)は有名だが、弘化3(1846)年にも同じ「元護持院二番ヶ原」で敵討があったという。
この時討たれたのは、蛮社の獄を仕組んだ元江戸町奉行・勘定奉行の鳥居甲斐守耀蔵の元家臣の本庄茂平次という男だ。茂平次は長から出てきて、江戸で町医者をやっていて、鳥井耀蔵の部下のスパイに見込まれて耀蔵の手先となった。その茂平次が、金銭上のトラブルでとか鳥居の指令によるとか異説があるが、剣術師範の井上傳兵衛という武士を闇討ちで殺害した。
傳兵衛の養子、弟、弟子の三人が、8年がかりで仇を探して全国を行脚、護持院ヶ原で義父と師の敵を討つという話である。
この弘化3年の敵討ちについては、旧幕臣で後ジャーナリストになった栗本鋤雲(じょうん)の回想録と平出鏗二郎(こうじろう)の『敵討』があるようなので、いずれゆっくり読んでみたい。
鏗二郎『敵討』(明治42=1909年)に対して、鷗外『護持院ヶ原の敵討』は大正2(1913)年の発表で、鷗外が前者を意識しなかったはずがないと思う。平出は明治44(1911)年に死んでいるから、仮に鷗外の「史伝小説」が「歴史そのまま」でなく、東京帝大歴史資料編纂室にいた鏗二郎の作品を下敷きにしていても、抗議することはできなかった。
実際、二つの作品には登場人物と敵討ちの動機は異なるが、プロットや仇を求めて全国放浪するところや、仇が見つかる切っ掛けとか、仇討ちの場所とか、偶然の一致にしてはあまりにも類似点が多いように思われる。
こうしてまた新たな疑問を抱えこんでしまった…。旅にはいつも新たな「発見」がある。
夏にはキス、初冬にはカレイが釣れる浜辺として有名です。
夜中2時半に出発すれば田原氏に入るのは午前4時過ぎ。電照菊が闇の中で燦々と浮き上がっている地域で、春には沿道に菜の花が満載の菜の花まつりがある。
かれこれ20年以上も釣りの季節になると訪れている。
例え釣果がなくともスイカやメロンなどを土産に買って帰るのが常となって居ます。