【昭和のベストセラー】
10/19のメルマガで林芙美子に対してやや辛辣なコメントをした。少し気がとがめて、手元の塩澤実信(みのぶ)『定本・ベストセラー昭和史』(展望社、2002/7)を開いてみた。
これを再読して認識したのは、1925(大正15/昭和元)年の改造社「円本」ブームは、大阪で始まった「市内1円均一」の「円タク」が東京に波及しタクシー料金が安くなったことと、大正12年の関東大震災で火災のために、多くの書物が失われたという天災が背景にあったということだ。大火災で蔵書が丸焼けになった愛書家にとって、1冊1円の「円本」は大変な魅力だった。
当時1円はタクシー初乗り料金で、「ルビ付三段組、500〜600頁」の本(単行本4〜5冊分)の全集1巻が、予約購読者になると1円で買えるという改造社の企画は大当たりして、25万の予約者を獲得した。
「柳の下の二匹目のドジョウ」をねらって他社も「全集」の円本刊行に追従し、「世界文学全集」(新潮社)、「明治文学全集」(春陽堂)、「日本戯曲全集」(同)、「現代大衆文学全集」(平凡社)等が次々と刊行されたという。それから4年ばかり空前の出版ブームが続いた。
これに陰を落としたのが、1929(昭和4)年10月にニューヨークで始まった株価の大暴落とそれに続発した世界大恐慌である。大正15年の全産業の平均賃金を100とすると、昭和6年には70にまで賃下げが起こったという。
出版界は一転して出版不況に突入し、売り上げを維持するために「エロ・グロ・ナンセンス」路線に走った。いま、週刊誌やムックが「春画」を取りあげているが、あれと同じことだ。そういうなかで、昭和5年7月に、改造社が林芙美子「放浪記」を出したのは、下層社会の実相を描いた猟奇趣味がアピールすると考えたからであろう。
この試みは図に乗り、大ベストセラーとなった。戦前のベストセラーは資料不足で正確な部数が不明だが、塩澤は各年に5冊ずつよく売れた本を掲げていて、昭和5年は以下の5冊となっている。
1) 林芙美子「放浪記」改造社、
2) 細田民樹「真理の春」中央公論社
3) 谷口雅春「生命の実相」生長の家、
4) 山中峰太郎「敵中横断三百里」講談社、
5) 佐藤紅緑「麗人」新潮社
従って「放浪記」が昭和5年にベストセラー入りしたことは間違いない。
林芙美子がベストセラーにもう一度顔を出すのは、昭和14年の『北岸部隊』で、これは昭和12(1937)年に毎日新聞特派員として、揚子江北岸に上陸し、南京を目指した海軍陸戦隊に同行した芙美子がその従軍記を書いた作品と思われる。上海から北上した陸軍部隊に同行した石川達三の「生きている兵隊」が、南京虐殺事件を書いたために発禁になったことはよく知られている。
戦後は1946(昭和21)から各年10冊のベストセラーがあげられているが、1951(昭和26)/6の死亡まで林芙美子の作品がベストセラー入りすることはなかった。
他方、戯曲「放浪記」を書いた菊田一夫『君の名は:第三部』は1953(昭和28)年のベストセラー第3位になっている。「放浪記」の舞台初演は1961(昭和36)年だが、菊田はこれを小説としては出版していないようだ。
従って「放浪記」は森光子主演の舞台劇と成瀬巳喜男監督の映画(高峰秀子主演)とによって有名になったので、林芙美子の原作を読んでいる人は少ないだろう、という前回の指摘はあながち牽強付会の説とはいえないと考える次第だ。
面白いのは、1953(昭和28)年のベストセラー1位にアンネ・フランク『光ほのかに』(文藝春秋新社)というのが入っている。こういう名前のアンネの本は知らなかった。
手元にあるアンネ・フランク(皆藤幸蔵訳)『アンネの日記』(文藝春秋新社, 1959/8新訂)を見ると、原本は1952に米ダブルディ社から出た英語版で、「The Diary of a Young Girl」が英語タイトルになっている。英語版序文はルーズベルト大統領未亡人エレノアが書いていて、日本語扉のタイトルには「アンネの日記<光ほのかに>」という副題が付いている。英文原題の裏に1942/6/12日(なんと私の1歳の誕生日だ!)付けのアンネの日記の原文写真があるが、ドイツ語ではない。よってこれはオランダ語であろう。わずかに「12 Juni 1942」という箇所だけが私に読める。1929年生のアンネは13歳の誕生日に両親から日記帳をプレゼントされて、これを心の友とし、「キティ」という名前をつけて自分の思いや身辺の出来事を綴った。彼女に残された生命はあと3年足らずしかなかった。
というわけで、「文藝春秋新社」は昭和27(1952)年12/25に初版を「光ほのかに」というメイン・タイトルで売り出し、1959年になって『アンネの日記』という表題に変更したのだと判明した。書物には変更のいきさつが書いてなく、翻訳原稿は印税方式でなく訳者からの買い取りだったのではないかと思う。新訂版には「翻訳版権本社独占」と印刷されている。
本の虫(紙魚=しみ)みたいな作業だが、こういう調べも私は好きなのである。
井上ひさしの戯曲『太鼓たたいて笛ふいて』(新潮社、2002/11)を入手して読んだ。いや、実に素晴らしい芝居だ。林芙美子という時代の波に乗せられて、「太鼓たたいて笛ふいて」戦争に協力した作家の一生を見事に描いている。
10/23「産経」が「惜別の歌」の作曲者藤江英輔(90)の訃報を報じていた。島崎藤村の詩に中央大の予科にいた藤江が、学徒動員で出征する友人たちのために曲をつけたものという。世間に普及して、今は「中央大学第二校歌」になっているという。
歌手:倍賞千恵子
作詞:島崎藤村
作曲:藤江英輔
http://www.uta-net.com/movie/96759/
元詩「高楼」が藤村の『若菜集』に含めて刊行されたのが、明治30(1897)年だから、20年以上にわたり曲なしで口唱されていたものらしい。まさかこの歌の作曲者が生きていたとは思わなかった。
で、不思議なことに井上ひさしの「太鼓たたいて笛ふいて」では、島崎藤村の姪で、「新生」のモデルになっている「島崎こま子」が登場する。地下共産党のシンパであったこま子は、党の細胞からあずかった「赤旗」購読者名簿の中に芙美子の名前を見つけて、カンパを求めて来たのだ。
すでに「赤旗」購読の件で1週間も警察に拘留されたことがある、芙美子は「アカは嫌いだ」とにべもなく、追い返そうとするが、こま子は「春樹(藤村の実名)よりこま子へ」と書き入れがある「椰子の実」の生原稿をとりだし、「90円で買って欲しい」という。
この辺りの井上の資料調べは実に綿密で、大変な時間を要しただろう。これでは台本の執筆に時間がかかり、「遅筆堂」と自称したことも理解できる。
この「椰子の実」に大中寅二が曲をつけて、NHKが「国民歌謡」として放送したのが、1936(昭和11)年7月である。「椰子の実」は「千曲川旅情の歌」などとともに、『落葉集』(明治34/3、春陽堂)に入っており、これも口唱されて広まっていたが、「歌曲」となってさらに愛唱された。
かつて藤村はこま子と不倫関係におちいり、こま子の妊娠が判明すると、パリに身を隠し、約3年帰国しなかった。新聞がこま子の窮状を報じた後、芙美子は「婦人公論」の記者として
彼女が結核性胸膜炎のため収容されている板橋の養育院を訪ねて、雑誌記事を書き、当時の日本ペンクラブ会長島崎藤村に「援助」を呼びかけている。(藤村は妻に言いつけて、こま子に50円を届けたそうだ。<WIKI「島崎こま子」による。>)
実際にこま子が「椰子の実」の生原稿をもって林芙美子宅を訪れたかどうかは、定かでないが、山田風太郎の「明治もの」とおなじく、歴史の空白を利用した「ありえた真実」として、十分に納得できる芝居になっている。
芥川龍之介『或阿呆の一生』は藤村について、
「彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。」(「或阿呆の一生:46. 嘘」)と書いている。「新生」の主人公岸本捨吉=藤村、節子=島崎こま子、というのは「朝日」連載中から知れわたっていた。芥川は藤村を評しているのである。
柳田邦男が浜辺に漂着したヤシの実の話をする=それを聞いた藤村が「椰子の実」の作詩をする=NHKが昭和11年「国民歌謡」の企画を立て、「椰子の実」の作曲を大中寅二に依頼する=曲が大ヒットしたことで「椰子の実」の生原稿にも価値が出る=生活に困った島崎こま子がそれを携えて「プロレタリア作家」林芙美子を訪問する。
藤村が死んだ姉を悼んで「高楼」を作詞する=昭和19年、藤江英輔がこれに曲を付け「惜別の歌」と改題し、歌詞も一部を修正して、歌曲「惜別の歌」が誕生した。
この二つは一見、独立した事象のように見えるが、劇中ではJOAK(NHK東京)の三木高(三木トリロー?)というNHKのディレクターが登場し、JOAK放送室の場もある。また藤江英輔は、中央大卒業後、新潮社に就職し編集者となっている。三木と藤江との間に、少なくとも戦後は交流があったと見るのが自然だろう。
というわけで、井上ひさしの戯曲を読んで、やはり「世の中は複雑系だ」とあらためて痛感した。
川村湊『昭和の異端文学』(集英社新書, 2001/12)を開いたら、大宅壮一の「一億総白痴化」の前に「一億総懺悔」という文句がはやったことを思い出させてくれた。これは昭和20年8月17日に成立した東久邇(皇族)内閣が、「戦争に負けたのは国民全部の責任だ」と主張したものだ。安倍内閣の「一億総活躍」も、失敗したら、きっと「一億総懺悔」というだろうな…
10/26「日経」が報じた同社世論調査によると、「アベノミクスで景気がよくなる」と信じている人は25%、「よくならない」と思っている人が58%で、安倍内閣を外交・政治的に全体として支持している人の中でも「よくなる」と信じている人は、49%と半数に達していない。
「景気」というのは一種のムードであり、「宵越しの金はいらねえや」と市民個々人が楽観的かつ刹那的にならないと、金が消費にまわらない。まあ、現状は「笛ふけど踊らず」といったところであろう。
10/19のメルマガで林芙美子に対してやや辛辣なコメントをした。少し気がとがめて、手元の塩澤実信(みのぶ)『定本・ベストセラー昭和史』(展望社、2002/7)を開いてみた。
これを再読して認識したのは、1925(大正15/昭和元)年の改造社「円本」ブームは、大阪で始まった「市内1円均一」の「円タク」が東京に波及しタクシー料金が安くなったことと、大正12年の関東大震災で火災のために、多くの書物が失われたという天災が背景にあったということだ。大火災で蔵書が丸焼けになった愛書家にとって、1冊1円の「円本」は大変な魅力だった。
当時1円はタクシー初乗り料金で、「ルビ付三段組、500〜600頁」の本(単行本4〜5冊分)の全集1巻が、予約購読者になると1円で買えるという改造社の企画は大当たりして、25万の予約者を獲得した。
「柳の下の二匹目のドジョウ」をねらって他社も「全集」の円本刊行に追従し、「世界文学全集」(新潮社)、「明治文学全集」(春陽堂)、「日本戯曲全集」(同)、「現代大衆文学全集」(平凡社)等が次々と刊行されたという。それから4年ばかり空前の出版ブームが続いた。
これに陰を落としたのが、1929(昭和4)年10月にニューヨークで始まった株価の大暴落とそれに続発した世界大恐慌である。大正15年の全産業の平均賃金を100とすると、昭和6年には70にまで賃下げが起こったという。
出版界は一転して出版不況に突入し、売り上げを維持するために「エロ・グロ・ナンセンス」路線に走った。いま、週刊誌やムックが「春画」を取りあげているが、あれと同じことだ。そういうなかで、昭和5年7月に、改造社が林芙美子「放浪記」を出したのは、下層社会の実相を描いた猟奇趣味がアピールすると考えたからであろう。
この試みは図に乗り、大ベストセラーとなった。戦前のベストセラーは資料不足で正確な部数が不明だが、塩澤は各年に5冊ずつよく売れた本を掲げていて、昭和5年は以下の5冊となっている。
1) 林芙美子「放浪記」改造社、
2) 細田民樹「真理の春」中央公論社
3) 谷口雅春「生命の実相」生長の家、
4) 山中峰太郎「敵中横断三百里」講談社、
5) 佐藤紅緑「麗人」新潮社
従って「放浪記」が昭和5年にベストセラー入りしたことは間違いない。
林芙美子がベストセラーにもう一度顔を出すのは、昭和14年の『北岸部隊』で、これは昭和12(1937)年に毎日新聞特派員として、揚子江北岸に上陸し、南京を目指した海軍陸戦隊に同行した芙美子がその従軍記を書いた作品と思われる。上海から北上した陸軍部隊に同行した石川達三の「生きている兵隊」が、南京虐殺事件を書いたために発禁になったことはよく知られている。
戦後は1946(昭和21)から各年10冊のベストセラーがあげられているが、1951(昭和26)/6の死亡まで林芙美子の作品がベストセラー入りすることはなかった。
他方、戯曲「放浪記」を書いた菊田一夫『君の名は:第三部』は1953(昭和28)年のベストセラー第3位になっている。「放浪記」の舞台初演は1961(昭和36)年だが、菊田はこれを小説としては出版していないようだ。
従って「放浪記」は森光子主演の舞台劇と成瀬巳喜男監督の映画(高峰秀子主演)とによって有名になったので、林芙美子の原作を読んでいる人は少ないだろう、という前回の指摘はあながち牽強付会の説とはいえないと考える次第だ。
面白いのは、1953(昭和28)年のベストセラー1位にアンネ・フランク『光ほのかに』(文藝春秋新社)というのが入っている。こういう名前のアンネの本は知らなかった。
手元にあるアンネ・フランク(皆藤幸蔵訳)『アンネの日記』(文藝春秋新社, 1959/8新訂)を見ると、原本は1952に米ダブルディ社から出た英語版で、「The Diary of a Young Girl」が英語タイトルになっている。英語版序文はルーズベルト大統領未亡人エレノアが書いていて、日本語扉のタイトルには「アンネの日記<光ほのかに>」という副題が付いている。英文原題の裏に1942/6/12日(なんと私の1歳の誕生日だ!)付けのアンネの日記の原文写真があるが、ドイツ語ではない。よってこれはオランダ語であろう。わずかに「12 Juni 1942」という箇所だけが私に読める。1929年生のアンネは13歳の誕生日に両親から日記帳をプレゼントされて、これを心の友とし、「キティ」という名前をつけて自分の思いや身辺の出来事を綴った。彼女に残された生命はあと3年足らずしかなかった。
というわけで、「文藝春秋新社」は昭和27(1952)年12/25に初版を「光ほのかに」というメイン・タイトルで売り出し、1959年になって『アンネの日記』という表題に変更したのだと判明した。書物には変更のいきさつが書いてなく、翻訳原稿は印税方式でなく訳者からの買い取りだったのではないかと思う。新訂版には「翻訳版権本社独占」と印刷されている。
本の虫(紙魚=しみ)みたいな作業だが、こういう調べも私は好きなのである。
井上ひさしの戯曲『太鼓たたいて笛ふいて』(新潮社、2002/11)を入手して読んだ。いや、実に素晴らしい芝居だ。林芙美子という時代の波に乗せられて、「太鼓たたいて笛ふいて」戦争に協力した作家の一生を見事に描いている。
10/23「産経」が「惜別の歌」の作曲者藤江英輔(90)の訃報を報じていた。島崎藤村の詩に中央大の予科にいた藤江が、学徒動員で出征する友人たちのために曲をつけたものという。世間に普及して、今は「中央大学第二校歌」になっているという。
歌手:倍賞千恵子
作詞:島崎藤村
作曲:藤江英輔
http://www.uta-net.com/movie/96759/
元詩「高楼」が藤村の『若菜集』に含めて刊行されたのが、明治30(1897)年だから、20年以上にわたり曲なしで口唱されていたものらしい。まさかこの歌の作曲者が生きていたとは思わなかった。
で、不思議なことに井上ひさしの「太鼓たたいて笛ふいて」では、島崎藤村の姪で、「新生」のモデルになっている「島崎こま子」が登場する。地下共産党のシンパであったこま子は、党の細胞からあずかった「赤旗」購読者名簿の中に芙美子の名前を見つけて、カンパを求めて来たのだ。
すでに「赤旗」購読の件で1週間も警察に拘留されたことがある、芙美子は「アカは嫌いだ」とにべもなく、追い返そうとするが、こま子は「春樹(藤村の実名)よりこま子へ」と書き入れがある「椰子の実」の生原稿をとりだし、「90円で買って欲しい」という。
この辺りの井上の資料調べは実に綿密で、大変な時間を要しただろう。これでは台本の執筆に時間がかかり、「遅筆堂」と自称したことも理解できる。
この「椰子の実」に大中寅二が曲をつけて、NHKが「国民歌謡」として放送したのが、1936(昭和11)年7月である。「椰子の実」は「千曲川旅情の歌」などとともに、『落葉集』(明治34/3、春陽堂)に入っており、これも口唱されて広まっていたが、「歌曲」となってさらに愛唱された。
かつて藤村はこま子と不倫関係におちいり、こま子の妊娠が判明すると、パリに身を隠し、約3年帰国しなかった。新聞がこま子の窮状を報じた後、芙美子は「婦人公論」の記者として
彼女が結核性胸膜炎のため収容されている板橋の養育院を訪ねて、雑誌記事を書き、当時の日本ペンクラブ会長島崎藤村に「援助」を呼びかけている。(藤村は妻に言いつけて、こま子に50円を届けたそうだ。<WIKI「島崎こま子」による。>)
実際にこま子が「椰子の実」の生原稿をもって林芙美子宅を訪れたかどうかは、定かでないが、山田風太郎の「明治もの」とおなじく、歴史の空白を利用した「ありえた真実」として、十分に納得できる芝居になっている。
芥川龍之介『或阿呆の一生』は藤村について、
「彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。」(「或阿呆の一生:46. 嘘」)と書いている。「新生」の主人公岸本捨吉=藤村、節子=島崎こま子、というのは「朝日」連載中から知れわたっていた。芥川は藤村を評しているのである。
柳田邦男が浜辺に漂着したヤシの実の話をする=それを聞いた藤村が「椰子の実」の作詩をする=NHKが昭和11年「国民歌謡」の企画を立て、「椰子の実」の作曲を大中寅二に依頼する=曲が大ヒットしたことで「椰子の実」の生原稿にも価値が出る=生活に困った島崎こま子がそれを携えて「プロレタリア作家」林芙美子を訪問する。
藤村が死んだ姉を悼んで「高楼」を作詞する=昭和19年、藤江英輔がこれに曲を付け「惜別の歌」と改題し、歌詞も一部を修正して、歌曲「惜別の歌」が誕生した。
この二つは一見、独立した事象のように見えるが、劇中ではJOAK(NHK東京)の三木高(三木トリロー?)というNHKのディレクターが登場し、JOAK放送室の場もある。また藤江英輔は、中央大卒業後、新潮社に就職し編集者となっている。三木と藤江との間に、少なくとも戦後は交流があったと見るのが自然だろう。
というわけで、井上ひさしの戯曲を読んで、やはり「世の中は複雑系だ」とあらためて痛感した。
川村湊『昭和の異端文学』(集英社新書, 2001/12)を開いたら、大宅壮一の「一億総白痴化」の前に「一億総懺悔」という文句がはやったことを思い出させてくれた。これは昭和20年8月17日に成立した東久邇(皇族)内閣が、「戦争に負けたのは国民全部の責任だ」と主張したものだ。安倍内閣の「一億総活躍」も、失敗したら、きっと「一億総懺悔」というだろうな…
10/26「日経」が報じた同社世論調査によると、「アベノミクスで景気がよくなる」と信じている人は25%、「よくならない」と思っている人が58%で、安倍内閣を外交・政治的に全体として支持している人の中でも「よくなる」と信じている人は、49%と半数に達していない。
「景気」というのは一種のムードであり、「宵越しの金はいらねえや」と市民個々人が楽観的かつ刹那的にならないと、金が消費にまわらない。まあ、現状は「笛ふけど踊らず」といったところであろう。