【半鐘と銅鐸】
5/19夜9時過ぎ、自宅に戻ったらNHKニュースで半鐘の音が聞こえた。画面は見ていなかったが、音は子供の頃に聞いた火の見櫓の上にぶら下がっている半鐘の音だった。
60年以上前の田舎には、「市(いち)」と呼ばれた商店街のはずれに、ポンプ小屋があり、その脇に火の見櫓があった。消防ポンプといっても、荷車の上に手押しポンプを乗せただけのもので、「青年団」とか「消防団」の大人たちが、半鐘が鳴ると集合し、ポンプ車を引いて火災現場に駆けつけていた。
音を聞いたとたんに、まるで「失われた時を求めて」の主人公が、紅茶に浸けて口に入れた、一切れのマドレーヌ菓子の臭いと味から過去を思い出したように、瞬間的にそれらのことを思い出した。だが、眼を上げて画面を見ると、何と「淡路島から出土した銅鐸」の音だった。「舌(ぜつ)」と呼ばれる金属棒で銅鐸を叩いた音だったのだ。
昔、上野の「科学博物館」で大小の銅鐸を台の上に並べて、棒で叩いて曲を奏でるのを見聞きしたことがある。それで「楽器の一種」か、と思っていた。NHKが「合わせ銅鐸」と舌による打音を報じたので、前2〜3世紀に、すでに小型の釣り鐘とそれを叩くバチが存在したことがわかった。これは「銅鐸」からの進化として容易に理解できる。
次いで思ったのは、「半鐘は小型の釣り鐘なのに、なぜあれを<半鐘>というのだろう?」という疑問だ。すぐに美空ひばり「お祭りマンボ」の一節を思い出した。
「おじさんおじさん 大変だ
どっかで半鐘が 鳴っている
火事は近いよ スリバンだ」
半鐘は江戸の町火消しの頃から、あったと思われるが、小型の釣り鐘なのに、なぜ「半鐘」というのだろうか。「新明解語源辞典」などを見たが、語源がわからない。「スリバン」というのは、「擦り半鐘」のことで、近火の場合は金属棒で半鐘の内部をこするように目茶苦茶に叩くことかと思っていた。が、書物を調べると、外からの「間を置かない連続打」のことだという。これも語源がわからない。
5/22毎日「余録」が淡路の銅鐸を話題にしていた。
http://mainichi.jp/opinion/news/20150522k0000m070152000c.html
「今昔物語」からの話だが、『中世の音・近世の音』という本からの孫引きらしい。後者は書棚にないので、7冊本の『今昔物語』(朝日出版社, 1953)の目次を順に読んで行ったら、6冊目の第31巻第19話に「愛宕寺にて鐘を鋳る物語」があった。場所は山城国、寺は国分寺で鋳造を依頼したのは小野篁とあった。広島空港の西に山(篁山)があり、頂き近くに竹林寺という寺がある。小野篁はそこで修業し、後に京都に上った。
『今昔物語』には大鐘を盗む話とこの鐘を鋳る話の二つしか、釣り鐘に関する話がない。半鐘の話もない。読経用の小さな鐘は、物語がカバーしている時代に、すでにあったようだ。
それにしても索引がない本は調べるのに手間がかかって仕方がない。「専門家」なら、どこに何が書いてあるかを知っていて、そのことが仕事になるのだろうが、こっちはそうはいかないので厄介だ。探すだけで2時間もかかってしまった。索引を付けないことで「専門家」が成り立っているのではないか、とつい勘ぐってしまう。
この前5/21、「毎日」余録氏はアリストテレス『動物誌(上・下)』(岩波文庫, 1998)から、古代ギリシアで行われていたイルカ漁の話を、太地のイルカ漁と比較しながら引用していた。あれが可能なのは、一度読んだことがあり、「あの本に書いてあった」と思い出せば、島崎三郎訳のこの本には詳細な文脈索引があり、「イルカ」の項目を見れば、「イルカの漁法」がどの頁に書いてあるか、すぐにわかるからだ。医学、自然科学の本はたいていそうなっている。
さて、銅鐸と半鐘の関係について、妄想を逞しくすれば、銅鐸を二つあわせて半鐘ができ、それが進化して外から叩く釣り鐘になったと考えたいが、証拠はまったくない。
ただいえるのは、風鈴型の鐘から鐘木で突くタイプの鐘への進化には、発想の転換と鋳造技術の革新を必要としたはずで、そう簡単にはいかなかっただろう、ということだけだ。
日本の実験考古学はまことに貧弱で、それが旧石器捏造事件を生み、未だに邪馬台国の位置が定まらないという状況を生みだしている。失われた信頼を回復するためにも、ぜひ奮起して銅鐸から釣り鐘への進化の過程を解明してもらいたいと思う。
5/19夜9時過ぎ、自宅に戻ったらNHKニュースで半鐘の音が聞こえた。画面は見ていなかったが、音は子供の頃に聞いた火の見櫓の上にぶら下がっている半鐘の音だった。
60年以上前の田舎には、「市(いち)」と呼ばれた商店街のはずれに、ポンプ小屋があり、その脇に火の見櫓があった。消防ポンプといっても、荷車の上に手押しポンプを乗せただけのもので、「青年団」とか「消防団」の大人たちが、半鐘が鳴ると集合し、ポンプ車を引いて火災現場に駆けつけていた。
音を聞いたとたんに、まるで「失われた時を求めて」の主人公が、紅茶に浸けて口に入れた、一切れのマドレーヌ菓子の臭いと味から過去を思い出したように、瞬間的にそれらのことを思い出した。だが、眼を上げて画面を見ると、何と「淡路島から出土した銅鐸」の音だった。「舌(ぜつ)」と呼ばれる金属棒で銅鐸を叩いた音だったのだ。
昔、上野の「科学博物館」で大小の銅鐸を台の上に並べて、棒で叩いて曲を奏でるのを見聞きしたことがある。それで「楽器の一種」か、と思っていた。NHKが「合わせ銅鐸」と舌による打音を報じたので、前2〜3世紀に、すでに小型の釣り鐘とそれを叩くバチが存在したことがわかった。これは「銅鐸」からの進化として容易に理解できる。
次いで思ったのは、「半鐘は小型の釣り鐘なのに、なぜあれを<半鐘>というのだろう?」という疑問だ。すぐに美空ひばり「お祭りマンボ」の一節を思い出した。
「おじさんおじさん 大変だ
どっかで半鐘が 鳴っている
火事は近いよ スリバンだ」
半鐘は江戸の町火消しの頃から、あったと思われるが、小型の釣り鐘なのに、なぜ「半鐘」というのだろうか。「新明解語源辞典」などを見たが、語源がわからない。「スリバン」というのは、「擦り半鐘」のことで、近火の場合は金属棒で半鐘の内部をこするように目茶苦茶に叩くことかと思っていた。が、書物を調べると、外からの「間を置かない連続打」のことだという。これも語源がわからない。
5/22毎日「余録」が淡路の銅鐸を話題にしていた。
http://mainichi.jp/opinion/news/20150522k0000m070152000c.html
「今昔物語」からの話だが、『中世の音・近世の音』という本からの孫引きらしい。後者は書棚にないので、7冊本の『今昔物語』(朝日出版社, 1953)の目次を順に読んで行ったら、6冊目の第31巻第19話に「愛宕寺にて鐘を鋳る物語」があった。場所は山城国、寺は国分寺で鋳造を依頼したのは小野篁とあった。広島空港の西に山(篁山)があり、頂き近くに竹林寺という寺がある。小野篁はそこで修業し、後に京都に上った。
『今昔物語』には大鐘を盗む話とこの鐘を鋳る話の二つしか、釣り鐘に関する話がない。半鐘の話もない。読経用の小さな鐘は、物語がカバーしている時代に、すでにあったようだ。
それにしても索引がない本は調べるのに手間がかかって仕方がない。「専門家」なら、どこに何が書いてあるかを知っていて、そのことが仕事になるのだろうが、こっちはそうはいかないので厄介だ。探すだけで2時間もかかってしまった。索引を付けないことで「専門家」が成り立っているのではないか、とつい勘ぐってしまう。
この前5/21、「毎日」余録氏はアリストテレス『動物誌(上・下)』(岩波文庫, 1998)から、古代ギリシアで行われていたイルカ漁の話を、太地のイルカ漁と比較しながら引用していた。あれが可能なのは、一度読んだことがあり、「あの本に書いてあった」と思い出せば、島崎三郎訳のこの本には詳細な文脈索引があり、「イルカ」の項目を見れば、「イルカの漁法」がどの頁に書いてあるか、すぐにわかるからだ。医学、自然科学の本はたいていそうなっている。
さて、銅鐸と半鐘の関係について、妄想を逞しくすれば、銅鐸を二つあわせて半鐘ができ、それが進化して外から叩く釣り鐘になったと考えたいが、証拠はまったくない。
ただいえるのは、風鈴型の鐘から鐘木で突くタイプの鐘への進化には、発想の転換と鋳造技術の革新を必要としたはずで、そう簡単にはいかなかっただろう、ということだけだ。
日本の実験考古学はまことに貧弱で、それが旧石器捏造事件を生み、未だに邪馬台国の位置が定まらないという状況を生みだしている。失われた信頼を回復するためにも、ぜひ奮起して銅鐸から釣り鐘への進化の過程を解明してもらいたいと思う。
王が腹をすかして銅製の皿を叩くわけよ。
チンチンカンカンって叩いて音を出して
「めしはまだかー?」ってね。