【戦陣訓の思想】
8/2夜の「NHKスペシャル:密室の戦争」を観た。フィリピンのコレヒドール要塞から脱出したマッカーサー将軍は、オーストラリア・ブリスベーンに司令部を置き、ここに日本兵捕虜を協力者に仕立てる「秘密尋問書」がおかれたという。尋問内容が録音盤として記録されており、自白が強制的でないことの証拠となっている。いま日本でやろうとしている、警察・検察尋問のDVD録画による「尋問の可視化」を70年以上前に実現しているのに驚いた。
「稲垣利一」という、東大で中曽根康弘と同級生で、生きていれば来年100歳になるはずの捕虜に対する尋問とその答弁とが主軸になっていた。稲垣は海軍主計大尉で、ニューギニアで捕虜になっている。
米軍は自軍の兵士が捕虜になることを想定し、「捕虜になったら、氏名と階級と認識番号だけをしゃべり、後はしゃべるな」と教えた。だから映画「栄光への脱出」にも描かれているように、ドイツ軍捕虜になった兵士たちの抵抗活動が、英雄視されるのである。
日本軍は「戦陣訓」により、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」と教えた。戦場では捕虜が生じることが「想定外」なのである。だからたいていの日本兵は捕虜になると、「死んだもの」と自己規定して軍機密でもすすんで平気で喋った。
番組では稲垣が、「日本政府は間違っているが、日本人はなんでも政府のいうことを信じるから、万一自分が生きて帰れると、<卑怯者>とか<裏切り者>とか呼ばれるのが怖い」と、協力をためらう場面(音声)があり、感じ入った。
結局、10ヶ月かかって、尋問官の「戦争を早く終わらせ、日本人の死者を少しでも少なくすることが、祖国に対する最大の貢献ではないか」という説得を稲垣は受け入れ、日本軍に投降を促すビラの作成に協力する決断をする。(彼が原稿を作ったビラの一部は、土屋礼子『対日宣伝ビラが語る太平洋戦争』,吉川弘文館2011/12, にも含まれている。)稲垣のビラを手にして、投降した日本兵は約800名いるそうだ。
番組を見ていて、「不都合なことは無視する」という「戦陣訓」の思想は、戦後もまったく変わっていないと思った。10メートル以上の津波がくる恐れがあると知りながら、必要な対策を怠ったとして東電の旧幹部3名が強制起訴になったと報じられたが、「想定外」の中身は、不都合だから「起こりえない」と考えたということだろう。
先日、「10メートルの津波が広島市を襲ったら、市内の医療施設、市役所、県庁という災害時の中枢機能は一挙に壊滅する。何ごともバックアップ機能を持たせることが必要で、県庁と中枢的医療施設を高台にある(空港と新幹線駅と在来線駅、山陽自動車道もある)県央の東広島市に分散・移転させることが必要だ」と気のおけない友人との飲み会で話したら、「起こりえない」と反論された。「起こってほしくない」という感情は、つい「起こりえない」という確信へと変わってしまうものだ。
川田稔『昭和陸軍の軌跡』(中公文庫)を読んで、1939/9の第二次欧州大戦勃発に伴い、急遽、「南進策」に切り換えた参謀本部や陸軍省が、必要な石油の80%を米国や英領ボルネオ、オランダ領(亡命政府は在英)からの対日石油輸出の禁止や日本資産の凍結などの対抗措置の可能性を排除して、日本軍は1941/7仏印に進駐し、米国、オランダ、英国から日本資産凍結と石油禁止措置を受け、「短期決戦なら勝てる」と対米戦争に向けて踏み切った過程がよくわかった。
ここには戦略も外交もない。「まさか米国が経済封鎖に出ることはないだろう」と不都合な条件は無視しているのである。
結局、近衛内閣総辞職ののちに東條内閣が発足し、1941/11/2になって「大本営政府連絡会議」は「数日来の空気より総合すれば、大勢を動かすことは難しい。ゆえにこの際、戦争の決意をなし…」(嶋田海相)、「日米開戦の決意のもとに対米交渉をおこなう」ことを決している。
もともと陸軍は1941/6の独ソ戦開始に伴い、満州北東部のソ連領に攻め込む予定で「関特演(関東軍特種演習)と称して戦時編成の16個師団など85万の兵力を満州に結集していた。開戦予定日は1941/9で、2ヶ月の短期作選の予定だった。だが予期したシベリアからのソ連軍の西方移動はおこなわれず、火事場泥棒みたいな「対ソ戦」は不可能とわかった。
それで急遽、対米戦に切り替わり、12月8日の開戦と決まった。
嶋田海相の言を知れば、まさに「<空気>による決定」(山本夏彦)だったことがわかる。
8/2夜の「NHKスペシャル:密室の戦争」を観た。フィリピンのコレヒドール要塞から脱出したマッカーサー将軍は、オーストラリア・ブリスベーンに司令部を置き、ここに日本兵捕虜を協力者に仕立てる「秘密尋問書」がおかれたという。尋問内容が録音盤として記録されており、自白が強制的でないことの証拠となっている。いま日本でやろうとしている、警察・検察尋問のDVD録画による「尋問の可視化」を70年以上前に実現しているのに驚いた。
「稲垣利一」という、東大で中曽根康弘と同級生で、生きていれば来年100歳になるはずの捕虜に対する尋問とその答弁とが主軸になっていた。稲垣は海軍主計大尉で、ニューギニアで捕虜になっている。
米軍は自軍の兵士が捕虜になることを想定し、「捕虜になったら、氏名と階級と認識番号だけをしゃべり、後はしゃべるな」と教えた。だから映画「栄光への脱出」にも描かれているように、ドイツ軍捕虜になった兵士たちの抵抗活動が、英雄視されるのである。
日本軍は「戦陣訓」により、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」と教えた。戦場では捕虜が生じることが「想定外」なのである。だからたいていの日本兵は捕虜になると、「死んだもの」と自己規定して軍機密でもすすんで平気で喋った。
番組では稲垣が、「日本政府は間違っているが、日本人はなんでも政府のいうことを信じるから、万一自分が生きて帰れると、<卑怯者>とか<裏切り者>とか呼ばれるのが怖い」と、協力をためらう場面(音声)があり、感じ入った。
結局、10ヶ月かかって、尋問官の「戦争を早く終わらせ、日本人の死者を少しでも少なくすることが、祖国に対する最大の貢献ではないか」という説得を稲垣は受け入れ、日本軍に投降を促すビラの作成に協力する決断をする。(彼が原稿を作ったビラの一部は、土屋礼子『対日宣伝ビラが語る太平洋戦争』,吉川弘文館2011/12, にも含まれている。)稲垣のビラを手にして、投降した日本兵は約800名いるそうだ。
番組を見ていて、「不都合なことは無視する」という「戦陣訓」の思想は、戦後もまったく変わっていないと思った。10メートル以上の津波がくる恐れがあると知りながら、必要な対策を怠ったとして東電の旧幹部3名が強制起訴になったと報じられたが、「想定外」の中身は、不都合だから「起こりえない」と考えたということだろう。
先日、「10メートルの津波が広島市を襲ったら、市内の医療施設、市役所、県庁という災害時の中枢機能は一挙に壊滅する。何ごともバックアップ機能を持たせることが必要で、県庁と中枢的医療施設を高台にある(空港と新幹線駅と在来線駅、山陽自動車道もある)県央の東広島市に分散・移転させることが必要だ」と気のおけない友人との飲み会で話したら、「起こりえない」と反論された。「起こってほしくない」という感情は、つい「起こりえない」という確信へと変わってしまうものだ。
川田稔『昭和陸軍の軌跡』(中公文庫)を読んで、1939/9の第二次欧州大戦勃発に伴い、急遽、「南進策」に切り換えた参謀本部や陸軍省が、必要な石油の80%を米国や英領ボルネオ、オランダ領(亡命政府は在英)からの対日石油輸出の禁止や日本資産の凍結などの対抗措置の可能性を排除して、日本軍は1941/7仏印に進駐し、米国、オランダ、英国から日本資産凍結と石油禁止措置を受け、「短期決戦なら勝てる」と対米戦争に向けて踏み切った過程がよくわかった。
ここには戦略も外交もない。「まさか米国が経済封鎖に出ることはないだろう」と不都合な条件は無視しているのである。
結局、近衛内閣総辞職ののちに東條内閣が発足し、1941/11/2になって「大本営政府連絡会議」は「数日来の空気より総合すれば、大勢を動かすことは難しい。ゆえにこの際、戦争の決意をなし…」(嶋田海相)、「日米開戦の決意のもとに対米交渉をおこなう」ことを決している。
もともと陸軍は1941/6の独ソ戦開始に伴い、満州北東部のソ連領に攻め込む予定で「関特演(関東軍特種演習)と称して戦時編成の16個師団など85万の兵力を満州に結集していた。開戦予定日は1941/9で、2ヶ月の短期作選の予定だった。だが予期したシベリアからのソ連軍の西方移動はおこなわれず、火事場泥棒みたいな「対ソ戦」は不可能とわかった。
それで急遽、対米戦に切り替わり、12月8日の開戦と決まった。
嶋田海相の言を知れば、まさに「<空気>による決定」(山本夏彦)だったことがわかる。
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