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【中外華夷】難波先生より

2012-09-20 12:55:06 | 難波紘二先生
【中外華夷】という言葉が「春秋」にあると、手許の「世界の歴史 40巻本」(中央公論新社)にあるが、執筆者が原典を確かめず適当に書いたのだろう。「春秋」には3つの系統本があるが、一番詳しい「春秋左氏伝 全3巻」(岩波文庫)を繰っても載っていない。


 しかし、この言葉が、「中華思想」の語源である。「中」は中原の意で、黄河と揚子江の間の「河中」をさす。「外」は川向こうの僻地をあらわす。「中外」と組み合わされると、「世界」、「万国」の意味を持つ。日本では製薬会社や出版社の名前になっているが…


 「中外」が地理的概念であるのにたいして、「華夷」は文明の程度をあらわす。「華」は「文化」の化でもある。清朝政府が、沖縄漁民を殺した台湾原住民に対する責任を、日本政府が問うたのに対して、「化外の民であり、責任はない」と回答した時の「化」である。


 「華夷」となると、文化・文明の度合いによる分類だから、「中国文明」を受け入れた国が「華」で、それに従わない国が「夷」となる。夷は「夷狄」の略で未開人、野蛮人の意である。夷狄はまた種族的意味でも用いられた。清朝を樹立した女真族(満州族)は歴然たる夷狄であった。しかし清王朝は「夷狄の名は本朝の諱(い)まざる所なり」(雍正皇帝)とさえ述べている。
 「漢民族」でない異民族であることは全然否定しない。問題は「華」があるかどうかだ、というのである。この「華」は科学・軍事技術を含む文化の意味と「徳」を含む文明の意味との両方をふくんでいる。


 「中外華夷」という思想は、明朝(1368~1644)から清朝(1644~1912)の時代に生まれたものである。基本をなす思想は漢族の王朝である明代に成立したと見てよいであろう。明朝が女真族に滅ぼされたとき、朝貢国であった朝鮮は自らを「小中華」と位置づけているからである。


 「中外華夷」思想においては、中国大陸の地理学的な特性もあり、中国に明白な国境はない、とする。明朝は当初、南京を首都としたが、間もなく北平に遷都し「北京」と改称した。北京の北方と西方に新たに長城が築かれたが、これは国境であるとともに防塞の意義を有していた。現存する万里の長城はすべて明代のものである。
 しかし、女真族、蒙古族及び漢族の推戴を受けて成立した清朝の場合は、北狄も西戎もいないので、万里の長城に意味がなくなった。


 清の支配体制は、基本的に明のそれを受け継いだものである。皇帝が直轄する中央(北京)と帝国の本土(地方)があり、後者は18の「省」に分けられていた。科挙試験に合格したキャリアー官僚が各省の長官として派遣され、統治した。但し西南のいくつかの省では漢族以外が多数であり、言語の問題等があり、漢族の移民が増えるまで原住民の有力者を「土司」として任命し、身分を世襲制とし間接統治をおこなった。


 この際に利用されたイデオロギーが「中外不分」つまり「中国とはその徳化を外に向けて広げて行くプロセスであり、固有の国境はない」というものである。貴州省、雲南省、広西省などは当初原住民の土司が統治する地方であったが、漢族が増加し、漢文化が普及する(徳化)するにつれて、「改土帰流(かいどきりゅう)、」つまり土司を廃して中央から官僚を派遣すること、がおこなわれ、帝国は領土を拡大して行った。
 
 この土司が支配する帝国辺縁部に接するのが「朝貢国」である。明、清への朝貢国には、李氏朝鮮、琉球、大越(ヴェトナム)、ラオス、タイ、ビルマなどがある。特に李朝は高麗国から譲位された際に、「朝鮮」という国号を明からもらっている。朝鮮の場合、年に4回定期朝貢をし、これとは別に、必要に応じて臨時に朝貢をするのが慣わしであった。


 琉球の場合は、定時は2年に1回であったが、臨時のものもあり、明代に171回の朝貢がおこなわれている。
 日本は隋、唐に使節は派遣したが、朝貢はおこなっていない。但し1401年、将軍足利義満が明に朝貢をおこない、「日本国王」の冊封を受けている。但し義満の子で次の将軍義持は、1411年、これを無礼として明使の入洛を拒否し、以後明への朝貢を断った。


 明代には台湾は明の領土でなかった。1624年、オランダは台南安平の港を占領し城塞ゼーランディア城を築き、東アジア貿易の拠点とした。明の滅亡後、清朝と戦った明の遺臣鄭成功は1661年、台湾のオランダ人拠点を攻めて、これを占領した。敗れたオランダ人はバタヴィアへ撤退した。台湾は1683年に清朝に降伏した。しかし台湾は福建省の一地域とされ、清朝が正式に「台湾省」をおいたのは、日本の台湾出兵(1874)後の1885年である。


 朝貢国家に対して、明、清両帝国は、国号の承認、暦・元号の使用、王位の承認を強制した。琉球は明、清と日本に朝貢していたので「両属国家」であった。「朝貢国家」は漢民族が住まず、異民族の国であり、宮廷に中国から顧問官僚が派遣されるという特徴があり、「土司省」のすぐ外側に位置づけられていた。
 徳化が及び、言語・文字をふくむ文化が中国化すると、いつでも帝国に編入されうる存在であった。


 これに対して、朝貢はしないが貿易などを通じて外交関係がある国々を「互市」と位置づけていた。日本やロシア、オランダなど西欧諸国がそれである。


 このように「中外不分」という特異な国境思想と、「華夷」文明秩序思想とが結合すると、一種の帝国主義的膨脹思想が生まれる。西欧の帝国主義は、キリスト教の布教という大義名分と資本主義的な略奪しそうとが結合したものであった。西欧帝国主義は、本国の地理学的な制約があり、新大陸やアジア・アフリカという離れた土地に植民地を獲得する、というかたちで展開せざるをえなかった。


 「中外不分」と「華夷」の思想が結合したものが「中華思想」である。中華思想ではその帝国主義的な様相は、周辺への領土的膨脹としてあらわれる。明朝における鄭和の南海遠征や永楽帝の時代における北ベトナム統治がそれにあげられよう。共産党政権の時代になっては、チベット支配がそれに相当する。


 スターリンの時代には思想としての共産主義が、東欧諸国を衛星国化する大義名分として役だった。今の中国共産党はもはや共産主義を信じていない。党は特権階級の独裁的結社である。貧富の格差は広がり、社会的矛盾は多様化し、深刻化している。
 民衆ももはや共産主義や社会主義を信じていない。彼らが信じているのはお金であり、地位であり、不動産である。


 このような社会の統合原理として、不死鳥のごとく蘇りつつあるのが、「中華思想」であろう。それは少なくとも、明・清以来700年の伝統をもつ。「尖閣問題」で反日デモが噴出するのは、現政府に対する不満があることは事実だが、毛沢東、周恩来、小平というカリスマ的指導者なきあと、膨脹・侵略を正当化するイデオロギーとして「中華思想」が自然復活していることに着目する必要があろう。


 明朝の歴史認識に回帰するなら、両属していた沖縄や国号を明からもらった朝鮮はもとより、足利義満が「国王」に冊封された日本も、中国の領土だということになろう。「日本は中国のものだ
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