【喜寿クラス会】 医学部を卒業して丁度50年になり、1941年生まれの私は丁度喜寿にもなる。あれは「数え年」で計算するからだ。これも上記の「中秋の名月」と同じで、「賀寿」の言い方を探すのに手間取った。「岩波・現代用字辞典」に「年齢の異称」と一緒に載っていた。七十歳までは「従心」(賀寿=古希)という異称があるのに八十歳にはないのは、孔子がそこまで生きられなかったからだと分かった。よって七七歳からは「喜寿」、八十歳「傘寿」、八八歳「米寿」、九十歳「卒寿」、九九歳「白寿」、百歳「上寿」とすべて日本由来となるが。百十歳の賀寿がない理由は推して知るべきだろう。
10/7(土)の夜、卒後50年記念の「医学部クラス会」が広島市のホテルであった。旭川医大にいた隣席の友人が「人間の寿命の限界はいくつか?」と聞くので「経験則では120歳くらいだが、寿命遺伝子の働きなどを考慮した理論値については知らない」と答えた。(ご存知の方がおられたらご教示ください。)
昭和42年卒業の同級生は50人いたが、生存中44人、死亡6人(死亡率12%)。出席が27人、欠席が7人(出席率61%)だった。昔は「医者は早死にする」というのが常識だった。今は、有病者は多いが死亡率が低くなった。もっとも最終的には死亡率100%になるのだが…
あの頃、各学年に2名くらい沖縄からの国費留学生(日本政府の)がいたが、卒業以来クラス会で1度も会ったことがない。他は、北は北海道から南は南九州まで、互いに「一期一会」の思いを抱いて集まってきて一夕の会食歓談を共にした。
手帳を見て「今年はやけにクラス会が多いな?」と思った。中学のクラス会(広島市)、高校のクラス会(東京)、高校同期卒の同期会(広島市)が11月中に予定されている。「そうか喜寿か!」と思ったら納得が行った。
昭和32年田舎の中学卒のクラスは高校進学率50%以下で、多くは「金の卵」として広島市、福山市、関西方面に就職して行った。短大を含めて大学まで進学したのは5%に満たないだろう。今まで中学のクラス会は、三次市とか東広島市という最寄りの小都市を会場にしていたが、今回初めて広島市駅前のホテルになった。
よく考えると、もう実家が亡くなっているか、あっても代替わりしていて、昔のように気軽に泊めてもらうわけにも行かない。交通便利な広島市の方が参加しやすいのだ。こうして高度成長経済のつけ(人口の都市集中・高齢化・過疎化)は、田舎の中学卒のクラスの在り方にまで影響を与えてくる。
「記事転載は事前にご連絡いただきますようお願いいたします」
10/7(土)の夜、卒後50年記念の「医学部クラス会」が広島市のホテルであった。旭川医大にいた隣席の友人が「人間の寿命の限界はいくつか?」と聞くので「経験則では120歳くらいだが、寿命遺伝子の働きなどを考慮した理論値については知らない」と答えた。(ご存知の方がおられたらご教示ください。)
昭和42年卒業の同級生は50人いたが、生存中44人、死亡6人(死亡率12%)。出席が27人、欠席が7人(出席率61%)だった。昔は「医者は早死にする」というのが常識だった。今は、有病者は多いが死亡率が低くなった。もっとも最終的には死亡率100%になるのだが…
あの頃、各学年に2名くらい沖縄からの国費留学生(日本政府の)がいたが、卒業以来クラス会で1度も会ったことがない。他は、北は北海道から南は南九州まで、互いに「一期一会」の思いを抱いて集まってきて一夕の会食歓談を共にした。
手帳を見て「今年はやけにクラス会が多いな?」と思った。中学のクラス会(広島市)、高校のクラス会(東京)、高校同期卒の同期会(広島市)が11月中に予定されている。「そうか喜寿か!」と思ったら納得が行った。
昭和32年田舎の中学卒のクラスは高校進学率50%以下で、多くは「金の卵」として広島市、福山市、関西方面に就職して行った。短大を含めて大学まで進学したのは5%に満たないだろう。今まで中学のクラス会は、三次市とか東広島市という最寄りの小都市を会場にしていたが、今回初めて広島市駅前のホテルになった。
よく考えると、もう実家が亡くなっているか、あっても代替わりしていて、昔のように気軽に泊めてもらうわけにも行かない。交通便利な広島市の方が参加しやすいのだ。こうして高度成長経済のつけ(人口の都市集中・高齢化・過疎化)は、田舎の中学卒のクラスの在り方にまで影響を与えてくる。
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