【明治の新聞】前出の矢田挿雲の懐古ルポ「江戸から東京へ」を読むとなかなか面白いことが書いてある。
明治5年、日本の郵便制度の創設者、前島密が日刊紙「郵便報知新聞」を東京に創設した。この新聞は明治10年の「西南戦争」には、後の首相、犬飼毅記者を戦地に送り「戦地直報」という記事を掲載している。当時は今とちがい実力主義だったとみえて、明治8年、慶応大卒で22歳の藤田茂吉が「編集主幹」に就いている。他にも尾崎行雄、原敬が記者でいたこともある。後にみな政治家になった。
挿雲は「第一期の新聞記者」という文のなかで、藤田の墓が浅草本願寺にあることに触れ、明治10年頃のことを書いている。
「そんな縁故をかつぎだすのは、先方もこちらもエーチァザーに迷惑千万」
このカタカナ語はなんだろう?と思ったら「each other(お互いに)」の転写ミス。昔は、話法の中に適当にドイツ語だの英語だので相手がわからない言葉を入れると、「いや、偉い人だ」と有難味を増すことがあった。
挿雲は早稲田の卒業だから、坪内逍遙の講義は聞いていると思うが、当時の英語は読む英語で、発音はいい加減だった。
当時もう一方の有名新聞は「東京日日」で、地源一郎が主幹だったという。地は「桜痴」が雅号で、「懐旧事談」、「幕末政治家」、「幕府衰亡論」などの著書がある。地は長の生まれで、彼の代に通訳兼翻訳者として旗本となったので、一代限りの幕臣だ。「やせがまん」の説を唱えた福沢諭吉は、かつて地の同僚だった。
そのよしみで福沢は福地に「政府に近づくな」と忠告したが、聞かなかった。福沢とちがい、福地には経営の才能がなく、「東京日日」を政府系の新聞にし、新聞買い上げをしてもらい、さらに補助金をもらうしか手がなかったのである。
その福地桜痴源一郎は、赤字の新聞を官報にしようと画策し、破れて社長を辞任した。明治14年の政変の際、当初、政府批判の論陣を張りながら、途中で節をまげて政府支持にまわったことから、「変節漢」と批判された。
その点、藤田茂吉の「郵便報知」は反政府、自由民権の旗印を鮮明にしていた。藤田は福地の向こうを張って代議士になり、国会で熱弁をふるったが肺結核になり早世した。
「茂吉君の墓を撫して、現代の一陣笠記者たる吾輩がつくづく思うには、人間はお釈迦樣を除き生まれる時にはほとんど甲乙がないが、…死ぬ時において、大変、傑作駄作の別を生じるものである。」
こう挿雲は書いている。
「陣笠」とは兜がかぶれず、陣笠をかぶる雑兵のことで、「陣笠代議士」というのは聞いたことがあるが、「陣笠記者」と卑下する表現は初めて見た。
「第一期の操觚者(そうこしゃ)中でも、なかんずく尊敬すべき霊魂が、この墓の下に眠っている。」と挿雲は一文を締めている。新聞記者の鑑(かがみ)だろう。
「操觚」というのは木簡の別名で、「操觚界」はメディア業界の意、「操觚者」はそれで飯を食っている作家、編集者、記者などをいう。
いまでも評論家などがごくまれに使うことがあるが、ほぼ死語と化した。
明治5年、日本の郵便制度の創設者、前島密が日刊紙「郵便報知新聞」を東京に創設した。この新聞は明治10年の「西南戦争」には、後の首相、犬飼毅記者を戦地に送り「戦地直報」という記事を掲載している。当時は今とちがい実力主義だったとみえて、明治8年、慶応大卒で22歳の藤田茂吉が「編集主幹」に就いている。他にも尾崎行雄、原敬が記者でいたこともある。後にみな政治家になった。
挿雲は「第一期の新聞記者」という文のなかで、藤田の墓が浅草本願寺にあることに触れ、明治10年頃のことを書いている。
「そんな縁故をかつぎだすのは、先方もこちらもエーチァザーに迷惑千万」
このカタカナ語はなんだろう?と思ったら「each other(お互いに)」の転写ミス。昔は、話法の中に適当にドイツ語だの英語だので相手がわからない言葉を入れると、「いや、偉い人だ」と有難味を増すことがあった。
挿雲は早稲田の卒業だから、坪内逍遙の講義は聞いていると思うが、当時の英語は読む英語で、発音はいい加減だった。
当時もう一方の有名新聞は「東京日日」で、地源一郎が主幹だったという。地は「桜痴」が雅号で、「懐旧事談」、「幕末政治家」、「幕府衰亡論」などの著書がある。地は長の生まれで、彼の代に通訳兼翻訳者として旗本となったので、一代限りの幕臣だ。「やせがまん」の説を唱えた福沢諭吉は、かつて地の同僚だった。
そのよしみで福沢は福地に「政府に近づくな」と忠告したが、聞かなかった。福沢とちがい、福地には経営の才能がなく、「東京日日」を政府系の新聞にし、新聞買い上げをしてもらい、さらに補助金をもらうしか手がなかったのである。
その福地桜痴源一郎は、赤字の新聞を官報にしようと画策し、破れて社長を辞任した。明治14年の政変の際、当初、政府批判の論陣を張りながら、途中で節をまげて政府支持にまわったことから、「変節漢」と批判された。
その点、藤田茂吉の「郵便報知」は反政府、自由民権の旗印を鮮明にしていた。藤田は福地の向こうを張って代議士になり、国会で熱弁をふるったが肺結核になり早世した。
「茂吉君の墓を撫して、現代の一陣笠記者たる吾輩がつくづく思うには、人間はお釈迦樣を除き生まれる時にはほとんど甲乙がないが、…死ぬ時において、大変、傑作駄作の別を生じるものである。」
こう挿雲は書いている。
「陣笠」とは兜がかぶれず、陣笠をかぶる雑兵のことで、「陣笠代議士」というのは聞いたことがあるが、「陣笠記者」と卑下する表現は初めて見た。
「第一期の操觚者(そうこしゃ)中でも、なかんずく尊敬すべき霊魂が、この墓の下に眠っている。」と挿雲は一文を締めている。新聞記者の鑑(かがみ)だろう。
「操觚」というのは木簡の別名で、「操觚界」はメディア業界の意、「操觚者」はそれで飯を食っている作家、編集者、記者などをいう。
いまでも評論家などがごくまれに使うことがあるが、ほぼ死語と化した。
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