【全集本】8/23「産経」に「高価豪華・全集、風前の灯火」とい記事が文化欄に載っている。
作家や学者の「個人全集」がさっぱり売れなくなり、昨年の刊行点数は23点と30年前の1/8に激減したという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130708/art13070807380001-n1.htm
私は個人全集というのは、図書館が持っていればよいと思う。個人で持っていても、読むのはごく一部の本だから、金の無駄、スペースの無駄だと思う。
私は漱石も鷗外も個人全集は全く持たない。研究者でないかぎり、そんなものは要らないと思っている。
お世話になったのは改造社の「現代日本文学全集」、いわゆる円本である。
母が買っていたこの全集で、明治以来の小説はあらかた読んでしまったので、高校を終える頃には、もう日本文学には見切りをつけていた。私が日本文学が嫌いなのは、ちまちましていて普遍性がないからだ。例外は大岡昇平か。
川端康成も大江健三郎もどこがよいのかわからない。
ただノンフィクションは違う。桜井忠温「肉弾」、水野正徳「此一戦」は日露戦争を描いた作品だが、軍人による非常に優れた文学だと思う。
最近の「右傾化」でまた広告を見かけるようになった。
個人的に買ったのは、だから中央公論社の「世界の文学」と哲学・思想系の「世界の名著」、それに筑摩書房の「世界ノンフィクション全集」である。あわせると200冊くらいあるから、そうとう場所を取る。それでも到底ぜんぶは読み切れていない。
かつて百科事典と文学全集が、客間の飾りとして買われた時代があった。教養と趣味の高さを誇示するために、揃えられたのだと思う。「教養」という価値観が生きていた1980年代だったろうと思う。80年代の後半はバブルの時代で、その後90年代に入り破裂が来るから、住宅ローンを抱えたサラリーマンには、もうそのゆとりがなかったはずだ。
「個人全集」といっても、その著述家の手紙まで含めた全著作を収録するというのは、もう不可能な作業に近いから、「単行本」にならなかった、雑誌原稿などを集めたものにしかならない。「吉本隆明全集」が全40巻で出るそうだが、かれの全著作は、おそらく40巻ではすまないだろう。しかし、買う読者がどれほどいるかと思う。
「開高健全集」は電子ブックで出るそうだが、そもそも作家の特性というものは、何冊か読めばわかるので、全集を必要とする読者は限られると思う。
それというのも、日本の作家は、生活ためか出版社の圧力のためか、乱作をするからいたずらに本の数が増えるのである。
「全集」は英語でComplete Worksという。英語版の「シェークスピア全集」は、たった1冊に全作品が収まっている。但し大判で辞書のように厚く、2,500頁もある。薄い紙を使用していても、日本の単行本4冊分くらいの厚さがある。これを標準活字の日本語訳でそろえたら、恐らく30冊になるだろう。
「全集」は結構だが、買う方の財布とか保管スペースもことも考えて欲しいと思う。それに電子媒体の利用を積極的に考慮してもらいたいと思う。
映画でも、私はスタンレー・キューブリックと黒澤明のファンだが、キューブリックの全作品は容易にDVDで全部集めたが、黒澤の作品は無理だ。キューブリックは生涯に13本の映画しか作らなかったが、黒澤はその3倍以上作り、かつ駄作も多いからだ。
作家や学者の「個人全集」がさっぱり売れなくなり、昨年の刊行点数は23点と30年前の1/8に激減したという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130708/art13070807380001-n1.htm
私は個人全集というのは、図書館が持っていればよいと思う。個人で持っていても、読むのはごく一部の本だから、金の無駄、スペースの無駄だと思う。
私は漱石も鷗外も個人全集は全く持たない。研究者でないかぎり、そんなものは要らないと思っている。
お世話になったのは改造社の「現代日本文学全集」、いわゆる円本である。
母が買っていたこの全集で、明治以来の小説はあらかた読んでしまったので、高校を終える頃には、もう日本文学には見切りをつけていた。私が日本文学が嫌いなのは、ちまちましていて普遍性がないからだ。例外は大岡昇平か。
川端康成も大江健三郎もどこがよいのかわからない。
ただノンフィクションは違う。桜井忠温「肉弾」、水野正徳「此一戦」は日露戦争を描いた作品だが、軍人による非常に優れた文学だと思う。
最近の「右傾化」でまた広告を見かけるようになった。
個人的に買ったのは、だから中央公論社の「世界の文学」と哲学・思想系の「世界の名著」、それに筑摩書房の「世界ノンフィクション全集」である。あわせると200冊くらいあるから、そうとう場所を取る。それでも到底ぜんぶは読み切れていない。
かつて百科事典と文学全集が、客間の飾りとして買われた時代があった。教養と趣味の高さを誇示するために、揃えられたのだと思う。「教養」という価値観が生きていた1980年代だったろうと思う。80年代の後半はバブルの時代で、その後90年代に入り破裂が来るから、住宅ローンを抱えたサラリーマンには、もうそのゆとりがなかったはずだ。
「個人全集」といっても、その著述家の手紙まで含めた全著作を収録するというのは、もう不可能な作業に近いから、「単行本」にならなかった、雑誌原稿などを集めたものにしかならない。「吉本隆明全集」が全40巻で出るそうだが、かれの全著作は、おそらく40巻ではすまないだろう。しかし、買う読者がどれほどいるかと思う。
「開高健全集」は電子ブックで出るそうだが、そもそも作家の特性というものは、何冊か読めばわかるので、全集を必要とする読者は限られると思う。
それというのも、日本の作家は、生活ためか出版社の圧力のためか、乱作をするからいたずらに本の数が増えるのである。
「全集」は英語でComplete Worksという。英語版の「シェークスピア全集」は、たった1冊に全作品が収まっている。但し大判で辞書のように厚く、2,500頁もある。薄い紙を使用していても、日本の単行本4冊分くらいの厚さがある。これを標準活字の日本語訳でそろえたら、恐らく30冊になるだろう。
「全集」は結構だが、買う方の財布とか保管スペースもことも考えて欲しいと思う。それに電子媒体の利用を積極的に考慮してもらいたいと思う。
映画でも、私はスタンレー・キューブリックと黒澤明のファンだが、キューブリックの全作品は容易にDVDで全部集めたが、黒澤の作品は無理だ。キューブリックは生涯に13本の映画しか作らなかったが、黒澤はその3倍以上作り、かつ駄作も多いからだ。
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