【報道の自由】9/27付NETIB-NEWSが「福島汚染水」問題に対する、日本大手メデイアの報道ぶりを批判している。
<国際的に大きな批判=海外メディアの紙面での論調と、日本の大手メディアの論調にかなりの食い違いが見られるのも今回の汚染水問題の特徴の1つ。海外メディアは、日本のお粗末な対応に対して痛烈だが、日本のメディアは、一部を除き、沈黙している。>
http://www.data-max.co.jp/2013/09/27/post_16455_is_05.html
メディアのうちテレビ局に関しては、本社と下請けの構造が出来上がっており、終身雇用制の本社社員は危険な場所(国内なら福島の汚染地帯、国外なら内戦やテロが多発する国など)には行かず、下請け会社やフリーの記者を使っている。現地で取材中に殺されるのは、たいていフリーの記者だ。
私が察知したかぎり大手新聞社はそこまでは、まだ堕落していないようだ。その代わり、危険を冒してまで福島の事故現場には行きたくないのだろう。
韓国「中央日報」の報道との大きな違いだ。この記者は韓国の日本産8県の水産物輸入禁止措置が妥当かどうかを調べるために、福島第一原発から50Km離れた地点(出発地不明)から1Kmの地点まで、放射能を測定しながら現地の状況を調べている。
http://japanese.joins.com/article/516/176516.html?servcode=A00§code=A00
こういう地道なルポが日本にはない。おかしなことだ。地元漁協は試験的操業を開始するそうだが、誰も買わないだろう。東電と首相官邸に買い上げてもらい、「安全だ」と言っている人たちに食ってもらうがよい。
検閲は日本国憲法が禁じるところだが、この国ではもうずいぶん前から「自己検閲」がまかり通ってきた。始まりは「映倫」による映画の「自己検閲」だ。
政府がこの時期に「秘密保護法」の制定を持ちだしてきたのは、尖閣諸島問題での海保撮影動画の流出とか、福島第一の事故に対する政府の対応のまずさとか、次々と明るみに出る福島汚染水問題とかで、メディアの自由報道を規制し、国民を騙してでもオリンピック・ムードを盛り上げ、景気を浮揚させようという、魂胆であろう。
余談だが、「東京2020」を歓迎する意見は広島にはない。むしろ福島の先行きを心配する意見の方が目立つ。広島の原爆では20万人が死んだが、放射能そのものは爆発後は減衰する一方だった。福島は1基が広島型原発の何十発にも相当する核燃料がメルトスルーを起こした状態で、3つもそのままになり、流れ込む地下水と接触している。いま、そこにある危機を見てみないふりして、オリンピックに心を奪われるというのは、危機に襲われたダチョウが砂に頭を突っ込んで、「見ないことで危機をないことにする」というのと変わりがない。
それが長期政権を目論む安倍政府の方針だろう。
大手メディア首脳部は、この政府の意向を十分に理解した上で、「独占禁止法」の除外品目として、再販価格制の維持と消費税増税の免除を取り引き材料に、政府に批判的な報道を自己検閲しているのではないか。このような「仮説」をおいて眺めると、海外メディアとの報道の質の差がはじめて合理的に説明できるように思われる。
もうひとつ危惧すべき事態がある。NHK・TVなどが好んで登用する「専門家」なるものは、多くは大学教授の肩書きをもっているが、その本態は元官僚、元政治家である。
昔、大学の数は少なく、教員の質についても厳しい選考があった。文部省に「大学設置審議会」という審査期間があり、安易な大学設置を認めていなかったからだ。
いわば、大学に関しても護送船団方式があり、これが大学教員の質と教育のレベルを補償していた。
行政改革により文科省ができ、国立大学が「独立行政法人」に移行し、予算の削減、人件費の削減が行われ外部資金の導入に依拠せざるを得なくなり、職員の志気は確実に低下した。他方、私立大学設置はほぼ自由化され、その学生定員総数は入学志願者総数を上まわるようになった。このため各大学は生き残りをかけて、有名な人物を学問的な業績と関係なく、教授として採用するようになった。元官僚や元政治家の持つ人脈やコネクションも大学経営者にとっては大きな魅力であろう。
他方、これらの「元」権力者にとっても、「大学教授」という肩書は魅力である。給料はたかが知れていても、メディアに露出するチャンスが増え、書き殴ったつまらない本でも売れるようになる。
きちんとした大学には、地道な研究を重ね、それぞれの問題について深い識見を持ち、適切な意見を述べることができる研究者がいる。
しかし、そうした人の意見をメディアが取り上げることはまずない。「専門家」と称する人たちの当たり障りのない愚論を国民は聞かされ、読まされている。
今の日本の危機的状況は、こうして2点にまとめられるだろう。
第一は、メディアの危機である。
第二は、「お座敷芸者」と化した一部の「専門家」教授による、大学の危機である。
<国際的に大きな批判=海外メディアの紙面での論調と、日本の大手メディアの論調にかなりの食い違いが見られるのも今回の汚染水問題の特徴の1つ。海外メディアは、日本のお粗末な対応に対して痛烈だが、日本のメディアは、一部を除き、沈黙している。>
http://www.data-max.co.jp/2013/09/27/post_16455_is_05.html
メディアのうちテレビ局に関しては、本社と下請けの構造が出来上がっており、終身雇用制の本社社員は危険な場所(国内なら福島の汚染地帯、国外なら内戦やテロが多発する国など)には行かず、下請け会社やフリーの記者を使っている。現地で取材中に殺されるのは、たいていフリーの記者だ。
私が察知したかぎり大手新聞社はそこまでは、まだ堕落していないようだ。その代わり、危険を冒してまで福島の事故現場には行きたくないのだろう。
韓国「中央日報」の報道との大きな違いだ。この記者は韓国の日本産8県の水産物輸入禁止措置が妥当かどうかを調べるために、福島第一原発から50Km離れた地点(出発地不明)から1Kmの地点まで、放射能を測定しながら現地の状況を調べている。
http://japanese.joins.com/article/516/176516.html?servcode=A00§code=A00
こういう地道なルポが日本にはない。おかしなことだ。地元漁協は試験的操業を開始するそうだが、誰も買わないだろう。東電と首相官邸に買い上げてもらい、「安全だ」と言っている人たちに食ってもらうがよい。
検閲は日本国憲法が禁じるところだが、この国ではもうずいぶん前から「自己検閲」がまかり通ってきた。始まりは「映倫」による映画の「自己検閲」だ。
政府がこの時期に「秘密保護法」の制定を持ちだしてきたのは、尖閣諸島問題での海保撮影動画の流出とか、福島第一の事故に対する政府の対応のまずさとか、次々と明るみに出る福島汚染水問題とかで、メディアの自由報道を規制し、国民を騙してでもオリンピック・ムードを盛り上げ、景気を浮揚させようという、魂胆であろう。
余談だが、「東京2020」を歓迎する意見は広島にはない。むしろ福島の先行きを心配する意見の方が目立つ。広島の原爆では20万人が死んだが、放射能そのものは爆発後は減衰する一方だった。福島は1基が広島型原発の何十発にも相当する核燃料がメルトスルーを起こした状態で、3つもそのままになり、流れ込む地下水と接触している。いま、そこにある危機を見てみないふりして、オリンピックに心を奪われるというのは、危機に襲われたダチョウが砂に頭を突っ込んで、「見ないことで危機をないことにする」というのと変わりがない。
それが長期政権を目論む安倍政府の方針だろう。
大手メディア首脳部は、この政府の意向を十分に理解した上で、「独占禁止法」の除外品目として、再販価格制の維持と消費税増税の免除を取り引き材料に、政府に批判的な報道を自己検閲しているのではないか。このような「仮説」をおいて眺めると、海外メディアとの報道の質の差がはじめて合理的に説明できるように思われる。
もうひとつ危惧すべき事態がある。NHK・TVなどが好んで登用する「専門家」なるものは、多くは大学教授の肩書きをもっているが、その本態は元官僚、元政治家である。
昔、大学の数は少なく、教員の質についても厳しい選考があった。文部省に「大学設置審議会」という審査期間があり、安易な大学設置を認めていなかったからだ。
いわば、大学に関しても護送船団方式があり、これが大学教員の質と教育のレベルを補償していた。
行政改革により文科省ができ、国立大学が「独立行政法人」に移行し、予算の削減、人件費の削減が行われ外部資金の導入に依拠せざるを得なくなり、職員の志気は確実に低下した。他方、私立大学設置はほぼ自由化され、その学生定員総数は入学志願者総数を上まわるようになった。このため各大学は生き残りをかけて、有名な人物を学問的な業績と関係なく、教授として採用するようになった。元官僚や元政治家の持つ人脈やコネクションも大学経営者にとっては大きな魅力であろう。
他方、これらの「元」権力者にとっても、「大学教授」という肩書は魅力である。給料はたかが知れていても、メディアに露出するチャンスが増え、書き殴ったつまらない本でも売れるようになる。
きちんとした大学には、地道な研究を重ね、それぞれの問題について深い識見を持ち、適切な意見を述べることができる研究者がいる。
しかし、そうした人の意見をメディアが取り上げることはまずない。「専門家」と称する人たちの当たり障りのない愚論を国民は聞かされ、読まされている。
今の日本の危機的状況は、こうして2点にまとめられるだろう。
第一は、メディアの危機である。
第二は、「お座敷芸者」と化した一部の「専門家」教授による、大学の危機である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます