ジョンの兄ウイリアムは、1750年頃のロンドンで医学生や臨床経験の少ない若い医師を対象に解剖学の塾を開いていたことは書いた。ウイリアムは、昼間は外科と産科の医師として一般の診療を行いながら、夜に人体解剖の教室を開いていた。当時、現代にあるような人体の構造を具体的かつ詳細に記載した解剖学の教科書はなかった。そのため、真剣に医学を志した若者たちにとって、ウイリアムの塾は非常に有難い存在であった。問題は教材であった。
ウイリアムは、当時の解剖学の教科書が医学教育にあまり役に立たない代物であったため、講義や実習には別の教材を用いた。それは、人体そのもの、すなわち人の死体であった。当時の英国では、処刑された罪人の死体の一部が医学教育に限り提供されていた。英国のその頃の処刑、それは通常絞首刑であったが、公開の場で行われており、処刑された罪人の死体は、希望者にその場で引き渡されていた。ただし、その希望先はあまりにも多かった。医学校や大病院、外科医組合など公の団体だけでなく、実践的な教育したい教師や自らの腕を磨きたい医師なども加わって、処刑直後には激しい死体の奪いが行われた。
絞首刑になった死体は、解剖学の理想的な教材であった。それらは、言わば突然死と同じ状態であり、病死の場合と異なって体内の臓器は健康な状態なのである。ウイリアムは、処刑場での“死体受け取り”という奪い合いをジョンに任せた。ジョンは大柄な男ではなかったが、貧しい農家に生まれ、幼いころからの農作業に駆り出されたため、腕っ節はすこぶる強く、死体の奪いで決して負けなかった。が、需要に比べて“この教材”の供出はあまりにも少なかった。
そこで、ウイリアムはジョンに、多数の“教材”を確保できる別の方法を命じた。それは死体が集まる場所、すなわち、墓場から埋葬された直後の死体を“教材”として調達することであった。
当時、ロンドンには職や食を求めて英国中から人が集まってきた。ロンドンには上流階級や一般庶民のほか、貧民も多数居住していた。貧しい人々は今日の食を得るのがやっとで、病気になっても怪我をして治療を受けることは殆どできなかったが、聖ジョージ病院や聖トマス病院など一部の病院では、教会や一部の上流階級の人々の援助を受けて貧しい人々の診療も行っていた。ただ、ここに来る患者は重病か、重傷の患者であり、病院に来た時にはすでに手遅れで、大半は病院での治療は殆ど受けずに死亡し、そのまま病院所有の墓場に埋葬されることが多かった。ジョンは、この埋葬される人々に目を付けたのである。
ジョンは、病院の関係者に幾ばくかの金品を渡して情報をもらい、埋葬された当日の深夜にその埋葬場所に出かけて“教材”を持ち帰っていたのである。この当時の英国では、墓場から埋葬された棺、衣類、装飾品など物品を盗むことは犯罪であり、盗掘者は法の裁きを受けたが、死体自体の盗みについては犯罪とも言えなかった。それを裁く法律がなかったのである。
最初、ジョンは、ウイリアムの教室にくる医学生たちと墓場からの死体泥棒を行っていたが、本業であるウイリアムの助手の仕事もあって効率が悪かった。そこで、ジョンは裏社会の人間たちにさせることを思いついた。
ウイリアムの解剖教室があったコヴェント・ガーデンはロンドンの歓楽街で最も治安の悪い場所の一つであった。ジョンは、ウイリアムからの休みをもらった時にはコヴェント・ガーデンの場末の酒場で過ごすのが好きであった。当然、酒場では裏社会の人間との“友人関係”もできた。ジョンは自分のプランの実行部隊としてその“友人たち”を使った。ジョンは、友人たちに墓場での死体泥棒の技術を訓練し、彼らを使って毎年数百体の“教材”を確保した。学生一人ずつに多数の教材を提供できる“医学の高等教育機関”としてウイリアムの教室の名は、裏社会での噂は別として、ロンドン中で評判になり、医学生のみならず科学を学びたい人間も加わって入学希望者が押し寄せ、その結果、非常に高い収益を上げた。因みに、この時期の受講者の中には後に経済学者として世界史に名を残したアダム・スミスがいる。