獣医師インディ・ヤスの冒険!

家畜伝染病と格闘する獣医師インディ・ヤスさんのブログです。インディ・ヤスさんはロシア・東欧のオタクでもあります。

宮崎県で口蹄疫の発生が疑われる農場がさらに2農場現れる。

2010-04-22 00:50:26 | 仕事

農水省の消費安全局の4月21日付けプレスリリースによると、宮崎県では昨日発表された農場の他に口蹄疫の発生が疑われるさらに2農場が現れた。2例目は、1例目の農場の南東約3kmのところに位置する農場、3例目は2例目より400m離れた農場である。共に児湯郡川南町である。宮崎県は2例目、3例目の農場に対して、1例目の農場と同様、感染の拡大防止のため全頭の殺処分を行うとのことである。

ところで、1例目は繁殖牛農家(繁殖牛9頭,育成牛3頭,仔牛4頭の計16頭)であったが、2例目は酪農・肉用牛の複合経営農場(搾乳牛26頭、乳牛育成牛7頭、交雑種(F1)肥育牛14頭の計65頭)、3例目は肉用牛肥育農場(和牛83頭、交雑種(F135頭の計118頭)である。1~3例のいずれも経営内容や規模が異なっている。これら3農場の疫学的な接点は何であろうか。その究明ができれば感染経路が解明できるかもしれない。


宮崎県で口蹄疫発生か?

2010-04-21 00:08:42 | 仕事

  本日の仕事中、とんでもない情報が飛び込んできた。“宮崎県で口蹄疫が発生したらしい!”早速、農水省のホームページにアクセスし、消費安全局のプレスリリースを調べた。あった、確かにあった。標題は、「口蹄疫の疑似患畜の確認及び口蹄疫防疫対策本部の設置について」であった。

そのプレスリリースを読むと、「本日(4/20)未明、宮崎県の農場の飼養牛について、動物衛生研究所で口蹄疫に関するPCR検査(遺伝子検査)を行ったところ、陽性が確認されました。この陽性が確認された牛については、専門家の意見を聞き、家畜伝染病予防法に基づく殺処分等の防疫措置の対象となる口蹄疫の疑似患畜と判断しました。」とある。採取された材料のPCRは陽性、しかし、口蹄疫ウイルスが未だ分離されていないので、疑似患畜ということである。

次に、インターネットのニュースを調べた。それによると、発生は宮崎県児湯郡都農町の農家で、今月9日、獣医師が口腔に潰瘍を起こした牛がいることを家畜保健衛生所に連絡、家畜保健衛生所は直ちに調査に入った。その潰瘍が見られたのは1頭のみだったことから、一旦経過観察で様子をみていたが、同様の症状を示した牛が3頭に増えた。家畜保健衛生所は、それらの牛の口腔ぬぐい液を採取してつくば市の動物衛生研究所に送付、同研究所のPCR検査では陽性となった。

その結果を受けて、農水省は口蹄疫の疑似患畜と指定し、感染拡大防止のため対策本部を設置し、牛肉の輸出を自主的に一時停止する措置を実施した

また、宮崎県は、この農家が飼育中の牛16頭をすべて処分し、農場から半径10キロ以内にいる家畜の移動と、半径20キロから外への家畜搬出を制限した。半径10キロと20キロにある計4カ所で域内を出入りする車両の消毒も始め、家畜市場1カ所を閉鎖した。

 さて、今後、どう展開して行くか、家畜の伝染病に携わる獣医師として注視して行きたい。


カティンの森の悲劇が再発!

2010-04-12 00:28:50 | 国際・政治

  先々週末から先週の始めにかけて休暇を取ってヴィクトリアとサーシャに会いに行って来た。1か月以上前に上司の了解は取っていたものの、いざ休暇を申請すると、年度移行の不安定の時期でもあり渋い顔をされた。実は、当初、ゴールデンウイークを利用することにしていたが、航空券の手配が遅れたため予約が取れず、また、4月、5月の他の週末では、仕事の関係で遠方に出かけることが無理だった。強行軍ではあったが、ヴィクトリアとサーシャに会えて良かった。ただ、この話は別の機会に回すことにする。

 今日の新聞(読売尾新聞英字版)にポーランドの政府専用機ツポレフ154型機がロシアのスモレンスク郊外で墜落、カチンスキ大統領を含む乗客乗員全員死亡との記事があった。その記事によると、この飛行機にはカチンスキ大統領らポーランド政府関係者、ガゴール将軍らポーランド軍首脳、シュクルジペック中央銀行総裁など計88人と乗員8人の合計96人が搭乗していたとある。ポーランド国民にとって大変な悲劇であり、ポーランド政府にとっても大変な損失である。彼らは、カティンの森事件の70年目の追悼式典に参加するため、スモレンスクに訪れたそうだ。

 ナチスドイツとソ連は、1939年、独ソ不可侵条約を結んだ。その条約の発表された内容では両国が互いにいかなる侵略行為は行わない、というものであった。しかし、その中にポーランドをナチスドイツとソ連で分割して占領するというとんでもない密約が含まれていた。本条約が結ばれた後、ソ連赤軍はバルト3国とポーランド東部に侵入、直ちに各国の軍将校を連行してソ連に連れ去った。ポーランドでは、二十数万人の軍や警察の関係者が連行され、その多くがソ連秘密警察により殺害されたという。

 スモレンスク郊外でも数千人のポーランド軍将校が銃殺され埋められた。1943年2月、この地を占領していたナチスドイツは、スモレンスク郊外のカティンの森の近くで夥しい数、少なくとも6,000人以上のポーランド軍将校の死体が埋められていることを発見し、ソ連による仕業として世界に伝えた。この情報は、当時、第二次大戦中であったことからアメリカやイギリスなど連合国からは無視されたが、戦後、それが事実であったことが確認された。ただ、ソ連は戦中戦後を通して一貫してその関与を否定し、その犯人はナチスドイツと言い続けた。

1985年、ソ連にゴルバチョフ政権が現れ、彼の提唱したペレストロイカとグラスノスチにより歴史の見直しが行われた。そして、1990年になりソ連はようやくこの事件がソ連秘密警察によって行われたことを認め、ポーランドに謝罪した。以上の経緯は、ロシア・東欧のマニアであれば誰だって知っていることであるが。

今回の飛行機墜落でポーランドはまたしても多くの犠牲者を出した。政府、中央銀行、軍など国の根幹部に関わる多くの人材を一度に失ったのである。しかも、この悲劇は、カティンの森事件の追悼式典に参加するために起こったという信じられないほどの強い因果関係である。これは、正に“第二のカティンの森事件”と呼ぶべきであろう。