聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

牽牛子塚古墳と益田岩船

2022年12月13日 | 日本書紀の謎


飛鳥にある牽牛子塚古墳が綺麗に復元整備されました。この時代の大王家(天皇家ではない)の陵墓に特徴的な八角墳に造り変えられました。
写真のように、八角形を三段重ねた古墳が復元されています。

この古墳は、墳丘が多角形(八角形)で、「あさがお」の花びらに似ていたため「あさがお塚」とも呼ばれていたそうです。

埋葬施設の構造も知られています。二上山の凝灰岩の巨石をくりぬいて二室を作り出しています。横口式石槨をもつ合葬用の古墳として知られていました。

このことからこの古墳は、日本書紀の記述により、合葬され埋葬された真の斉明天皇陵として有力視されています。

この八角墳に関して、私には大きな疑問があります。
牽牛子塚古墳は、二上山の凝灰岩が墳丘の石組みとして使用されていて、今回復元されたように、築造当初は真っ白な墳墓だったと考えられています。
外観を白い石で覆うなんて、ピラミッド見たいですよね。

それで疑問というのはこの外観を覆っていた、凝灰岩は何故になくなっていたのでしょうか?復元する前は外観を覆っていた石は見当たりません?
長い年月を経て崩れてしまうのだろうと想像できますが、崩れて周辺に落ちていた石は誰かが持って行ったのかな?

凝灰岩は、火山灰が固まったもので、やわらかく加工しやすいために使用されているのでしょうが、千年以上たつと風化してなくなるのかな?

どうなのだろうか?私は意図的に壊わされ、覆われた石が撤去された八角墳があると考えています。
現在において覆われている石がなくなっている。元八角墳とされる大王家の古墳は、意図的に取り除かれて形状を変更した墳墓があると考えています。

それは大王ではなかったと改竄した人物が、この時代の大王家の墳墓である八角墳に埋葬されているのは都合が悪いからです。
これら八角墳の被葬者は、秦氏、藤原氏と対立していた大王たちが多い。

八角墳墓は終末期(7世紀半ば)に造られた正八角形の古墳とされますが、そうではない。8世紀の初め、長屋大王の時代に造り始められた大王家の墳墓です。
長屋大王の統治期間は、即位年の701年から729年である。

墳墓の規模などを制限した薄葬令は、「大化の薄葬令」ともいわれます。しかし、この薄葬令は701年の大宝律令制定時に正式に決められたものであり、八角墳はこの時に定められた墓制であるように推測しています。「大宝の薄葬令」ということです。


この牽牛子塚古墳の造られた年代を想定する有力な手掛かりは、横口式石槨らしいのです。
この横口式石槨からの推測においても、日本書紀の記述にある7世紀半ばころより後の、7世紀後半から8世紀初めに造られた古墳であることが想定されています。




今回はこの時代の大王家の陵墓である八角墳の牽牛子塚古墳と益田岩船についてです。

大型の古墳の周囲には、関係者のお墓とおもわれる陪塚があります。大型古墳ではなくても、親族など近縁者のお墓は隣接して造るように思います。

飛鳥の地、天武持統陵南部、「飛鳥の聖なるライン」ともいわれ、天武天皇の関係者だろうとされるの古墳があります。変更されているだろうと思われる系譜から、これらの古墳の被葬者を推理してみます。


この時代は戦乱の時代でした。
ウイッキペディア・・・飛鳥時代
狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間。
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蘇我氏が権力を握り本地である飛鳥が中心地となりました。しかしその後の孝徳大王や天武大王の時代も都となりました。

聖徳太子こと、押坂彦人大兄皇子が大王に即位した、593年(法興元年)から、天武大王が造り始め高市大王の時代に完成した「香具山京」に遷都した、おそらく天武大王没後の、686年頃まです。

ただし、押坂彦人大王の宮である「水派の宮」は、飛鳥の地にはありませんでした。孝徳大王も難波に都を移しています。


何度も何度も記述しているところですが、・・・改竄された歴史書を基に藤原氏の主張通りになっているのが気に入らない。
だから正しい名に変更されるまで何度も書いてやる。

藤原宮、藤原京は、その名どおり、藤原氏が主張する都の名称です。
藤原宮というのは、藤原不比等の邸宅です。
本来の宮の名は、高市大王の「香具山宮」です。

奈良の都も同様です。奈良宮です。平城宮は藤原氏が主張する宮の名です。

奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などとも表記されているとされますが、「平城」だけは「なら」とは読めません。
平城の地が都にふさわしいと記述されているのは続日本紀においての記述です。続日本紀は藤原氏が権力を握った時代の書物であり、藤原氏の主張に他ならない。
長屋王家とされる場所から出土の木簡においては、長屋王の邸宅を「奈良宮」と呼称した木簡が発見されています。本来の大王は高市大王の王子であるこの長屋大王であり、宮の名は「奈良宮」あり、都の名称はもちろん「奈良京」です。
長屋大王や弟の鈴鹿大王没後に、この奈良宮を壊し、隣に建設されたののがこの藤原氏の宮である「平城宮」です。

現在再現されているのは、この渡来人の宮である「平城宮」です。王座を簒奪した渡来人の主張が通り、とんでもないことになっている。
今に残る記紀は渡来人秦氏の王である、桓武天皇の時に改竄された偽書です。
新たに発見された木簡からの記述による矛盾から、記紀の記述の信ぴょう性が問われています。

現存する最古の日本書紀はこの桓武天皇の時代のものです。




牽牛子塚古墳と益田岩船は飛鳥の地にあります。
飛鳥を訪れた人は、どうしてこの場所が古代の都となったのか?という感想を持つと思います。
たしか「ブラタモリ」、タモリさんも同様の感想を述べられたいました。
奈良盆地の南部、東西が山に囲まれ、狭い地域です。
どうして開かれた北部の盆地に都を造らなかったのか?

この飛鳥の地は蘇我氏の本地でありました。ですので蘇我氏が権力を握ったためこの地が中心になりました。
しかし問題は蘇我氏没落後です。斉明天皇、孝徳大王の時代にも、ここ飛鳥が都になりました。これは大王家と渡来人勢力の対立からです。

この飛鳥の地に都が造られたのは、東西が山に囲まれ、北部の渡来人勢力の脅威から防御しやすい地形にあったからです。渡来人勢力の本地は奈良盆地北部の山城、近江です。

この孝徳大王の時代に、激しく渡来人勢力との争いがありました。
朝鮮半島の動乱に、唐という巨大な国家が関わることになり、倭国にも大きな影響を及ぼすことになりました。この時代は戦乱の時代です。
孝徳政権は、唐と手を結ぶ方針だったのです。強大な唐と敵対する判断をするはずはない。倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。
唐が新羅側についたことにより、百済を助けることが出来なかったのです。

これに反対したのが、百済からの亡命渡来人勢力や、元はは百済からの渡来人であり、この時代には大きな勢力に拡大していた秦氏です。
亡命百済人(偽物中臣鎌足、後の藤原鎌足)が頼ったのが、この秦氏であり、中大兄は秦氏の皇子です。天智と天武は兄弟ではありません。
日本書紀、天智は「中大兄」と表現されています。何故か「中大兄皇子」ではないのです。これ実際には、大王家の王子じゃなかったからかな?日本書紀の天智天皇条は、天智系天皇である桓武天皇時に付け加えられたものである。天智天皇は本来の大王ではありません。

天智系天皇である桓武天皇も秦氏の王です。王位を簒奪した桓武天皇は自身の正統性を主張するため系譜を変更する必要があったのです。

亡命百済人勢力に、秦氏が加勢することになり、大王家の方針と対立することになりました。
飛鳥を都としたとされる皇極天皇は、土木工事が好きで、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄されたとされます。
しかし皇極天皇は天皇ですが本来の王ではありません。土木工事を行ったのは本来の大王である孝徳大王です。
北方の渡来人勢力との戦争に備え、石垣や溝を造ったのです。
孝徳大王は、この渡来人との戦乱に備え、飛鳥京を守るために大規模な土木工事を行い、飛鳥京の防御を固めました。


この孝徳大王や、後の天武大王が、奈良盆地の中央部ではなく、南に位置する飛鳥の地を都としたのは、複数の丘陵に囲まれ、特に北からの攻撃に対して防御しやすい地形だったからです。そう、敵(秦氏、藤原氏)の本拠地は山城の地です。北部の盆地に進出することが出来たのは壬申の乱以降です。

この時期の戦乱が古墳造成にも影響していると思われます。飛鳥の地は渡来人勢力に奪われていたのです。ですので没後に相応しい古墳に造りなおされていると推測しています。巨大な前方後円墳が造られなくなった理由でもあります。
飛鳥の地を手にしたのは、白村江の戦に敗北し渡来人勢力が弱体化した天武の時代、壬申の乱以降である。

孝徳大王も難波に都を移しています。益田岩船に関してはこの孝徳大王時代に激しく渡来人勢力と争ったことが関係しているように思います。
大きな前方後円墳を造らなくなったのは、この戦乱が大きく影響している。

これらの古墳は渡来人勢力との争いが落ち着いた時代に造られたものです。
渡来人勢力との争いであった壬申の乱以降から、長屋王の時代の初期、8世紀初めに造られた古墳です。

以前に書きましたが、牽牛子塚古墳は姉の斉明天皇のお墓です。
そしてこの益田岩船の地には飛鳥を都とした弟の孝徳大王が、自身のお墓を造ろとしていたのではないのかな?
北部の盆地、そして飛鳥の地を見下ろす丘陵にあり、お墓を造るのには非常にいい場所のように思います。

これらの古墳牽牛子塚古墳などの八角墳墓を造ろうとしたのは、長屋大王ではないのかな?

牽牛子塚古墳は斉明天皇と建皇子の合葬墳墓です。
そして益田岩船は、・・・・?わかりません。
これは推測するしかないのですが、ここに弟である孝徳大王のお墓を築こうとしていたのではないのか?・・・と思うのですが?




まず牽牛子塚古墳から・・・

この牽牛子塚古墳の内部は巨大な凝灰石をくりぬいて、左右2室になった石室を作り出しています。その構造から合葬古墳とされます。築造時より、合葬することが計画されていた古墳です。
また大王家の墳墓である八角墳であるということがわかりました。

日本書紀の記述から、斉明天皇(皇極天皇)と娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)の合葬墓とされます。
しかしこの日本書紀の記述が信用できない。

斉明天皇とその娘(間人皇女)が眠っている?この説が有力とされますが、間違っているように思う。それは、孝徳大王の王后は、この天智天皇の妹とされる間人皇女ではないからです。


何度も参照しているところですが・・・この大安寺伽藍縁起并流記資材帳の記述により、日本書紀の改竄箇所は暴けます。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」との記述があるそうです。

日本書紀、孝徳条
是月、始造丈六繡像・侠侍・八部等卌六像。

本文と合致する繡仏等36像が、天平19年大安寺資材帳に記録。

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大安寺伽藍縁起并流記資材帳に、白雉元年(650年)に難波宮にいた袁智天皇との表記があります。難波宮は孝徳大王の宮であり、そこにいた袁智天皇とは、王后(皇后)の遠智娘のことです。持統天皇の母親である遠智娘のことです。
持統天皇は孝徳大王の娘です。渡来人である天智の娘ではありません。

この遠智娘は、蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿の従兄弟)の娘とされますが、そうではなく、孝徳大王の時に左大臣だった阿倍内麻呂の娘です。阿倍遠智娘です。
記紀には「袁智天皇」なんて名の天皇はいません。「大王」と「天皇」はことなるということが理解できていないことも謎となっている理由です。

天智系天皇である桓武天皇時の、系譜の改竄箇所である。
孝徳大王の王后(皇后)は、天智天皇の同母妹の間人皇女ではなく、阿倍内麻呂の娘である、阿部遠智娘。袁智天皇です。

もとは「天皇」は蘇我の王の呼称でした。実際の初代天皇は推古天皇です。蘇我氏本宗家が没落後も、この「天皇」の呼称は使用されました。初代が女帝であったため、後に女帝、王后の呼称になったのです。
推古天皇から称徳天皇までです。

推古天皇ー遠智天皇ー斉明天皇ー額田天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー吉備天皇ー称徳天皇

何度も記述しているところですが・・・
持統天皇は孝徳大王の娘です。阿部氏の系譜が変更されています。

孝徳大王の皇后は、天智天皇の同母妹の間人皇女とされますが、事実ではないということです。この大安寺伽藍縁起并流記資材帳の文章が証拠です。
この女性、間人皇女はおそらく架空の人物です。秦氏、藤原氏と対立していた阿部氏の女性を消し去る人物です。

孝徳大王の王后(皇后)は、この「袁智天皇」こと阿部遠智娘のことです。持統天皇の母親です。
日本書紀の記述は真実ではない。



ウイッキペディア牽牛子塚古墳・・・
飛鳥地方の横口式石槨墳については、益田岩船(橿原市白橿町)や鬼の爼・鬼の雪隠(明日香村野口・同平田)の遺構が知られ、前者は本古墳と同じく刳り抜き式の横口式石槨、後二者は床石と蓋石が別々に構成されるタイプの石槨と考えられる
石槨の幅は5メートル、奥行き3.5メートル、高さ2.5メートルの規模を有し、石槨内は中央部に幅44.7センチメートル、長さ152.5センチメートルの仕切り壁によって東西2つの空間に仕切られた合葬墳であることが判明した。
  
以前より知られていた夾紵棺や臼歯の存在、また『日本書紀』における斉明天皇・間人皇女合葬の記述とあわせて、本古墳が斉明天皇陵である可能性はさらに高まった。

新発見の越塚御門古墳は、斉明陵墓の前に孫の大田皇女を葬ったという『日本書紀』の記載より、大田皇女の墓である可能性が高い
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上記しましたが、この間人皇女というのは、孝徳大王の皇后ではありません。架空の女性の可能性があります。ですのでこの日本書紀の記述は事実ではありません。

系譜を変更したため、斉明天皇と間人皇女との合葬墓とする必要があったのです。

牽牛子塚古墳は斉明天皇と建王子との合葬墳墓です。長屋大王によって造られた8世紀初めの古墳です。越塚御門古墳は、記述どおり孫の大田皇女です。斉明天皇の遺言に従って建設された建王子との合葬墳墓です。


日本書記 天智天皇条・・・
六年春二月壬辰朔戊午、合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女於小市岡上陵、是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。
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この記述は真実ではない。天智6年(667年)斉明天皇と娘の間人皇女を小市岡上陵に合葬したとされます。すると八角墳墓である牽牛子塚古墳7世紀半ばころに造られた古墳ということになります。
ですが、そんなはずない。八角墳墓は8世紀初めに造られた墳墓であり形状である。

この日本書紀の記述は真実ではない。もともと本来の日本書紀には渡来人の王である天智天皇条なんてありません。桓武天皇時に改竄された記事である。
天智の妹であり孝徳大王の皇后とされるこの間人皇女という女性は架空の人物です。

この天智天皇の妹とされる間人皇女は、孝徳天皇の皇后とされますがそうではない。孝徳大王の王后は、持統天皇や建皇子の母親である阿部遠智娘、「袁智天皇」です。斉明天皇と合葬されていたのはこの袁智天皇です。

牽牛子塚古墳は斉明天皇と建皇子のお墓であり、隣に新たに発見された越塚御門古墳が大田皇女のお墓です。
そしてこの八角墳墓の牽牛子塚古墳は8世紀に初めに、長屋大王によって造られたお墓です。

「古代の悲劇 有間皇子、建皇子暗殺の謎」のところで記述しています・・・
牽牛子塚古墳は、斉明天皇の遺言により、甥(弟の孝徳大王の王子)の建皇子との合葬墓です。建皇子は話すことが不自由であったとされ特に斉明天皇は可愛がったとされます。
建皇子の遺骨は紀南の地からこの牽牛子塚古墳に移葬されている。
大宝元年(701年)は長屋王が大王に即位した年であり、紀伊国に行幸したのはこの長屋大王です。文武天皇は王ではありません。

紀南にある道成寺は大宝元年の創建です。長屋大王がこの地で渡来人との戦乱により亡くなった有間皇子などの人々の菩提を弔うために創建したお寺です。

この紀南行幸時に、戦死した紀南の地に埋葬されていた有間皇子や建王子を飛鳥の地に改葬している。
改装されたのは、長屋大王による紀南行幸(701年)の後である。牽牛子塚古墳は、8世紀初めにに造られた古墳である。

大宝元年(701年)から崩御したした729年までが、長屋王の大王としての在位期間です。

古事記は712年、日本書紀は720年に編纂されました。この時代、大王として統治していたのは長屋大王です。
古事記・日本書紀は長屋王が編纂した歴史書です。大宝律令も、この長屋王が制定した律令です。長屋王家から出土した木簡から、長屋王は大王だったことは明らかです。
この長屋大王と対立していた藤原氏はこれらの事跡を変更している。
現存する記紀は桓武天皇時に、秦氏、藤原氏にとって都合の悪い箇所を変更した偽書である。




藤並神社 泣沢女(なきさわめ)の古墳御由来  有田郡有田川町天満722番地.
斉明天皇(女帝)4年5月、御孫建皇子が8歳にて薨去せられ、大和の今来谷の山上に葬り奉つたが、天皇は皇子の御事が忘れられず、果ては御健康を害われ給う御様子なので、有間皇子のお勧めにより、同年秋牟漏温泉へ御湯治の際、那耆野に御駐輦遊ばされ、この地は大和の今来谷に似ていると仰せられて、その名に因んで今城ヶ丘と名付けられ、建皇子の御遺骨を納め給うた墳墓であると伝えられている。       
境内東隣の青蓮寺はもと今城寺と称せられ、斉明天皇の勅願寺で、皇子の菩提御祈願のため建立
                        和歌山県神社庁

万葉集・・・
山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の内は 忘らゆましじ

水門の 潮のくだり 海くだり 後も暗に 置きてか行かむ

愛しき 吾が若き子を 置きてか行かむ

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建王子はこの紀南の地で殺害され、この古墳に埋葬されていたのです。飛鳥の都が渡来人勢力との争いで危険な状態であったため、孝徳大王はこの紀南の地に子供たちを避難させていたのです。しかしこの地でも争いが起き殺害されたのです。孝徳大王の王子であるこの建王子もまた有間皇子とともに次期王位継承者の一人です。
この伝説、由緒は変更されています。話は逆です。斉明天皇の遺言どおり、長屋大王によりこの紀南の地(泣沢女古墳)から飛鳥(牽牛子塚古墳)に移葬されたのです

系譜改竄箇所です。
阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良皇、建皇子

上記の歌は、斉明天皇が殺害された紀南の地に埋葬されていた、建王子が眠る泣沢女古墳を訪れた時に詠んだ歌です。
後に長屋大王により、牽牛子塚古墳が造られ、建皇子の遺骸は飛鳥に移され、遺言通り斉明天皇と合葬されたのです。これが、牽牛子塚古墳です。

斉明天皇陵は越智崗上陵とされています。この古墳は改葬する前、最初に埋葬されていた古墳です。
この古墳は持統天皇の母親であり、孝徳大王皇后である袁智天皇こと遠智娘と斉明天皇の合葬墳墓です。
「天皇」は皇后の呼称でもあるわけです。
越智崗上陵に斉明天皇と合葬されていたのは、弟の孝徳大王の王后である遠智娘です。斉明天皇の最初のお墓こそこの越智崗上陵です。

越智崗上陵は、元は斉明天皇と袁智天皇との合葬墳であり、後に斉明天皇の遺言(建王子との合葬)に沿って、牽牛子塚古墳が造られ、斉明天皇だけこの牽牛子塚古墳に建王子とともに改葬されたのです。

ですので越智崗上陵は袁智天皇だけのお墓になり、牽牛子塚古墳は斉明天皇と、建王子との合葬墳墓です。


以下が、渡来人天智を大王家に繋げる重要な改竄箇所です。
日本書紀、孝徳天皇条、天智天皇条

大化元年(645年)秋七月丁卯朔戊辰、立息長足日廣額天皇女間人皇女、爲皇后

まず、斉明天皇の娘であるというのは真実ではありません。そして兄とされる天智と天武は兄弟ではありません。

系譜の変更箇所です。重要人物である押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女との皇子とされますがそうではない。ここお母さんが変更されている。
押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女との子供たちが、宝皇女(皇極、斉明天皇)・孝徳天皇の父とされる茅渟王、そして桑田王(くわたのみこ、女性)です。押坂彦人大王とこの茅渟王も本来の大王です。

押坂彦人大王と、妃の漢王の妹とされる大俣女王との子供たちが、田村王こと舒明天皇、中津王、多良王(百済王)です。
この渡来人の女性と思われる、漢王の妹とされる大俣女王が押坂彦人大王の后だったというところが改竄箇所です。

舒明天皇は 和風諡号は息長足日広額天皇とされます。この息長とは蘇我氏のことであり、蘇我の歴史書である「天皇記」「国紀」あった蘇我の王のことです。本来の王ではありません。改竄には蘇我氏の歴史書である「天皇記」「国紀」を使用している。

天智天皇はこの本来の王ではない舒明天皇と、斉明天皇の王子とされます。
天智天皇は、本来の王である天武大王と同母兄弟です。天智天皇を大王家に繋げたのです。
天武の系譜の変更箇所です。
直系で天武大王を押坂彦人大王に繋げたくはないのです。それは長屋大王に繋がります。殺害した長屋王が本来の大王では都合が悪いのです。

茅渟王の母親は、大俣王ではありません。押坂彦人大王の后であり、大伴皇女の娘の糠手姫皇女です。系図の変更箇所です。

「額田王の謎と推古天皇」のところで記述していますが・・・
額田王の系譜・・・
宣化天皇ー上殖葉皇子ー十市王・大伴 金村の娘の大伴糠手古ー大伴皇女

大伴皇女(額田部皇女)・敏達天皇ー糠手姫皇女

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー桑田王(茅渟王の妹 母親)・鏡王(額田鏡王 父親)ー鏡王女?(姉)、額田王(妹)

額田王の系譜が変更されています。
この鏡王は額田鏡王とも記されていて、額田王の父親です。母親は桑田王です。額田王は歌人としてよく知られ、采女や巫女だったのではとされますが、そうではありません。
額田王は名前通り大王家の女性であり、天武大王の王后です。
娘の額田姫王というのが額田王のことです。姉とされる鏡王女は額田王自身のことだともいわれます。

大伴皇女は欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩姫との娘とされますが、そうではなく、大伴氏が関係する娘である。
額田王は、大伴皇女(額田部皇女)から繋がる、藤原氏と対立していた、大伴氏の女性です。
敏達天皇の本来の皇后は、推古天皇ではなく、大伴皇女であり、額田部皇女とはこの大伴皇女のことです。

系譜の変更は、彼女たちのお墓から推測できます。
この大伴皇女が眠る墓域である押坂陵内は、大伴氏関係の女性のお墓であり、陵墓内には糠手姫皇女の押坂墓、大伴皇女の押坂内墓、鏡女王の押坂墓があるとされます。
糠手姫皇女、大伴皇女、鏡女王、3人の女性が眠るお墓が、隣接して同じ領内あります。

そして額田王の姉とされる鏡女王とは、実は額田王自身のことだともいわれます。
これが事実だとすると、長屋大王の時代に、押坂内陵を八角墳に造りなおす時に、ここから額田王は野口王墓古墳に改葬されている。
野口王墓古墳は天武・額田王の合葬墓である。

ウイッキペディア・・・
『日本書紀』天武天皇2年2月27日条、『日本書紀』の記載から鏡王の娘に額田姫王がいて、この女性は天武大王の后になったとされます。

天武大王と王后の額田王の子供が、「市」の文字が共通する高市大王と十市皇女です。姉と弟です。このふたりは、もちろん恋愛関係にありません。
万葉集、高市大王が亡くなった実の姉の十市皇女を偲んで作った歌です。
万葉集・・・
三諸の神の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多き

三輪山の山辺真麻木綿短か木綿かくのみからに長くと思ひき

山振の 立ちよそひたる山清水 くみに行かめど 道の知らなく


そして、高市大王と阿部明日香の子供が長屋大王です。ですので系譜が改竄され、阿部氏の女性を消し去られています。高市大王の后、恋人はこの阿部明日香です

万葉集、柿本人麻呂による長文の挽歌からの推測では、高市大王の王后は阿部明日香だというのは容易に分かります。
柿本人麻呂が、長文の挽歌を贈っているのはこの二人の人物です。歌の内容を調べれば容易にこの二人は夫婦だったことが分かります。
柿本人麻呂は大王家に使えた歌人です。渡来人が権力を握る時代になって失脚しました。

孝徳天皇と天智天皇の争いはよく知られる所ですが、孝徳天皇時代に左大臣だったのが阿部内麻呂です。
この阿部氏や大伴氏は秦氏、藤原氏の大きな敵対勢力でした。

長屋王は左大臣などではありません。木簡からの推測では、父親の高市大王、や長屋王自身も大王に即位していました。長屋王を殺害したのは藤原氏です。

殺害した人物が本来の大王では都合が悪いため系譜を改竄している。

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー茅渟王・吉備姫王(吉備島皇祖母命)ー宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)

そしてもちろん、本来の日本書紀には、渡来人秦氏の王である天智天皇条なんてありません。この記述は、天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄されたものです。


孝徳大王の王后(皇后)はこの阿部遠智娘です。孝徳政権時に左大臣だった阿部内麻呂の娘です。「天皇」の呼称は王后の呼称でもあるのです。阿部氏の女性が消されている。

皇極天皇(642~649)ー袁智天皇(650~654)ー斉明天皇(655~(661)

押坂彦人大王ー茅渟大王ー山代大王(山背大兄王)、彼らが本来の大王です。643年に山代大王が殺害された後、645年(おそらく644年)に大王に即位したのが孝徳大王です。

押坂彦人大兄皇子ー舒明天皇ー天智天皇・・・これが、天智系天皇である桓武天皇の時に変更された系図です。舒明天皇は王ではありません。
渡来人秦氏の王子であった中大兄皇子は、本来の大王家とは何ら関係のない人物です。
桓武天皇もまた渡来人秦氏の人物であり、自身が王に即位するには系譜を改竄し大王家と繋げる必要があったのです。
天智が天皇に即位したというのも、もちろん秦氏、藤原氏の主張です。

蘇我氏が使用した系譜を利用している。それは蘇我氏の王である「天皇」の系譜ともいえます。舒明天皇というのはいわば蘇我の王です。


阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良皇(持統天皇)、建皇子

茅渟王・吉備姫王(吉備島皇祖母命)ー宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)

大田皇女、鸕野讃良皇、建皇子は弟の孝徳大王の子供です。
大田皇女、鸕野讃良、建皇子は、孝徳大王と阿部氏の子供たちである。

ですので、持統天皇は大王家の女性ではあるのですが、天武の皇后ではない。
本来の大王だった長屋大王や、弟の鈴鹿大王の時代に、対立する藤原氏が擁立したのは、この持統天皇から繋がる傍系の王である聖武天皇です。

天武大王と持統天皇の息子が草壁皇子です。草壁皇子と元明天皇との子供が、聖武天皇の父親である、文武天皇です。
持統を天武大王の皇后とした理由です。天武の皇后は額田王です。
聖武天皇や、文武天皇は本来の大王ではない。

この阿部氏の女性であるということが消され蘇我の女性に変更されている。
母親は蘇我遠智娘ではなく、阿部氏の娘、阿倍遠智娘です。大安寺伽藍縁起并流記資材帳にある「遠智天皇」です。


大田皇女の子供である大津皇子も大王家の王子である。建皇子、有間皇子もそうです。彼らは本来の大王家の王子たちです。次期大王候補です。ですので殺害された。
本来の大王家の人物を多数殺害し王座を簒奪しています。許せません(`・ω・´)
孝徳大王は有間皇子しか子供いないとされますがそんなことありません。
この建皇子も孝徳大王の子供です。

「白雉」はこの遠智娘が天皇に即位したからの年号であり、袁智天皇、つまり「天皇」とは皇后のことでもあります。「大王」の呼称が「天皇」にかわったのではありません。孝徳大王と袁智天皇、大王と天皇が存在しています。
越智崗上陵は、元はこの袁智天皇と斉明天皇の合葬墳墓であり、後に牽牛子塚古墳が造られ斉明天皇の遺骸だけ改葬されたのです。


ウイッキペディア・・・
『日本書紀』には建皇子の埋葬に関する記述がないほか、母の遠智娘は大化5年(649年)に蘇我倉山田石川麻呂の死を知って憂死した蘇我造媛(中大兄皇子妃)と同一人物とされ、また憂死したのを遠智娘自身とする所伝(『蘇我石川系図』)もあることから、遠智娘は建皇子(651年出生)の生母になりえないとして、皇子の実在性も含めて説話自体を疑問視する説がある

ウイッキペディア・・・
孝徳天皇が崩御したあと、間人皇女が一時的に天皇の役割を背負ったという説もある。『万葉集』に「中皇命(「なかつすめらみこと」の訓が一般的)」とある人物が間人皇女のことを指すのではないかとする説

『万葉集』の「中皇命」作とされる歌の註には、斉明天皇作との旨が記され

    ************************
「天皇」の呼称で系譜が変更されているため矛盾することになっている。
蘇我造媛と阿部遠智娘は同一人物ではありません。

斉明天皇即位年は、655年ですので、遠智天皇の崩御年は、654年である。654年に亡くなったのは孝徳大王ではなく、皇后であるこの袁智天皇です。白雉はこの袁智天皇の年号です。
万葉集の歌の註どおり、この「中皇命」とは斉明天皇のことです。間人皇女は実在の人物ではない。「中皇命」の名称はいうなれば「中継ぎ天皇」の意味です。
654年、袁智天皇没後に、天皇に即位したのが斉明天皇です。戦乱時に次の王后(天皇)が決まらなかったからです。

ですので、袁智天皇は651年生まれの建王子の母親として問題はなく、建王子は有間皇子とともに正統な次期大王候補です。幼少の時に母親が亡くなったので、斉明天皇が母親がわりになり建王子を育てたのです。
建王子は甥(弟である孝徳大王の子)であり、話すことが不自由であったとされるこの建王子を可愛がったのはよく知られています。

次期王継承者の一人である建皇子の墓の所在が分からないのは、建王子を殺害したのはいうまでもなく藤原氏だからです。
孝徳大王の時代は、渡来人勢力との争いが激烈な時期でした。この争いの問題は朝鮮出兵の問題です。

牽牛子塚古墳に、斉明天皇と合葬されているのは建王子です。

渡来人秦氏の王である天智天皇の系譜改竄箇所です。天智系天皇である渡来人桓武天皇時の記紀改竄箇所はこの、天智天皇を大王家繋ぐことです。
ここが系譜改竄において重要箇所です。

天智の后とされる蘇我倉山田石川麻呂の娘とされる蘇我遠智娘は、阿部遠智娘であり、蘇我姪娘も阿部姪娘であり孝徳大王の后です。阿倍橘娘もまた孝徳大王の后です。天智天皇の系譜改竄箇所です。
渡来人と対立していた阿部氏の娘が渡来人天智の后になることはりません。

孝徳大王は有間皇子しか子供がいません。そんなことありえません。孝徳大王の后を天智の后として取り込んでいる。孝徳大王政権において左大臣だったのは阿倍内麻呂です。阿倍内麻呂の娘たちは孝徳大王の后です。
渡来人勢力と対立していた、この阿部氏や大伴氏の系図が消されている。


天智天皇の系譜においてひとり気になる人物がいます。
詳しくは書きませんが・・・
それが、天智天皇の第一皇子とされる大友皇子(おおとものみこ、弘文天皇)です。お母さんは伊賀宅子娘とされます。后は十市皇女です。

ここも大伴氏の女性が消されているように思う。大友皇子は大伴氏の王子であり、もちろん、孝徳大王の王子です。

大友皇子の名の由来は、大友村主が養育したためであるとされる説があるようですが、天智と大友村主氏の娘との子供が大友皇子というのならわかりますが、これはおかしい。

后とされる十市皇女は、天武と額田王の娘です。この十市皇女は、長屋王の父親でもある高市大王とは姉弟です。恋人ではありません。天武と天智は敵対していたことは知られています。
天武と額田王の娘が、敵対する渡来人秦氏の王である天智の息子に嫁ぐわけない。渡来人、天智の系図が変更されているように思います。天智と額田王も恋人ではありませんよ。

額田王も大伴氏の女性であり、娘の十市皇女もまた大伴氏が関わる女性になります。
名前に氏族名を付ける場合は、母親の氏族名を付ける場合が多いように思う。
大友皇子も、本当は大伴王子であり、もちろん大伴氏の王子であり、大伴氏関係の婚姻であるように思います。

大伴氏の女性が消されているので難しい推測ですが、おそらくなのですが、孝徳大王の時に右大臣だった、大伴 長徳の娘と孝徳大王との子供がこの大友皇子だと思います。

大友皇子は弘文天皇として即位したとされます。天智の皇子というのならあり得ませんが、孝徳大王と大伴氏の女性との王子ということならありえます。
そしてもちろん天武側の人物であり、残念ながら壬申の乱において渡来人との争いで戦死したのです。

孝徳大王の時代に、大王家と関係が深く、渡来人勢力と対立関係にあった、これら大伴氏や阿部氏の系譜が変更されている。




それではこの八角墳墓はいつ頃から造られたのでしょうか?
上記してきましたが、日本書紀の記述から7世紀の半ばころとされますが、そうではないように思う。

牽牛子塚古墳は、この時代の大王家の陵墓に特徴的な八角墳です。この地の大王陵とされる八角墳は、北部の脅威が去った天武大王以降に造り始められた古墳です。おそらく長屋大王の時代に多く造られた大王家の墳墓です。

ウイッキペディア・・・
八角墳(はっかくふん)は古墳時代の終末期(7世紀半ば)に造られた正八角形の古墳。京都市の御廟野古墳(現・天智天皇陵)や奈良県高市郡明日香村の野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)などが有名。

日本書記 天智天皇条・・・
六年春二月壬辰朔戊午、合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女於小市岡上陵、是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。
  

段ノ塚古墳(現・舒明天皇陵) - 奈良県桜井市
御廟野古墳(現・天智天皇陵) - 京都市
野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵) - 奈良県高市郡明日香村・7世紀後半(上八角下方墳)
中尾山古墳(文武天皇陵の可能性高い) - 奈良県明日香村・8世紀初頭
束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜の蓋然性が高く、八角墳の可能性がある。奈良県高市郡高取町)
岩屋山古墳(斉明陵の可能性。方形墳の上に八角形の墳丘を営んでいた可能性が強い。
牽牛子塚古墳(斉明陵の可能性)奈良県明日香村越、2010年9月斉明陵の可能性強まるとの報道
    ***********************
日本書紀の記述によって、この八角墳は7世紀半ばに造り始められたとされますが、そうではない。


御廟野古墳(現・天智天皇陵)・・・
天智天皇陵である御廟野古墳は、天智系天皇である桓武天皇が天皇に即位した後(8世紀半ば以降)につくられた、八角墳墓の中では最後に造られたものです。7世紀半ばの初期の八角墳ではない。

渡来人、秦氏の王である桓武天皇の時代に、秦氏の王である天智天皇を大王家の人物として変更したため、この時代の大王家の墳墓である八角墳に造りなおす必要があったからです。ここはもう既に何度か書いていますが、この古墳に天智天皇の遺骸が埋葬されているかは疑問である。

天智天皇は渡来人秦氏の人物であり、本来の王ではありません。もちろん天皇にも即位していません。天智天皇から繋がる桓武天皇時、自身の正統性を主張するるため、天智は天皇に即位していたとする必要があったのです。

この本来の王でない天智天皇陵を八角墳で造っているということは、この時代の系譜を改竄し、大王(天皇)ではなかったとする人物のお墓の形状を変更している可能性がある。
八角墳を覆う石が撤去され、墳墓の形状を変更しているお墓があるように感じた理由です。

最初の八角墳墓とされる段ノ塚古墳も、舒明天皇のお墓ではなく、8世紀初めに八角に造りなおされた古墳です。

八角墳墓は長屋王の時代の墳墓形体です。長屋大王によって、戦乱の中、相応しい古墳に祭れなかった大王家の人々のお墓を造りなおしている。
8世紀初期の墳墓の形状です。


前方後円墳ー方墳ー基部方墳の八角墳ー八角墳

こう移っていったとされます。この基部が方墳で上部が八角っていうのはおかしいでしょう?最初から八角で造ればいいのにって私なんかは思うのですが?方墳は蘇我の時代の墳墓ともいえます。

これは、長屋王の時代(大宝律令制定時かな?)に、大王家の墳墓を八角墳にすることを決定したので、以前に方墳に埋葬されていた関係者の古墳、つまり方墳の上部を八角墳に造りなおしたからですよ。

薄葬令はこの701年の大宝律令制定時に決められたものである推測しています。「大化の薄葬令」ともいわれますが、大化の改新なんてありません。
7世紀半ばにはまだ大きな古墳は造られています。

ですので、天武・持統天皇陵である、野口王墓古墳や、岩屋山古墳(おそらく孝徳大王陵)は、元は方墳であったのですが、長屋大王の時代に八角墳墓に造りなおされたものです。これらも8世紀に造りなおされた古墳です。

日本書紀においては天智天皇の時だとされます。しかし渡来人天智は王には即位していません。この御廟野古墳は、天智を天武の兄弟とし、天皇に即位したと変更した、8世紀半ばの以降に造られている。
王座を簒奪した渡来人、秦氏の王である桓武天皇即位後に造られた古墳です。この時代の大王家と同じ形状の古墳にする必要があったのです。


段ノ塚古墳・・・
この古墳にかんしては既に「額田王の謎と推古天皇」のところで記述しています。この古墳は舒明天皇陵ではありません。

この古墳は台形状の方形壇の上に八角形の墳丘を造っています。上八角下方墳といわれます。これも野口王墓古墳や、岩屋山古墳と同様です。
もともと方墳だったものに、長屋大王の時代に八角墳に造りなおしたものです。

額田王の祖母のお墓に、母親が合葬され、八角墳に造りなおされたものです。
段ノ塚古墳は、額田王の祖母の糠手姫皇女と母親の桑田王(茅渟王の妹)との合葬墳墓です。
糠手姫皇女は、皇祖とされる押坂彦人大王の皇后です。
ですので八角墳は、大王家の関係者のお墓であるのは間違いありませんが、大王の墓にかぎった型式の陵墓ではありません。


系図が変更されています。
孝徳大王、斉明天皇の父親である茅渟王の母親は、大俣王ではありません。押坂彦人大王の后であり、大伴皇女の娘の糠手姫皇女です。系図の変更箇所です。額田王は大伴氏の女性である。

「額田王の謎と推古天皇」のところで記述していますが・・・
額田王の系譜・・・
宣化天皇ー上殖葉皇子ー十市王・大伴 金村の娘の大伴糠手古ー大伴皇女

大伴皇女(額田部皇女)・敏達天皇ー糠手姫皇女

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー桑田王(茅渟王の妹 母親)・鏡王(額田鏡王 父親)ー鏡王女?(姉)、額田王(妹)

額田王の系譜が変更されています。額田王は、秦氏、藤原氏と対立していた大伴氏に関係する女性です。この系図が変更されている。阿部氏と大伴氏、蘇我氏は、秦氏、藤原氏に対抗する大きな勢力でした。

この鏡王は額田鏡王とも記されていて、額田王の父親です。母親は桑田王です。額田王は歌人としてよく知られ、采女や巫女だったのではとされますが、そうではありません。
額田王は名前通り大伴氏に関係する大王家の女性であり、天武大王の王后です。娘の額田姫王というのが額田王のことです。

ウイッキペディア・・・
『日本書紀』天武天皇2年2月27日条、『日本書紀』の記載から鏡王の娘に額田姫王がいて、この女性は天武大王の后になったとされます。

天武大王と王后の額田王の子供が、「市」の文字が共通する高市大王と十市皇女です。高市大王の子供が長屋大王です。
長屋王は左大臣などではありません。木簡からの推測では、父親の高市大王、や長屋王自身も大王に即位していました。長屋王を殺害したのは藤原氏です。

殺害した人物が本来の大王では都合が悪いため系譜を改竄している。


押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王ー有間皇子

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー茅渟王・吉備姫王(吉備島皇祖母命)ー宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)




野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)・・・
天武持統陵も八角墳とされます。しかしこの天武持統陵も、やはり長屋大王によって造られた8世紀初めの古墳です。
天皇陵の中で、被葬者が特定できる数少ない古墳のひとつとされます。
天武天皇と皇后の持統天皇の合葬墓であるということは確実とされます。

しかしそうではないように思う。以前にも少し触れましたが・・・
もともと、天武天皇の御陵であり、方墳だったものです。長屋大王により、八角墳墓に造りなおされる時に、ここに王后だった額田王を合葬している。天武大王の王后は、この額田王である。
大伴氏の女性である額田王は、長屋大王の祖母であり、天武は祖父です。この系図が変行されている。

天武・持統合葬陵ではなく、天武・額田王の合葬陵です。後に藤原氏によって暴かれ怨霊封じが行われている。
持統天皇は初めて火葬され骨は銀の骨壺に収められとされますがそうではないように思う。額田王は長屋大王の祖母であり遺骨が火葬されたのは、怨霊封じだろうと思います。持統天皇は天武の皇后だというのは藤原氏の主張です。藤原氏が擁立する天皇はこの持統天皇から繋がります。

天武大王の、王后は額田王です。次の王后が持統天皇?だと思いますが、この長屋大王の時代に、天武持統陵に合葬されたのは、額田王の方だと思います。
長屋大王の祖母ということで、天武の王后だったことが変更されている。

理由は、上記の系図です。天武大王・額田王ー高市大王・阿部明日香ー長屋大王
額田王は大伴氏の女性であり長屋大王の祖母です。
長屋大王に繋がる彼らは全員、藤原氏に祟った大王家の人物です。何度も記述していますが、この系譜も変更されています。
下記の山代大、茅渟王以降の人物が八角墳墓に埋葬されている。

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王ー有間皇子

上記の人物は全員、藤原氏に祟っている。少なくとも藤原氏はそう感じて怨霊封じを行っている。
法隆寺は彼ら、押坂彦人大王、山代大王、茅渟王を祀るお寺です。この法隆寺もまた怨霊封じが行われている。
そして埋葬されていた古墳を暴き、遺骸に対しても怨霊封じが行われている。

この系図の、押坂彦人大王の王子たちである、山代大王と茅渟大王までは大きな前方後円墳である。


額田王自身のお墓に関してですが、もとはこの押坂内陵域にあったともされます。この押坂内陵は大伴氏関係の女性のお墓です。
後に孫である葛野王により天武・持統天皇陵の傍に移葬されたそうです。この葛野王 は額田王の娘の十市皇女の子供です。

上記しましたが、大友(大伴)王子と十市皇女の子供が葛野王です。額田王の娘である十市皇女は大伴氏の娘です。大友(大伴)王子ももちろん大伴氏の王子であり、ともに大伴氏が関わる。
大友(大伴)王子は天智の子供ではなく、孝徳大王の子供です。系譜改竄箇所です。

この時に、天武天皇陵が八角墳に造りなおされ、天武と額田王が合葬されたのだと思います。野口王墓古墳は、天武・額田陵である。



中尾山古墳・・・
高松塚古墳は長屋大王の父親である高市大王のお墓です。そして傍にあるこの中尾山古墳こそ長屋大王のお墓ではないのかな?
この古墳も八角墳だったと考えられています。
上の写真が、中尾山古墳ですが、今は八角形に外観を覆っていただろうと思われる石は見あたりません。

しかし八角墳墓だったことが推測されています。重要な人物のお墓であることは間違いありません。
しかも高松塚古墳の傍の八角墳です。これは、高松塚古墳の被葬者の関係者と考えられます。

被葬者に関しては、八角墳であることから大王だった人物の可能性が高い・・・などのことからの推測です。

この中尾山古墳は文武天皇陵だというのが有力とされますが、これは間違っています。上記しましたが文武天皇は本来の大王ではありません。

長屋大王が、大王に即位したのは701年です。大宝は長屋王の年号です。
大宝律令を制定したのはこの長屋王の時代です。おそらく元は八角墳だったと思うのですが?
おそらく火葬されて埋葬されていた?と思うのですが、長屋大王が藤原氏に祟った後に、怨霊封じが行われ、外観を覆っていた石は取り除かれているように思う。
そして火葬されていた遺骨は飛鳥の地から、島流しにあっている。火葬は祟らないようにとの怨霊封じの意味があったと考えています。

聖武天皇の父親であるこの文武天皇も大王家の人物ではあるのですが、本来の王ではありません。王でない人物が八角墳墓に埋葬されることはないとは言えませんが、この時代の大王はこの長屋大王です。
藤原氏は擁立する聖武天皇は天皇(王)だと主張するため、また対立して殺害した長屋王は大王ではなかったとするため、この時代に別の人物が天皇だったする必要があったのです。



牽牛子塚古墳は、長屋大王の時代に造られた墳墓です。
ではそれまで、斉明天皇はどこに埋葬されていたのでしょうか?
孝徳大王の王后は、袁智天皇です。ですので、斉明天皇と孝徳大王の皇后とされる間人皇女合葬との合葬ではなく、斉明天皇と袁智天皇の合葬です。

もともとは、越智崗上陵に、斉明天皇と袁智天皇が合葬されていて、長屋王により新たに牽牛子塚古墳建設され、遺言通り斉明天皇だけ改葬され、建王子とともに埋葬されたのではないのかな?
そして傍の越塚御門古墳は、大田皇女のお墓です。大田皇女は建皇子の姉です。孝徳大王と阿部氏の子供たちです。

孝徳大王、阿部遠智娘ー大田皇女、持統天皇、建皇子


ウイッキペディア・・・
斉明天皇皇孫の建王は8才で薨去し、今城谷の上に殯を起こし納められた。その際に天皇は深く悲しみ、将来的に自らの陵への合葬を命じるとともに、次の歌3首を詠んでいる。
万葉集・・・
今城なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か歎かむ

射ゆ鹿猪を 認ぐ川上の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに

飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
     *******************

ですので、この牽牛子塚古墳は、8世紀の初めに造られた古墳です。長屋大王により紀伊国行幸時(701年)以降に造られた古墳です。
長屋大王は、紀南の戦乱で亡くなった、この建王子や有間皇子などのお墓を造りなおしています。有間皇子のお墓も飛鳥の地の移している。


由緒によれば、埋葬されていた大和の地からこの地に遺骨を移したとのことです。しかし斉明天皇は自身のお墓に合葬してほしいとの遺言を残しているともされます。
この伝説、由緒は変更されている。話は逆です。遺言どおり、この紀南の地から大和に移葬されたのです。本来の元の建王子のお墓はここ泣沢女(なきさわめ)の古墳です。後に斉明天皇の遺言により斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)に合葬されている。墓室が2つあるのは、斉明天皇と、建王子の墓室です。

建王子はこの紀南の地で殺害され埋葬されていたのです。孝徳大王はこの紀南の地に子供たちを避難させていたのです。しかしこの地でも争いが起き殺害されたのです。


岩屋山古墳・・・
岩屋山古墳も、もちろん大王家の人物のお墓です。元は方墳でした。ですので、元は7世紀の中から後半位に造られた古墳です。
長屋王の時代に、上部を八角形に形作ったものです。
この古墳は元の斉明天皇陵だという説もありますがそうではない。
その位置から斉明天皇の弟の孝徳大王のお墓だと思います。

孝徳のお墓は、大阪磯長陵に治定されています。円丘であるとされますが、これは絶対にありえません。
孝徳が、蘇我氏の墓域である、磯長に葬られることはありえません。
渡来人、秦氏、藤原氏と激しく対立したのはこの孝徳大王の時代です。ですのでこの古墳も暴かれて怨霊封じが行われている、上部を覆っていた石は取り除かれているように思う。



上の写真は梅山古墳です。
欽明天皇の陵に治定されているこの梅山古墳は大きな前方後円墳です。
しかし、この古墳は、斉明天皇、孝徳大王の父親である茅渟王のお墓である。

茅渟王
桜井皇子の女の吉備姫王(吉備島皇祖母命)を妃とし、宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)を儲けた。茅渟皇子、智奴王とも。
押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王・斉明天皇
押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

「聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳の謎」のところで記述していますが・・・
この梅山古墳は、元はこんなに大きな古墳ではなかったと思う。
見瀬丸山古墳が大きな前方後円墳に造り変えられた時、同じく大きな古墳に造り変えられている。
見瀬丸山古墳は、元は山代大王のお墓であり、後に押坂彦人大王が合葬され巨大な古墳に造り変えられたものです。


実は、この欽明天皇陵は、どこか分からなくなっていました。梅山古墳を欽明天皇陵と決めたのは江戸時代後期になってからです。ですがこの治定は間違っています。

推古天皇の父親である欽明天皇は、蘇我氏、蘇我馬子が主張する蘇我の王である天皇であり、本来の王ではありません。「天皇」は蘇我の王のことです。
その本来の王ではない欽明天皇が、大きな前方後円墳に埋葬されることはありえません。

梅山古墳に隣接する吉備姫王墓に猿石と呼ばれる石像物が置かれていて、こちらの方が有名で訪れる人もこちらの方が目当てです。
この吉備姫王(吉備島皇祖母命)のお墓は、明らかに梅山古墳の陪塚です。
当然、梅山古墳は夫である茅渟王のお墓です。そう茅渟王は大王でした。
孝徳大王、斉明天皇の父親です。しかし大王だったことが消されている。

茅渟王・吉備姫王ー孝徳大王・斉明天皇です。吉備姫王は孝徳大王・斉明天皇の母親です。

梅山古墳の被葬者こそ、押坂彦人大兄皇子の王子である茅渟王であり、そばに后の吉備姫王(吉備島皇祖母命)のお墓、そして子供たち、斉明天皇(牽牛子塚古墳)と孝徳天皇(岩屋山古墳 )のお墓です。

牽牛子塚古墳、岩屋山古墳は、ともに八角墳とされます。
この牽牛子塚古墳もまた、梅山古墳の近くにあり陪塚といってもいいと思います。
そう、斉明天皇のお父さんは、茅渟王であり、お母さんは吉備姫王です。
梅山古墳の被葬者こそお父さんの茅渟王です。



束明神古墳
墳丘は、斜面を大きく削り直径40メートルの平坦地を整地したうえで、版築によって構築される。墳形は八角形で、対角長約30メートルを測る。埋葬施設は横口式石槨で、南方向に開口する。凝灰岩の切石を積み上げた特殊な石槨で、平面形は長方形、断面形は家形(台形)を呈し、石槨内部には漆塗木棺が据えられたと見られる。

束明神古墳の実際の被葬者は明らかでないが、草壁皇子(くさかべのみこ、岡宮天皇)に比定する説が知られる。
    *********************
この古墳の被葬者は誰なのだろうか?八角墳墓であるなら大王家の有力人物であるのは間違いありません。候補はそう多数はいない。

わたしの推測では、この八角墳墓の被葬者に相応しい人物は、有間皇子であるように思います。
これは消去法みたいのものですが、束明神古墳が紀南から改葬された有間皇子の墓だとの推測です。

草壁皇子が有力な被葬者とされます。この草壁皇子は天武天皇と持統天皇の息子です。皇位に就くことなく、持統天皇3年の689年に27歳で早世しています。
しかし持統天皇は、大王家の女性ですが天武の皇后だと主張しているのは藤原氏の主張です。本来の王后は、額田王です。

この古墳も八角墳墓であるなら8世紀初めに造られたものです。被葬者の有力候補は有間王子です。

草壁皇子のお墓は、この束明神古墳の南にある現陵地の円墳(高取町森)に眞弓丘陵に定められています。この治定はあっているように思います。

有間皇子は紀南の地で戦死しそこで埋葬されていたのです。長屋大王の紀南行幸の時に飛鳥の地に改装されています。


「檜隈安古岡上陵」・・・
この古墳は、文武天皇の「檜隈安古岡上陵」と治定されていますが、今は八角墳墓ではないとのことで、中尾山古墳の方が相応しいとされています。
いかに古墳の治定がいい加減なものかわかりますよね。

文武天皇は藤原氏が擁立する聖武天皇の父親です。大王家に人物ですが、大王に即位していません。
この古墳、聖なるラインとされる位置にある古墳であり、八角墳墓ではなくても重要な人物が埋葬されている。
天武の王子である、高市大王の関係する人物であるように思います。

文武天皇は本来の王ではありません。ですので八角墳に埋葬されていなくても問題ありません。ですがこの古墳は天武天皇の第一皇女である十市皇女のお墓ではないのかな?

ウイッキペディア・・・十市皇女
日本書紀によれば、十市皇女のなきがらは天武天皇7年(678年)4月14日に赤穂に葬られたとあるが、赤穂という地名が奈良県内のどこにあたるかという解釈には諸説あり、いまだ定説は明らかになっていない。

天武・持統陵、中尾山古墳から高松塚古墳、文武天皇陵までを含む檜隈の大内・安古とよばれる一帯があり、その安古が「赤穂」に通じることから、このあたりに十市皇女の墓を想定している説もある
   ***************************
上記の説が正解のように思います。この「檜隈安古岡上陵」は十市皇女のお墓です(檜隈の大内・安古とよばれる一帯が、「赤穂」)
天武・持統陵(本当は天武・額田王陵)、中尾山古墳から高松塚古墳、文武天皇陵までが聖なるラインとされ、関係者のお墓です。

高松塚古墳が兄の高市大王のお墓であり、傍に子供の長屋大王の中尾山古墳、そして姉の十市皇女のお墓がこの「檜隈安古岡上陵」である。高市大王と十市皇女は姉弟であり、共に天武と皇后であった額田王の子供たちである。
そしてキトラ古墳は、高市大王の王后である阿部明日香のお墓である。

天武大王ー高市大王ー長屋大王 彼らは全員大王でした。この系図の大王たちに関するお墓です。



高松塚古墳とキトラ古墳・・・
問題はこのふたつの古墳です。長屋大王の両親のお墓です。
「高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎」のところでふれています。
両古墳は八角墳だったはずです。
高松塚古墳は、長屋大王の父親である、高市大王のお墓です。キトラ古墳
はお母さんの阿部明日香のお墓です。

高市大王崩御は、696年であり、明日香皇女は700年に亡くなっています。殯の期間はどれほどだかわかりませんが、墳墓の造り始められた年は、高松塚古墳は、696年、キトラ古墳は700年に以降造られたたものです。

当然ですが両親が眠るこのふたつの古墳は八角墳墓に造っているはずです・・・というか最初の八角墳はこの高松塚古墳である。

この両古墳は、明らかに怨霊封じがなされています。
「高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎」のところで書きましたが・・・
高松塚古墳の遺骨は何故か頭部がありません。本来は残るはずの頭蓋骨がありません。これは意図的に取り除かれているとしか考えられない。
そしてキトラ古墳から出土した人骨は頭部の骨と、歯でした。そう頭蓋骨です。何故に体の部分の骨が出土しないのでしょうか?
これも不思議ですよね。
高松塚古墳の出土人骨の頭蓋骨がない、キトラ古墳からは、頭蓋骨だけが発見され、しかもこの頭蓋骨は、
・・・「40歳から60歳代のがっしりした体つきの男性」・・・ともに同年代の男性の人骨ですよね。

そう、キトラ古墳の頭部の人骨は、高松塚古墳から取り出された高市皇子の頭蓋骨です。

高松塚古墳は、高市大王のお墓であり、キチラ古墳は后の阿部明日香のお墓です。この二人の子供が長屋大王です。
どういう怨霊封じが行われたのか?明らかに遺骸を損傷している。そしてその後に火葬しているように思う。

まずキトラ古墳に埋葬されていた、阿部明日香の遺骸は取り出され火葬されている。火葬は怨霊封じの意味があったように思う。
その後高松塚古墳から、高市大王の頭部だけ取り出し、キトラ古墳内で、この頭蓋骨は粉々に壊されている。これは古墳内の副葬品もまたこなごなに壊されているところからも推測できる。おそらく、その後とりだされ火葬されているように思う。
この粉砕された骨を取り除くときに、少量の骨が残ったものが、今出土した人骨である。

長屋王を大王だったとしたくないために、父親も大王に即位したことが消されている。大王でなかったと変更した人物が、八角墳に埋葬されているのはおかしいわけです。
高松塚古墳は、高市皇子を大王としたくないために、元は八角墳墓だけど、円墳に作り直された可能性はあると思います。キトラ古墳も同様です。
怨霊封じの際に八角形は取り壊されている。

天武大王・額田天皇の合葬陵である野口王墓古墳より南部、聖なるライン上にある、この高松塚古墳は、この天武大王と、額田王の子供である、高市大王のお墓です。
この高松塚古墳の傍にあり、元は八角墳墓とされる、中尾山古墳は高市大王と阿部明日香の王子である長屋大王のお墓である。
同じくライン上にある、「檜隈安古岡上陵」は、高市大王の姉である十市皇女のお墓であり、キトラ古墳は高市大王の后の阿部明日香のお墓である。

聖なるライン上にある古墳は、天武大王と額田王から繋がる本来の大王家のお墓です。





ウイッキペディア・・・益田岩船
現在有力視されている説。南東500mほどの場所にある牽牛子塚古墳は横口式石槨であるが、岩船の穴の形状もこれと似ているため、同じように古墳として造られ、完成時には現在の北壁面を下に横転させ古墳石室とする予定だった。また東側の穴と違い、西側の穴には水が溜まらないことから、後者にはひびが入っていることが分かっている。このため、建造途中で破損が判明し、放棄したのではないかとの説がある

猪熊兼勝は、益田岩船は大阪府寝屋川市の石室の露出した石宝殿古墳に酷似し、この2つの石造物と同様な構造をもつ完成品は、牽牛子塚古墳石室しかないので、牽牛子塚古墳石室の完成までに益田岩船、石宝殿古墳で二度の失敗を繰り返した後、軟質の凝灰岩の石室で完成させたものが、牽牛子塚古墳であるという説を提唱している。
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この推測が有名ですよね。そして猪熊兼勝さんの説はなるほどと思いますよね。
ただ、建造途中で破損が判明し、放棄したのではないかとの説は賛同できない。そして、埋葬されるに相応しい場所がある。
牽牛子塚古墳と、益田岩船は隣接していて飛鳥にあります。斉明天皇のお墓の場所として相応しい場所です。ですが、石宝殿古墳は、遠方にあり関係ない。

この益田岩船の場所を訪れた時の印象は、「ここ、お墓を建てるにはいい場所だなー」という印象でした。
この益田岩船は、岩船山の頂上付近にあります。東に飛鳥の地を見下ろし、しかも北部の盆地まで見渡せる絶好の立地です。大和三山、畝傍山の南部に位置します。

写真のように外観からは全く破損は解りません。この巨石を横転させるて石室とするには何ら問題ないように感じました。

私の感想は水が抜けるくらいのひびなんて何ら問題ないようにも思うのですが?しかも横転して使うわけでしょう?ですので下に、水が抜けることに関して問題があるのだろうか?




この益田岩船は硬い花崗岩です。凝灰岩で石室を造っている牽牛子塚古墳よりも、以前に造ろうとしていたお墓だということは推測できます。

飛鳥の石造物として知られる鬼の俎(おにのまないた)・鬼の雪隠なども花崗岩です。これは、檜隈坂合陵の陪冢に治定されていています。上記しましたが、この檜隈坂合陵は、孝徳大王の父親の茅渟王のお墓です。

ですので、凝灰岩で石室を造っている牽牛子塚古墳のほうが後の時代のお墓です。

私は孝徳大王自身が、ここ益田岩船の場所に自身の墓を造ろうとしていたと思っています。しかし破損が判明し、放棄したのではないように思う。
ここももう何度も記述しているところです。渡来人勢力との争いがあったのは、この孝徳大王の時代です。都を飛鳥から、難波に移しました。

激しい戦乱で、飛鳥の地を奪われ、自身の在位中には造ることができなかったと推測しています。
この益田岩船は、岩船山の頂上付近にあります。孝徳大王は自分のお墓をこの飛鳥を見下ろし北方にもにらみを利かす絶好の立地に造ろうとしていたと思っています。
お墓を造るには絶好の場所とも言えます。戦乱で造ることができなかったと推測しています。







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