聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

聖徳太子の謎

2012年06月22日 | 聖徳太子の謎


私が、古代史に興味をもったのはこの聖徳太子という人物からなのです。
そんで、わるいけど、聖徳太子の謎は解いちゃった。
聖徳太子とは、天武天皇が皇祖と仰ぐ押坂彦人大兄皇子のこと。
日本書紀において皇祖・・と表現されるのは、この押坂彦人大兄と
皇祖天照大神のみです。
日本書紀は上、中、下巻に分けられますが、下巻はこの押坂彦人大兄
から繋がる。彼が王じゃないわけがない。
厩戸皇子こと聖徳太子というのはこの人物。                   

押坂彦人大兄は息長氏の広姫と敏達天皇の子で、下巻最初の天皇の
舒明天皇はこの押坂彦人大兄の子です。
息長真手王の娘の広姫は皇后であり、その子の押坂彦人大兄皇子
が次期有力大王候補であることは言うまでもない。

蘇我馬子にとって問題なのは、彼が蘇我氏の血をひかないってこと。

この聖徳太子の謎と天智天皇と天武天皇の謎がが解ければ、
記紀の謎もとけるよ。

実は・・・、この押坂彦人大兄皇子が聖徳太子だってことは
日本書紀、古事記に記述されているのですよ。

以下既に問題箇所として提起されていて、もう謎は解けているのに
何故解らないのか私には不思議で不思議でしょうがない。
それは、天皇とは古代から続く王、大王ではなく蘇我家の王の名称だと
いというところが理解できていないから。

この聖徳太子の謎は、そー難しい問題ではないですよね。
押坂彦人大兄皇子は皇后の広姫の子ですから、まず彼なんじゃない
のか?って疑うのはごく自然だと思うんだけど・・・。

日本書紀・・・
用明天皇2年4月2日
中臣の勝海が反仏教派物部守屋を援護すべく押坂彦人大兄王子と竹田王子の像を作って呪詛した。

ついに太子の彦人皇子の像と竹田王子の像とを作りて呪いをかけた。
しばらくして事が成功しないとしり帰して水派の宮で彦人皇子にしたがった。

押坂彦人大兄皇子が用明天皇の太子と表現されている。
太子とはひつぎのみこと。皇太子。
また、この「大兄」というのも皇太子とされます。
用明の皇太子は厩戸こと聖徳太子であり、押坂彦人大兄ではない。

ここで記述されている、「水派の宮」とはどこでしょうか?
実は、聖徳太子の謎を解く重要な宮なのです。


古事記
忍坂日子人太子、亦名麻呂古王。次坂騰王。次宇遲王。三柱又娶春日中若子之女、老女子郎
女、生御子、難波王。次桑田王。次春日王。次大俣王。四柱此天皇之御子等、幷十七王之中、
日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠代比賣命、生御子、坐岡本宮治天下之天皇。

古事記においても忍坂日子人太子と表現されている。


つまり、蘇我馬子か、あるいは藤原氏が押坂彦人王子を用明天皇の子として蘇我側に
取り込んだため押坂彦人大兄皇子と聖徳太子という2人の人物ができてしまったということ。

この押坂彦人大兄皇子と桜井弓張皇女との子供の、山代(やましろ)王というのが、
いうまでもなく、聖徳太子の子とされる山背(やましろ)大兄王のこと。
おなじく大俣王との子供の、茅渟王は、宝皇女(皇極、斉明天皇)・軽皇子(孝徳天皇)の父で
もあるわけ。
これで、乙巳の変(大化の改新)の謎も簡単に解ける。
乙巳の変後、軽皇子が即位し、大王(孝徳天皇)となり、中大兄皇子が天皇にならなかったのも当然のこと。

蘇我馬子は天皇記、国記作成時において、押坂彦人大兄皇子を用明天皇の太子として、
聖徳太子の名で蘇我側に取り込んでいたのでしょうか?

もうひとつの問題とされる箇所から推測します。
敏達の皇后である広姫には3人の子供がいます。
押坂彦人大兄皇子と二人の姉妹(たぶんお姉ちゃん?)です。
逆登皇女と菟道磯津貝皇女(うじのしつかい)です。

この女性(菟道磯津貝皇女)が、推古天皇の娘の菟道貝蛸皇女(更の名、菟道磯津貝皇女)
と又の名で同名だと記述されている。東宮聖徳に嫁いだともされます。
これは広姫も額田部皇女(推古)も、ともに敏達の皇后であるから、ありえないのでは
という指摘です。

じゃーこれはどういうことなのか?というと聖徳太子は押坂彦人大兄王子だとすると
謎とける。
皇后の広姫は 敏達4年(575年)薨去しています(彼女出生時になくなった可能性は
あると思います?)
聖徳太子は574年生まれです。
つまり、押坂彦人大兄王子がまだ幼い時にお母さんである皇后の広姫がなくなり、
つぎの皇后の額田部皇女(推古)が彼ら3人を引き取り育てたっていうことでは
ないでしょうか。

だから、彼が王となることについては蘇我氏側にも何ら問題なかったと思います。
馬子とこの押坂彦人大兄王子の関係はよかったように思います。
問題は彼が蘇我の血をひかないってことです。

蘇我氏は、王家と姻戚関係を持ち外戚として権力を得ます。これは蘇我摂関政治です。
585年、敏達崩御後に、欽明天皇の妃の蘇我 堅塩媛の子の大兄皇子が即位しました。
これは、蘇我の血が流れる初の蘇我の王の誕生です???

このあと、不思議な話が続きます。

蘇我稲目の娘であり蘇我馬子の妹の小姉君の子とされる、
穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子の3人。
それと用明天皇。彼らは蘇我の王ではない?

用明天皇崩御後、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとし、蘇我馬子は泊瀬部皇子
を皇位につけようとしています。
結局、蘇我馬子は、妹の子供の穴穂部、泊瀬部を殺しています???おかしいですよね。
だいたい、なんで物部守屋が、蘇我の王である穴穂部皇子を応援するの?
彼らは、蘇我小姉君の子供じゃないんじゃないの?


宣化天皇の皇女石姫の子の次男の渟中倉太珠敷尊(敏達)が、王になれたのも、
額田部皇女(推古)を妃(蘇我氏はこの第二王子に接近した)としたからでしょうけど、
本来は第一王子だった箭田珠勝大兄皇子こそ、当然次期皇太子の筆頭だったはずです。

蘇我稲目の娘の堅塩媛の子の大兄皇子(用明天皇)を、大兄皇子と表現することはありえない。
宣化天皇の皇女とはお母さんの身分がちがう。蘇我稲目の娘は王家の血がながれていない。
つまり、大兄皇子といわれる用明天皇とは、石姫の長男の箭田珠勝大兄皇子のことなのでは?
在位が2年という短かさもこれが理由。

それで、用明天皇崩御後・・・
これも、宣化天皇皇女の稚綾姫皇女の子の石上皇子は穴穂部皇子?であり、物部系の王子
なのではないでしょうか?

ウイッキペデア・・・
「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で養育されたことに由来する
と考えられている」
つまり、物部領地である。物部守屋が彼を王にしたかったのも当然のこと。

泊瀬部皇子とは宣化天皇皇女?とされる日影皇女の子の倉皇子なのでは?
日本書紀・・・倉梯に宮をつくった。天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。
(本当は、法隆寺近くの藤ノ木古墳が暗殺された、この崇峻天皇と穴穂部皇子のお墓であり、
斑鳩寺は法隆寺金堂薬師如来像光背銘にあるように、この二人を祀るために造られたお寺でもあるわけです。

穴穂部皇子(石上皇子?)のお墓に、お母さんが異なりますが、共に宣化天皇皇女であり、
欽明天皇の子である崇峻天皇(倉皇子?)が暗殺され、ここに合葬された。
崇峻天皇は殯もおこなわず埋葬されています。陵墓なんて造っているわけない。
この藤ノ木古墳は、「陵」(ミササキ)と呼ばれていました。

ともかく妃が宣化天皇の子供からしか王にはなれなかったように思うのだけど・・・?


天皇記作成時には、まだ聖徳太子という名で蘇我側に取り込まれていなかったと思う。
何故、押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)を蘇我の系譜に取り込む必要があったのか?
というと、・・・
いうまでもなく押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)と、その子の山代王一族(この山代王殺害に
ついては、中大兄皇子と中臣 鎌足の入鹿殺害を正当化するための作り話の可能性あり)
を殺したから。

押坂彦人大兄皇子はもちろん大王(おおきみ)、つまりこれは王殺しの大逆罪になる。
崇峻天皇を殺し、穴穂部皇子を殺し、山代王を殺し?、さらに聖徳太子までも?
さすがに、事実を書くわけにいかなく歴史を改竄する必要があったわけ。


彼が聖人のように描かれ、聖徳と言われるのは、もちろんかれが優秀で、仏教を庇護
してきたからでしょうけども、大きな理由は祟りを恐れて。
聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子によって殺された。
子供の山代王一族は蘇我入鹿によって殺された?
子孫の、長屋王も藤原氏によって殺された。
そして、天智天皇により孝徳天皇?や有馬皇子も。
これ、もー祟らない方がおかしいって言ってもいいわけです。


では何故、蘇我馬子は彼が邪魔になったのか?以下もちろん推測ですが・・・
蘇我馬子は、額田部皇女(推古)の子、つまり姉の蘇我堅塩媛の孫の竹田皇子を王としたかった。
押坂彦人大王の後、この竹田皇子を王にしようと考えていた。
しかし彼は病弱だったのと、自身の年齢の問題もあって、蘇我の血をひかない
押坂彦人大王が邪魔になり暗殺した。

もうひとつの理由(これが本当の理由かな?)は、対外政策において、蘇我馬子と対立していた。
聖徳太子は新羅出兵を試みています。蘇我氏は、もとは新羅からの渡来人です。
推古天皇が、新羅と対立していた任那を助けようという記述ですが、これはもちろん、
大王である聖徳太子がおこなったことです。

聖徳太子の弟とされる来目皇子は、征新羅大将軍として遠征途中の筑紫で亡くなって
新羅遠征は中止されます。
後を受けた当麻皇子も、妻の舎人皇女が亡くなったため新羅出兵は果たされていません。
これは共に蘇我馬子による策略です。

蘇我の本地から離れ、斑鳩の宮に移ったのもこれが理由のように思うのですが・・・?
623年には、新羅は任那を併合するということになりました。


この暗殺事件は、鏡の銘文の623年(葵未年)以降、おそらく623年から626年(蘇我馬子没年)
の間のことだと思います。
・・・というか、624年なんだけど・・・鏡の謎とければほぼわかるのですが、・・・
実は、謎解きはここからです。

左の写真は、明日香村にある聖徳太子誕生の地といわれる橘寺です。
生誕の地は勿論、おしさか。ここは豊御食炊屋姫尊の家で、聖徳太子が
育った場所です。推古天皇は育ての親です。
ここで生まれたのは竹田皇子です。

右の写真は、聖徳太子の等身像とされる救世観音像がある法隆寺の夢殿です。













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