聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

神武天皇と応神天皇の謎と倭の五王

2016年04月23日 | 日本書紀の謎


まず、応神天皇の謎について・・・
継体天皇は応神天皇5世の子孫であるとされます。しかし、この応神天皇というのは
架空の人物です。継体天皇は、この応神天皇に繋がると主張していたわけでは
ないのです。この応神天皇の謎が解ければ、記紀における大きな問題点が解決します。

ウイッキペディア・・・
継体天皇
鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。
これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野
毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公
王(=継体天皇)」とされる。
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継体天皇は、応神天皇の5世の孫とされます。しかし、本来、継体天皇は、
垂仁天皇の皇子の誉津別命から繋がるって主張していたのです。それを、
応神天皇に繋げるために、つまりこの誉津別命の位置に、応神天皇を、
持ってくる操作がなされている。
そして、応神天皇を、誉津別命とよく似た名前に、誉田別尊(ほむたわけのみこと)に
している。凡牟都和希王は「ホムツ」であり、「ホムタ」とは読めない。

この応神天皇というのは、本来は神武天皇のことであり、神武天皇とは武内宿禰なのです。


この操作の謎は凄く簡単に解けます。3世代増やしただけです。そして、日本書紀、古事記
が何故、倭の五王のことを語らないかの謎も解けます。

ウイッキペディア・・・
「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下
って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同
じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代
の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の実在性には疑問が
出されている。
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「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持つとされます。
この3人は架空の天皇であり、記紀作成時に組み込まれたものです。
継体天皇を応神天皇に繋げるために増やしただけです。誉津別命に繋げたくないのです。

本来、継体天皇は、垂仁天皇の皇子の誉津別命から繋がっていると主張していたのです。
それを、応神天皇に繋げたのです。どうして、こういう操作がなされたのかとういと、この
誉津別命から繋がるのが天武系の王たちであり、物部系の王だからです。

崇神天皇―垂仁天皇―景行天皇―成務天皇―仲哀天皇―応神天皇
崇神天皇―垂仁天皇―誉津別命

この三人(景行天皇・成務天皇・仲哀天皇)をとれば、垂仁天皇の皇子の位置にくるのは、
応神天皇でしょう。


武内宿禰は、この12代から16代(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)の天皇に仕えたとさ
れるのは、この12代景行・13代成務・14代仲哀を後に組み入れたため不自然な長寿にな
ったわけです。本来は、品陀眞若王―仁徳天皇・大雀命の時に、葛城地方の王だっただけです。
蘇我馬子は、この葛城の王に蘇我氏を繋げたわけです。もと同族だったからです。
応神天皇は、もとは、神武天皇として描かれていたのですが、天武によって武内宿禰として、
大王に仕えたという人物に変更されたのです。

それで、この景行天皇。非常に沢山の子供たちですよね。皇后の八坂入媛命は10人もの子
供たちです。この時代の寿命を考えるとありえない。
これ、垂仁天皇の皇子たち、誉津別命、五十瓊敷入彦命、 稚城瓊入彦命・・・など、複数の
人物を、一人の景行天皇という人物にをまとめたからです。


系譜に関してはは、本来は垂仁天皇のあと、誉津別命系統と、五十瓊敷入彦命系統の2系統
に別れる。

上宮記の系図、継体は、垂仁天皇の皇子の誉津別命から繋がると主張していたのです。
上宮記・・・
凡牟都和希王―若野毛二俣王―太郎子―乎非王―汗斯王―乎富等大公王

ですので、この系図自体も怪しいように思うのですが・・・?どうでしょうか?

それで、記紀においては、この誉津別命に関しては、不思議な話をつくっているでしょう。
以前にも記述しましたが、これがいかにもあやしい。彼からの後嗣を消しさっていますよね。
これ、記紀においての常套手段。

もともとは、垂仁天皇のあとの、誉津別命から繋げていたの思うのですが?

ウイッキペディア・・・誉津別命
『日本書紀』によると皇子はある日、鵠(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」
と初めて言葉を発した。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。湯河板挙(鳥取造の
祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発
するようになった。ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとある。

一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。天皇は尾張の
国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池・ 軽池に浮かべて、皇
子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれ
を見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・
信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。

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これ、つまり、この地名、日本書紀の出雲、但馬、鳥取など山陰地方。
そして古事記にある、紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越はこの
垂仁天皇と、誉津別命の時代にこの地方がヤマト王権の支配下に入ったという示唆。
ここから、二系統に分岐しているということ。

この、継体天皇は、近江で誕生したとされますよね。継体天皇はこの垂仁―誉津別命の系統
から繋がっていると本来は記述されていたのです。
記紀に先んじる、「帝紀・旧辞」において、おそらく、この誉津別命の活躍が記述されてい
たのだと思います。

言葉を発することができない。赤子のように泣いてばかり。だから後嗣がない。
そして、この誉津別命のお母さんは、狭穂姫命であり兄の狭穂彦王は天皇を暗殺しようとし
ます。古事記において、狭穂彦王の叛乱として語られ、共に天皇に逆らって亡くなったとさ
れます。
でも、まーなんて、単純な作り話でしょう。こんなの信じる方がおかしいじゃないですか?

これ、つまり、垂仁―誉津別命の系統を消し去っているということですよね。
何故こんなことをするのかっていうと、継体はこの誉津別命から繋がるって主張していたか
らです。それを応神天皇につなげるため、後に12代景行・13代成務・14代仲哀の3人を
系譜に組み入れたのです。誉津別命に繋げたくないのです。

そして、本来の王家・・・
ウイッキペディア・・・
仁徳天皇・・・
日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、こ
の記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。

日本書紀
大鷦鷯天皇、譽田天皇之第四子也。母曰仲姬命、五百城入彥皇子之孫也。

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これ、日本書紀によれば、五百城入彦皇子の孫は、仁徳天皇だということですよね。
そして、五百城入彦皇子の皇子は、品陀真若王ということですよね。皇子は彼しかいないで
すよね。つまり、品陀眞若王の皇子が仁徳天皇ということですよね。
すると、品陀眞若王は譽田天皇であり、この品陀眞若王は応神天皇ということですよね。
これ、帝紀・旧辞からそのまま移してしまって変更し忘れた。日本書紀はミスっちゃったね。
日本書紀は、真実を書いてしまった。こういう小さな矛盾点から、改竄箇所が判明する。


つまり、こういうことですよね。これが本来の王たちなのでは?
崇神天皇―垂仁天皇―五十瓊大雀命敷入彦命―五百城入彦皇子―品陀眞若王―仁徳天皇・大雀命

だから、なのですが、・・・この歌(これは大雀が七支刀を佩刀している姿を歌ったものだ
とも言われますよね。この歌も、「品陀」としているわけです。

品陀(ほむた?ほむだ?ほんだ)ひの御子(みこ) 大雀(おおさざき) 大雀(おおさざき)
佩(は)かせる大刀(たち) 本(もと)つるぎ 末(すえ)ふゆふゆ木(き)のすから
が下樹(したき)のさやさや

七支刀の銘文・・・
それで、七支刀の裏面の文字の問題の箇所
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

だから、この「倭王旨」の「旨」は「眞」の略字であって、品陀 眞 若王の
皇子が仁徳天皇であり、この「旨」は王の名前なのでは?・・って考えた理由
なのですが?

応神天皇は誉田別命なのですが、品陀和気命や誉津別命は別人だということと、
応神天皇は架空の人物だということです。

さらにもう一つ、日本書紀、倭の五王の謎を解くのに重要な箇所。これ変更箇所
を正直に語っているように思うのですが・・・?

ウイッキペディア・・・
応神天皇の子の大鷦鷯尊(仁徳天皇)と武内宿禰の子の平群木菟宿禰とは
同日に生まれた。その際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、
武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、
その鳥の名を交換して各々の子に名付けた
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これ、応神天皇―仁徳天皇は、本来は武内宿禰―平群木菟宿禰であるという暗示です。
この武内宿禰から繋がる、平群木菟宿禰の皇子たちが、履中天皇「倭王讃」
であり、反正天皇は「倭王珍」であるといこと。彼らが、河内王朝(葛城の王)です。

つまり、これは応神天皇と武内宿禰は同一人物であって、応神天皇というのは架空の人物。
応神天皇というのは、武内宿禰のことでもあるのですが、彼の位置にある他の系統の王が、
品陀真若王ということです。葛城系と物部系です。
応神天皇を、譽田天皇としたのは、品陀眞若王とよく似た名前ににしたからです。

そして、もうひとり、重要な人物がいます。大雀命の兄にあたる、菟道稚郎子皇子です。
お母さんは、先代旧事本紀のいうように、物部多遅麻連の女の山無媛であり、お父さんは品
陀眞若王です。お母さんや、妹の名前が矢田皇女ともされることからも物部系の王です。
彼が、倭の五王の「彌」の兄の「贊」で、物部系の王たちなのでは?


本来は、武内宿禰の皇子である平群木菟宿禰の皇后が、磐之媛命であり、その皇子は履中天
皇、反正天皇。彼らは、つまり、葛城系の王たち。
仁徳天皇のあと、葛城の王である「倭王讃」、「倭王珍」が王に選ばれた?(王座を簒奪した?)
ということ。

大雀命の皇后が、この矢田皇女であり、その皇子が允恭天皇になるのでは?
品陀眞若王の皇子が仁徳天皇であり、その皇子が、「済」允恭天皇であるということ。
菟道稚郎子皇子が倭王贊であり、大雀命は倭王彌であり、ともに物部系の王です。


ウイッキペディア・・・
天皇の中にはワケを称号にもつものが6名存在する。景行天皇はオシロワケ(大足彦忍代別)、
応神天皇はホムダワケ(誉田別、凡牟都和希)、履中天皇はイザホワケ(大兄去来穂別、大
江之伊邪本和気)、反正天皇はミズハワケ(多遅比瑞歯別)、顕宗天皇はイワスワケ(袁祁之
石巣別命)および天智天皇はヒラカスワケ(天命開別)をワケの称号にもっている。

本来は天皇となれなかった皇子たちの地方領主としての称号がワケである。そのワケが天皇
につけられたのは地方領主的ワケの皇子が中央に入って天皇となったために付いている可
能性がある。
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これ、ワケの称号からも推測できます。
履中天皇、反正天皇、そして市辺押磐皇子の子の顕宗天皇も、ワケでしょう。
これ、天智がヒラカスワケだからです。市辺押磐皇子からつながるのは、天武系の王たちで
はないのです。彼らは、葛城系の王たちであり、天武と対立する天智は物部系の王家に繋げ
たくはないのです。天智系天皇であり桓武天皇の時代に変更されたものです。

倭の五王・・・
葛城系・・・
武内宿禰―平群木菟宿禰―履中天皇「讃」・反正天皇「珍」

物部系・・・
品陀眞若王「倭王旨」―兄の菟道稚郎子皇子「贊」・弟の仁徳天皇「彌」―允恭天皇「済」―
安康天皇「興」―雄略天皇「武」

梁書・・・
晉安帝時、有倭王贊。贊死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。・・・

梁書が語るのは、この倭王「武」の、物部系の系図。宋書倭国伝が語るように、讃と珍とは
兄弟ですが、済とは兄弟ではないとし、さらに宋書倭国伝と梁書、どちらも間違って記述さ
れていないとしたら、二系統になる。それで、王にふさわしい人物が共立された?ということ。
あるいはこの時、葛城系の王が王位を簒奪したということ。
蘇我氏はこの葛城系であり、天武系の王はこの物部系から繋がる。この物部・天武系の王が
本来の古代から続く王家だと都合が悪いのは、蘇我氏であり、天智系の天皇や、藤原氏なの
です。

奈良盆地の東西に位置する、東側の物部系の王は、品陀真若王。盆地西側の葛城の王は武内
宿禰ということ。一系で繋ぐため、この二人を纏めた人物が応神天皇ということ。
そして、蘇我馬子は、仁賢、顕宗のお父さんであり、手白香皇女の祖父である市辺押磐皇子
を、葛城系の履中天皇に繋げている。

品陀眞若王(物部の王)、武内宿禰(葛城の王)は同じ位置にいて、一つにまとめたのが応
神天皇であり、武内宿禰は、本来は神武天皇として描かれていたのです。

応神天皇―仁徳天皇は、品陀真若王―仁徳天皇であるならば、応神天皇の后である、品陀真
若王の娘とされる仲姫命、高城入姫命、弟姫命たちは、本当は品陀真若王の后たちなのでは?
つまり、その皇子皇女たちは、本来は品陀真若王自身の子供たちだろうと推測できます。

同じように、武内宿禰の子の、葛城 襲津彦の娘の磐之媛命(石之日売命)は仁徳天皇の皇
后となり、履中・反正を儲けたとされるのは、仁徳天皇ではなく、平群木菟宿禰との皇子た
ちなのではないでしょうか?仁徳天皇の本来の皇后は八田皇女です。名前の、八田、矢田か
らも想像できますが、先代旧事本紀においては、彼女の母は物部多遅麻連の女の山無媛とさ
れます。允恭天皇は彼女に繋がるのでは?

そして、応神天皇から、大鷦鷯尊こと仁徳天皇に繋げる女性、つまり、応神の皇后はこの仲
姫命((なかつひめのみこと)ですよね。前回記述しましたが「なかつひめ」ですよね。
さらに、仲哀天皇(たらしなかつひこ)の、后も大中姫命(おおなかつひめのみこと)です
よね。「なかつひこ」に「なかつひめ」、もちろん、二人共架空の人物です。

これが、物部系の本来の王たち。卑弥呼こと台与は、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命。

崇神天皇―垂仁天皇―五十瓊敷入彦命―五百城入彦皇子―品陀眞若王―菟道稚郎子皇子―
仁徳天皇・大雀命―允恭天皇―雄略天皇

葛城系の王・・・
武内宿禰―平群木菟宿禰―履中天皇「讃」・反正天皇「珍」

五十瓊敷入彦命・・・
石上神宮の神宝に関する伝承で知られます。この石上神宮は物部氏の氏寺です。
また、五十瓊敷入彦命を主祭神とする、伊奈波神社は物部神社であるとされます。
お母さんの日葉酢媛命も、もちろん物部の女性です。
陵はもちろん、景行天皇の陵墓とされる、山邊道上陵(渋谷向山古墳)が、この五十瓊敷入
彦命の陵墓です。ここいらへんはもちろん、物部の支配地です。


写真は、神武天皇が即位した場所だという伝説が存在する御所の柏原です。近くに神武天皇
の宮跡だとおもわれる秋津遺跡が発掘されています。

ウイッキペディア、秋津遺跡・・・

年代は3世紀後半から4世紀中葉にかけての初期ヤマト王権の時代であり、板塀とみられ
る遺構は、分厚い板を立てたのち、丸太を横木として添え、両側から挟み込むという堅緻な
造りである。これは、葛城地域を本拠とする豪族の広大な祭祀空間を方形に囲った板塀の可
能性があり、5世紀以降に強盛をほこったヤマトの豪族葛城氏につらなる勢力の存在が考え
られる。
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紀氏家牒・・・
家牒曰、紀武内宿祢者、人皇第八代孝安天皇曽孫、屋主忍武雄心命之嫡男・母曰山下影媛
一、・・・・・家大倭国葛城県五処理。一、今葛城里、玉手里、博多里、賀茂里、室里等是
也、墓在二彼処一。

この、紀氏家牒に記述されているように、武内宿禰の家は非常に広大な範囲ですよね。
神武天皇(武内宿禰)の宮・・・五処理(御所)、葛城、玉手、博多、賀茂、室等。

この御所の柏原周辺にある中西・秋津遺跡などが、武内宿禰の宮こと神武天皇の宮が存在し
た場所。後の葛城氏であり、この地方を初めて治めた王として描かれているのが神武天皇
なのです。

そして、この室にある室宮山古墳墓が、武内宿禰のお墓であり神武天皇のお墓。
本来は、4世紀の人物なので、前方後円墳でいいのです。
神武天皇が、即位したとされるのは、この御所の柏原です。


神武天皇社・・・

祭神は神倭伊波礼毘古命「カムヤマトイワレヒコノミコト」で、初代神武天皇の即位した場
所であると言われています。享保21年(1736年)の大和誌 には「橿原宮。柏原村に在り」
と記し、本居宣長も明和9年(1772年)の「菅笠日記」に、「畝傍山の近くに橿原という地
名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いた」と記しています。
言い伝えによると、この地が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなる
ので、明治のはじめに証拠書類を全て焼却して指定を逃れたという。

本殿は流れ造りで天保四年(1833年)九月正還宮の棟札がある。
本社の前にある境内社「嗛間神社」(別名ホンダワラの宮)は、「サワリの神」と称され神
武天皇の前后である吾平津姫(アヒラツニメノミコト)を祀る。
伝承によると神武天皇が大和を平定した後、三輪の大物主神の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命
(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后に迎えたためやむなくこの地に侘び住まいしたと
伝えられる。その怨念が夫婦の縁を呪うとわれ、昔から嫁入りの行列はこの神社の前を通っ
てはならないとされていた。
里の北西には本馬山(標高143メートル)があり、神武が国見をした「掖上の嗛間の丘」
であると伝えられる。
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この地は御所の「柏原」です。初代神武天皇の即位した場所であると言われています。
神武天皇の宮が存在した場所なので、「御所」なのです。
この神武天皇というのが、武内宿禰のことであり、後の葛城氏のことです。
蘇我氏はこの武内宿禰を祖とします。なんども云いますが、天皇家なんて存在しない。
神武の東征の畿内での物語はこの、武内宿禰を祖とする氏族、(紀氏・巨勢氏・平群氏・
葛城氏・蘇我氏など)対、物部系(邪馬台国)の争いです。

現在、神武天皇の宮は橿原市にある橿原神宮です。この橿原神宮は、即位の礼が行われた
とされる宮址に、明治23年に創建されました。この橿原市の市名も、ごくごく最近(昭和31
年)に名付けられたものです。
伝承のように、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、大和誌 にある「橿原宮。柏原村に
在り」とは、この御所の柏原のことです。
神武が国見をしたという、この国とは葛城のことです。写真、奥に見える山は金剛山と葛城山です。
何故、神武天皇の宮が金剛山や葛城山の山麓部分である西側ではなく、葛城の東側の御所の
「柏原」に宮が造られたのかという理由があります。この地から山間部を、東に一里ほど抜ける
と明日香に至ることができるからです。

これ明らかに、神武天皇の宮は間違った場所に造られてしまいました。間違いのないような
伝承が残っているのに、何故なのでしょうか?
架空の人物とでも考えられていたのでしょうか?たしかに、現在の橿原市は、明日香北部、奈良盆地
の中央南部に立地します。でもどこでもいいわけではありません。歴史が変わります。

神武天皇陵がどこか不明になってしまっていたのは、記紀により、異なった人物「武内宿禰」
として描かれてしまったからです。彼も倭王武です。神様の武で、神武なのです。

武内宿禰を 神武天皇という架空の人物にしたため、お墓も別の場所に治定しなければならなかった
わけですが、古事記や日本書紀にいう畝傍山の北には神武陵らしきものはありません。
いま神武陵とされる所は、たぶん古墳ではありません。したがって誰も眠っていないのでは?
ミサンザイと呼ばれていた小さな塚を、神武天皇陵として大きく造りかえたものです。




写真、二段目は、神武天皇社の傍にある、本馬山の東側にある燕神社から撮影したものです。
神武天皇が国見をした、「ホホ間の丘」とはこの本馬山のことで、本来は山の西側部分から国
見をしたわけです。
ですが、奈良盆地を見渡たすのに、この場所から見る訳ありません。
神武天皇が、国見をした、この「国」とは葛城地方のことです。
またここから2kmほど南部には、国見山があります。勿論、この山から見える国とは葛城地方の
ことです。奈良盆地全体を見渡すのこんな場所から見るはずはありません。

神武天皇と、崇神天皇は、ともに、「はつくにしらすすめらみこと」とされます。
ともに、初めて国を治めた天皇という称号をつけられています。初めて国を治める天皇が、
ふたり存在することになり、これも謎だとされていますが、そうではありません。
これは、この「国」が異なるのです。
神武天皇は、この葛城を治めた初めての天皇としての「はつくにしらすすめらみこと」とい
う意味です。
神武天皇の宮は、間違った場所に造らてしまいました。
だから、どこかわからなくも、架空の人物と推測されていたとしても、どこでもいいわけで
はないのです。
実際に、訪れてみてください。神武が国見をしたという、この「国」が奈良盆地南部の葛城
地方だということは容易に分かります。

写真、下段は、景行天皇陵墓とされる、天理市にある山邊道上陵(渋谷向山古墳)です。
ここいらへんは、物部の領地です。


                                    

    




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