聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

天照大神と丹生都比売

2009年10月07日 | 朱砂女王卑弥呼
中国では日本人を「呉の太伯の子孫」だという伝承があります。この伝承は、まったくトンデモ・・・と思っていたのですが、稲作伝来の時期と重なるのであれば、話は違ってきます。この呉は春秋時代の呉(紀元前585年頃 - 紀元前473年)です。君主の姓は「姫」です。有名な「呉越同舟」、「臥薪嘗胆」の言葉からも、隣の越の国と常に戦乱状態でした。
そしてこの時期、この呉から稲作が伝わったとも言われます。また呉の風習は、魏志倭人伝に書かれている風習にも似ているといわれます。風習や、稲作が伝わったということは、人間が多数渡来してきたということでもあります。
渡来人といわれる人々が、中国や朝鮮半島からやってくる主な原因は、戦乱から逃れるためです。呉が滅亡後に、かなりの人々が日本にやってきたと考えられるように思います。
紀ノ川沿い、伊都郡かつらぎ町に、丹生都比売神社があります。中央構造線上にあり、辰砂などの鉱物を産出しやすいところです。
祭神の丹生都比売こそ稚日女命といわれ、なんと呉の太伯の血を受け継ぐ女性だそうです。天照大神(大日女)の妹神ということになっています。
つまり、天照大神(大日女)も丹生都比売(稚日女命)もともに、呉から渡来した、太伯の血を受け継ぐ姉妹と言うことになりますが?天照大神の妹というのは、後に繋がりをもたらされたものでしょうけど、興味深い伝説です。
大王家は応神・仁徳王朝で狗奴国、邪馬台国は倭国王帥升の国と考えています。ですが、九州の倭国(邪馬台国)も、南の狗奴国も、ともに中国は呉の太白の子孫が建てた国だとも考えられるように思いますが?争っていましたが、もとは、同じ神様を祭る同じ氏族なのかな???
秦の始皇帝の統一まで、戦乱期が続いたとも考えられ、おそらく大量の渡来人が海を渡って日本に来ました。
人種が変わるほど多数の渡来人です。弥生時代の始まりです。稲作が伝えられ、定住しはじめ、また食料が安定して供給されるようになり、人口も増え、国としての形体が整っていったのだと思います。
朝鮮半島でも、衛氏朝鮮が漢の武帝により紀元前1世紀頃に滅ぼされます。この時に、朝鮮半島から多数の渡来人が北部九州に渡ってきます。おそらく銅の精錬技術伝えた人々です。この渡来人の中から山陰地方に渡っていった集団がありました。この集団こそ銅鐸を作った人々だと考えています。山陰は出雲、さらに東に進み近畿地方北部から、畿内に進出しました。この部族こそ、出雲族ともいわれる集団だと考えています。この出雲族も辰砂などの鉱物を求め、畿内に進出してきたのでは?

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卑弥呼の鏡

2009年10月05日 | 朱砂女王卑弥呼
卑弥呼の鏡といわれているのは、画文帯同向式神獣鏡や三角縁神獣鏡です。
それで・・・これらの鏡が卑弥呼の鏡であろうと、なかろうと、またこれらの鏡が中国産であろうと日本産であろうと、3世紀になると、中国からの鏡の分布が畿内中心になっています。三角縁神獣鏡は、畿内の有力古墳からの出土が多く、畿内を中心に分布しています。画文帯神獣鏡の出土も、畿内と瀬戸内東部に偏っています。これらの鏡の出土は、主に畿内で、中国鏡の輸入が三世紀前半以降には畿内に移行している。つまりこの時期には、畿内が政治的主導権を保持していたと考えられるのでは?
纏向遺跡は2世紀末に出現していて、卑弥呼の時代と重なります。また纏向遺跡には関東から九州までにわたる広範囲の土器が出土します。この時代の中心地です。この時期に纏向に匹敵する遺跡がないのでは?
魏志倭人伝が九州内のことしか記述されていないのであれば、巨大な墳墓を作るこの畿内の勢力を何故無視するのか考えづらいわけです。ですが、魏志倭人伝はほとんど九州内のことしか記述されていません。これは陳寿が、倭国王帥升の国から、卑弥呼共立までの時間の経過、変化を考慮に入れなかった間違いなのでは?また地理もほとんど理解していなかったようにも思われます。
三角縁神獣鏡には、卑弥呼が朝貢した年とも考えられる、景初三年の年号が入ったものがあります。この年は魏王朝 明帝なくなり次の皇帝の斉王が即位したことによる、朝貢とも言われます。ですから景初二年は三年の誤りだろとも言われます。景初二年と記述されているわけですから、景初二年でいいようにも思うのですが・・・?また景初四年のものもありますが、これこそ鏡が日本で作られたものではなく、中国でつくられた証拠のように思います。
ともかく魏の年号が入っているかぎり、この鏡は魏で作られたものに他ならない。ですから、この三角縁神獣鏡こそ、卑弥呼の鏡のように思います。もちろん画文帯同向式神獣鏡もです。それで、鏡が大量に作られたのはなんらかの理由があるはずです。それは辰砂との交易のために中国側が鏡を大量に作くったように思うのですが? (写真は大神神社)

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九州王国

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
倭国王帥升の国が東進して、卑弥呼共立時には九州から畿内までの連合体が存在した。しかし、あくまで連合体です。九州倭国にも王はいます。南九州の狗奴国と直接争ったのは、邪馬臺國連合体(倭国連合体)であるこの北部九州の倭国です。
それで狗奴国は、また九州の倭国はこの後どうなったのでしょうか?狗奴国は、邪馬臺國連合体の中に組み込まれたように思うのです。つまり北部九州の倭国と、南部九州の狗奴国は合体し九州は統一した。しかし、この合体九州王国の主体は狗奴国だったと思います。それでこの後も、この九州王国は畿内の邪馬臺國とは別に、大きな勢力として九州に存在していた。というか・・・この九州の勢力が、4世紀後半、再度畿内へ東進していった。これが応神天皇の東進(神武の東征)。天皇家の初代王。ヤマト王権。ここで初めて畿内の勢力と九州の勢力の合体した。この九州王国は、高句麗の南下政策による、南部朝鮮の国々から(主に百済)の多数の渡来人の流入により、大きな勢力となり、やがて東進していき、畿内の勢力と合体し、巨大な墳墓を築く勢力にまで発展していった。
4世紀中頃から広開土王碑文にある時期位までに、朝鮮半島に出兵しているのは、この九州王国の勢力なのでは。  (写真は箸墓古墳と、三輪山)

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纏向の朱砂王

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
この時代は、大陸に近い九州地方が中心地のはずです。ですが、畿内が発展していきます。それは、人々が集まったからだともいえます。まさに水銀ラッシュと言えると思います。これは、この辰砂(水銀)が、中国との交易に使われからだと思います。中国における辰砂の、主な産地は呉の国ということもあり、中国側、特に魏は日本産の辰砂をほしがったのでは?辰砂との交易品のひとつとして、魏は鏡を製造したのではないでしょうか?中国との交易により発展していき、また人間が集まり畿内が中心地となったのだと思います。それで大きな墓を作ることが可能になったのだと思います。纏向には運河が作られています。この地から運びだされた辰砂(水銀)は、瀬戸内海をとおり北部九州まで運ばれ、そして中国との交易が行われたのだと思います。つまりこの交易により畿内から北部九州までの連合体が成立したわけです。それでこの交易の恩恵にあずかれなかったのが、南部九州の狗奴国です。ですので、争いになったのです。この南部九州の狗奴国と直接争ったのは、北部九州の倭国です。この争いにより、交易がしづらくなったため、畿内の卑弥呼と九州の倭国の王が、魏に朝貢したのです。倭人伝において、倭女王は卑弥呼ですが、倭王とは九州倭国の王です。ですから魏の使者は、九州の倭国にしか行っていない。それで・・・その後、この九州は狗奴国主体に統一されたんだと思います。この統一九州王国こそ大王家です。この統一九州王国が、その後東進します。これが応神・仁徳王朝です。この狗奴国こそ大王家です。 (写真は大神神社、一の鳥居と、天香具山です。)


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倭国大乱は辰砂(水銀)めぐる争い

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
倭国王帥升の国が東進していったのだと思います。中国地方の高地性集落については、いままでいわれていた時期より半世紀さかのぼるといわれています。これこそ倭国東進の証拠だと思います。そして畿内の高地性集落は、倭国大乱の時期と重なると言われています。また銅鐸が消えていく時期とも重なります。ですので、倭国大乱とは、北部九州から吉備国を建国して東進してきた倭国と、出雲族といわれる、山陰から畿内に来ていた先住民との争いです。
そして、この争いは、畿内の辰砂(水銀)めぐる争いとしか考えられないように思います。畿内説の、これは私にとっても最大の問題点なのですが、北部九州が支配地でないなら、畿内が発展するはずない訳です。ですから、2世紀末に、少なくても畿内から、北部九州までの領土を保持することができるのだろうか?これは、たとえ連合体のようなものだとしても可能だろうか?と言うところです。武力で治めたとは、考えられないわけです。纏向遺跡には、外部からの多数の土器が出土します。つまり沢山の人々が奈良盆地目指してやってきたわけです。遠方からの土器も出土しています。ここに来る何らかの理由があるわけです。これは単に市場があり交易が行われたということでなく、この地にしかない重要なものが、此処、纏向に存在したからに他ならない。それは辰砂(水銀)しかない。おそらくこの時期には大量に産出されたのだと思います。 (写真は、唐古・鍵遺跡の楼閣。弥生時代の環濠集落遺跡といわれています。)

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魏の使者は畿内の邪馬臺國には行っていない

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
倭国でいいのに女王国としています。ですので、女王の境界といわれる30カ国の小国と思われる国は邪馬台国の領国ではなく、・・・斯馬国~奴国は、・・・九州の倭国領国。この倭国は、筑紫平野周辺で、そこから北部九州の奴国までが領国。おそらく吉野ヶ里が中心地でしょうか?もしかしたら、この30カ国の小国だと思われる国々はおそらく、倭国王帥升が朝貢した時の文献からの引用された可能性があるのではと思うのですが?
ですので、南の狗奴国とは熊本平野です。これは、正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が九州の倭国に行った時の情報が書かれた文献と、倭国王帥升が朝貢した時の記録が記載されている文献を参考にした、陳寿の勘違い、間違い。混乱はここから。
つまり倭国王帥升の時代から卑弥呼共立までの時間の経過、変化を考慮に入れていない。この九州の倭国王帥升の国が東進し、卑弥呼共立時には、北部九州から畿内におよぶ連合体のようなものが存在していたということです。
魏志倭人伝には、郡より女王國に至ること萬二千余里と記述されています。郡より邪馬台国に至ること萬二千余里ではありません。つまりこれは、郡より倭国に至ること萬二千余里ということです。ですから魏の使者は、九州の倭国にしか行っていない。そして、正始八年の張政等は、伊都国からでていないように思います。
気候・風俗などが記述されている箇所が、九州の倭国の記述だとすると・・・畿内の邪馬臺國のことはほとんど記述されていない。つまり魏の使者は畿内の邪馬臺國には行っていない。魏の使者が向かったのは、九州の倭国(女王国)です。
この距離については、短里が用いられています。帯方郡から伊都国までの行程距離を合計すると一万五百里になります。残り千五百里余りになり九州を出ることはない。また畿内の邪馬台国に、中国の使者が行っているなら・・・「南、邪馬臺國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月」こんないい加減な行程記述のわけがない。普通、目的地が近くなるほど詳細に記述されているはずです。これは臺与が、邪馬臺國から郡まで朝貢した時の行程情報で、単に北を南に変えたもののように思います。

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女王國

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
倭魏志倭人伝は、正始元年に、太守弓遵の建中校尉梯儁等が九州の倭国に行った時の文献ののでは?倭国王帥升朝貢時の情報や、秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢した時のの情報など、複数の文献を参考にして、魏志倭人でとして纏めています。
そして混乱の元は、陳寿が「女王国」と名付けたことです。
以下の女王国は、九州の倭国のことです。
*伊都国・・・世王有るも皆女王國に統属す・・・
*女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも
*郡より女王國に至ること萬二千余里
*男子は大小と無く~倭の地は温暖にして~・・・九州のこと
*女王國より以北には、特に一大率を置
*女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり・・・
これを倭国でいいのに、女王国と呼んでしまっているのです。
そして私たちは、女王国は邪馬台国として勘違いしてしまいます。
つまりこの時期には、倭国王帥升の国が、東進していて、北部九州から畿内に及ぶ連合体が存在していたと言うことです。つまり間違いではないのですが・・・。
魏の使者が向かったのは九州の倭国です。
そして狗奴国と直接争ったのは、北部九州の倭国です。倭人伝の、倭女王は卑弥呼ですが、倭王は九州倭国の王です。
倭国王帥升の時代から、時間の経過とともに政治的な中心地が畿内にある邪馬台国に移動しています。
正始八年に、張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。・・・です。
それで、・・・張政が、邪馬台国に行っているなら、黄幢を卑弥呼に渡しているはずだし、
倭国に行っているなら、倭王に渡しているはずです。それが、難升米に渡しているのは、
おそらく倭国から、張政等の滞在先である伊都国まで出向いたのでは?
ですのでこの倭人伝は、正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が九州の倭国に行った時の情報が書かれた文献を基にしている。
ではこの太守弓遵、建中校尉梯儁等がおもむいた、倭王の住まいするところは何処なのでしょうか?これは倭国王帥升から続く国で、筑紫平野周辺だとしか考えられないように思います。そこから北部九州の奴国までが領国。吉野ヶ里が中心地でしょうか?
そして伊都國を含む、北部九州の国だろうと思われる、末盧國、奴國、不彌國などは、邪馬台国に向かう途中の国々なのでしょうか?これは滞在先である、伊都国周辺の国々を報告しているだけとも考えられるのでは?
ここは少し想像になりますが、・・・おそらく張政等も倭王のもとに行くはずだったと思われますが、狗奴国との争いにより倭王のいる倭国(吉野ヶ里)には行けなかったように思うのですが?




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魏志倭人伝

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
魏志倭人伝については、・・・正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が九州の倭国に行っています。「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。」とあります。
また正始八年に、張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。・・・とされていて、倭人伝は、主にこの塞曹掾史張政等の報告だろうと言われていますが、どうなのでしょうか?
倭人伝はこの建中校尉梯儁が九州の倭国について記述した文献を主に採用しているのでは?。
倭人伝の、倭女王は卑弥呼ですが、倭王は九州倭国の王です。
この文献をもとにして、その後の張政等の報告や秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したときの情報、また倭国王帥升が朝貢したときの情報など、複数の文献をまとめて、一つの魏志倭人伝にまとめています。わたしは、九州の倭国王帥升の国が東進し、卑弥呼共立時には、北部九州から畿内におよぶ連合体のようなものが存在していたと考えています。混乱の原因は、この「女王国」です。

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