中国では日本人を「呉の太伯の子孫」だという伝承があります。この伝承は、まったくトンデモ・・・と思っていたのですが、稲作伝来の時期と重なるのであれば、話は違ってきます。この呉は春秋時代の呉(紀元前585年頃 - 紀元前473年)です。君主の姓は「姫」です。有名な「呉越同舟」、「臥薪嘗胆」の言葉からも、隣の越の国と常に戦乱状態でした。
そしてこの時期、この呉から稲作が伝わったとも言われます。また呉の風習は、魏志倭人伝に書かれている風習にも似ているといわれます。風習や、稲作が伝わったということは、人間が多数渡来してきたということでもあります。
渡来人といわれる人々が、中国や朝鮮半島からやってくる主な原因は、戦乱から逃れるためです。呉が滅亡後に、かなりの人々が日本にやってきたと考えられるように思います。
紀ノ川沿い、伊都郡かつらぎ町に、丹生都比売神社があります。中央構造線上にあり、辰砂などの鉱物を産出しやすいところです。
祭神の丹生都比売こそ稚日女命といわれ、なんと呉の太伯の血を受け継ぐ女性だそうです。天照大神(大日女)の妹神ということになっています。
つまり、天照大神(大日女)も丹生都比売(稚日女命)もともに、呉から渡来した、太伯の血を受け継ぐ姉妹と言うことになりますが?天照大神の妹というのは、後に繋がりをもたらされたものでしょうけど、興味深い伝説です。
大王家は応神・仁徳王朝で狗奴国、邪馬台国は倭国王帥升の国と考えています。ですが、九州の倭国(邪馬台国)も、南の狗奴国も、ともに中国は呉の太白の子孫が建てた国だとも考えられるように思いますが?争っていましたが、もとは、同じ神様を祭る同じ氏族なのかな???
秦の始皇帝の統一まで、戦乱期が続いたとも考えられ、おそらく大量の渡来人が海を渡って日本に来ました。
人種が変わるほど多数の渡来人です。弥生時代の始まりです。稲作が伝えられ、定住しはじめ、また食料が安定して供給されるようになり、人口も増え、国としての形体が整っていったのだと思います。
朝鮮半島でも、衛氏朝鮮が漢の武帝により紀元前1世紀頃に滅ぼされます。この時に、朝鮮半島から多数の渡来人が北部九州に渡ってきます。おそらく銅の精錬技術伝えた人々です。この渡来人の中から山陰地方に渡っていった集団がありました。この集団こそ銅鐸を作った人々だと考えています。山陰は出雲、さらに東に進み近畿地方北部から、畿内に進出しました。この部族こそ、出雲族ともいわれる集団だと考えています。この出雲族も辰砂などの鉱物を求め、畿内に進出してきたのでは?
そしてこの時期、この呉から稲作が伝わったとも言われます。また呉の風習は、魏志倭人伝に書かれている風習にも似ているといわれます。風習や、稲作が伝わったということは、人間が多数渡来してきたということでもあります。
渡来人といわれる人々が、中国や朝鮮半島からやってくる主な原因は、戦乱から逃れるためです。呉が滅亡後に、かなりの人々が日本にやってきたと考えられるように思います。
紀ノ川沿い、伊都郡かつらぎ町に、丹生都比売神社があります。中央構造線上にあり、辰砂などの鉱物を産出しやすいところです。
祭神の丹生都比売こそ稚日女命といわれ、なんと呉の太伯の血を受け継ぐ女性だそうです。天照大神(大日女)の妹神ということになっています。
つまり、天照大神(大日女)も丹生都比売(稚日女命)もともに、呉から渡来した、太伯の血を受け継ぐ姉妹と言うことになりますが?天照大神の妹というのは、後に繋がりをもたらされたものでしょうけど、興味深い伝説です。
大王家は応神・仁徳王朝で狗奴国、邪馬台国は倭国王帥升の国と考えています。ですが、九州の倭国(邪馬台国)も、南の狗奴国も、ともに中国は呉の太白の子孫が建てた国だとも考えられるように思いますが?争っていましたが、もとは、同じ神様を祭る同じ氏族なのかな???
秦の始皇帝の統一まで、戦乱期が続いたとも考えられ、おそらく大量の渡来人が海を渡って日本に来ました。
人種が変わるほど多数の渡来人です。弥生時代の始まりです。稲作が伝えられ、定住しはじめ、また食料が安定して供給されるようになり、人口も増え、国としての形体が整っていったのだと思います。
朝鮮半島でも、衛氏朝鮮が漢の武帝により紀元前1世紀頃に滅ぼされます。この時に、朝鮮半島から多数の渡来人が北部九州に渡ってきます。おそらく銅の精錬技術伝えた人々です。この渡来人の中から山陰地方に渡っていった集団がありました。この集団こそ銅鐸を作った人々だと考えています。山陰は出雲、さらに東に進み近畿地方北部から、畿内に進出しました。この部族こそ、出雲族ともいわれる集団だと考えています。この出雲族も辰砂などの鉱物を求め、畿内に進出してきたのでは?