聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

酒船石と亀形石造物の謎

2019年11月29日 | 日本書紀の謎


飛鳥には沢山の石造物があります。飛鳥観光ではこの石造物も人気のスポットになっています。用途の不明なものが多く、謎の石造物とされます。
一番人気は何といっても亀石でしょうかね?
亀かどうかはわかりませんが、なんかカワイイ造形ですよね。
この亀石の他にも、今回書くつもりである、酒船石や、亀形石造物、そして橘寺の中にある二面石、吉備姫王のお墓にある猿石も人気です。
あと弥勒石、須弥山石など・・・そしてマラ石も(*^▽^*)

石造物とはいえないけれども、古墳で使用されていた石舞台古墳や鬼の俎・鬼の雪隠なども石で造られた遺構である。
石舞台古墳は飛鳥では一番の観光名所です。
これらの石造物を訪れるのもいいですよ。ただ、車で回ると、止めた場所から少し歩かないと行けなくなるところもありますので、季節的に良い気候であれば、飛鳥観光はレンタサイクルで巡るのがお勧めです。

もう一つお勧めの石造物が・・・すこし離れていることもあり、飛鳥観光においてもあまり訪れる人が少ないのが益田岩船です。近くで見るとその大きさにびっくりしますよ。
ぜひ訪れて下さい。ただし、夏場は蚊が多いのと、私はここでマムシに遭遇しました。要注意です。しかし一見の価値のある石造物ですよ。



今回はこの酒船石や関係すると思われるの亀形石造物に関する謎です。酒船石の上部に彫られた不思議な形状から、いろいろ説が存在します。清酒を作る施設なのでは?という説から、この石は酒船石と名付けられています。

有力な説は酒船石は祭祀用の施設だろうということです。ですが一体どんな祭祀をおこなったのというのでしょうか?
説明できるのなら説明してみなさいよ・・・って言いたいのですが・・・。
それはないだろうと私は思うのですが・・・?
祭祀用の施設なんかではなく、実用的な施設だったように思います。


私は酒船石の謎ときに関しては、そんなに難しいものではないように思うのですが・・・?(*^▽^*)

古代の施設ですし、案外簡単なものですよ。どうして複雑に考えるのか私には理解できない。
酒船石の下には、水をためる亀形石造物があるわけですから、上部から水を流して下部の受け皿にたまる時間を計ったものですよ。
こんなの凄く簡単な推測ではないのか?

酒船石から流した水を下の受け皿(亀形石造物)に流すということは、時間を計っているのです。酒船石、亀形石造物のある施設は漏刻(水時計)であるという推測ををもう少し詳しく書いていきます。

飛鳥水落遺跡は、斉明天皇6年、皇太子であった中大兄皇子が作ったと伝えられる「漏刻」台の跡であるとされています。しかしそうではない。
もう何度も書いてきましたが、天智系天皇である桓武天皇により、孝徳大王の功績を天智の功績として改竄している。天智が天皇に即位したというのも桓武天皇による改竄である。

飛鳥水落遺跡はこの時に大王だった孝徳大王により造られたものである。天智系天皇である桓武天皇により、孝徳大王の功績を天智の功績として改竄している。

そしてこの酒船石、亀形石造物の施設もまた、孝徳大王によって造られた飛鳥水落遺跡に先立つ漏刻だったのではないのかな?




上の酒船石の写真をを見て下さい。水は手前、頭のような円形部分から中央の楕円形の部分を通り向こう側に流れる傾斜になっています。下部の設置面に石を置き意図的に傾斜を作っています。傾斜になっているということは下に水を流すためです。そして、その下には受け皿の形状になっている亀形石造物があります。
この傾斜を利用して、下の亀形石造物に水を流していると推測できますよね。

この頭のようなところから水を流して、なんか手を広げているような2本の溝があるでしょう。この左右に流す二本の溝は、流れる水の量を調整するものである。石の上部の形状は、下に流す水の量を一定にする働きをしている。

水を頭の円形部分から流すと、小判型の中央部分をも通るのですが、水量が多くならないように左右に水を逃がすようになっている。つまり下に流す水の量はそんなに多いものではないと思われます。

この頭の円形部分や中央の小判型の部分は、溝よりも深く掘られていて水が溜まるようになっています。これも重要であるように思う。これによって流れる水の量を調整している。つまり、溝の底辺部分の高さまでは、円形部分や小判型の部分には常に水が溜められる状態にあるわけです。これによって下に流す水の量を調整するようにできている。

そして広げた手のような溝の付け根の部分にも左右、外側に向いた溝があります。これも余分な水を左右に流して、下に流す水の量を調整し一定にするためのものである。この左右にある丸く掘られた部分も、中央の小判型の部分と同様である。溝よりも深く掘られていて水を溜めることができます。下に流す水以外は再利用したのです。

手前から向こうにかけて傾斜になっています。水は少しづつこの傾斜を利用して流している。流れる水の量が多くなった場合に余分な水を外に流れるように二方向の溝が掘られている。酒船石の上部の形状は、下に流れる水の量を調整するためのものである。流す水は少量です。

流す水を一定にするには難しい問題ですが、これで、頭のような部分から流す水が、多少多くても少なくても、つまり流す水の量が一定でなくても、余分な水を外に流し、下に流れる量を一定に調節できます。

単に下に水を流すだけならこんな複雑な形状にしなくていいわけです。
酒船石の上部の複雑な形は、水の量と流れを一定にする、つまり下に流す水の降下速度を一定にするものである。
漏刻(水時計)は、この水を流す速度を一定にすることが重要です。流れる水の量が一定なら、速度も一定になり下の受け皿に水が溜まる時間も一定になる。
亀形石造物は水がたまるような形状になっています。最後の受け皿ともいえるこの亀形石造物に水がたまる時間を一定にするためのものである。



そしてこの亀形石造物は、尻尾の部分から水を抜くようにできていることからも推測できる。水を抜かないと続けて時間を計れないからです。酒船石、亀形石造物が水時計だろうと思う大きな理由です。

亀形石造物は重い石でできていますので、水を抜くのには下部から抜く必要があるのです。水がいっぱいに溜まれば尻尾の部分の栓を抜いて水を抜くわけです。これを繰り返すことで時間を計ったのです。時間を連続で計る、つまり計りなおすのは、たまった水を抜く必要があります。砂時計が身近にありますのでわかりやすいですが、砂が下にたまればひっくり返して計りなおすわけです。

亀形石造物の受け皿は大きいため、水が満杯にたまったという状態を知るのは難しいことです。受け皿に水が満たされた状態を知るための細工もしている。尻尾の部分の上部の縁に小さな溝を作っています。この溝から水が流れはじめると、受け皿に水が満たされたことが分かります。このように精巧に作られていることからも、時間を計ったものだと推測できます。

亀形石造物の手前には楕円形の水槽があります。これは亀形石造物の水を抜いている時間に流れてきている水を溜めるものです。
亀形石造物から水を抜いている時間は、その前にある水槽から、亀形石造物に流れる水を栓を使っていったん止めて、抜いている時間に流れてきた水を手前のこの水槽に溜めます。
そして亀形石造物の水抜きが終わったら、水槽から亀形石造物にふたたび水を流せば、抜いている時間に流れていた水を亀形石造物に流すことができます。
これで正確に連続して時間を計ることができます。

前回に書きましたが、亀形石のある高台の施設は戦乱に備えての防御用の城である。この城の内部から下の亀形石造物・小判形石造物のある施設に水を流して時間を知らせていたように思うのですが?

酒船石、亀形石造物のある施設は、時間を計る施設、漏刻である。難しく考える必要はないように思います。

この施設はこの後も、使用されていたことからも、祭祀用の施設なのではなく、実用的なものであったということが推測できます。
この酒船石、亀形石造物こそ日本で最初の漏刻、水時計だったのでは?渡来人との戦乱に備えて、斉明天皇(本来は孝徳大王)が行ったとされる土木工事、亀形石造物のある丘陵を防御用に整備しなおした時期、655年頃に造られたものである。

四天王寺にある亀形石も、この酒船石遺跡と同構造だともいうことからも祭祀用の施設なんかじゃないことがわかる。四天王寺に天皇が住まいしているわけもなく、つまり祭祀とは何ら関係ないことがわかる。
四天王寺でも時間を計ったのです。時間がわかるということは重要ですよね。









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談山神社創建の謎と中臣鎌足

2019年11月23日 | 日本書紀の謎


今回は、前回からの続きの話です・・・
飛鳥京においての渡来人との戦乱についてです。戦乱はこの飛鳥の地から逃亡先まで広がっている。

写真を無くしてしまったので、飛鳥まで写真を撮りに行ってきました。談山神社は紅葉の名所として知られます。訪れた時は少し紅葉には早い時期でしたが、談山神社は多武峰の山頂にありますので、少しばかり紅葉を見ることができました。神仏分離以前は寺院であり、多武峯妙楽寺といったとされます。

今年、2019年は、669年に亡くなった藤原鎌足公没後1350年にあたるとされます。なんか紅葉期間中には特別展示があるようです。

ですが、残念ながら間違っています。ここに祀られているのは本来の中臣鎌足です。偽物である藤原鎌足とは同一人物ではありません。ですので、没後1350年というのは間違っています(+_+)


写真は談山神社の本殿です。パンフレットによると、大宝元年(701)の創建 で、現存は嘉永3年(1850)に建て替えられたものです。

大宝元年(701)の創建というのなら、長屋王が大王に即位した年であり、創建の由来は、長屋大王が、おそらくこの地で戦死した、孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足をまつるお寺である。
「かみなが姫の物語、藤原宮子の謎」において書きましたが、道成寺も同様に、大宝元年(701)の創建です。この地で亡くなった、有間皇子を祀るために長屋王が大王に即位したときに創建されたお寺である。戦争で亡くなった人々の菩提を弔うためのお寺である。つまり戦乱は拡大している。

これらの由緒を変更したのは、長屋王と対立していた憎き藤原である。
私は、古代の大王家を滅ぼしたといえる秦氏や藤原氏を許せません。その悪事を暴いてやる( ̄ー ̄)凸
教科書に書いているから、日本書紀や古事記は正史だからとして信用してはいけません。特に歴史書は信用できません。歴史は勝者の歴史です。
残念ながら勝者は藤原です。記紀や続日本紀は藤原の歴史書です。


拝殿の中には、「多武峰縁起絵巻」の写本が展示されています。乙巳の変においての蘇我入鹿殺害の場面の絵はよく知られています。
しかし、これも天智(秦氏)や藤原氏によって変更された作り話です。
沢山の人々を殺害し、百済救援のため強大な唐と敵対するという無謀な政策を行った、天智や藤原は、百済からの渡来人である。

ウイッキペディア・・・談山神社

鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。後に本尊として釈迦三尊像が安置される。
     *************************

藤原鎌足の没年は、669年とされます。この鎌倉時代に成立した寺伝においては、・・・長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和のこの大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥であるとされます。ところが、長男である定恵の没年は666年です。ですので、定恵の方が早くに亡くなっていることになり、寺伝に矛盾が生じていてます。
定恵が父親である鎌足のお墓を、摂津からこの地の移したという話は真実ではないわけです。大和の地に移葬した理由も定かではありません。

なぜにこのような矛盾が生じたのかというと・・・改竄された歴史書である日本書紀を基にして後に時代に作られた由緒であるからです。
もうすでに「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところで記述してきましたが、定恵の父親の中臣鎌足は、藤原鎌足とは別人だということです。本来の中臣鎌足は長男の定恵より以前に亡くなっているということです。

そして、中臣鎌足の長男の中臣真人は、僧などにはなっていなくて、孝徳政権においての外交使節である。

おそらく、659年の遣唐使で唐に渡り、660年の百済滅亡の翌年661年の帰国の便で帰っているはずです。本来の中臣鎌足の没年はこの661年より以前であるように思います。

孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足は、渡来人である藤原鎌足(百済渡来人の翹岐)とは別人である。孝徳大王と渡来人である天智や鎌足は敵対していました。ですので藤原鎌足が孝徳政権の左大臣であるはずはない。
渡来人であるとの身分を変更するため、後に、不比等の時代に、関係した中臣氏、実在の中臣鎌足の名を騙ったため由緒が混乱する形になっている。

さらに談山の名の由来に関しては、意図的に変更しているように思います。

前回に書きましたが、654年から656年ころまで続いた戦乱が関係する。斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたとされます。これは防御用の城であり、実際に城を築いたのは大王である孝徳大王である。

656年に、この城において、孝徳大王と左大臣だった本当の中臣鎌足が、渡来人との戦争についての軍議を行ったのが本来の由来であるように思います。

談山神社発祥の由来は、天武天皇7年(678年)とされます。ですので、645年の大化の改新の談合時に、この多武峰に何らかの建物があったということは考えられない。それはわざわざ不便な山頂になんて造る必要がないからです。何もない山中で談合なんてするわけがない。

多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたというのは、戦争に備えての逃走用でもあり防御用の城であるからです。戦乱時には必要な建物だったのでこの時に初めて山頂に造ったのです。ですので、この時以前に何らかの建物があったとは考えずらい。

談山神社の名称の由来は、この655年か、656年に、斉明天皇(本当は孝徳大王)が多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたという両槻宮での軍議が発祥の由来であり、この時にこの城で、孝徳大王と中臣鎌足が渡来人との戦争に関しての軍議をおこなったというのが談山の名の由来であるのでは?

白村江の戦いの敗戦や、その後の壬申の乱により渡来人勢力は弱体化しました。
天武天皇は飛鳥の地を整備し直し、新たな都の建設を始めます。680年に、天武天皇により講堂(現在の拝殿)が創建され、701年に長屋大王により本殿を創建し、孝徳政権において功績のあった中臣鎌足を祀ったのが由来のように推測しています。

何故にこの地に中臣鎌足が祀られているのだろう?という疑問は、前回に書いた丙辰の年(656年)に起きたであろう戦乱が関係する。
中臣鎌足はこの城で、渡来人との戦いにおいて戦死したのだと思います。つまり、戦死した地で長男の中臣真人により埋葬されていて、お墓はもともとこの地にあったのではないのか?この談山神社に祀られているのは、孝徳政権において重要人物だった本来の中臣鎌足であり、長屋大王の時代になってお寺を造り祀られたのでは?この時に同時に長男である中臣真人も、祀られるようになったのではないのかな?


由緒が混乱している理由は、藤原不比等が、この中臣鎌足の名と地位を利用したからです。
渡来人である、藤原不比等は、父親である。藤原鎌足(百済渡来人の翹岐)の地位(不比等本人の地位も上げることになる)を上げるために、不比等の時代に関係した中臣氏、孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足の名を騙って改竄している。後に中臣の名を藤原に変更しているのもこれが理由です。もともと中臣氏ではなかったのです。
藤原鎌足の父親は、中臣 御食子、母親は大伴智仙娘とされます。何度も記述してきたところですが、大伴氏は大王家と深く関係し、藤原氏と対立していた反藤原の豪族です。孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足と不比等の父親である藤原鎌足は別人です。


のちに系譜を改竄したことにより、由来に混乱が生じています。ですので、ここに藤原鎌足(百済渡来人の翹岐)や不比等を祀るのはよくない。

藤原鎌足は渡来人であるとの説は以前からあります。この時代、殺戮の時代ともいわれます。多くの暗殺が行われました。関わるのはすべて百済からの渡来人であるこの藤原鎌足や天智(秦氏)です。
大化の改新とされますが、とんでもない。大王家転覆の大逆罪です。

蘇我氏本宗家滅亡に追い込んだ、乙巳の変。この乙巳の変 が分かりやすい例ですが、権力を握り専横を極める蘇我氏は悪であり、この蘇我氏から大王家に権力を取り戻すために起こしたこのクーデターは正当なものだとして改竄している。

本来は、百済出兵に反対の立場であった、蘇我入鹿、蝦夷暗殺のクーデターである。日本書紀は、藤原氏による自らを正当化するための書物に他ならない。事実は逆である。
いつまでもこの偽書である日本書紀を、正史として扱う限り本来の歴史はみえない。


渡来人との争いはこの後もまだまだ続くことになります・・・



写真は酒船石です。

ウイッキペディア・・・
酒船石遺跡
亀形石造物と小判形石造物および砂岩石垣・版築などの周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになった。

この遺跡は、田身嶺(多武峰〈とうのみね〉とは場所・範囲が違い読み方も不明)にあった両槻宮の一部、あるいは両槻宮への入り口施設だとの論議があるが、考古学的には否定されている。

亀形石造物・小判形石造物
砂岩でできた湧水設備とそれに続く形で小判形石造物と亀形石造物が発見された。これら2つは水槽になっており水を溜めたと推定される。さらにそれに続いて石を並べた溝や石段があり、全体を囲むように石垣や石敷がある。

酒船石の乗る丘陵全域は自然のままではなく、版築と石上豊田山の砂岩の切石で改造した人工的な丘であり延長700メートルまで確認されている。

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この 田身嶺(多武峰)にあった両槻宮とは、斉明天皇(本当は孝徳大王)が多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたととされる、この高殿こそが、両槻宮である。これはこうとしか考えられないようにも思うのですが?
戦乱に備えての高台の宮であり、避難用の建物である。この両槻宮こそが、
談山神社の発祥の由来であるともいえるのでは?



写真は談山神社、談山に、背後には、御破裂山という名の山があります。
御破裂山という、恐ろし気な山の名はこの地で戦乱があったための山の呼称とも思えます。
この山頂に中臣鎌足のお墓があります。中臣鎌足のお墓近くに、「根槻」という場所があります。
「両槻」が「二槻」となり、「根槻」に転じたとされます。
両槻宮(ふたつきのみや)の、「両 ふたつ」の文字に「二」の漢字が使用され、「二槻」になり、「二槻」は、「にき」と読めるので、「根槻」に転じたということです。

多武峰中興の祖とされる増賀上人の大きなお墓もあるのですが、ここいらへんは「念誦崛(ねずき)」といわれる所です。「根槻」が、「念誦崛」になったということですが、江戸時代には紫蓋寺というお寺があり、この近くには今も石垣が残っています。
この石垣こそが両槻宮の跡だという伝説が今も語り継がれています。

斉明天皇(本来は孝徳大王)は、多武峰に石垣を造ったという記述があります。
この石垣とは城を守る石垣であり、斉明天皇の両槻宮とは戦乱に備えての避難用の山城である。





写真は酒船石の近くの石垣です。
この酒船石の乗る丘陵全域人工的な丘だということが判明しています。この酒船石遺跡周辺は、この地に造った石塁で守られた戦闘用の出城のようなものであったように思います。人工的に丘陵を造り、そこに戦闘に備えて石垣で守られた、いわば出城を造ったのではないのか?そして、この場所の石塁は、後飛鳥岡本宮を守るための石塁に繋がっていたものである。

「石上山」の石を運んで「宮の東山」に石垣を築いたとされます。位置的にはこの丘陵は、川原宮の東という位置ではなく、北東に位置します。ですので、「宮の東山」に石垣ではないのですが、後飛鳥岡本宮を守るための石塁に繋がるものである。
前回に書きましたが、後飛鳥岡本宮は、川原宮の東、今の岡寺の場所であり、コの字に開けたの西側の部分を守るための石塁である。

酒船石遺跡にある、石塁は、後飛鳥岡本宮を守るための石塁に繋がっていたものである。開けていた部分の周囲を巡らしていた石塁だったように思います。

それで、この酒船石は何に使用されたのでしょうか?いろいろ説があるようですが?わかりませんよねこんなの。
以下はもちろん私の推測ですが・・・
私は戦闘用の出城だったということから、時間を計算した漏刻、水時計の一部だったのではとも思います。戦にも時間は重要ですよね。



写真は飛鳥水落遺跡です。
ウイッキペディア・・・
この場所が『日本書紀』に登場する天智天皇10年4月25日(辛卯:671年6月7日)条に記された漏刻とその付属施設であることが確認された。

中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り
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飛鳥水落遺跡は天智天皇が作ったとされますが、この時期、朝鮮出兵を画策していた天智が作るわけがない。さらに造る権力もありません。これまで記述してきましたが、天智は天皇ではありません。

飛鳥水落遺跡はこの時に大王だった孝徳大王により造られたものである。天智系天皇である桓武天皇により、孝徳大王の功績を天智の功績として改竄している。天智が天皇に即位したというのも桓武天皇による改竄である。

酒船石遺跡は、祭祀用の施設だっとされますが、時期的にも重なりますので飛鳥水落遺跡に先立つ漏刻だったのではないのかな?

酒船石の上部の形状からは水を四方に分配するような溝になっています。高台にある城の内部、酒船石から下の亀形石造物・小判形石造物に水を流して時間を知らせるもののように思うのですが?例えば城の周囲の警備の交代時間を知らせるものだとかです。
祭祀用の施設だっとされますが、案外実用的な施設だったかもです。





















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殺戮の時代・・・丙辰の乱

2019年11月17日 | 日本書紀の謎


あれ・・?丙辰の乱ってなに?・・って思われるでしょう・・・分からないのも当然です。
干支の名から勝手に作ちゃった(*^▽^*)

古代の大乱は壬申の乱がよく知られています。しかしこの丙辰の年(656年)にも大きな戦乱があったのです。656年は斉明天皇の時代とされます。
この時代の大王家と渡来人との戦乱の様子を推測してみます。

孝徳天皇と天智天皇の争いはよく知られています。孝徳天皇の姉は斉明天皇です。蘇我氏と天智天皇との争いである乙巳の変。天武天皇と天智天皇の争い、後の壬申の乱もそうです。
すべて大王家と、渡来人である天智(秦氏)、藤原氏との争いである。
つまり敵は渡来人である。この争いは、孝徳大王の時代から長屋大王の時代、そして桓武天皇の時代にまで続くことになる。桓武天皇は百済からの渡来人である天智系天皇である。この天智系天皇とは秦氏である。

斉明天皇の時代には多くの土木工事が行われたということは、よく知られていますよね。何故に多くの土木工事を行ったのだろうか?・・・それは、斉明天皇は土木工事が好きだったから・・・こんなバカな答えしかできない歴史学者は失格ですよこんなの。何故にこうも大規模な土木工事をおこなったかまで誰も追及していない。

斉明天皇は、どうしてこれほどの大規模な土木工事を行ったかという理由を考えなければだめです。どういう目的の土木工事であるのかということを考えれば、答えは難しいものではない。
土木工事の内容から、戦乱に備えて飛鳥京の防御を固めたというのは容易に想像できます。

今回は藤原氏の氏寺である、興福寺や談山神社の創建に関することから、いままで述べてきましたが、大王家と渡来人である天智(秦氏)や藤原氏のと飛鳥京においての、戦乱の様子を推測していきます。
孝徳大王と天智の対立の原因とは、百済救援の出兵に関してことです。
この百済救援に関して、孝徳政権と、百済に関係する渡来人である天智や鎌足のとの争いは、どの様なものであったかを考えます。

まず興福寺創建の謎から
聖徳太子の謎について考えるきっかけにもなった、梅原猛氏の著書、「隠された十字架」において興福寺創建に関しての気になる記述が頭の中に残っていました。

ウイッキペディア・・・興福寺創建の由緒

藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。
        ********************
この創建の由来、山階寺が興福寺の起源であるというのは、後の時代に藤原氏による改竄です。興福寺は藤原氏に乗っ取られ、創建の由緒も変更されている。

飛鳥の四大寺は、飛鳥寺(法興寺)、川原寺、大官大寺、薬師寺です。
奈良の四大寺は 、元興寺(法興寺)、大官大寺(大安寺)、薬師寺、そして興福寺です。

この中で、興福寺を除く三寺は寺名は変更していますが、飛鳥の地から奈良の都に移転してきたものです。しかし興福寺だけは飛鳥から移転したものではなく、藤原氏の本拠地ともいえる山科からの移転であるとされます。
何故か川原寺だけ飛鳥の地から奈良京(平城京ではありません)には移転していないとされます。ですが、そんなことはありません。本来は飛鳥から移転したのですが、藤原に乗っ取られている。

実はこの川原寺は、別名では弘福寺と呼ばれていたといことです。この弘福寺は後に「ぐふくじ」と呼ばれるのですが、「こうふくじ」とも読めることから、梅原猛氏は、「こうふくじ」という名前を買収することにより、四大寺の一つの権利をも買収したのではないのかと推測しています。
その通りのように思います。川原寺も飛鳥から移転している。
しかし、名前を買収というような、そんな甘いものではなく、実際は大王家を乗っ取り、寺も乗っ取って由緒を変更し藤原の氏寺にしたということです。

つまり、山階寺の鎌足発願の釈迦三尊像を本尊にして祀ったというのは、藤原氏が寺を乗っ取った時以降の話である。川原寺も同様に飛鳥から移転しているということです。興福寺も他の寺と同様に、本来は飛鳥から移転した川原寺であるというのが起源である。
そして、何故かこの川原寺もまたその起源は明らかではありません。
不思議なことに日本書紀はこの川原寺の起源を一切語らないのです。もちろん、それは明らかにしたくはない由緒があるからだと想像できますよね。

川原寺の本当の起源についても考えてみます。聖徳太子にも関わるところでもあるので以前から気になっていたところでもあるのですが、藤原氏には都合の悪い由緒であるのです。

何度も書いてきたところでもあるのですが、大王家と渡来人との争いの中のこれもまた悲劇である(ノД`)・゜・。
由緒はこの戦乱が関わるため記述できなかたのではないのか?

殺戮の時代ともされますが、この時代の飛鳥京においての、大王家と渡来人との戦乱の様子を推測してみます。

ウイッキペディア・・・川原寺
飛鳥寺(法興寺)・薬師寺・大官大寺(大安寺)と並び「飛鳥の四大寺」の1つに数えられた大寺院であったが、中世以降衰微し廃寺となった。現在は跡地にある真言宗豊山派の弘福寺(ぐふくじ)が法燈を継承する。

天智天皇が母の斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したとする説が有力となっている。川原宮は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が焼失し、翌斉明天皇2年(656年)に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。
    **************************
斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したという説に関してはいいように思うのですが、秦氏に関わる渡来人の天智の母親は斉明ではありません。ですので、天智が創建というのは私には大いに疑問です。

斉明天皇、諱は寶女王。敏達天皇の第一王子、聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の王子である茅渟王の第一王女。母は吉備姫王です。弟が孝徳天皇です。
斉明天皇の子供とされる天智天皇は孝徳天皇と対立していました。思えばありえないような話です。

斉明天皇は、皇極天皇として即位し、重祚して斉明天皇になりました。
しかし皇極天皇として即位したということは真実ではありません。
この皇極天皇時の本来の天皇は、袁智天皇こと阿倍遠智娘です。袁智天皇の崩御後(654年)、655年に天皇に即位したのが斉明天皇です。
654年に崩御したのはこの王后である袁智天皇の方です。孝徳大王ではありません。この事実を改竄している。

渡来人と対決したのは孝徳大王である。この戦乱が丙辰の乱である。

寶女王は押坂彦人大兄皇子の第一王子である、山背大兄王(山代王)の王后である。山背大兄王(山代王)と斉明天皇との子供が天武天皇である。しかし天智はそうではない。天智系天皇である桓武天皇の系譜改竄箇所、天智を王家に繋ぐ操作のひとつである。


これまで大王家と渡来人との争いを考えてきましたが、この山背大兄王の暗殺の事件や、乙巳の変も本来の理由は、百済救援に関わる渡来人との争いである。

そして、斉明天皇の宮であった、飛鳥板蓋宮が焼失したということも同様の戦乱の中の出来事であるのでは?そして、この戦乱はこの後も続くことになり、戦乱の中で、孝徳大王や斉明天皇は殺害されているのではないのか?
押坂彦人大王の王子である茅渟王の子供たちが、孝徳大王とこの斉明天皇である。何度も書いてきましたが、孝徳大王と天智や藤原氏は百済救援のための朝鮮出兵に関して対立していました。
孝徳大王は唐や新羅と手を結ぼうとしていたからです。倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。結果、国内で百済渡来人との争いがおきました。
この戦乱はどの様なものだったかを考えてみます。

壬申の乱は、記述があるので古代においての大きな内乱として知られますが、この壬申の乱以外にも、記述のない大きな内乱は起っている。
壬申の乱と同様に、干支の名を付けるのなら、656年の丙辰の乱である。この時期は斉明天皇の時代とされますが、孝徳大王の時代であり、百済渡来人との激しい内乱が起きている。

斉明天皇(本来は孝徳大王)の時代には多くの土木工事が行われました。どうしてこれほどの土木工事を行ったかの理由を考えなければだめです。
この時代は殺戮の時代です。渡来人との戦乱に備えて飛鳥京の防御を固めたのです。


戦乱の要点をまとめている記述であるように思いますので、ウイッキペディアの記事をそのまま参照させてもらいます。宮が焼失したという記述から、飛鳥京においての大王家と渡来人との戦乱の様子が推測していきます。

この時期には、不自然な位に何度も宮は火災にあっています。この宮が焼失したという主な原因は戦乱によるものだろうと思うからです。

ウイッキペディア・・・
654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。

川原宮は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が焼失し、翌斉明天皇2年(656年)に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。

ウイッキペディア・・・岡本宮
655年の冬に板蓋宮が火災に遭い、斉明天皇は川原宮へ遷ったが、並行して新たな宮殿建設地の選定も行っており、翌年(656年)には岡本に新宮殿が建てられた。これが後飛鳥岡本宮である。斉明天皇は舒明天皇の未亡人であり、亡き夫の旧宮地を選んだということになる。

しかし同年、この新しい宮も火災に遭う。当時、斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたり、奈良盆地に運河を掘るなど、多くの土木事業を営んだが、動員される民衆には非常に不評であった。

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川原寺は、飛鳥板蓋宮が焼失したために移り住んだ斉明天皇の仮宮であった、川原宮の後地に造られたものとされます。

飛鳥板蓋宮が焼失したのは、雷による焼失というのではなく、渡来人との戦乱の結果ともいえるように思うのです。同様にこの川原宮もまた渡来人(秦氏と藤原氏)との戦乱の中で焼失している。
斉明天皇は九州で崩御したとされますが、そのように思えないのです。渡来人のクーデターにより殺害されている。
斉明天皇は天智天皇の先導で、なんと68歳で新羅討伐に出向き、遠征先の筑紫の朝倉宮で崩御したとされます。
女性でしかも高齢(本来の年齢はもっと若い)であったともされる、斉明天皇が、朝鮮出兵のために九州まで出向くというのは考えずらい話ですよね。

川原宮が存在しているのに壊して寺に建て替えるということはありえませんよね。つまり、宮は存在していなかったわけであり、渡来人との戦いの中、川原宮もまた戦乱で焼失したということであるように思うのです。

そして、宮のあった同じ場所に寺を造ったわけですから当然、川原宮に関係するお寺だと推測できます。

創建の由緒は、戦乱で焼失したあとに建てられら川原寺(弘福寺)は、亡くなった斉明天皇の菩提をともらうために、子供である天武が創建した寺である。
天智天皇は、斉明天皇の子供ではなく、殺害した方である。天智の創建という説はありえません。

つまり川原寺の創建年は、壬申の乱に勝利し、天武が大王に即位した673年頃である。天武天皇の宮も飛鳥の地にあり、戦乱によって多くの建物が失われていたとも思われ、天武は飛鳥京を整備しなおしたように思います。

藤原氏による改竄歴史書である日本書紀が川原寺の創建の由緒を語りたくない理由です。斉明天皇を戦乱の中で殺害したのは、渡来人である天智であり藤原氏である。藤原氏にとって都合の悪い歴史である。


そして、ここからが一番に語りたいところであり難しい推測になるのです。
654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御したとされますが、そうではない。亡くなったのは孝徳大王の王后である、阿部氏の娘の袁智天皇である。天皇は女帝の呼称である。

何度も参照しているのですが、・・・
大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」
  ***************************

記述にある、袁智天皇が難波宮にいた年である庚戌年(白雉元年)は650年です。654年に孝徳天皇が崩御したとされますが、そうではなく、王后であるるこの袁智天皇が亡くなった年です。

持統天皇の母親であるとされる、蘇我遠智娘は、蘇我氏の娘ではなく阿部氏の娘である阿部遠智娘です。この阿部氏の系譜を消し去っている。
白雉元年はこの阿倍遠智娘が天皇に即位した年です。白雉の年号は袁智天皇の年号である。
この後、654年に袁智天皇が崩御した後、655年に寶女王が斉明天皇として天皇に即位したのです。

あたりまえだけど、寶女王(皇極天皇)が袁智天皇なんて呼ばれるはずはありません。そして、記紀の記述のように寶女王が皇極天皇として即位しているのであれば、阿倍遠智娘が天皇に即位することなんてできないからです。650年というのは、皇極天皇の在位中であり、天皇が二人いることになりますからね。ですので、寶女王が、皇極天皇として即位したというのは真実ではありません。
孝徳大王が崩御して即位したのではなく、袁智天皇が崩御したから、斉明天皇として即位したのです。本来、「天皇」とは女帝のことです。

そしてこれは、孝徳大王殺害の事実を隠すためでもある。

「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところで書きましたが、孝徳大王殺害は661年であると推測しています。斉明天皇は、重祚したとされ661年まで生きていたとされるのは、文献上で孝徳大王を実際より早くに崩御したと改竄したからです。孝徳大王の崩御年は654年ではなく、この661年であり渡来人との抗争の中に亡くなっている。654年に崩御したのは孝徳の皇后であり天皇だった、袁智天皇である。国家転覆の大逆罪である孝徳大王との戦乱を隠蔽している。


大安寺伽藍縁起并流記資材帳に記述されている文は、まさに日本書紀に矛盾点を暴くものです。
白雉元年である、650年には皇極天皇は天皇として在位中なので、この「袁智天皇」」は誰だかわからないということになっています。日本書紀を疑ってください。
日本書紀の改竄箇所が、この大安寺伽藍縁起并流記資材帳などの他の文献などから推測できます。650年には、袁智天皇という天皇が存在していますから、寶女王が皇極天皇として即位したというのは真実ではない。

推古天皇ー袁智天皇ー斉明天皇ー元明天皇ー元正天皇ー称徳天皇である。

この時代は女帝が続くとされますが、「天皇」とは本来は蘇我氏の呼称であり、女帝の呼称である。蘇我馬子によって、そして後に桓武天皇の時代になってこの「天皇」の呼称を使用して改竄されたのです。

聖徳太子(押坂彦人大王)の王子である山背大兄王が殺害されたのは643年の12月です。この時期から争いは激化している。もちろん殺害したのは蘇我入鹿などではなく、百済からの渡来人たちです。この山背大兄王(山代王)も、もちろん大王に即位していました。


そして645年には乙巳の変がおきます。この乙巳の変とは、渡来人たち(天智や鎌足)による百済救援のための朝鮮出兵に反対の立場であった蘇我入鹿、蝦夷の殺害事件です。これもまさしく大王家転覆のクーデターでもある。
大王家と渡来人は朝鮮出兵に関して対立していました。孝徳大王は唐、新羅と同盟関係を結んでいたのです。飛鳥京は危険な状態にありました。

645年にはすでに孝徳大王は、都が危険な状態にあったので、関係していた阿部氏の領地である難波に王后の袁智天皇を避難させていたのです。
もう何度も記述しているところでもありますが、持統天皇の母親はこの阿倍遠智娘であり、孝徳大王の王后です。ですので阿部氏の領地である難波にいたのです。

しかし孝徳大王と姉である斉明天皇は飛鳥にいました。654年に袁智天皇が崩御したため、655年に斉明天皇として飛鳥の地で天皇に即位しました。
実際に大規模な土木工事を行ったのはもちろんこの時の大王である孝徳大王です。

孝徳政権と渡来人との飛鳥京にての争いは、654年に板蓋宮は火災に遭い、焼失して以降にさらに激化する。宮である板蓋宮に火をつけたのは渡来人である。


そしてウイッキペディアの岡本宮の気になる記述で・・・
「斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたり、奈良盆地に運河を掘るなど、多くの土木事業を営んだ」
  *******************************
この記述にあるように、斉明天皇(本来は孝徳大王である)は多くの土木工事を行ったとされます。何故にこのような土木工事を行ったかの推測は、この時代は渡来人との戦争中であるということを考慮すれば容易ですよね。


日本書紀 斉明天皇条・・・
斉明天皇二年・・・時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。若據未成之時作此謗乎。又作吉野宮。西海使佐伯連𣑥繩闕位階級・小山下難波吉士國勝等、自百濟還、獻鸚鵡一隻。災岡本宮。
  **************************

「狂心渠」・・・斉明天皇の土木工事は、多くの労力を必要とし「たぶれごころのみぞ」と呼んで非難したとされます。
もちろん言うまでもないですが。日本書紀の記述は敵対側の記述であるのです。日本書紀が非難する理由は防御設備の工事だったからです。
日本書紀や古事記は、後の時代に天智系天皇や藤原氏によって改竄された偽書である。

なんと、香久山の西から石上山まで渠(みぞ)を掘って舟二百隻を使って「石上山」の石を運んで「宮の東山」に石垣を築いたとされます。この渠の掘削にはおよそ3万人、そして石垣の建設には7万人もの労力を使い、当時の人々はこの渠を「狂心ノ渠 たぶれごころのみぞ」と呼んで非難したともされます。

日本書紀の記述は敵側、つまり秦氏、藤原氏側の視点からのものである。
そして、何故にこんな土木工事を行ったのかということを考えなければだめです。石を運び防御用の石塁を造っている。

川原宮の東の山に、石塁を造り、ここに戦闘に耐えうる、そして避難用でもあると思いますが新たな宮を築いたわけです。多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたというのも同様のことです。戦闘用の城でもある。

於宮東山累石爲垣・・・これが後飛鳥岡本宮を守るための石塁である。

酒船石がある丘陵、酒船石遺跡では、その中腹から裾にかけて大規模な造成がおこなわれ石垣が発見されています。これは、宮を守るための戦闘用の城の造成であるように思います。

宮を守るため戦闘用の城を築いたわけです。宮の北側の防御用の出城でもある。城においての堀と同様に、相手に攻め込まれないように運河を築いたわけです。飛鳥近くの多武峰に、石塁や高殿を築いたというのも同様に戦乱に備えてですよね。山城は攻めにくいわけです。

そして656年に新たに岡本に新宮殿が建てられたとされる後飛鳥岡本宮とは、この川原宮の東側の、これも石垣に守られた防御用の宮である。
斉明天皇はこの時、九州の地ではなく飛鳥の地で渡来人との戦乱で殺害されたように思います。

この後飛鳥岡本宮の場所はおそらく、川原宮の東側、いまの岡寺の場所です。地形のわかる地図を見てください。地形的にはおそらくここしかありません。南北と東側は山に囲まれている地形であり、開けている西側だけ防御すればいい「コの字」型の地形です。この開けている西側に石塁を造ったのです。それが記述にある、川原宮の東(宮東山累石爲垣)であり、新しく建設した後飛鳥岡本宮を防御する石塁である。



地図を見ればわかりますが、川原宮の跡地から、岡寺は東の位置になり、酒船石のある丘陵は北東に位置になります。
岡寺は天武天皇の皇子である草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされますが、本来は孝徳大王、斉明天皇の後飛鳥岡本宮である。

渡来人たちの本拠地はやまのうしろ、そう奈良盆地の山の向こう側の山城です。酒船石遺跡周辺の石垣は、この新しく造った後飛鳥岡本宮の北側に位置します。酒船石遺跡周辺の石垣は、宮を守るための、出城でもである。
飛鳥は山に囲まれた狭い地域でもあるので石塁を造れば、宮の北面に対しての防御ができ攻撃から守れる。
天武の時代、壬申の乱以降は、渡来人勢力は弱体化し開けた奈良盆地に進出するのですが、それまで、この山に囲まれた飛鳥の地を都にしたのは、渡来人の脅威から防御しやすい地形にあるからです。

さらに、宮に攻め込まれた場合、地形的に見れば、飛鳥の地において北部から攻め込まれた場合、この多武峰をこえ東部に行き、そこから南に向かって山を越え吉野に逃れるルートを作ったのです。吉野宮滝宮です。吉野にも宮を造ったのは避難場所であるわけです。

戦乱に備えて飛鳥京の防御を固めるという大規模な土木工事を行いました日本書紀がこの土木工事を非難する理由です。しかしながら戦乱は続くことになります。孝徳大王が、百済救援ではなく、百済討伐の兵を出そうとしていた時に、クーデターが起きます。この時、661年に斉明天皇、そして孝徳大王は殺害されている。
川原寺はこの斉明天皇の菩提を弔うために川原宮の跡地に天武が建てたお寺であるというのが創建の由緒であるように考えています。
藤原氏には都合の悪い由緒である。日本書紀が創建の由来を語らないのはこれが理由だと思います。

これはもちろん、本来の大王だった孝徳大王と渡来人との争いである656年の丙辰の乱である。この戦いの後に孝徳大王は難波に遷都したのです。難波の宮遷都は657年である。

そして難波に遷都する前の、飛鳥京においての本来の孝徳大王の宮こそ後飛鳥岡本宮である。飛鳥京で大きな戦乱が起きたので、難波に遷都、つまり避難したという推測はごく自然な推測のように思うのですが?
それでないと孝徳が難波に遷都した理由がみあたらない。

次回に続きます・・・






最後に、この「狂心渠」、つまり運河というのはどんなものだろうか?地図を見ながらどういう運河だったのかを推測するのは楽しい作業です(*^▽^*)

この「石上山」とは、飛鳥近くの山ではなく、材質から天理市の石上山であるとされます。もちろん近場からも石を調達しているはずです。

石を天理の石上山から飛鳥まで運ばなければならないわけです。重い石を運ぶには水を利用する方法がいいわけですが、記述のように香久山から石上山まで運河を造るのは大変な労力がいるわけで、この時代には難しい作業のように思います。
ですので川を利用するのがいい方法ですよね。ところが、川が目的の場所近くまで流れていれば問題ないのですがそううまくはいきません。
それでは川を利用して出来るだけ目的場所の近くに運ぶにはどうしたらよいのか?

香久山西麓において運河状大溝が発見されています。ここからの推測ですし、古代の川の流れがどの様なものだったのかはわかりませんが・・・?

大和川は上流部では初瀬川といわれ、奈良盆地内の主要な川になり多くの川とも繋がります。この大和川は、初瀬から西に流れ、桜井市を通り北上し、奈良盆地東側の山々から流れる支流をあつめ、もちろん天理の方から流れる支流にも合流し大阪湾の方まで流れます。
古代の都、卑弥呼の都である巻向、桜井から天理というのは古代の中心地でもあり、その中心部を流れ、物流においても古代から最も利用された重要な川です。

ですので、この大和川を利用するのがいいのですが、桜井から東の初瀬が源流となりますので、南の飛鳥方面までは流れていません。

香久山西麓において運河状大溝が発見されているというのなら、この運河に関しては、天理からこの大和川利用して南下し、桜井から飛鳥板蓋宮のそばを流れる飛鳥川に繋ぐための運河だろうと思います。
二つの大きな川を繋ぐ運河を造り石上から飛鳥まで石を運んでいる。
それでも大変な作業です。飛鳥に都を移した時代からすでに工事はおこなわれていたようにも思うのですが?

写真、一枚目、談山神社の十三重塔、二枚目真言宗弘福寺、そして下の写真は、川原寺跡と飛鳥板蓋宮跡、大和川です。









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