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聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

四天王寺創建の謎と物部守屋

2021年01月20日 | 聖徳太子の謎


四天王寺は聖徳太子建立七大寺の一つとされ、法隆寺とともに確実に聖徳太子が創建に関わったとされています。

上宮聖徳法王帝説・・・
太子起七寺 四天皇寺 法隆寺 中宮寺 橘寺 蜂丘寺(并彼宮賜川勝秦公)池後寺 葛木寺(賜葛木臣)

しかし、聖徳太子が勝利を祈願して四天王を安置する寺を造ったというのは後の創作である。蜂丘寺(広隆寺)を、秦氏、秦河勝に賜うと記述されているところから推測できますが、「上宮聖徳法王帝説」は、秦氏の王である桓武天皇や藤原氏によって改竄された歴史を基にして作成されたものである。
聖徳太子の名のもと、本来の大王たち事跡が消されている。

今回は四天王寺創建の謎について考えてみます。
法隆寺とともに聖徳太子が関わる四天王寺なのですが、この四天王寺も多くの謎がある不思議な寺院です。四天王寺もまた移築再建されているとされます。

これもふたりの聖徳太子が関わります。
推古天皇元年(593年、本当は厩戸皇子こと押坂彦人大王の法興元年)に造立が開始されたとされます。別称も、荒陵寺・難波大寺・御津寺・堀江寺など複数あります。日本最古の寺院のひとつとされます。
聖徳太子の発願により、587年に難波玉造に建立され、その後この593年に荒陵東岡(現四天王寺の場所)に移築されたとされます。

しかし、この創建の由緒が変更されている。
この「難波大寺」というのが、現四天王寺の本来の名称である。

前回からの続きになりますが、法隆寺に関してはその創建の由緒は変更されている。そしてこれも聖徳太子が関わる四天王寺もその由緒が変更されているように思えてきました。

四天王寺の由緒に関しては、日本書紀の記述によると、物部氏と蘇我氏の争い、物部守屋と蘇我馬子が争った時に、聖徳太子が争いの形勢が不利の状態にあった時、四天王像を彫り、戦いに勝利したなら寺院を建立するとの請願をしたとされます。

勝利を収めた蘇我氏、聖徳太子はこの四天王像を安置めするために造られたのが四天王寺とされます。つまり蘇我氏が造ったお寺だといえます。
この日本書紀の記述は本来の由緒を改竄する文章である。

四天王寺は聖徳太子が建立した七大寺の一つであるとされ、当然聖徳太子が建立の発願をしただろうと思われますが、日本書紀には誰が発願したかについては記載されていません。法隆寺とともに、実際に聖徳太子が関わったお寺であるとされますが、残念ながらそうでない。四天王寺も法隆寺も、「太子ゆかりの寺」であり、創建には関わっていない。

古代、難波、難波津と呼ばれていた台地に存在します。地形的にはいまよりはるかに湾が入り込んでいました。この地は大和の地から一番近い港とも言え重要な地域です。何故にこの地に四天王寺は造られたのだろう?

大陸との交通の起点にあたる場所であり、外交においても重要な場所でありました。孝徳大王の時代には、朝鮮半島の動乱に唐が関係するようになり、唐、百済、新羅、高句麗など多くの外国船が訪れる港でもありました。

中国や朝鮮の船はまず、九州に上陸し、瀬戸内海を通りこの難波の港に上陸します。ここから人や物は大和川を利用し奈良盆地にはいります。


難波には古代、宮がありました。それは、仁徳天皇が最初に難波宮を置いたとする難波高津宮です。
後に孝徳大王がこの地に宮を置きました。難波長柄豊碕宮です。それは外国との応接には極めて利便がいい場所だからです。
この難波の宮の傍にあるのが四天王寺です。上町大地と呼ばれているところです。
何度も記述しているところですが、激しく敵対していた秦氏や藤原氏によって、孝徳大王や、左大臣だった阿部氏の功績を消し去っている。

四天王寺は孝徳大王の発願により、難波の地に都を遷した時に建立された寺院である。

法隆寺とともに、この四天王寺もまた謎多き寺院です。
毎月弘法大師の命日である21日、そして聖徳太子の命日である22日には骨董市が催されて、大阪に住んでいる頃はよく出かけていました。大きな石の鳥居が存在しているのことが不思議に感じていました。

四天王寺は南北に配置される四天王寺式伽藍とされます。寺院ですので南大門が正門ですが、南北に一直線上に並ぶ配置なので正門からの景色がよくない。
四天王寺は、東門から入るほうが全体を見渡せるのです。ほとんどの人はこの東門にある鳥居をくぐって四天王寺に向かいます。

そして、さらなる大きな謎は、四天王寺には物部守屋の祠があるのです。
石の鳥居を通り、西重門をくぐり、そのまま東重門を出たところに物部守屋の祠があります。東西に神社が存在しています。

これは、まるで守屋を祀る神社の上に寺院が造られているような不思議な構造です。
そう私には感じるのだけど・・・?(*^▽^*)

どうしてここういう神仏融合の奇妙な構造の寺院になっているのか?どうして南北配置の伽藍なのか?その謎について考えてみます。

この奇妙な伽藍配置は、東西に並ぶ神社に重ねて南北に並ぶ寺院を建設したからではないのかな?上空からの地図で見るとよくわかります。
守屋はやはり寺院ではなく神社に祀られたいでしょうからね。



四天王寺は、南北に南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線上に並ぶ四天王寺式伽藍配置とされます。この伽藍配置はこの四天王寺から始まったとされます。若草伽藍にあったとされる法隆寺(本当は再建斑鳩寺)も、同様の伽藍配置であるのです。593年、四天王寺が造り始められ、その後607年に若草伽藍と呼称される場所に法隆寺が造り始められとされます。

しかし、出土した瓦(素弁八弁蓮華文軒丸瓦)からの推測では、四天王寺の方が後で造られているのです。
瓦からの推測では、若草伽藍にあったお寺より後に造られている。銘文にあるように四天王寺が593年に造り始められ、法隆寺が607年に創建されたとするとおかしいのです。出土した瓦からの推測では、もっと後の時代の創建であるのです。

ウイッキペディア・・・四天王寺

四天王寺が推古朝にはすでに存在したことは考古学的にも確認されている。前期難波宮(難波長柄豊碕宮、現・大阪市中央区法円坂)の下層遺構から瓦が出土するが、この時代の日本において瓦葺きの建物は仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺の創建瓦とみなされている。したがって、孝徳天皇が前期難波宮に遷った7世紀半ば以前の推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことがわかる。

四天王寺の創建瓦の中には、斑鳩寺(法隆寺)のいわゆる若草伽藍(現存する法隆寺西院伽藍の建立以前に存在した創建法隆寺の伽藍)の出土瓦と同笵の軒丸瓦がある。若草伽藍と四天王寺の同笵瓦を比較すると、前者の文様がシャープであるのに対し、後者は瓦当笵に傷がみられる。このことから、若草伽藍の造営が先行し、同伽藍の造営が落ち着いたところで、瓦当笵が四天王寺造営の工房へ移動したことがわかる。
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このウイッキペディアの文章からの推測になります。孝徳大王の難波長柄豊碕宮の下層遺構というのが、元の四天王寺(寺院の建設が始まった時期であるのでこの推測は間違っていないように思います。)であるというのなら、今の場所に建立されている四天王寺はこの孝徳大王の建立した寺院である。

この難波の地に宮を建設した時に移築されている。つまり、今の場所に建設されている四天王寺は、孝徳大王が都を難波に遷した時期に造られたものである。
そして出土瓦からの推測では若草伽藍にあったお寺と、移築された元の四天王寺は建設時期が近いということです。
若草伽藍にあったお寺が造られたあとに、四天王寺は建設されているということです。
この若草伽藍にあったお寺は、創建斑鳩寺(法隆寺)ではなく、再建斑鳩寺である。
この再建斑鳩も元の四天王寺も、推古天皇息子である竹田皇子が亡くなった時(624年)に建設し始められたお寺である。

孝徳大王の難波長柄豊碕宮というのが、物部守屋の「守屋の難波の宅」と呼ばれる本地の一つである。
この難波長柄豊碕宮近くに位置する鵲森宮(森の宮神社)には、四天王寺がこの地にあったとの由緒が残っています。聖徳太子は両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、その森に四天王を祀る寺を造ったとの由緒です。

この場所に聖徳太子の発願により、・・・という由緒ですが、元の四天王寺は、物部守屋が祟ったので,その霊を鎮めるために、蘇我氏、蘇我馬子や推古天皇の発願により造られていたと推測しています。聖徳太子が亡くなってから造られたお寺である。蘇我氏との争いで亡くなった人々を祀ったのです。聖徳太子が祀られているわけではない。

ただし、この時どの仏が祀られていたかは不明です。四天王像ではなかったように思います。
だから蘇我氏によって造られたこのお寺は、四天王寺とは呼ばれていなかったように思います。
後に孝徳大王によって造られた、現四天王寺とは別のお寺である。

四天王寺誌  守屋の奴と宅とを分けて、寺の、田荘となし給ひ、寺号を四天王寺と定め給ふ

これは、守屋が亡くなった後、守屋に仕えた者たちが、四天王寺のにったという伝説がが残ることからも推測できます。
この地に造られた四天王寺は、蘇我氏との戦いで亡くなった守屋らの霊を鎮めるためのお寺である。
難波長柄豊碕宮建設時に、このお寺を移築したため、今の四天王寺には守屋が祀られている理由です。
この時に四天王像が安置され四天王寺とも呼ばれたと思います。ですので四天王寺は移築されたのではないともいえます。
つまり四天王寺は孝徳大王によって創建された寺院であり、聖徳太子は創建に関わっていない。



もともとこの地、上町台地周辺は守屋の屋敷があり物部氏の土地だといえます。重要な拠点は物部の土地です。それは大王家は物部が関わるからです。
南北に伸びる丘陵地の北部に位置し、宮の場所としては絶好の場所に位置していたため、四天王寺はここより南部に移築されている。

孝徳大王の時代、朝鮮出兵をめぐって渡来人との激しい戦乱の中でした。
戦乱の中、孝徳大王は、飛鳥の地を離れこの難波の地に宮をおきました。

後の時代にも、この場所には大阪城が建設されていることからも推測できます。
織田信長は、この地にあった石山本願寺を明け渡す要求をしています。
それは、城を築城するには絶好の地形にあったからです。南北に細長い上町大地の北部に位置します。周囲は海に面し、南部は川が流れます。
周囲を水で囲まれ、これは自然の堀のような役目をもつ、まさに自然の要害だったからです。守りやすく容易に海に脱出できます。移築した理由です。


まずこの守屋の難波の宅に、蘇我氏、蘇我馬子や推古天皇より守屋祀った寺院が造られていて、その後、蘇我本宗家が滅び、孝徳大王により、この地に都を造る時に、現在の場所に阿部氏の協力のもと本格的な寺院が建設されている。

高くそびえる塔、金堂、そして中には金色の仏像、もともと寺院の方が豪華で華麗ですので、この重要な地(外国船を迎える場所)にはふさわしかったのかな?しかし物部氏は神道側の人物です。守屋を祀るため神社を寺院の中に建設したのだと思います。
出雲大社のような例外はありますが、神社はもともとは大きな建造物はありませんでした。仏教導入後に対立するように、神社にも神様を祭る社殿ような建物が建設されるようになりました。この時代はいまだ祠のようなものでしかありません。

古代、地形的には四天王寺の西側すぐは海岸線でした。
南北に並ぶ寺院を建設した本来の理由です。そう、南北に並ぶ伽藍配置は海から、つまり西側からの景色がいいのです。多くの外国船に対しその国威を誇示するというのは重要なことです。

四天王寺はこの西からの景色が一番美しい。
上陸した外国からの使節団にとっては西側が正門になります。ですので、西側からの景観がいいように、四天王寺は南北の伽藍配置となっている。
四天王寺は孝徳大王が難波の地に都を造ったときに造られた寺院である。難波京の難波大寺であり、外国からの使節団を迎える場所でもあるわけです。
もともとは守屋の霊を鎮めるためのお寺であったため、移築した時に、守屋は神社に祀られその上に寺院を建設している。
難波大寺が本来の寺の名であり、四天王寺は別称である。


四天王寺創建  四天王寺HPから・・・
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました
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推古天皇元年(593)に建立されたとされますが。この由緒は本来の由緒を消し去るためのものである。聖徳太子信仰が盛んになった時の伝説である。
秦氏、藤原氏と激しく対立していた孝徳大王の事跡を消し去られている。

四天王寺は移築されたという伝説が残ります。
推古の息子の竹田皇子が亡くなった後(624年)に、蘇我氏蘇我馬子や推古天皇によって、まず物部守屋の難波の宅に造られたのが本来の由緒である。
しかしこの時には、四天王像を安置していなかったように思います。
物部守屋の難波の宅の場所は、後の孝徳大王の難波の宮、難波長柄豊碕です。この時に現在の地に移築し四天王寺が建設されている。

それは、物部守屋が祟ったと思われていたことにほかならない。守屋が祟って、蘇我の皇子であり推古の息子である竹田皇子は亡くなったとも思われていたのです。ウイルスによる天然痘だと思われますが、古代の人にとっては原因不明の得体のしれないもでしかありません。

守屋が「寺つつき」という妖怪になり四天王寺をつついて破壊しようとしたという興味深い伝説があります。蘇我氏は仏教の力で怨霊を抑えようとしたのです。
つまり、四天王寺の本来の由緒は、物部守屋が祟ったので、これ以上祟らないように仏教の力で怨霊封じが行われたのです。祀られているのは物部守屋はもちろん、弓削小連、中臣勝海など、蘇我氏と対立していた物部氏側の人物です。守屋とともに戦った人々も祀られているのが何より証拠である。蘇我氏との戦争で亡くなった人々が祟ったいうことです。

元の四天王寺?は、蘇我氏、蘇我馬子や推古天皇の発願による寺院であり、竹田皇子が亡くなった後、624年以降に守屋の難波の宅の場所に造り始められた寺院である。由緒が異なるため、このお寺には四天王像が安置されてはいなかったように思います。
つまり四天王寺とは呼称されていない。そして、593年の創建ではないのは、出土した瓦から推測できます。

物部守屋ら戦争で亡くなった人々の霊を鎮めるための寺院であり、この寺の名は四天王寺ではなかったと思います。
守屋らは移築した時に神社に祀られている。ですので、四天王寺は移築再建されたのではない

元の四天王寺?は、初めに物部守屋の難波の宅の場所に造られ、その後、蘇我本宗家が滅び、孝徳大王により、この地に都を造るときに、左大臣だった阿部氏の協力のもと、この阿部氏の土地に移築されている、いまもこの地には「阿倍野」の地名は残ります。

孝徳大王により、難波に遷都したした時に、初めて創建された寺院であり、この時に四天王像が安置され四天王寺と呼称されたのです。ただし四天王寺は別称であり、本来は難波大寺である。
書記の改竄された由緒を基に、聖徳太子信仰が広まり、本来の由緒が消えてしまっている。



蘇我氏と物部氏の争いが大きく関わります。

まず物部氏と蘇我氏の争いについて・・・
仏教導入をめぐって、崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏の争いであるとされます。争いは宗教戦争であるとされています。
しかし大きな原因はやはり、この時代大きな力をつけてきた蘇我氏と物部氏による権力争いである。それは本来大王家とは物部氏が関わるからです。

この権力争いとはどういったものか?
前回少し書きましたが・・・押坂彦人大兄皇子や藤ノ木古墳の被葬者が関わる。
系譜の改竄箇所から推測してみます。

厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇と穴穂部間人皇女の王子です。
敏達天皇の皇后は、息長真手王の女である広姫ではなく、物部の女性であるこの穴穂部間人皇女です。蘇我氏による系譜の改竄箇所です。
お母さんが変更されている。それは。物部の女性だったからです。

しかし、押坂彦人大兄皇子がまだ幼い時に、本当の皇后であるこの穴穂部間人皇女は亡くなっています。
次の皇后である、豊御食炊屋姫尊こと、推古が皇后になったのが、576年です。つまり、広姫が亡くなったとされる575年が穴穂部間人皇女が亡くなった年である。

押坂彦人大兄皇子は572年生まれであり、まだ幼かった王子を育てたのが次の皇后である推古である。ですので、物部の王子であるのですが、蘇我馬子は敏達天皇崩御後にこの押坂彦人大兄皇子を次の大王に擁立したかったわけです。

蘇我氏と物部氏の争いは権力争いである。争いは敏達天皇崩御(585年)後の王位争いである。仏教導入をめぐっての争いだけではない。
蘇我馬子は権力を握りますが王にはなれません。そう血統の問題があります。

蘇我馬子は、まだ幼かったのですが関りのあるこの押坂彦人大兄皇子を次の大王に擁立しようとしたのです。
推古天皇は、欽明天皇と母親は蘇我稲目の娘の蘇我堅塩媛です。蘇我氏の姫王です。推古天皇は育ての母親であるわけです。
蘇我馬子にすれば、大王に即位すれば、推古が育てた押坂彦人大兄皇子は蘇我氏の操れる大王だといえます。

物部氏、物部守屋はこれに反対したのだと思います。

敏達天皇の弟である穴穂部皇子や、これも弟の泊瀬部皇子(崇峻天皇)が大王に即位している。しかし蘇我馬子は彼らを殺害しました。
丁未の乱以前から争いは始まっている。仏教の礼拝を巡っての争いだけではなく権力争いである。穴穂部の名から推測できますが、彼らは物部の王子たちであり、実際に大王に即位していました。

この戦いには、蘇我の皇子である竹田皇子や、押坂彦人大兄皇子も参加しています。

ウイッキペディア・・・中臣勝海
守屋の挙兵に呼応して、自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子の像と竹田皇子の像を作り呪詛するが、反乱計画の不成功を知って彦人大兄に帰服。

この竹田皇子は病弱でした。おそらくなくなる時も伝染病にかかっていたと推測できます。この伝染病は祟りだと思われていたのではないのだろか?

蘇我氏と、物部氏の争いで亡くなった物部守屋は祟ったと思われていたのです。同様に殺害した藤ノ木古墳に祀られている穴穂部皇子や、泊瀬部皇子(崇峻天皇)も祟ったと思われていたのです。
蘇我の皇子である竹田皇子や、押坂彦人大兄皇子も彼らを祀ったのです。
斑鳩寺は彼らを祀るためのお寺です。

仏教を導入した蘇我氏、蘇我馬子は、これらの祟りを仏教の力で鎮めようとしたのです。

隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。
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竹田皇子の没年は624年です。この亡くなった時に、若草伽藍に蘇我馬子や推古天皇によって、この竹田皇子を祀るお寺が若草伽藍に造られた寺院である。
銘文の男弟王とは竹田皇子のことです。日十大王(押坂彦人大兄皇子)の男弟王(異母兄弟)と表現されていることからも推測できますが、推古はこの押坂彦人大兄皇子の育て母親です。
572年に生まれたのが厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子であり、弟とされる豊聡耳皇子こと竹田皇子は574年生まれです。

銘文の623年(葵未年)の翌年である624年に、竹田皇子は亡くなっている。日十大王(押坂彦人大兄皇子)は、いつ崩御したかは不明ですが、おそらく同年ではないのかな?ともに伝染病(天然痘)が原因である。
この時代、渡来人が多く移住してきたのが大きな原因である。

この若草伽藍に造った寺院(再建斑鳩寺?)の建設後に、守屋の難波の宅に四天王寺?(寺の名は不明)は造られている。もうこれ以上に祟らないように仏教の力で鎮めるよう人が建設された。これが元の四天王寺であり、本来の由緒は物部守屋や戦乱で亡くなった人々を祀る寺院であるように思います。

四天王寺が593年に造り始められ、法隆寺が607年に創建されたとすると矛盾します。
若草伽藍にあった、再建斑鳩寺(607年創建の法隆寺ではない)は蘇我の皇子である竹田皇子没後(624年)に蘇我氏によって造り始められた竹田皇子を祀るお寺である。本尊は竹田皇子の姿を写した釈迦三尊像である。
四天王寺は、この再建斑鳩寺より後に造られたお寺である。証拠物品が出土しています。上記の記述どおりです。

お寺の建設が始まった時期なのですが、瓦からの推測では、建設の順序は飛鳥寺、若草伽藍の再建斑鳩寺、四天王寺の順です。
この三寺は同なじ瓦用の木型(笵瓦)が使用されていることから建設された順が推測できます。

造り始めてどれくらいでお寺が完成したかはわかりませんが、3,4年かかったとすると627年頃?の創建です。
ほぼ同時期でしょうが、元の四天王寺(このお寺四天王寺とは呼称されていなかった)は創建はどうでしょう?630年頃の完成かな?この四天王寺?は蘇我馬子や推古天皇によって守屋の霊を鎮めるために物部守屋の難波の宅に造られた寺院です。

ただし、この時に四天王像が安置されていたかは疑問があります。
後に孝徳大王がこの地に宮を建設するときに、現在の場所に移築されてはいるのですが、これは四天王寺が移築されたのではない。
現四天王寺は孝徳大王の発願によって、阿部氏の協力のもと建設された寺院である。創建の由緒は聖徳太子ではなく孝徳大王であり、書記の記述は真実ではない。
若草伽藍のお寺も四天王寺も、共に塔と金堂が南北に並ぶ、四天王寺式配置とされますが、四天王寺方が後に造られている。つまり、これは逆で、四天王寺は再建斑鳩寺式配置のお寺であるということです。



四天王寺は南北に配置される理由は上記しましたが、それじやー何故に、若草伽藍にあった再建斑鳩寺は、南北に並ぶ配置なのでしょうか?

寺院は普通、南の門が正門になります。すると塔と金堂とが南北に一直線上に並ぶ配置だと景色が良くないのです。
写真は四天王寺ですがご覧のように塔に隠れて金堂がみえません。
地形も関係すると思われますが、本来は奇妙な伽藍配置ように思います。

若草伽藍にあった再建斑鳩寺に関しての伽藍配置は、東側に位置する中宮寺が関わるように思います。この中宮寺は推古天皇のお寺です。中宮天皇とはこの推古天皇のことです。

中宮寺から竹田皇子が祀られている再建斑鳩寺に向かうときは東門がから入ることになります。またこの南北の伽藍配置によって息子の竹田皇子を祀る寺院全体を見ることができるからです。

ウイッキペディア・・・
中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は400メートルほど東にあった。
塔の心礎は地中に深く埋める形式とする。これは四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などの塔心礎と同様で、創建時代が古いことを示唆する。
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中宮寺はもとは推古天皇の宮です。それは、隣接する斑鳩の宮に住まいしていたのは息子の竹田皇子だからです。息子のそばに移ったのです。太子道を飛鳥から斑鳩まで通ったのはこの竹田皇子です。

そして、竹田皇子が亡くなった時に、宮をお寺(尼寺)に造り変えている。このお寺もまた南北に配置するお寺だとされます。
それは、再建斑鳩寺(若草伽藍)、斑鳩の宮、そして中宮寺は東西(正確には藤ノ木古墳に正対していますので、少し南の方に傾く、西南西)に並ぶからです。


「野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎と中宮天皇」、「法隆寺、橘寺創建の謎と野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像」のところで記述しましたが・・・

野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
   *************************
この銘文における、謎とされるこの「中宮天皇」とは推古天皇のことです。
天皇とは蘇我の王の称号です。591年に蘇我の王である天皇に即位したのが推古です。この銘文は天皇号の最も古く使用されたものです。
593年に大王に即位したのが、押坂彦人大兄皇子であり、591年に蘇我の王である天皇に即位したのが推古というのが真実です。しかし、押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことが消されていて、593年に推古が天皇に即位したことに変更されている。

これにより聖徳太子の没年が、間違ったものになっている。この593年というのが法興元年である。
今年は聖徳太子、1400年の御遠忌ということになっていますが、聖徳太子没年は624年です。
これまで述べてきましたが、法隆寺にある、釈迦三尊像光背銘や、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文により明らかです。
法興元年を、本来推古が天皇に591年と変更したために、没年が間違ったものになっている。

銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は、「開」という文字があるように、この栢寺が創建された日ということです。606年4月8日、お釈迦様の誕生日に創建されたということです。
この栢寺とは後の橘寺のことであり、天武大王が、都と定めた飛鳥の地から蘇我氏の痕跡を消し去るため寺の名称を変更している。本来は推古天皇の息子である竹田皇子が生まれた場所であり、蘇我氏の本拠地です。

この仏像は、この栢寺の僧たちが、推古天皇が病気になった時に、回復を願ってこの弥勒像を作り、銘文を記したということです。
ですので、606年ではなく、おそらく推古天皇が崩御した628年頃にこの仏像は制作されたものです。つまり628年頃には「天皇」の呼称は使用されている。本当の、初代天皇は彼女、推古天皇です。

竹田皇子のお母さんは推古天皇です。彼女は中宮天皇とよばれていたのです。
そして、斑鳩にある中宮寺は、推古天皇が亡くなった息子の竹田皇子の菩提を弔うために造営したものです。宮を寺に造り変えたのです。
この「天皇」号の使用例があまりないのは、天皇とは大王ではなく蘇我の王の名称だからです。そして女帝の名称でもあります。つまり皇后のことです。
後に、藤原氏によって歴史を改竄するときにこの「天皇」の呼称は使用されたのです。本来はもちろん「大王 おおきみ」です。

この野中寺は、聖徳太子建立48寺院の一つとされ、創建は大化6年または白雉元年(650年)頃だとされます。四天王寺からは、野中寺と同范の忍冬文軒丸瓦が出土しています。
四天王寺と野中寺は同時期の創建であると推測できます。四天王寺は6世紀後半に創建されたのではない。孝徳大王が難波に遷都した時、7世紀中頃に建立された寺院である。



さらに四天王寺から出土した瓦からの推測では・・・
ウイッキペディア・・・百済大寺
舒明天皇11年(639年)、百済川のほとりに大宮と大寺を建て始めた・・・吉備池廃寺から出土した瓦は、軒丸瓦が重圏文縁単弁八弁蓮華文、軒平瓦が忍冬唐草文型押で・・・軒丸瓦は四天王寺と海会寺で同笵瓦が使われているが、瓦面の傷などから判断して、四天王寺・海会寺よりも吉備池廃寺出土瓦の方が先行して製作されたとみられる。
    
吉備池廃寺の建立は、法隆寺の前身の若草伽藍より後で、舒明天皇13年(641年)から建立の開始された山田寺よりは先行する、630年代から640年代初めに位置付けられる。
  *************************
出土瓦からの推測では、四天王寺から素弁八弁蓮華文軒丸瓦とよく似た単弁八弁蓮華文軒丸瓦も出土しています。これは、吉備池廃寺(百済大寺)で使用された後に四天王寺にもたらされたとされます。
百済大寺(吉備池廃寺)建設は、瓦からの推測では630年代から640年代初めに位置付けられるとされます。つまり四天王寺創建は7世紀中頃である。孝徳大王が、難波に都を遷した時に建設されたお寺であるということです

四天王寺は出土した瓦からの推測では、7世紀中頃の創建であるということです。つまり聖徳太子に関係する書記の由緒は事実ではないということです。孝徳大王や阿部氏の功績を消すためのものである。


そして出土瓦からの推測では若草伽藍にあったお寺と、移築された元の四天王寺は建設時期が近いということです。ともに推古天皇の息子の竹田皇子が亡くなった後、624年以降に建設し始められたお寺である。つまり、若草伽藍にあったお寺も創建法隆寺ではないということです。再建斑鳩寺である。
その後、孝徳大王が難波に遷都した時に、この元の四天王寺は阿部氏の協力のもと今の場所に移築されている。
ただし、聖徳太子が戦に勝利したら四天王を祀るという由緒は事実ではないため、元の四天王寺は四天王寺とは呼称されていない。
四天王寺は孝徳大王により創建されたお寺である。

ウイッキペディア・・・
日本で「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説である。
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620年に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる「天皇記」・「国記」は、蘇我氏の歴史書です。この時に「天皇」の呼称が作られたのだと思います。
蘇我の王の呼称であるということであり、「天皇」の呼称を使用して歴史を変更している。推古が591年に天皇に即位したというのは、この「天皇記」・「国記」編纂時においてのことである。後に593年に変更されている。

古代の歴史は権力を握った蘇我氏と藤原氏によって2度改竄されている。

推古は蘇我の王である天皇であるが大王ではないということです。推古の時代に大王が存在していたのは隋書により明らかです。

蘇我馬子が擁立した、隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王こと、押坂彦人大王です。

隋書倭国伝
姓は阿毎(あめ)字は多利思比孤(たりしひこ)阿輩難弥(おおきみ)と号す。

隋の使者は当然ですが王に謁見しています。「おおきみ」と呼ばれ男であり、后もあると記述されています。この大王とは推古天皇のことではないですよね。この時まだ、「天皇」号が使用されていないとすると、大王でもなく天皇でもない推古は何と呼称されていたというのでしょうか?

7世紀の初めころに作られ、「天皇」の呼称が刻字されている、この仏像が何よりの証拠物品である。

日本書紀、古事記は正史とされます。しかし正史であるといっても真実が記述されているとは限りません。歴史は権力者の都合で変更される。

今の天皇家と関わることになりますが、本来は「大王」と「天皇」は異なる。
万葉集でも何度も「おおきみ」と呼称されています。

万葉集 九百二十八
笠朝臣金村
押し照る 難波の国は 葦垣の 古りにし郷と 人皆の 思ひ息みて つれも無く ありし間に 積麻なす 長柄の宮に 真木柱 太高 敷きて 食国を 治めたまへば 沖つ鳥 味経の原に もののふの 八十伴の緒は 廬して 都なしたり 旅にはあれども


巻六 九百三十三
山部宿禰赤人

天地の 遠きが如く 日月の 長きが如く 押し照る 難波の宮に わご大君 国知らすらし 御食つ国 日の御調と 淡路の 野島の海人の 海の底 奥つ海石に 鰒珠 さはに潜き出 船並めて 仕へまつるし 貴し見れば

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長柄(ながら)の宮とは孝徳大王の難波の宮のことです。難波長柄豊碕です。わご大王とは、この孝徳大王のことです。長柄の宮に真木柱を建てたのは孝徳大王です。

万葉集も都合の悪い箇所は変更されていますが、この歌自体は変更されていない。
神亀二年(725年)聖武天皇の難波行幸の随行した笠朝臣金村の詠んだ歌とされます。
もう何度も記述しているところですが、この時大王だったのは、長屋大王です。聖武天皇は王ではありません。
長屋大王の難波行幸の時に詠まれた歌です。

押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王―天武大王―高市大王―長屋大王
押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟大王―孝徳大王―有馬皇子


万葉集では「おおきみ」と表現しているでしょう。「わご大君(おおきみ 於保支見)」です。
「天皇」なんて表現していない。「大王」と「天皇」は異なる。
万葉集の歌の解説時にこの「おおきみ」を「天皇」として解釈していますが、間違っています。
万葉集は、記紀の改竄箇所を暴くものである。編纂に大きく関わったとされる大伴家持は、秦氏、藤原氏と対立していた、大伴氏の氏長である。

山部赤人も生年は不詳ですが、没年は735年頃とされていて、天武、持統より後の人物である。

万葉集 四千百十三 大伴家持

大君の、遠の朝廷と、任きたまふ、・・・


大伴家持の歌にも「おおきみ 於保支見」と表現されています。家持の時代(生年718年頃尾、没年785年)でも「おおきみ」です。
「すめろき 須賣呂伎」を天皇として解釈していますが、これも間違っている。



孝徳大王は難波の地に都を造りました。この時代頻繁に訪れる外国の応接には適した場所です。また敵対勢力と戦うための自然の要塞のような場所でした。

孝徳大王の時、左大臣だったのは、阿倍内麻呂です。今も「阿部野」の地名が残りますが、この時代この地のは阿部氏の本拠地の一つです。
この阿部氏の本拠地、孝徳大王の難波の宮近くに位置するのが四天王寺である。
奈良の都(明日香)は渡来人勢力により危険な状態にあったっため、阿部氏の勢力下にあったこの地にも宮を置いたのです。また外国の使節との応接にも便利な場所です。

四天王寺は蘇我本宗家が滅んだ後、孝徳大王が宮(難波長柄豊碕宮)をこの地に置いた時に関係する寺院になりました。
四天王寺は、蘇我氏による創建当時の本尊は四天王像だったとされます。

本尊の救世観音像(弥勒菩薩)は、蘇我本宗家が滅んだ後、孝徳大王が宮(難波長柄豊碕宮)をこの地に置いた時安置されたもののように思います。
新たに四天王像も祀られています。難波大寺の別称はこの時のものかな?

現四天王寺は、孝徳大王の時代に、造られた国家鎮護の寺院である。

ウイッキペディア・・・
四天王寺に関しては、これに先立つ大化4年(648)に、左大臣の任にあった阿倍内麻呂により、僧尼が四天王寺に集められて仏像四体を塔内に安置し、また釈迦の浄土である霊鷲山(りょうじゅせん)の像が造られたという。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた
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四天王寺創建は、まさにこの年、大和4年(大化ではない)の648年である。本尊として弥勒菩薩が安置され、仏法僧を守護する四天王像も安置されました。出土した瓦からの推測でも7世紀中ころの創建であると思われます。

四天王寺はその名や由緒から四天王像を祀るために建立されたと思われまが、本尊は弥勒菩薩だとされます。
現在は本尊は救世観音になっていますが、これも聖徳太子が関わる法隆寺に祀られている救世観世音菩薩像が影響していて、本来は弥勒菩薩だったといわれます。

四天王寺の寺名はこの時、648年に四天王像を安置したため名付けられ別称である。
本来は孝徳大王の難波の都に造られた難波大寺である。


「資材帳(延暦二十二年803年」の写しによれば、本尊の四天王像のほかに、孝徳大王の王后である越天皇(斉明天皇ではない)のために造られた大四天王像と、「安倍大臣敬請坐」とされる小四天王像が安置していたらしいのです。左大臣阿倍内麻呂は小四天王を奉納しています。四天王寺は阿部氏の協力のもと建立されたという証である。

この越天皇とは大安寺伽藍縁起并流記資材帳にある、袁智天皇ことです。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」

この袁智天皇とは、持統天皇の母親であるとされる遠智娘のことです。
しかしこの系譜が改竄されています。蘇我氏の娘、蘇我遠智娘ではなく、阿部氏の娘である阿部遠智娘です。左大臣だった阿部内麻呂の娘です。
孝徳大王の難波に宮にいるということからも容易な推測ですが、袁智天皇は孝徳大王の王后であり、持統天皇はこの孝徳大王の娘です。
「天皇」とは蘇我の王の呼称です。本来の初代天皇は推古天皇です。初代が女帝であったため、「天皇」の呼称は蘇我本宗家が滅んだ後には女帝の呼称となっている。つまり王后のことである。この資材帳の文章が証拠である。

これも何度か書いていますが、654年はこの孝徳天皇が崩御した年だとされますが、間違っています。亡くなったのは王后である袁智天皇こと遠智娘です。ですので、翌年(655年)に天皇に即位したのは斉明天皇です。天皇とは女帝のことです。654年に亡くなった時に、王后のため孝徳大王が造った大四天王像が祭られている。孝徳大王はこの後も渡来人勢力と戦っています。



四天王寺の四天王像に関してですが、・・・四天王寺は何度も火災にあい四天王像は現存しませんが、法隆寺ある日本最古の四天王像によく似ていたようなのです。この法隆寺四天王像は現存しています。
このことから四天王像を造った作者や四天王寺創建年も推測できそうです。

国宝法隆寺金堂展
四天王像
金堂須弥壇上四隅に安置される、日本最古の四天王像。クスノキを用いた木彫で、宝冠や光背の縁などに金銅製の透彫金具をつける。広目天像と多聞天像の光背裏面に作者の名が刻まれている。 そのうちの一人、山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)に関する記録が『日本書紀』白雉(はくち)元年(650)の条にあり、本像の制作年の目安となる。剣や戟(げき)など持物(じもつ)を手にして静かに直立する姿や、足元の邪鬼の表情なども、後世の四天王像とは異なり特徴的である。
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法隆寺の四天王像に関しては、七大寺日記、法隆寺金堂の条、「等身四天王像在 天王寺金堂之像全以不異之」
四天王寺巡礼私記、法隆寺金堂の条・・・「等身四天王像件像者天王寺金堂四天与比像無差別」と記述されています。

四天王寺の四天王像は、法隆寺にある四天王像に似ていたとされます。後世の四天王像とは異なり特徴的であるとされ、おそらくこれは四天王像を造った作者が同一人物であると考えられます。
四天王寺と法隆寺の四天王像を製作したのは、この山口大口費であり仏像の製作年も近いものと思われます。

この四天王像こそ創建当初に金堂に安置された四天王像である。
四天王像からの推測では、四天王寺は、山口大口費によって造られたこの四天王像が、孝徳大王の願いにより阿倍内麻呂により648年に安置されたという、まさにこの時が四天王寺創建の年である。四天王像はこの時に初めて安置されたのではないのだろうか?孝徳大王の発願のお寺であり、孝徳大王の時左大臣だった、阿部内麻呂が建立に深く関わる。この地に造られたのはこれが理由である。

この孝徳大王の四天王像の他にも、越天皇(阿部遠智娘)のために造られた大四天王像や、阿倍内麻呂による小四天王像も存在していたようです。残念ながら四天王寺は何度も火災にあっているため、これら四天王像は現存していません。
越天皇は孝徳大王の王后です。孝徳政権時に左大臣だった、阿倍内麻呂の娘であり、四天王寺は孝徳大王の発願により、左大臣だった阿部内麻呂によって阿部氏の土地に造られた寺院である。創建は648年である。瓦からの推測でもこの時期である。
蘇我氏によって造られたのではないという証拠物品であり記述です。

孝徳大王は、645年に大王に即位し、難波の地に都を遷し、宮(難波長柄豊碕宮)を造り始めました。四天王像はこの孝徳大王によって創建された時に初めて安置されたものであり、四天王寺創建はこの648年である。難波の都の難波大寺が本来の名称であり、四天王寺は別称である。国家鎮護の寺院である。出土した瓦など考古学的な見地からも7世紀中頃の建立である。
書記の聖徳太子が関係する由緒はこれら孝徳大王や阿部氏の事跡を消すためのもに他ならない。

孝徳大王と対立していたのは、秦氏、天智天皇とこれも百済渡来人である、後の藤原鎌足である。この孝徳大王の事跡を消し去っている。



四天王寺には物部守屋を祀る祠があります。祠の写真を撮りたかったのですが、聖徳太子の命日である22日の日しか守屋の祠まで行くことができません。それは聖霊院という建物があるからです。太子堂とも呼ばれます。
聖徳太子が祀られ、前殿には聖徳太子の十六歳像と二歳像、そして四天王像。奥殿には、四十九歳の時の像が安置されています。

上の写真は四天王寺境内にある案内板を写したたものです。
これ四天王寺の神仏融合の構造が容易に分かりますよ。
石の鳥居をくぐり西重門を通り構内の入りそのまままっすぐ東重門をでると守屋の祠があります。鳥居は守屋の祠のためのもので、東西に神社があるのが写真を見れば誰にも容易に分かりますよね。

なのにこの参道を遮るかのように、東重門から守屋の祠までに建物、聖霊院があります。四天王寺の本来の目的が理解できていないためにこうなっている。物部守屋など戦争で亡くなった人々を拝むものでもあるわけです。
四天王寺は、神仏融合の構造になっていて、西からが神社本来の正門であり、鳥居は神社への門であるわけでしょうが?
この祠を拝むためのものである以外ないわけです。

それで、この聖霊院なのですが、最近建設されたものらしいのです。再建されたもののようですが創建当時はこんなものあるわけない。
聖徳太子による創建の由緒は本来の由緒を変更するためのものである。書記による改竄された由緒を基に聖徳太子信仰が広まり、対立していた物部守屋は悪者になりました。守屋がキツツキになって四天王寺を荒らしまわり、聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起が残っています。
しかし聖徳太子は創建に関わっていません。四天王寺には聖徳太子が祀られていないのが何よりの証拠である。祀られているのは物部守屋の方である。聖徳太子を祀るこの聖霊院は聖徳太子信仰が広まった後に造られた寺院である。由緒は変更されていて、本来四天王寺は聖徳太子とは関係のない寺院である。ともかくこの場所に建てるのは良くない。参道を塞ぐような建物を造るべきではない。

下の写真は、東重門から撮ったものですが、正面に聖霊院奥殿があります。下二枚目は聖霊院です。
下三枚目は石の鳥居です。元は木の鳥居だったようですが後の時代にこの石の鳥居に建て替えられました。

下四枚目の写真は四天王寺の西側を写したものです。今も緩やかな下り坂になっています。大阪の繁華街である、南の難波、北の梅田は海の下にあったことは良く知られています。
四天王寺の西側は海に面し、西に沈む夕日の名所でもあったようです。西側は西方浄土のある方角です。夕陽ヶ丘の地名は今も残ります。
四天王寺は、この西側が正門である。西側からの景色が良い構造になっている。南北の伽藍配置はこれが理由です。
そして物部守屋らを祀るお寺を、難波の宮の建設のため、この地に移築したため、守屋を祀る神社も造られている。
それは物部は大王家と深く関わるからです。











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