聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

神様の国譲り

2009年10月05日 | 出雲族
出雲の国譲りは、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受けるという神話です。
この舞台はもちろん、此処大和盆地です。出雲ではありません。大国主は、出雲での宮殿建設と引き換えに国を譲ることになります。
大国主とされていますが、素戔嗚尊です。スサノオこそ、出雲族の神であり、三輪山(ミモロ)の神様です。スサノオは朱砂王です。
このスサノオ2番目の妻のカムオオイチヒメこそ卑弥呼だと考えています。魏志倭人伝には、卑弥呼は共立されたとされています。九州からきた、天津神系の氏族と、出雲からきた、円錐形の山を神が宿る山として、銅鐸を祭祀に使用した国津神系の氏族との、いわば神婚です。おそらく卑弥呼が、三輪山の祭祀を行なうことで争いが治まったのだと思います。これは融和策です。
大神神社の神様は、蛇だとも言われています。これはとんでもないことです。あまりにもひどい。そして有名なのが注連縄(シメナワ)です。逆向きです。
これは出雲大社もそうです。謎だといわれていますが、これは神様を封じ込めている以外に考えられないわけです。三輪山が、神体山なのですが、拝殿正面に、三輪山がない。出雲大社もそうです。神様は横を向いています。神様を拝ませないようにしています。争いがあり、敗北し征服された方の神様は、普通抹殺されるはずですが、日本はそういうことはしません。祟りが怖いからです。ですが場所を移動させられます。ですからここ大和から、出雲へ追いやられているわけです。神様の国譲りです。
卑弥呼の宮はここ大神神社です。
(写真は大神神社拝殿です。三輪山山頂は左後方になり正面にはありません。)

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万世一系

2009年10月02日 | 出雲族
記紀が主張したいのは、天皇の神格化と万世一系です。それでこの「万世一系」なのですが、わたしは此処、つまり大和を初めて王として統治したのは我々だと主張したかったのだと思うのです。つまり事実は異なっていたということです。また欠史八代の王は東進してきた天皇家の畿内での王でも、九州時代の王のことでもないように思います。また架空の人物でもないように思います。
これら欠史八代の王は、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「天皇記」「国記」に出雲族の王として名と事績が記載されていたように思うのですが?
蘇我氏は出雲系の有力豪族だと思います。ですので、これらは出雲族系の歴史書で、スサノオを神とする国津神系の神話と系譜が記載されていたように思うのです。天照大神を神とする、天津神系の系譜が付け加えられたのはこの後です。
古事記・日本書紀編纂時において歴史の改竄があった。その改竄された歴史に合わせて、まず天皇家の系譜が作られる。この天皇家の系譜に整合するように、各氏族の系譜が作られたと考えられると思います。
持統天皇5年・・・「祖等の墓記を上進らしむ」といわれています。各氏族の伝承を献上させて、歴史を作り変えたと考えられるます。
記紀編纂時には、これら出雲族の王を天皇家の王として取り込む、または改竄するのには問題がなかった。つまり葛城氏や蘇我氏などの出雲系有力豪族は、滅んでしまったか没落していた。神武天皇をこれら出雲系の王より以前に持って行き始祖王としているのでは?  (写真は和歌山県有田市にある須佐神社)

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蘇我氏は出雲族

2009年10月02日 | 出雲族
記紀には、卑弥呼のことがほとんど記述されていません。これはどうしてなのでしょうか?卑弥呼は非常に重要な人物だと思います。たしかに伝説などは伝わりにくい時代だったとしても、やはり卑弥呼の事績が消されたのは、意図的なものだとしか考えられないように思います。それで、邪馬台国・卑弥呼の事績を消し去ったのは、もしかしたら、蘇我馬子の可能性があるのでは?
歴史は勝者の歴史ともいわれ、歴史書もその時の権力者の都合に改竄されます。蘇我馬子の時代、蘇我氏は天皇家の外戚になり権力を保持していたといわれています。
それで・・・
「天皇記」「国記」は聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされています。
「帝紀」と「旧辞」は天智天皇の子供の勅命により編纂。
「古事記」「日本書紀」とも天武天皇系、元正天皇時代に完成したとされています。
それで、天皇記なのですが、天皇という称号は推古天皇からだといわれていましたが、いまは天武天皇からだとも言われています。蘇我馬子が編纂している。それと天皇という称号は後のものだとすると、この「天皇記」というのは、おかしいとも考えられますよね?おそらく記紀とは異なった歴史、系譜が記述されていた、そして蘇我氏の都合のいいように改竄されていた。ですから、焼失したということにされているということが考えられるわけでしょう?
蘇我氏は6世紀になって台頭してきました。これは渡来人との結びつきによるものが大きいでしょうけど、蘇我氏や葛城氏、紀氏などの地名由来の氏族は、先に大和に来ていた出雲系といわれる氏族のように思います。
ですが、たとえ蘇我氏によって邪馬台国・卑弥呼の事績が改竄されていたとしても、邪馬台国と天皇家が関係あるなら、記紀に卑弥呼の事績は書きあらためられているはずですから、やはり邪馬台国と天皇家は王朝が異なると思います。邪馬台国は物部氏だと考えています。(写真は大神神社)

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出雲族

2009年10月02日 | 出雲族
朝鮮半島からの渡来人に関しては、新羅本紀と百済本紀と比べてみてもあきらかなように、また地理的、歴史的にも当然、新羅との関係がより密接です。百済との関係は、おそらく百済建国後、早くても5世紀になってからです。ですので、製銅、製鉄技術を伝えた初期の渡来人は、新羅(もちろん新羅以前も含めてですが)からの渡来人なのでは。出雲族とは、朝鮮半島、新羅系の渡来人で、製銅技術を伝えた集団の一つなのではないでしょうか?
紀元前1世紀頃から、日本でも銅を生産し始めたといわれます。これは、衛氏朝鮮が漢の武帝により紀元前1世紀頃に滅ぼされですので、おそらくこの時多くの渡来人がやって来たのだと思われます。まず九州に渡来し、その後出雲には、銅鐸を祭祀に使用する集団が渡っていったのでは?この出雲族が東進していく、これはもちろん、土着の人々と融合しながら移動していくということです。
それで当然、海岸沿いを移動していくはずです。銅鐸の出土分布からも、山陰地方から近畿北部、琵琶湖、淀川を下り、奈良盆地に移動したと考えられると思います。この時代はまだ採取狩猟生活も続けられていて、私たちが想像する以上に活動的だったように思います。
出雲の大山、滋賀の伊吹山、大和の葛城山、金剛山、三輪山など、大きく美しくまた奇怪な山を、神の宿る山とし銅鐸を使い祭祀を行っていたのがこの出雲族なのでは?すでに2世紀には、この出雲の勢力が畿内に存在していたのではないでしょうか?唐古・鍵遺跡は、出雲から邪馬臺國より先に大和に来ていた、銅鐸を使い三輪山の祭祀を行う出雲族の遺跡。三輪山の神は出雲族の神。この出雲族の勢力と、九州倭国から東進してきた勢力との争いが倭国大乱だと思います。これは畿内の辰砂(水銀)めぐる争いではないでしょうか?
出雲族は、後の国津神系の豪族で、葛城氏、蘇我氏、紀氏などです。この地名由来の氏族は、先に大和に来ていた出雲系といわれる氏族のように思います。後の大和中央豪族です。天津神系の豪族は、物部氏や中臣氏などで、もちろん天皇家も九州から東進してきた氏族だと思います。 (写真は、唐古・鍵遺跡の復元された楼閣)

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