もう少し、野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎を考えてみます。
それは、聖徳太子の生誕の地とされる橘寺は、もとは栢寺だったのではないのだろうかと
思うからです。
何故かっていう理由は、法隆寺の創建を、聖徳太子こと厩戸皇子の時代にもっていく日本書
紀の手法と同じだからです。
創建の由来を聖徳太子御代に持っていき、古くから天皇の発願による勅願寺であるとし、
官営の寺として建設を開始するための手法です。
法隆寺献納宝物である四十八体仏は、1078 年に飛鳥の橘寺から法隆寺金堂に移されたもの
であるのですが、本来は四十九体仏であって、のこりの一つがこの野中寺の金銅造弥勒菩薩
半跏思惟像なのでは?という、木崎愛吉氏の説がいいように思うからでもあります。
ただ、銘文のこの文字「栢」は、「橘」の誤植、つまり間違った文字を刻んだのではなく、
もとは栢寺で、後に橘寺になったのだと思います。
法隆寺金堂日記・・・「橘寺より、小仏49体、永歴2年(1078年)10月8日迎え奉った」
聖徳太子が大きな謎になっているのは、天武が、蘇我の皇子である推古天皇の子の竹田皇子
の事績を、祖父の厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の事績として取り込んだからです。
どうして、天武がそんなに蘇我氏を憎むのか?という理由は、皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大
王や、他の上宮家の王たちを蘇我氏によって殺害されたからです。
斑鳩寺も、この橘寺も、本来は推古天皇の息子の竹田皇子ゆかりの寺だったからですが、
竹田皇子の事績を取り込み変更するには、存在する竹田皇子の宮やお寺など、消し去り、
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の宮やお寺にする必要があったからです。
そして、日本書紀が多くを語らないのは、法隆寺も、この橘寺も天武が、押坂彦人大兄皇子
を祀るために造営したとは書きたくないのです。そう彼が大王だったという事実を語れない
からです。
野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也
友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
この銘文の、暦の箇所の4月8日に注意して下さい。
そう、4月8日はお釈迦様の誕生日とされる日ですよね。
ですので、この年に中宮天皇が病気になったので回復を願って仏像を造ったということで
はなく、この銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は、この栢寺が創建された日とい
う意味なんじゃないのかな?
お釈迦様の誕生日は、お寺の創建の日としてはこれ以上ない日ですよね。
銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は創建の記録として残っていて、その文章に後にこの
仏像が制作された時に、お寺の創建の日として冒頭に記述されたものなのでは?
その栢寺の僧たちが、推古天皇が病気になった時に、回復を願ってこの弥勒像を作り、銘文を
記したということなんじゃないのかな?・・・と思うんだけど?
だから、必ずしも606年ではなく、推古天皇が崩御した628年頃にこの仏像は制作された
可能性もあると思うのですが・・・どうなのでしょう?
それで、由緒では、この橘寺は、もとは欽明天皇の別宮であり、聖徳太子はここで誕生され
たとされます。後に斑鳩へ移った後にお寺になったとされます。
それは、推古14年である606年の建立と伝えていますよね。
この仏像の銘文の丙寅年を606年とすると由緒どおりではありますよね。
お寺として新たに創建されたので、聖徳太子がここで勝鬘経を講説したともいえるじゃないですか。
ただ、この聖徳太子とは、推古天皇の子の竹田皇子のことです。
私は、この欽明天皇の別宮というのは、推古の住居になっていたんじゃないのかと思うのです。
ここで息子の竹田皇子(本当の聖徳太子)が生まれたところであり、また、幼くして母が
なくなった厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子を引き取って育てた場所でもあります。
ですので、本来は推古天皇のゆかりのお寺でもあるのです。
推古天皇13年(605年)に、竹田皇子が斑鳩宮に遷るまで過ごした宮です。
四天王寺式伽藍配置をとっていた大寺院だったようです。
竹田皇子が亡くなった時に菩提寺(尼寺)になったと思うのですが、天武があらたに作り直
して、押坂彦人大兄皇子を祀る寺として造営した。もちろん由緒も聖徳太子に変更されてい
ます。ただ、法隆寺と同じく、橘寺はもとの栢寺とは少し位置がことなると思います。
おそらく、橘寺の東側正面の向かいだと思うのですが・・・???
この橘寺が日本書紀に初めて登場するのは天武9年(680年)です。
日本書紀 天武九年・・・
夏四月乙巳朔甲寅、祭廣瀬龍田。乙卯、橘寺尼房失火、以焚十房。己巳、饗新羅使人項那等於筑紫、
賜祿各有差。是月、勅「凡諸寺者自今以後、除爲國大寺二 三以外、官司莫治。
唯、其有食封者先後限卅年、若數年滿卅則除之。且以爲飛鳥寺不可關于司治、然元爲大寺而官司恆治、
復嘗有功、是以猶入官治之例。
この天武九年の記述に注目してください。非常に重要な文だと思います。
この二、三の国の大寺とは、どこでしょうか?
わたしは、法隆寺、橘寺だと思うのです。そしてもうひとつは、おそらく川原寺です。
日本書紀のこの文章は、法隆寺、橘寺を官営の大寺として、建設を始めるための、いわば勅
なわけです。この二、三の国の大寺以外には給付しないとしたわけです。
そして、「唯、其有食封者先後限卅年、若數年滿卅則除之。」・・・
食封が下されてから30年に満たない場合は、30年に至るまでの食封が許されたわけです。
そして、法隆寺資材帳には天武八年には法隆寺に食封が停止したとされます。
これは、他寺からの不満を回避するためのものです。
法隆寺も、天武が祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るために建てたものであり、この天武九年
680年に造営が始まった。同じく橘寺も押坂彦人大兄皇子を祀るために680年に造営が始ま
ったのではないでしょうか。
天智天皇九年
夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。
この天智九年とは670年になります。この年に法隆寺は火災にあって全焼したとされます。
橘寺は、天武九年、680年に火災に遭って十房を焼いたとされます。
創建する以前から存在していて、火災に遭った、という日本書紀の手法はこの橘寺も法隆寺
も同じ。この火災に遭ったというのは、壊して新たに創建するための口実。
火災に遭ったので造り直す。再建するにはお金がかかるから他には給付しないとしたわけです。
法隆寺資材帳の、法隆寺への食封に関することも同様です。
創建の由来を聖徳太子にするために、本来は天武朝に初めて創建されたのですが、以前から、
つまり聖徳太子が実際に関わり建立したという手法です。
写真は、明日香の聖徳太子誕生の地とされる橘寺。
橘寺の名称の由来は、田道間守が持ち帰った橘の実に由来するとされます。
ですが、あたかも、斑鳩寺が法隆寺であるように、この栢寺も橘寺だったように名称変更し
ているのでは?とも思うのですが・・・?
本来は天武朝に創建されたのですが、この創建の由来を聖徳太子こと厩戸王子の時代に持っ
ていき名称も変更している。この手法は法隆寺と同じ。
証拠は、今の橘寺の発掘調査により、7世紀後半の建立とされているからです。
つまり、由緒とは異なるということです。
これは、法隆寺と同様、橘寺の名称は、この7世紀後半に建立した時に名付けられたものな
のですが、由来を聖徳太子の御代に持っていっているということ。
そして、発掘調査により明らかなように、法隆寺と同じく、栢寺はいまの橘寺の位置とは
異なると思います。この橘寺の正面は東になります。これが不思議だともされています。
この東正面の向かいが栢寺だったんじゃないのかと思うのですが・・・?
本来の由緒に加え、さらに天武時代に創建された時に聖徳太子こと厩戸王子の由来としての
話が付け加えられている。
写真は、橘寺です。この680年の勅以降に建設が始まったのはこの橘寺、法隆寺、川原寺?
それに680年11月条にある薬師寺なのでは?