聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎

2017年10月18日 | 日本書紀の謎


キトラ古墳の壁画の第五回公開がされていますので、行ってきました。修理作業は終えたようで、
取り外された壁画を見ることが出来ました。
天上には現存最古の中国式天文図が描かれていますが、今回は西壁の白虎と戌(十二支)を見学できました。

このキトラ古墳は七世紀末から八世紀初めころに造られた古墳とされます。
高松塚古墳とキトラ古墳は、共に極彩色の壁画が描かれていて、とても有名な古墳です。
でも、いまだに両古墳とも被葬者を特定できていません。

この高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎も、万葉集から謎解けます。
被葬者は誰なのでしょう?・・・沢山の人たちが謎解きをしていますので、参考にしながら考えると、・・・

あれ?・・・案外、簡単に謎解けました・・・なんか、またまた謎解いちゃったー(^^♪
でも、こんなに簡単に謎解けていいのかなー?・・・皆様、ありがとうございます。(^o^)丿


万葉集、柿本人麻呂の高市皇子への挽歌により、高市皇子は王に即位していたことがわかります。この高市皇子の皇后は明日香皇女であり、長屋王の両親だということが分かれば、高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の特定も難しいものではない。

この挽歌にある、高市皇子の殯宮である、「城上の殯宮」はどこでしょうか? 高市皇子が埋葬されている古墳を
推測していきます。

天武の王子であるわけで、天武陵の傍に造られるはずです。そして、この時代は、王のお墓は前方後円墳ではなく
八角形墳になっていますよね。
高市皇子は王あり、八角形墳に埋葬されているとすると、この、八角形墳って少ないから比定はそう難しくない。
都の南部に位置する八角形墳。
候補は二つしかない。束明神古墳と中尾山古墳です。
そして、内部が壁画で飾られている特別な高松塚古墳、キトラ古墳を加え。この4基の古墳が候補と考えられますよね。

高市大王の「城上の殯宮」ですが、・・・、宮から、殯宮までの葬送は、おそらく大人数の行列となるでしょうから、
広い道を選んだはずです。

香久山宮(藤原宮)を出て、少し北上し、横大路まで出て、磐余を見ながら横大路を東に向かい中ツ道に至り、その後、中ツ道を山田道まで南下した香久山京の東南のはずれ、有力な比定地とされる明日香村字木部という地域が、高市大王の「城上の殯宮」です。
明日香皇女の殯宮も、高市大王の殯宮である「城上の殯宮」です。もちろん、これは夫婦だったからです。
墓域は都の南部に位置するはずです。


万葉集
明日香皇女の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌

飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す ・・・

高市大王と、明日香皇女は同じ殯宮、「城上の殯宮」です。他人の后が同じ殯宮に安置されることはないですよね。このことからも、高市皇子の皇后はこの明日香皇女であると推測できますよね。

あたりまえの話だけど、当然夫のお墓の近くにに葬られると考えられるわけでしょう?高市皇子の「城上の宮」に安置され、高市皇子のお墓の近くに葬られたわけでしょう。

高松塚古墳は、この高市皇子か忍壁皇子が有力ですよね。すると、明日香皇女のお墓は、今は文武天皇陵とされている
檜隈安古岡上陵か、あるいは、キトラ古墳と推測できますよね。

キトラ古墳の被葬者の候補のひとりに、高市皇子の皇后である、この明日香皇女をあげときますね(^^)/
写真は高松塚古墳の壁画ですが、中央の赤い服を着た女性が、皇后の阿部明日香です。
この時代の、王である高市大王の皇后であり、香久山宮から南の位置にあり、関係者と考えられるからです。

そして、このキトラ古墳の被葬者は、阿倍内麻呂の子の阿倍 御主人が有力とされているからです。
そう、キトラ古墳周辺はは阿部氏の領地だと考えられるからです。阿倍 御主人は陰陽道の祖だそうです。天体観測や、
方位を使って吉凶を占うようで、中国と深いかかわりがあるともされます。

ウイッキベディア・・・キトラ古墳
被葬者は右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)であったと推定し、その根拠として、古墳周辺の一帯が「阿部山」という
名前の地名であることを挙げている。
     *************************
この女性を候補のひとりにあげるのは、この明日香皇女のお母さんは、阿倍内麻呂の娘であり、古墳の被葬者として
有力な阿倍御主人の妹だからです。

そう、明日香皇女は阿部氏の姫王でもあるのです。
そして万葉集の挽歌には高市皇子の「城上の宮」へ安置されたとされるからです。

高市皇子のお墓の傍であり、しかも阿部氏の領地にある、キトラ古墳こそ明日香皇女のお墓なのでは?
高市皇子の皇后であり、高市皇子の崩御の4年後に亡くなっていることからも、高市皇と同様に40歳代で亡くなったと
考えられますよね。

ですので、壁画が共通する高松塚古墳とキトラ古墳が高市皇子と皇后の明日香皇女のお墓なんじゃないのかな?

でも、・・・「アスカの大宇宙 キトラに眠るのは誰だ」・・・
この番組で、キトラ古墳から出土した人骨、歯からの分析がなされました。ただ、この骨、体の部分ではなく、
頭蓋骨のこめかみ近くの少量の小さな破片や、歯からの分析でした。

でもこの鑑定により、被葬者は「40歳から60歳代のがっしりした体つきの男性」「大柄で、骨太で、頑丈な男性」
ということになりました。

あれ、???・・・女性じゃないの???・・・自信あったんだけどなーぁぁぁぁ(>_<)
でもね、だから被葬者の謎は解けているのですが・・・。

たしかに、伯父である、阿倍御主人は、ほぼ同時期に亡くなっていますし、出土人骨の鑑定・・・
「40歳から60歳代のがっしりした体つきの男性」によると、この阿倍 御主人の可能性が高いようには思いますよね。
ですので、阿倍御主人が被葬者として有力なようですが?
キトラ古墳の被葬者は、40歳から60歳代の男性で、もう決定のようになっていますが、・・・どうなのでしょうか?


謎解きの前に文武天皇陵に関して・・・
いま、文武天皇陵とされている檜隈安古岡上陵は、比定に問題あるとされています。
本当は誰のお墓なのでしょうか?ここ円墳だから、王のお墓ではない。つまり、文武天皇陵ではない。
このお墓の被葬者の推測もそう難しくはない。そう高市皇子の関係者のはずです。

ウイッキベディア・・・
日本書紀によれば、十市皇女のなきがらは天武天皇7年(678年)4月14日に赤穂に葬られた

天武・持統陵、中尾山古墳から高松塚古墳、文武天皇陵までを含む檜隈の大内・安古とよばれる一帯があり、
その安古が「赤穂」に通じることから、このあたりに十市皇女の墓を想定している説もある。
     *************************
もう、候補は檜隈安古岡上陵しかないですよね。文武天皇陵とされていますが、女性の古墳だとする説もあるようです。

そう被葬者は高市皇子の妹の十市皇女です。高市皇子と十市皇女は、天武と額田王との子供、兄妹であり第一皇子、
第一皇女であるわけです。

ウイッキベディア・・・
新薬師寺(奈良市高畑町)の隣にある鏡神社の比売塚は、「高貴の姫君の墓」として語り伝えられており、
ここに十市皇女が埋葬されているという
    *************************
この新薬師寺周辺はいうまでもなく、藤原氏の支配地である。そこに十市皇女が埋葬されているはずはない。
ここの姫君とは、藤原鎌足の娘であり、藤原不比等・五百重娘の姉である、氷上娘のお墓である。


それでは、文武天皇陵が、今治定されている、檜隈安古岡上陵でないとしたら、文武天皇陵どこなのでしょうか?
おそらく、八角墳墓であるはずですから、・・・そう束明神古墳しかないですよね。

おそらく、お父さんの草壁皇子のお墓の傍にあると考えられるからでもあります。
今、草壁皇子のお墓として比定されている岡宮天皇陵は、どうもあやしいようです。すると、候補は一つしかないですよね。

そう束明神古墳の傍の丘の上にあるマルコ古墳こそ、草壁皇子のお墓なのでしょうか?


ウイッキベディア・・・ 草壁皇子
皇位に就くことなく持統天皇3年(689年)4月13日薨去。淳仁天皇即位後の天平宝字2年(758年)に岡宮御宇天皇の
称号が贈られた。

万葉集巻二(一六七) ・・・
日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌

最後の箇所・・・
由縁もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬる 
そこゆゑに 皇子の宮人 行方知らずも
+*++++++++++++
巻二(一七七)
朝日照る佐太の岡部に群れ居つつわが泣く涙止む時も無し
巻二(一七九)
橘の島の宮には飽かねかも佐田の岡部に侍宿しに行く
巻二(一八七)
つれも無き佐太の岡辺にかへり居ば島の御階に誰か住まはむ
巻二(一九二)
朝日照る佐太の岡辺に鳴く鳥の夜泣きかはらふこの年ころを

    ************************
万葉集には、日並皇子尊(草壁皇子)が、皇位につくことなく、佐太の岡部 (真弓の岡)に埋葬されたことが
詠われています。
お墓は、今治定されている岡宮天皇陵(古墳ではない)ではなく、真弓丘陵の佐田の岡とはマルコ山古墳でしょうか?

束明神古墳がこの草壁皇子との説もあるようですが、この万葉集の記述にある位置情報と、皇位についていない
などを考慮すると、八角墳墓である束明神古墳は、皇位に就いていた文武天皇陵で、マルコ山古墳が草壁皇子ではない
でしょうか?
束明神古墳は藤原氏の氏神である、春日神社の中にあります。文武天皇妃は不比等の娘とされる藤原宮子ですので、
こちらの方が文武天皇陵墓のような気がするのですが?
隣接してありますので、この二人の古墳だろうと考えられると思います。

高光るわが日の皇子の万世に国知らさまし島の宮はも

夢にだに見ざりしものをおほほしく宮出もするか佐檜の隈廻を
    *************************
この 草壁皇子の宮は、島の宮とされます。この島の宮とは、石舞台のそばにあった宮が住まいだとされます。
そこから、檜前の地を通って皇子の御陵に出仕することになるとは夢にも思っていなかったという意味のうたです。

この島の宮なのですが、蘇我馬子の邸宅跡ともされますが、草壁皇子は持統の皇子であるので、祖父である
天智の宮とされる、いまは跡地が残りますが、飛鳥稲淵宮(飛鳥川辺行宮)ではないのかな?
そこから、西に向かい檜前の地を通ってマルコ山古墳まで出向いたことを詠っているのではないでしょうか。


高松塚古墳の被葬者は、忍壁皇子が有力とされます。そして、彼も怨霊として恐れられました。
舎人親王と、新田部親王はこの忍壁皇子の子供たちであり、この2人もまた藤原氏によって暗殺されている?
その後すぐに怨霊が現れ藤原四兄弟は病死します。

そう忍壁皇子や、その王子たち、舎人親王と、新田部親王を殺害したからだとも考えられます。
この忍壁皇子は、高市皇子の後、大王に即位していたと思います。ですので中尾山古墳の可能性もあるように
思いますが、どうかな?

忍壁皇子も天武の王子なのですが、高市皇子と同様に身分の低い女性との子供とされ、おそらく暗殺されている。
天武の后たちでは、天智の娘たちや藤原の娘たちの方が位が上位とされている。




それでは、高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎について・・・(^o^)丿

高松塚古墳とキトラ古墳は、その壁画が共通しますが、今有力な説とされているように、阿部氏が古墳を製作したのではないだろうか?
この阿部氏の領地傍には、檜隈を拠点とする渡来人の東漢氏がいて、壁画作成に関係したのかもしれません。

それで、この 高松塚古墳とキトラ古墳は、壁画が描かれているという共通点があります。
しかもかなり重要な人物だと思われます。天武の関係者だとするのが有力です。

梅原猛氏は、この高松塚古墳の被葬者の頭蓋骨が取り除かれていることや、壁画の日象、月像が傷つけられていることから、怨霊の復活を恐れたためであると考えられました。
天武の第六王子である、弓削皇子を被葬者として考えられていましたが、人骨からの推定年齢とはあわないようです。

この高松塚古墳は、 高市皇子のお墓であり、キトラ古墳が皇后の 明日香皇女のお墓です。この 明日香皇女は誰の后だったかが消されています。それは、 高市皇子の皇后であり長屋王のお母さんだからです。


両古墳とも、出土人骨が異常な状態であるのに、そこが注目されていない。

キトラ古墳から出土した、人骨とは頭部の骨と、歯でした。何故に体の部分の骨が出土しないのでしょうか?
不思議ですよね。

それで、・・・高松塚古墳の出土人骨の頭蓋骨がない、キトラ古墳からは、頭蓋骨だけが発見され、しかもこの頭蓋骨は、
・・・「40歳から60歳代のがっしりした体つきの男性」・・・ともに同年代の男性の人骨ですよね。

そう、キトラ古墳の頭部の人骨は、高松塚古墳から取り出された高市皇子の頭蓋骨です。
まさかそんなことするわけないと思われるので、これ案外盲点でしょう。
梅原氏の説どおりに、復活出来ないように、頭蓋骨と体を異なる場所に埋められたのです。もちろん藤原氏の仕業です。

長屋王が祟り、藤原氏は4兄弟が祟られて亡くなったとし恐れました。
藤原氏は、怒り、恐怖し、さらなる祟りがないように、怨霊封じを行いました。長屋王のお墓はもちろん、
お父さんとお母さんのお墓を暴いたのです。

藤原氏は、長屋王や、長屋王のお父さんである高市皇子、お母さんである明日香皇女のお墓を暴き、復活しないように、
高松塚古墳から、頭部と体とを切り離し、キトラ古墳に埋葬し、長屋王も復活しないように、この時、明日香皇女の遺体は
この場所から取り除かれたのです。
そして、長屋王もこの場所から遠くに移葬したのです。 中尾山古墳こそ長屋王のお墓なのでは?


以下は根拠です。今回もかなり自信ありますよ(^^)/

*柿本人麻呂の挽歌により、高市皇子の皇后は明日香皇女である。
つまり、大王に即位していたと思われる長屋王は、この高市皇子と皇后の明日香皇女との王子である。
藤原氏により、高市皇子と長屋王が大王だったことが消されている。

*高市皇子や長屋王は大王に即位していました。ですがこの高市皇子や長屋王のお母さんを、身分の低い女性
として系譜の改竄がなされている。系譜の改竄を行ったのは、彼らを死に追いやった藤原氏である。
柿本人麻呂の高市皇子への挽歌にある、天武が作った「香久山の宮」に居住していたのは、王に即位した高市皇子である。
万葉集・・・
我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや

*持統が即位した、「藤原の宮」とは、藤原不比等の邸宅である。そして持統は天皇に即位したのであって大王ではない。
本当の宮の名は 「香具山の宮」であり、高市大王の宮である。高市皇子や長屋王が大王だったことが消されている。
消したのは彼らを殺害した藤原氏である。
長屋王が大王だったことは、長屋王邸とされる場所から出土した木簡の文字から容易に推測できます。

*柿本人麻呂の明日香皇女への挽歌にある、「王」とは高市大王のことであり、「君」とは明日香皇女のことである。
高市大王が亡くなり、后の明日香皇女が悲しみに暮れている様子を歌ったものです。
彼女が皇后であり、長屋王のお母さんである。柿本人麻呂は本来の大王、高市大王に仕えた人物である。

*柿本人麻呂の挽歌により、この二人は夫婦であり、ともに殯宮である、 「城上の宮」へ安置され、同じ地域にに
埋葬されたと考えられる。他人の后を同じ殯宮に安置するはずはありません。高市大王の皇后はこの明日香皇女です。
高市大王崩御は、696年であり、明日香皇女は700年に亡くなっていて、古墳の築造時期として問題ない。
古墳の造られた年は、高松塚古墳は、696年であり、キトラ古墳は700年に造られたものです。

*明日香皇女のお母さん、阿倍橘娘は、阿倍内麻呂の娘であり、キトラ古墳の被葬者として有力な、阿倍御主人の妹です。
つまり、明日香皇女は阿部氏の姫王です。阿倍内麻呂は、最高官である左大臣に就任したとされる重要人物でもあります。

*キトラ古墳周辺は阿部氏領地であり、明日香皇女はこの阿部氏の姫王である。高松塚古墳とキトラ古墳はこの阿部氏が
造ったものではないだろうか?大王であり、夫であった高市皇子の陵墓もまた阿部氏が造った古墳である。
両古墳は共通するところが多くあり、夫婦や親子などの関係者のお墓であると考えられる。

*阿部氏は渡来人と関係が深く、近くには東漢氏の領地があり、壁画作成に関与したのではないだろうか。
高松塚古墳とキトラ古墳は、ともに石室に壁画が描かれています。四神の描き方が、両古墳で同様であるなど、
製作者は共通である。これらの古墳がある、檜前(檜隈 )は、古代より渡来人の居住地であった。

*万葉集、柿本人麻呂の高市大王への挽歌の反歌です。
万葉集 202
泣沢の神社に神酒すゑ祷祈れどもわご大君は高日知らしぬ

(泣沢神社にお酒を捧げて祈っていたのにわたしの大君(高市大王)は天をお治めになってしまわれた。)

作者は檜前女王とされます。この檜前女王とは、もちろん阿部氏の姫王である皇后の明日香皇女のことです。
キトラ古墳の被葬者であり、渡来人の居住地でもあった檜前(檜隈 )の地は、阿部氏の領土である。
今も阿部山の地名は残っています。この檜前女王とは皇后の明日香皇女のことです。

*高松塚古墳の壁画に描かれている、赤い服を着て正面を向いた女性が注目されています。
身分の高い女性だとされますが、この女性こそ皇后である明日香皇女であり、阿部氏の姫王である彼女が
夫のお墓である高松塚古墳の壁画の制作を依頼したのではないのか?

*阿倍 御主人は陰陽道の祖とされる。この陰陽道は天体観測や、方位で吉凶を占うようで、天体図が描かれていた
キトラ古墳の壁画と関係すると考えられる。
つまり、キトラ古墳の被葬者は阿部氏に関係する人物であるとするのが有力である。

*高松塚古墳の出土人骨には頭蓋骨がない。歯が一本だけ見つかっていてます。このことから、もとは普通に埋葬されて
いたのですが、後に頭蓋骨だけ取り出されたと考えられる。本来は頭蓋骨や歯は残るはずであり、
これは、意図的に取り除かれたとしか考えられない。

*キトラ古墳からの出土人骨は、少量の頭蓋骨と歯だけで、体の部分の骨が出土していない。これも、全く不自然である。
しかも、頭蓋骨は破壊されているように思う。両古墳とも出土人骨は異常な状態である。

*何らかの怨霊封じが行われている。頭蓋骨はあきらかに、粉々にされている。同様に副葬品なども壊されている。
キトラ古墳出土の二振りの太刀(銀製と鉄製の太刀)が良く知られています。この太刀も破壊されている。
盗難にあったとされますが、そうではない。銀製の鞘尻金具や、鞘口金具、銀装把などが出土しています。

盗難されたのであれば、そのまま持っていくはずです。これらの、特に銀製の刀装具が残されているのはおかしい。
太刀の刀身も、断片ですが出土していて盗まれたものではないことがわかります。
副葬品であるこれらの太刀も破壊されている。
二振りの太刀のうち銀製の太刀といわれる黒漆塗銀装太刀の方は、高松塚古墳から持ち出された高市大王の所有品だと思
うのですが?

*副葬品に関しては、この刀剣以外にも玉類(琥珀玉・ガラス玉・微小鉛ガラス玉)などが副葬されていたそうです。
何故わかるかというと、破片が残っていたからです。これは、盗難にあったのではないということです。破壊されていたのです。
また漆塗木棺も壊されていたようです。被葬者の遺骨や棺、副葬品にいたるまで、全て壊されている。
これは怨霊封じが行われていたからです。

*キトラ古墳からの出土人骨の頭蓋骨は、高松塚古墳から取り除かれた頭蓋骨であり、復活をしないように異なる場所に
埋められた。怨霊封じである。高松塚古墳とキトラ古墳は、怨霊である長屋王の両親のお墓である。

*同じ場所に夫婦がいる(埋葬されている)と、子供である長屋王が復活するため、后の明日香皇女の遺体は取り除かれた。
長屋王がふたたび復活し祟らにようにするためである。
キトラ古墳の頭蓋骨の骨も、ほんの少量の破片しかないので、怨霊封じを行い破壊して取り除くはずだったのですが、
少量残ったということです。骨は本当に少量しかなくおかしい。
盗掘者は、お宝を盗んでいくでしょうが、遺骨なんて盗んでいくはずありません。

*高松塚古墳の被葬者は、「聖なるライン」上にあり、 また描かれていた壁画からも、皇族、天武の皇子たちが有力である。
出人骨の鑑定により、40代から60代の人物である。すると、高市皇子か忍壁皇子しかいない。
高松塚古墳、キトラ古墳は、王家と関係ない人物が葬られているはずはない。

*高松塚周辺の古墳は、天武の皇子である、 高市皇子の関係者のお墓である。

  高松塚古墳・・・高市皇子、中尾山古墳・・・長屋王?
  キトラ古墳・・・明日香皇女、檜隈安古岡上陵・・・十市皇女

高松塚古墳は、高市皇子を大王としたくないために、元は八角墳墓だけど、円墳に作り直された可能性はあると
思うのですが・・・どうなのだろう?長屋王のお墓も、祟った後にこの埋葬地から移葬されている。


香久山宮から南のセンターラインに、天武持統陵墓と額田王のお墓、さらに南に、香久山宮の王である高市大王(高松塚古墳)、
妹の十市皇女(檜隈安古岡上陵)、さらに南に高市大王の皇后の明日香皇女(キトラ古墳)、意図的に作っています。
天武の王子であり、香久山京(藤原京)の主である、高市大王の関係者です。

文武、草壁皇子が「聖なるライン」から外れるのは、持統は天武の皇后ではなかったからです。

束明神古墳・・・文武天皇陵あるいは、草壁皇子
マルコ山古墳・・・草壁皇子あるいは文武天皇陵
でしょうか?

いま、中尾山古墳が、八角形墳墓で火葬墓であるということから、文武天皇陵として有力とされます。
ですが、お父さんである、 草壁皇子のお墓そばの、束明神古墳のように思います。

同様に、高松塚古墳傍の 中尾山古墳は、高松塚古墳の被葬者に近い人物、そう高市皇子の王子である長屋王の
お墓ではなかったのか?
それが、長屋王が祟ったとされた後に、この地から追放される形で移葬されたのではないだろうか?
生駒郡平群町にある、長屋王のお墓は、直径15m、高さ1.5m程の小さな円墳とされます。
もちろん、定かではないのですが、こんな小さな円墳が長屋王のお墓であったわけはない。このお墓の規模や埋葬地
からも推測できますが、藤原氏により本来の埋葬地から移葬されて、今の小さなお墓に葬られている。



最後に、この天武・持統陵に檜隈大内陵 に関してです。持統天皇は、薄葬令により天皇としては初めて火葬されたとされます。
ここは、本来は天武天皇陵墓なのですが、本来、持統は他の場所に埋葬されていたのですが、天武の皇后とするために、
後に火葬されて天武陵に移葬されたのです。
藤原氏は、関係する聖武天皇が、本来の正当な皇位継承者とするため、また高市皇子や長屋王が大王に即位していたことを
隠すためには、祖母の持統がが天武の皇后でなくてはならないのです。
権力を握り歴史を改竄した後、つまり、長屋王が祟って後に、藤原氏によって埋葬されていたお墓から火葬されて
天武陵に移葬されたのです。
同じ陵墓内に、天武はふつうに埋葬されているのに、持統は火葬されているのはおかしい。思想的に異なりますので、
異常な状態にあるといえます。火葬は仏教の葬方であるともされます。




1枚目の写真は、高松塚古墳です。2枚目、キトラ古墳、3枚目は、八角墳墓である 中尾山古墳です。
高松塚古墳とキトラ古墳出土の人骨を調べれば同一人物の遺骨であると分ると思いますよ。
4枚目以降は、国営飛鳥歴史公園にある、キトラ古墳壁画保存管理施設の四神の館です。明日香を訪れた際は是非
立ち寄ってください。
とにかく、国営ですので、豪華な施設です。周囲の景観に配慮した建物です。公園も綺麗に整備され、のどかでおすすめです。
7枚目の写真にあるように、石室内部が再現されています。外部から見ると、石室内は凄く狭いように感じました。
今回のように、期間限定ですが、壁画の公開もされています。


                                                            











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「奈良京」と「平城京」・・・長屋王の祟り

2017年10月09日 | 日本書紀の謎


今回は平城京の謎に関してです。
藤原京の名称の問題は前回書きました。
何度も云いますが、「藤原の宮」に「藤原京」、・・・藤原ですよ。
「藤原の宮」の名称に何の疑問も感じずに、さらに都の名を、「藤原京」に、・・・そして今も誰も不思議に思う
ことがないのでしょうか、この藤原京の名称は使用されています。

そして、同様に次の都とされる平城京もまた、名称や、宮殿に関して問題あります。

おそらく、この問題に関しても、誰も指摘していない・・・かな?
でもこれ凄く重要です。記紀や、続日本紀における藤原氏の改竄個所が明らかになる(^^)/


藤原京(新益京)は、持統の都ではなく、天武の王子で第一王子の、高市皇子の都でした。そして新たに移った
平城京もまた、元明天皇の都ではなく、本来はは長屋王の都でした。

高市皇子、長屋王は大王に即位していました。しかし藤原氏によって王に即していたことが消されています。
同様に彼らの宮、都の名称も消されている。

平城京は、長屋王没後に、平城宮を中心にした都づくりがなされたのです。
それまでは、長屋王の都だったのです。書物において都の名称を消し去っていましたが、都の名が記された木簡が出土しました。

ウイッキベディア・・・
平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、かつては奈良京(寧楽京、ならのみやこ)
と呼ばれた。762年の正倉院文書の記述に加え、平城京への遷都当時の造成土から「奈良京」と書かれた木簡が発掘されている。
    *************************
この平城京、元は奈良京とも呼ばれていたとされています。ですが、この都、この遷都当時の造成土から見つかったように、
この「奈良京」というのが、本当の都の名であり、長屋王の都です。物的証拠である木簡に書かれていました。
高市皇子の都の新益京の次の都は、この「奈良京」です。平城京が奈良京と呼ばれていたのではなく、奈良京の地に、
あらたに作られたのが平城京であり。この平城京こそ、権力を握った藤原氏の都です。


高市皇子、長屋王は大王でした。ですので、長屋王邸宅が本来の宮であり、都の中心地でした。その事実が消されている。
しかし邸宅跡から多数の木簡が発見されました。

ウイッキベディア・・・
奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われ、昭和63年(1988年)には
奈良時代の貴族邸宅址が大量の木簡群(長屋王家木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明した

出土した4万点に及ぶ木簡の中から、「長屋親王」の文字が入った木簡が発見され、長屋王の邸宅であったことが判明した。
    ************************

なんと、4万点もの木簡が発見されました。その木簡には、「長屋親王」などの記載のあるものがありました。
これ「親王」ですよ。「親王」は天皇の皇子という意味です。次の王位継承者ということです。
木簡は一級資料ともいえる物的証拠ですよね。

つまり、お父さんである、高市皇子は大王ということになります。
もちろん、「親王」である長屋王も、大王に即位していました。
この「親王」は「親皇」じゃないですよね、ですので、「高市皇子」は、本当は「高市王子」です。
本来は天皇ではなく大王です。万葉集にも天武は大王と呼称されています。

こんな簡単なことが何故にわからないのでしょうか?王だったいう証拠物件がでているじゃないですか?
もう不思議としかいいようがない。

長屋王は大王だったとする証拠の木簡はまだあります。
「長屋親王宮」、親王と表記がある。
「吉備内親王大命」この「大命」とは天皇の命令を表します。
「長屋親王宮鮑大贄十編」、この 大贄とは、天皇の食物を表す言葉だそうです。
「勅旨」と書いた木簡も見つかっている。これも王位についていた証拠です。


大王と天皇は異なる。天皇は本来は蘇我の王の呼称でした。王座が二つあったともいえる状態でした。これが理解できていない。
本来の王はもちろん大王です。ですが、藤原氏が関わったのは天皇の方でした。持統は天皇に即位したのです。
そして、聖武は天皇なのです。本来、天皇は、王でなかったのですが、後に藤原氏は天皇の呼称を使用して歴史を改竄したのです。
藤原氏が関わる天皇の方が正統だとしたのです。
これがわかれば謎解きは難しくない。

天武天皇ー高市大王ー長屋王
かれらは全員「大王」でした。藤原氏は対立していた、高市大王や長屋王を大王だとしたくないために、かれらの系譜が改竄されている。

そして、これら多数の木簡の出土により、この場所が長屋王の邸宅であると判明しました。また木簡の内容からも長屋王は大王でした。
この大王である長屋王を殺害したのは藤原氏です。
あたりまえだけど、藤原氏は彼を王だったとしたくないわけです。
ですので系譜を改竄したわけです。

記紀はこの長屋王が祟って後に改竄されている。また、藤原の時代の続日本紀に至っては全く信用できない。藤原氏の主張でしかない。

押坂彦人大兄皇子ー 山代王ー天武天皇ー高市皇子ー長屋王
彼らは、本来の大王でした。この王家の系譜が改竄されています。

持統や元明、元正は天皇でした。ですが、天皇は王ではない。これが理解できない限り、古代史の謎はとけません。
これらの木簡の出土がなかったら、平城京の謎も分らないままでした。
良く見つかったなと思います。おそらく長屋王の邸宅は、藤原氏によって壊されたと考えられるからです。

もう何度も云っていますが、長屋王は大王でした。
つまり、この邸宅跡というのが、王の居住地であり、本来の平城京の、中心地でした。それが藤原氏によって変更されている。



今回は、地図を見て下さいね。どう長屋王の都である「奈良京」から、「平城京」に変更したかを考えてみます。

ウイッキベディア・・・平城京

藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により
遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備
された程度と考えられており[1]、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている
740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、
その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた
   ****************************
710年の平城京遷都を、710・南都・・・「なんと見事な平城京 」で覚えましたよね。
ですが、正確には、平城京遷都は710年ではないかもしれません。

王家と藤原氏の対立により、大王と、天皇、王座が二つあった状態でした。大王である、長屋王、天皇である、持統天皇や元明天皇。
記紀や、続日本紀はこの天皇側、つまり藤原の主張でしかない。

高市大王崩御は696年です、その後はおそらく、忍壁 皇子が697年に即位?、そして崩御は705年 。
このあと、長屋王が即位した706年が奈良京遷都年ではなにのだろうか?。宮が完成するまでには少し期間が必要かもしれませんが、
長屋王即位した年であろう706年頃が、本来の平城京遷都年・・・ではなく奈良京遷都年です。

長屋王は大王に即位している。つまり、本当の都の中心地は、長屋王の邸宅でありここが宮です。後に、つまり710年に、
都の北西部分に藤原氏の宮が完成し、元明はここで天皇に即位し移ったわけです。平城宮は藤原氏の宮です。

この長屋王の邸宅は、長屋親王宮と記された木簡が発見され、長屋王の邸宅跡は特定されています。邸宅は藤原氏によって、
すぐに壊されたとも考えられますが、貴重な遺構は残っていました。
保存すべき貴重な遺構は失われてしまいました。・・・悲しい( ノД`)シクシク…


ウイッキベディア・・・平城京の疑問箇所
唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に
位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、
中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。
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平城京の謎ともいえる疑問点があげられていますよね。
同じ時代である唐の都の長安を模してとするのが常識的な答えですよね。何回か遣唐使が派遣されているわけですから。
北魏洛陽城などをモデルにするわけないでしょうに。

ですが、この高市皇子の都(藤原京)と、長屋王の都である奈良京はともに長安の都を模して造られたものではない。

長屋王の都、奈良京は、お父さんである高市皇子の都、香久山京(藤原京)と同様の都だと推測できますよね。
すると、藤原京は、大内裏(天皇在所)に当たる部分が中心にあるのに、この平城京は北端に位置します。おかしいですよね。
これ、都の守備面を考えると、王の住居は、普通は周囲を囲みますよね。これでは、北側から敵に攻められたらどうするのでしょうか?

この指摘から平城京の謎は解ける。
この指摘にあるように、本来は端に宮をつくるわけないですよね。本来、防御面から考えても、当然ですが、
王の住む宮殿は周囲を囲まれた、中心に位置するように作りますよね。

謎はここにあります。大王は長屋王であり、都である、奈良京の中心地は、本来は王である長屋王の邸宅である。
つまり、長屋王邸宅が、宮であり都の中心、大内裏です。藤原京と同様に、中心に宮があるのが、当然ですよね。

いま平城京の跡地とされる場所「平城宮」は、本来の都の中心地ではなかったのです。都の北西部分でした。

後に、王家を滅ぼした、藤原氏により、藤原氏の宮である「平城宮」を中心にした都づくりがなされ、「平城宮」が
中心に位置する都作りがなされたのです。長安の都を模して造られたのはこの時です。
本来の都である、長屋王の「奈良京」は変更し消されている。

藤原氏は、この長屋王の都、「奈良京」の北西に、藤原氏の宮を作ったのです。持統と同じく、元明はこの藤原氏の宮で
天皇に即位したのです。これは、いわば「藤原の宮」です。
長屋王に対抗して藤原氏が作ろうととしたのだけど、当初は結局ほとんど作っていない。それは長屋王が祟ったからです。

長屋王の変の後、王家と藤原氏の争いは、藤原氏の勝利となり、この平城宮の方が主役になってわけです。
もとは王家に対抗して、藤原氏が建設しようとした宮です。平城宮こそ藤原宮であるのです。

後にこの平城宮を中心に都作りが行われたのです。

では、本来の都、長屋王の都とはどういうものだったのでしょうか?
都建設途中で暗殺されましたが、どういう都を建設しようとしていたのでしょうか?

長屋王の邸宅は、香久山の宮(藤原宮)の真北の位置にあるでしょう。

この平城京の中心地は、この長屋王の邸宅であり、ここが宮であり都の中心地です。藤原氏はこの都の北西に部分に、藤原氏の宮を作ったのです。
地図を見てください、長屋王の邸宅跡(奈良そごう、イトーヨーカドー跡地)を中心に考えると、およその都の大きさは想像できますよね。

ウイッキベディア・・・
和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。
大官大寺も、説では霊亀2年(716年)に平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となった。

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長屋王の邸宅というのが、本来の「奈良京」の宮です。この宮を中心に南北の距離は、北の平城宮(平城京跡地)の北西の角から、
南は、南西に位置する薬師寺まで。
東西の距離は、この薬師寺から南東に位置する大安寺までの範囲(中ツ道 )までが、長屋王が作ろうとしていた都だったのでは?

およそ、高市皇子の都(藤原京)を、そのまま上に移動したのが長屋王の奈良京である。

長屋王の宮から、発見された木簡には「北宮」との表記がありました。
これは、もちろん、高市皇子の宮(香久山の宮)から、北に位置するため「北宮」と呼ばれていたのです。
この「北宮」とは長屋王の宮のことを指します。
長屋王の邸宅は、香久山の宮(藤原京の藤原宮)の真北の位置します。


解かり易く言えば、南北は、東側は中ツ道、西側は南北に流れる秋篠川にそってある、今は県道9号線。
東西は、北は平城京跡地から中ツ道まで、南は、薬師寺と大安寺は含まれるだろうから、今の県道41号。
薬師寺からすこし南の奈良口から、中ツ道までではないだろうか?形的には、南は七条大路までかな? 

本来はこの長屋王邸宅、つまり王の宮ですが、ここが中心地だったのですが、長屋王崩御後に、藤原氏によって、
藤原の宮である、いまの平城京跡地を中心にして都づくりがされたわけです。

そして、・・・740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄される
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長屋王の祟りにより、この地を離れたと考えられますよね。伝染病です。
怨霊を恐れ、聖武天皇は、740年に恭仁京へ遷都。しかし、奈良に近いためでしょうか、わずか3年余りで難波宮に移ります。
その後、745年1月、紫香楽宮を新京にしようとしますが、どこに移ってもいろいろと問題があったようで、結局同年5月には、
再び平城京を都することになります。
この745年が、本来の平城京遷都年です。もとは、奈良京とよばれ長屋王の都でした。ですので、本来は平城宮は都の中心の位置になかったです。

このときに、今の平城京跡地を中心にした都づくりが行われたのです。ですので、大内裏に当たる部分が中心ではなく、北端に位置するのです。

平城宮を中心に位置するようにするために、中央に朱雀大路を作り、都を西側に伸ばしたのです。そこに西大寺を建設したわけです。
南側にも、正方形に近くするために七条大路から九条大路まで伸ばしている。 
北側には伸ばしたかったでしょうが、地形の問題がありました。北側は古墳と山があったので伸ばせなかったのでしょうか?
ですので、宮が、北端に位置する奇妙な都になったのです。

これは、平城京を都とすることになった、745年以降です。
それまでは、もちろん、大王である長屋王の都、「奈良京」だったのです。

長屋王崩御後は、藤原氏は都をさらに東方に伸ばしました。東側は高台になっていて、平城京を見渡せる位置に新たに東大寺を建設したのです。
西の西大寺、東の東大寺、仏教の力で、この奈良京にある怨霊を封じるためです。



1、2,3枚目の写真は、平城京の大極殿です。4枚目は、この大極殿すぐ横にある
法華寺です。5、6枚目は、奈良そごう、イトーヨーカドー跡地にある、長屋王跡地の説明図。残念ながら、跡地に建てられた
奈良そごう、そして次のイトーヨーカドーも閉店することになりました。長屋王の祟りともいわれています。
7枚目は、長屋王家出土の木簡。長屋王邸と確定する根拠になった木簡と、長屋親王宮と記された木簡です。


ウイッキベディア・・・法華寺
法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。
天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。この宮寺を「法華寺」と称したことが
文書で確認できるのは、2年後の天平19年(747年)からである。
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大極殿東側にある、法華寺は、本来は不比等の邸宅だったようです。
この「平城京」こそ、「藤原京」です。藤原氏の都です。

この藤原氏の宮である、平城宮は、奈良京の北西部分に位置していました。そして、ここにあったとされる大極殿は
聖武天皇時代以降に建て直されています。
平城宮第二次大極殿建設においては、全長100mクラスの前方後円墳が壊され、その上に大極殿が建設されています。
この古墳は、「神明野古墳」と呼ばれているそうです。古墳を壊して平気なのは、破壊したのは藤原であり、
祖先のお墓ではないからです。

まず都を作るには、中心の内裏、大極殿などの位置を決めてから都づくりをするはずです。
古墳のある場所に、王の住まいである宮を建てようとはしないはずです。いうまでもなく、古墳はお墓です。
最初に造られた、内裏、大極殿の横にはなんとお墓、古墳があったのです。
都の中心である、王の住む場所、内裏、大極殿は、お墓そばに造られていたことになります。
これ、ありえないでしょう。今も北部には複数の古墳が存在します。

平城宮が、本来の都の中心ではなかったことの証拠でもある。

万葉集 巻一(80)
あをによし寧楽の家には万代にわれも通はむ忘ると思ふな
巻三(328)
あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり

寧楽(奈良)の都と詠まれています。それが、何故に奈良京が、平城京ということになるのでしょうか?
おかしいですよね。平城を「なら」とよんでいたらしいといわれますが、本当なのでしょうか?
「那羅」、「寧楽」、「及楽」、そして「平城」などと表記されているとされますが、「平城」だけは納得できない。
長屋王が大王に即位していたことを消し去ったため、長屋王の都である奈良京も消し去られているのですが、
木簡や万葉集に本来の都の名が残っている。
藤原が殺害した人物が大王では都合が悪いため、歴史が改竄されている。こんなの簡単な推測でしょうに。



     
                         


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