郡より女王國に至ること萬二千余里と記述されています。帯方郡から伊都国までの行程距
離を合計すると一万五百里とされています。すると残り千五百里あまりです。
魏志倭人伝の記載で考えると、九州から出ることはないですよね。
ですから陳寿の云うところの女王國は九州です。
でも陳寿は女王国と云っているわけで、邪馬台国とは記述されていません。
不彌國までの行程記述と、投馬國と邪馬台国との記述の仕方が異なりますよね。
記述から判断すると、残りの千五百里あまりを、「水行10日・陸行一月」もかけわけ
ないですから、この「女王国」は「邪馬台国」ではないということですよね?
つまり、魏の使者は畿内の邪馬台国までは行っていない。
それで、この邪馬台国までの行程記述の「水行10日・陸行一月」ですが、
こんなのどう考えたって、魏の使者の行程記述なんかじゃないでしょう?
魏の使者は畿内の邪馬台国までは行っていないでしょうに。むかったのは九州
倭国(女王国)の王都、佐賀平野。吉野ヶ里かな???
隋書倭国伝・・・「夷人不知里數、但計以日。」こう記述されているでしょう。
つまりこの邪馬台国までの行程記述「水行10日・陸行一月」は、こちらから朝貢
した時の情報。魏の使者のよる行程記述ではない。
卑弥呼に関する情報もこちらからの伝聞によるもの。
倭人伝・・・
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。
事鬼道能惑衆。年已長大、無夫壻。有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍。
唯有男子一人給飮食傳辭出入。居處宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。
卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當
時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。
これらも、朝貢時や、秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとされた時の情報。
魏の使者による邪馬台国においての紀行文ではない。