藤原京跡地には、沢山の花が植えられていますが、特に秋のコスモスが有名で、この時期には沢山の観光客が訪れます。
そして、この藤原京なのですが、この都の名称を「藤原京」、そして宮を「藤原の宮」なんていうのは絶対に賛成できません。
これじゃー、本来の歴史は全く歪められたままである。歴史を改竄した藤原氏、不比等の思惑通りじゃないですか?
とにかく、私はこの「藤原京」の名称が気に入らない。ですので、もう少し書き込みます。
この藤原京の名称は、持統が即位したとされる「藤原に宮」にちなむのですが、この藤原の宮とは、都の中心にある建物、天皇の住む内裏、大極殿、朝堂院などのことされますが、そうではなく、藤原氏、藤原不比等の邸宅のことです。持統はこの不比等の邸宅で天皇に即位したのです。何度も言いますが、大王に即位したのではない。本来の王の呼称は、この時代も「大王」です。
では、どこかに本来の宮の名称が記されているものがないのだろうか(・・?
実は、・・・万葉集の柿本人麻呂の歌の中に、本当の宮の名が記述されています。これ、持統は天皇であり、大王は高市皇子であり、この都、本来は高市大王の王都だとすると、案外簡単に発見できます。
長屋王の邸宅跡とされる場所から出土した木簡の記述からの推測では、長屋王や父親である高市王子は大王に即位しています。
今回は、この藤原京跡の写真を撮りに出かけました。そして、近くにある橿原市藤原宮資料室、奈良文化財研究所藤原宮資料室を訪れたました。橿原市藤原宮資料室には、藤原京の1000分の1サイズノ精巧なジオラマがあります。
この都はとても信じられないくらいの広大な面積だっとされます。本当なのかなー?(゚Д゚;)
奈良文化財研究所藤原宮資料室には藤原宮で出土した、瓦、土岐、木簡などが展示されています。
訪れてみると、新たな発見がありました。
都の中に、大きな邸宅跡も見つかっているようで復元模型を展示してあります。これが、・・・とまでは断言しまませんが、こんな大きな邸宅を建てることが出来るのは藤原氏以外ない・・・おそらくこの邸宅跡が、藤原氏、藤原不比等の邸宅であり、・・・つまり、
ここが「藤原宮」であり、持統はこの不比等の邸宅で天皇に即位したわけです。
でも大王ではありあません。
なんどもいいますが、中心にある、内裏、大極殿、朝堂院などの建物が、臣下の名である藤原宮なんて呼ばれるはずは絶対にありえません。この藤原宮にちなんで藤原と王都の名称につけたようなのですが、臣下の名を付けるべきではない。歴史を変更したのはこの藤原氏です。
写真は、万葉集にある 持統天皇の歌です。
春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山
持統天皇
万葉集、そして百人一首にもある持統天皇の有名な歌です。
この「天の香久山」とは山ではなく、高市大王の宮、「香久山宮」のことです。
日本書紀、古事記は偽書です。同様に気になるのが万葉集です。持統が関わったともされる、15巻本万葉集といわれる初期に編纂されたとされるものです。
この万葉集についても記紀において、持統天皇、藤原氏によって改竄された歴史を補足する形で詠まれた歌が多数ある。
歌の内容はもちろん、作者や、詞書(和歌が詠まれた時・場所・事情などを説明したもの)によって改竄されている。
ウイッキベディア参照させてもらいます。
ウイッキベディア・・・
『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、
おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
1. 巻1の前半部分(1 -53番)…
原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したことが
推測されている。
2. 巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶
が関与したことが推測されている。
3. 巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集・・・
巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の
有無など、
万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。・・・
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もう何も言うことがない位なのですが、これらの指摘どおり、編纂には天智系天皇、そして藤原氏が関わっている。
原万葉集とされる、巻一、巻二は持統天皇の発意により文武朝に編纂されたとされます。特に問題なのはこの巻一、巻二です。
持統天皇、息子の草壁王子、その子の文武天皇 の皇位継承の正当性が述べられている。藤原氏による改竄です。
この原万葉集、本来は改竄された記紀の歴史を補足する形の和歌集である。元明在位期間を現在としている初期の15巻本万葉集がそうです。記紀を改竄し、それに合わせるように、この万葉集の中の歌で矛盾するものは変更されている。
それで、この持統天皇作とされる歌ですが、香具山は香久山、「天」の文字がつけられ、天香具山、天香久山とも表記されます。香具山をよんだ歌は他にもありますが、この歌に関しては、少し奇妙な歌だなーって思わないですか?
香具山は、そう神様の山ですよね。そこに衣を干すのでしょうか?
山に干した衣が見えるので、その景色を詠ったと考えられるわけですが、本当に宮から衣がみえるのでしょうか?どうして、わざわざ山に衣をほしに行くのでしょうか?おかしいですよね?
ですので、いろいろ解釈があるようなのですが・・・。
万葉集,第二巻には、挽歌とされる歌があります。この挽歌に詠われている人物は、不幸な死に方をした、殺害されたとされる人物が多いような気がするのですが・・・?この時代は暗殺が繰り返されてたから、たまたまかな?これらの挽歌は、死者への鎮魂歌であるわけです。
それで、、万葉集、柿本人麻呂が高市皇子の死を悼んだ有名な挽歌。
万葉集の中で最も長い歌です。壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかとされます。
この高市皇子も大王と表現されている箇所があります。そう高市皇子は大王に即位していたのです。
この挽歌に高市皇子の宮の名が記されていて、これが本当の宮の名です。
この挽歌の内容からも、高市皇子は大王に即位していたとしか考えられない。
柿本人麻呂は持統天皇に仕えていたとされますが、そうではありません。
人麻呂は、大王である、天武や、高市王子、長屋王につかえていた宮廷歌人です。
彼らは全員本来の大王です。本来の王である長屋王を殺害したのは藤原氏です。大王殺しは藤原氏にとっては都合の悪いことです。
長屋大王が大王ではないとするには、天武大王の第一王子であり父親である高市王子を大王に即位していないとすることです。
ですが、木簡や、万葉集の歌からの推測では明らかに大王です。
柿本人麻呂は、高市王子のことを「大王」と呼んでいます。
万葉集・・・巻二(一九九)
高市皇子の尊の、城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて
神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が王の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に
天降り座して 天の下 治めたまひ 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御軍士を 召したまひて 千磐破る 人を和せと
奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任きたまへば 大御身に 大刀取り帯ばし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ
整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに差上げたる
幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば野ごとに つきてある火の 風の共 靡くがごとく 取り持たる 弓弭の騒き み雪降る
冬の林に 旋風かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来れ 奉はず 立ち向ひしも
露霜の 消なば消ぬべく去く鳥の 争ふはしに 度會の 斎ひの宮ゆ 神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に
覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を神ながら 太敷き座す やすみしし 我が大王の天の下 奏したまへば 万代に 然しもあらむと木綿花の
栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に 装ひ奉りて 遣はしし 御門の人も 白布(しろたへ)の 麻衣着て 埴安の 御門の原に
あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り
侍へど 侍ひかねて 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ神葬り
葬り行して あさもよし 城上の宮を常宮と 定め奉りて 神ながら 鎮まり座しぬ しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして
作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども
短歌二首
久かたの天知らしぬる君故に日月も知らに恋ひわたるかも
埴安の池の堤の隠沼の行方を知らに舎人は惑ふ
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持統天皇の歌の謎はこの柿本人麻呂の、挽歌から謎解ける。
この挽歌の中の大王とは、天武のことです。その王子である高市皇子の御殿を神の宮として装い、仕えていた人たちは白栲(しろたへ)の 麻の衣を着て・・・この歌では白い喪服のことです。「白栲の衣」というのは普通は葬礼用の衣のことです。
そして、挽歌の最後の重要な部分です。
我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・
わが大王(高市大王)が、万年の世までと考えお作りになった「香久山の宮」は、万年の世を過ぎても
なくなることは考えられない。
天武が新たに造り始め、王子である高市大王の時代に完成した宮を、「香具山の宮」と表現しているでしょう?あたりまえだけど、藤原の宮なんて、宮の名を臣下の名で呼んでいたはずはない。ありえません。
この歌にあるように「香具山の宮」って名付けられていたのです。
それで、持統の歌の「天の香具山」なんだけど、・・・ この歌の場合は、この「香具山の宮」のことを指すのではないのでしょうか?どうなのだろうか?だから、「香具山京」でいかな。
この挽歌は、この高市皇子の宮である香久山の宮から、殯宮である、城上の宮へ移されたことを歌っているわけでしょう。
そして、万葉集
持統天皇・・・
春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山
つまり、この歌は、高市皇子を、城上の殯宮に移した後に、使用した葬礼用の白栲(しろたへ)の衣を、「香具山の宮」で干している情景を詠ったものであるのかも?当時は宮を天上にたとえる習わしがあったことから、この「天の香具山」とうい表現は本来、「香具山の宮」のことを言っているのではないのかな?
持統天皇の宮である藤原不比等の邸宅「藤原宮」から見える、高市皇子の宮である、「香具山の宮」に白栲の衣(祭礼用の着物)が干している・・・王であった高市皇子の死を悼んでいる歌であり、持統天皇から高市皇子への鎮魂歌でもある・・・と推測するのですが?
まー、高市皇子が、崩御した時の歌かどうかはともかく、持統の住まいである不比等の邸宅「藤原宮」から、高市皇子の宮である「香具山の宮」の様子を詠ったものである。夏に備えて夏用の衣を洗濯し干している情景を歌ったものです。
ともかく、王都の中心の建物が、藤原宮なんて呼ばれてたはずは絶対にない。
天皇は大王ではないので、持統は、この「香久山の宮」で即位したのではなく、藤原不比等の邸宅(藤原宮)で天皇に即位したのです。
多分だけど、発掘された大型堀立柱建物 ・・・土地区画は1町(約120メートル四方)より広い可能性が
あるとされる「貴族の邸宅跡 」・・・が藤原不比等の邸宅であり。
これが「藤原宮」であり、持統はここで天皇に即位し移り住んだたわけです。
藤原氏はこの持統天皇を利用したわけです。
気に入らないので何回も言いますが、王都の名を藤原とするのはよくない。「藤原宮」、「藤原京」の名称は変更すべきです。
藤原氏によって、対立しいていた長屋王を大王としたくない改竄がなされている。高市皇子は、天武の第一皇子なのに、王に即位できなかったのは、お母さんが身分の低い女性だからとされています。
しかしそうではない。本来は、高市皇子は天武と王家の女性である、皇后の額田王との王子であるのに、変更され王家の女性ではない人物を、高市皇子のお母さんとしている。同様に長屋王のお母さんも変更されているのではないだろうか?
高市皇子の皇后も、王家の女性であるはずです。対立していた藤原氏においては、長屋王が王に即位していたとするわけにはいかないのです。
じゃー長屋王のお母さんは誰なのでしょうか?もちろん、王家の姫王であるはずです。天智の娘ではおかしい。
この疑問も万葉集から推測できます・・・柿本人麻呂は高市皇子に仕えていたわけですから、その皇后に関する歌も残されているはずですから・・・。
柿本人麻呂は長文の挽歌を作っている女性がいます。それは明日香皇女です。
これらの挽歌から、この女性が高市皇子の后であることが判明します。
明日香皇女に関する歌
柿本人麻呂による挽歌が万葉集に残っている。
明日香皇女の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌
飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に
生ひををれる 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも わご大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥せば 川藻の如く 靡かひし
宜しき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を 背き給ふや うつそみと 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし
敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いや愛づらしみ 思ほしし 君と時々 幸して 遊び給ひし 御食向ふ
城上の宮を 常宮と 定め給ひて あぢさはふ 目言も絶えぬ 然れどもあやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋嬬 朝鳥の通はす君が
夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 情もあらず そこ故に せむすべ知れや
音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ み名に懸かせる 明日香河 万代までに 愛しきやし わご大君の
形見かここを
短歌二首
明日香川しがらみ渡し塞かませば 流るる水ものどかにあらまし [巻2-197]
明日香川明日だに見むと念へやも わが王のみ名忘れせぬ [巻2-198]
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これだけ長い挽歌を歌っていることからも、この明日香皇女は重要な人物だと推測できます。
ですが、この女性は誰の后なのかは不明です。
忍壁皇子の妻とする説があるようですが、そうではなく、 高市皇子の皇后であり、長屋王のお母さんではないのか?
柿本人麻呂による、高市皇子への挽歌とこの明日香皇女への挽歌から、推測します。
この二つの挽歌はとても重要な歌です。
長文の歌を、そのまま参照したのは訳があります、それは歌の内容から、彼女は天武の娘であり、そして高市皇子の皇后であり、長屋王のお母さんだろうと推測できます。
歌の中の「わが王」とは、高市皇子のことであり、「君」とは、この明日香皇女のことです。高市皇子が亡くなり、その後 、后の明日香皇女が悲しみに暮れている様子を歌ったものです。
女性が悲しんでいる姿を詠ったとする方が自然ですよね。
ですが、この歌の解釈、調べてみればわかりますが、ほとんど(多分全て?)この「わが王」とは、明日香皇女のこととし、「君」を夫のこととした解釈がなされています。
女性が「王」で夫が「君」、それ、あなたたちおかしいとは思わないのでしょうか?(^o^)丿
こんな不自然な解釈になっているのは理由があるのです。それは、この明日香皇女は忍壁皇子の妻とする説があるからです。
明日香皇女は、700年に亡くなり、忍壁皇子は、705年に亡くなっているからです。夫がなくなり、悲しみにうちひしがれているのは、明日香皇女ではおかしいわけです。
ですが、 明日香皇女への挽歌なわけでしょう・・・?
ここ、意味としては・・・
我が大王(高市皇子)の、立たてば玉藻のようで、横になれば、川藻のごとく、靡びいている、美しい君(明日香皇女)が、どうして朝になっても宮のことを、お忘れになられたのか?どうして、夜になると宮を離れてお帰りにならないのですか?・・・というような意味ですよね・・・?
もう一つ、最も重要な箇所、 ・・・
明日香皇女への挽歌の、・・・城上の宮を 常宮と 定め給ひて あぢさはふ ・・・
高市皇子への挽歌・・・城上の宮を常宮と 定め奉りて 神ながら 鎮まり座しぬ・・・
「城上の宮」を常宮と定めたのは、高市皇子ですよね。つまり、「城上の宮」は高市皇子の殯宮ですよね。
そうすると、明日香皇女への挽歌のなかの「わご大君」とは、この高市皇子のことですよね。その「わご大君」の、「君「」とは后のことですから、この明日香皇女は、高市皇子の后ということになります。
高市皇子は、「香久山の宮」を出て、殯宮である「城上の宮」に移されたわけですよね。同様に明日香皇女もまた、高市皇子の殯宮である「城上の宮」に移されて、のちに埋葬されたわけですよね。つまり彼女が皇后であると考えられるわけです。他人の后を同じ殯宮に移すわけありませんからね。
明日香皇女の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌・・・ですよね。
この明日香皇女は、誰の后になったかは不明です。それは、長屋王のお母さんだからです。
高市皇子の皇后である明日香皇女との王子が長屋王である。
この新益京にある、高市皇子の宮は「香久山の宮」とも呼ばれていたのです。
「藤原の宮」なんて呼ばれているはずはない。
ですので「藤原京」の名称はよくない。「香久山京」にすべきです。
挽歌の中の、「大王」、「宮」という表現されていることからも、この宮とは、もちろん天武が新たに作り始めた新益京の宮であり、 王子である高市皇子が受け継んだ宮、「香具山宮であるのです。
その香具山宮 を、明日香皇女が、高市皇子が亡くなってから宮を離れたことを歌っているのです。天武の後、即位したのはこの高市皇子であり、皇后はこの 明日香皇女です。
高市皇子が崩御したのは、696年です。夫の高市皇子が亡くなって後に、明日香皇女が悲しんでいる様子を詠ったものです。
これだけの挽歌があるのはこの女性は重要な女性に他ならない。
そして、この明日香皇女は天智の娘としていますが、そうではなく、天武、あるいは孝徳の娘だったのでは?
特に天智と天武の関係する系譜が改竄されている。高市皇子崩御後、王家と藤原氏との対立がおきます。藤原氏は、系譜を改竄する必要があったのです。
ウイッキベディア・・・
明日香皇女は、持統天皇の訪問を受けたり、彼女の病気平癒のために108人の沙門を出家させたりなど、
他の天智天皇皇女に比べて異例の重い扱いを受けている。
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それは、大王である、高市皇子の皇后は、この明日香皇女だったからです。
そして、孝徳天皇の娘だったからではないのか?
この皇女のお母さんの阿倍橘娘は、阿倍倉梯麻呂(阿倍 内麻呂 )の娘でしょう。同様に孝徳天皇妃になった小足媛もこの阿倍倉梯麻呂の娘であり、有馬皇子のお母さんである。孝徳天皇、有馬皇子と争ったのは天智である。
ですので、この明日香皇女は天智の娘とは思えない。この孝徳の娘なのでは?阿倍 内麻呂の娘であるこの橘娘もまた孝徳天皇の后だったのでは?阿倍内麻呂が左大臣として仕えていたのは、この孝徳天皇である。
孝徳天皇と、阿倍内麻呂の娘である橘娘との娘である、つまり、王家の女性であり、長屋王のお母さんである。
この明日香皇女の同母妹に、天武に嫁いだとされる新田部皇女がいます。妹が天武に嫁ぎ、姉がその天武の王子の高市皇子に嫁いだことになります。これ、明日香皇女が忍壁皇子の后だったとしても同様でおかしな話ですよね。忍壁皇子の后は全く不明です。
この明日香皇女の妹の新田部皇女は、天武の后ではなく、彼女こそ忍壁皇子の后だったのではないのだろうか?
つまり、同じ名を持つ天武の第十皇子とされる、 新田部親王は、忍壁皇子と、この新田部皇女との王子であるのでは?
新田部皇女の王子とされる舎人親王と、新田部親王は同母兄弟である。
この2人もまた藤原氏によって暗殺されている?この二人はともに「親王」とされているので、大王家の人物だったはずです。
長屋王変の後、長屋王の王子たちも多数亡くなっていることもあり、もちろんこの二人が次の王の候補であるのですが、二人とも同時期に亡くなっている。735年に新田部親王が薨じたあと、舎人親王はその1ヶ月半後に亡くなったとされます。不自然である。
明日香皇女と妹の新田部皇女は王家の姫王です。その王子である舎人親王と、新田部親王もまた正当な大王の後継者です。
本来は、お母さんである藤原宮子の出自があやしい聖武天皇より位が上なわけです。
王家の人物を殺害し、藤原氏は関係する聖武天皇が完全に王位に就くことになります。
ですので、本来の王家の人物を、藤原氏の人物とするために、系譜の改竄がおこなわれている。
新田部親王のお母さんを藤原鎌足の子の五百重娘として系譜を改竄したため、この五百重娘は最初は天武の后になり、その後に藤原不比等の妻となったとされます。少し不思議なはなしでしょう。大王を殺害したから、藤原の人物として取り込んだのだと思います。
系譜の改竄は案外簡単です。本来の王家の人物を王の系譜から外す、王家の人物を、自分たちの系譜に取り込む。これらの作業が行われている。
長屋王の変の時に、長屋王の皇子たちも沢山亡くなっています。特に后の吉備内親王との間の王子たちです。
この吉備内親王は草壁皇子と元明天皇との皇女とされますが、そんわけないでしょうに。
天武の王子の娘でしょうけど、草壁皇子と元明天皇との娘とは考えずらい。
私は名前にこだわるのですが、天武の息子の忍壁 皇子と、茅渟王と后の吉備姫王から繋がる女性との娘が、この吉備内親王かな?
天智天皇の皇女の4人が、天武の后になったとされます、しかし新田部皇女と同様に大江皇女もまた、
天智のむすめではないのでは? 天武のむすめであり、高市皇子の后であるのでは?
高市皇子の皇后は明日香皇女であり、長屋王のお母さんである、同様に長皇子と、弓削皇子もまた、高市皇子の王子たちではないのか?
天武天皇に、天智の4人の娘が后となっています。大田皇女、鸕野讃良皇女、大江皇女、新田部皇女、です。
大田皇女と、持統天皇こと鸕野讃良皇女は同母姉妹でしょうが、・・・ですが、この大江皇女と新田部皇女は、天智の娘とは思えない。天武あるいは孝徳の娘たちです。4人の娘が后にというのはやはり、不自然ですよね。
新田部皇女の皇子である、第六皇子、舎人親王。そして、大江皇女の皇子たち、生年が不明の第七皇子長皇子 、第九皇子弓削皇子たちは、天武の皇子たちではなく、高市皇子の后だったのでは?そして、彼らは、不自然なくらい早くに亡くなっている。
高市皇子崩御後、長屋王が即位してのちに、次の皇太子である長皇子と弓削皇子はなくなっています。
そして、長屋王崩御後には、同様に皇太子である舎人親王と、新田部親王が亡くなっている。また、長屋王の変において長屋王の王子たちも多数亡くなることになります。
高市大王崩御696年、 弓削皇子699年、忍壁 皇子705年、 長皇子715年。
長屋大王崩御724年、舎人親王735年、新田部親王736年
他にも、大津皇子 686年、穂積親王 715年。
これが不自然である。天武の王子たちであり、本来の王家の人物です。
藤原氏の関係する、文武、聖武のライバルたちです。
天武大王ー高市大王ー忍壁大王ー長屋大王ー舎人大王ー新田部大王
長屋大王崩御後、聖武天皇は天皇ですが、王は舎人親王であり皇太子は新田部親王であったわけです。
持統や、文武、聖武は天皇でした、ですので天皇の呼称を使用して記紀を改竄したのです。
そして、・・・ついに怨霊が現れました。
737年天然痘のにより藤原四兄弟が相次いで病死することになります。
天武から繋がる王子たちはもちろん、天武に繋がる重要な人物、そう天武の祖父である、厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子もまた怨霊だったのです。
最初の上の写真は、香具山宮跡(藤原宮)のコスモスと、北に位置する耳成山です。
この耳成山と香具山宮の間を通るのが横大路です。竹内街道から奈良盆地、そして東へは伊勢街道に
繋がる古代の主要幹線です。
都が明日香からこの地に移った理由でもあります。明日香はこの横大路から少し奥まった場所に位置し
この時代の都としては不便だったからでもあります。
下の写真は、藤原の宮跡です。秋にはコスモスが綺麗なのですが、今年は遅いようで?・・・というかまだ少し
早いのですが、やはり、咲いていませんでした。写真は去年のものです。2枚目、耳成山と3枚目香具山です。
3枚目の写真は天香具山神社です。
最後の写真は、本薬師寺跡、休耕水田にある水草のホテイアオイです。
こちらは、綺麗に咲いていました。背景の山は畝傍山です。
天武が、皇后である額田王の病気平癒のために発願し、天武崩御後には、ふたりの王子であった
高市王子が完成したのが薬師寺です。
5枚目の写真は奈良文化財研究所にある貴族の屋敷の復元模型です。
これが藤原の宮かな?
パネルにある説明・・・貴族の屋敷
宮の正門、朱雀門から南西に300m、「右京七条一坊西南坪」の地でみつかった。敷地は「一町」。
東西120m,南北103m、面積12000㎡。大路、小路に面し周りを板塀で囲む。もう一重内堀で囲んだ宅地の中央に、
正殿、その左右と後方に、
数棟の建物が整然と並ぶ。正殿の建築面積は、300㎡余。平城京長屋王邸の正殿の規模に近い。
主要建物の建築面積は700㎡、余に及ぶ。家主は貴族か皇位の役人だろう。だがその名を特定することはできない。
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その名を特定しますよ。この貴族邸というのが藤原氏の邸宅であり、藤原の宮です。
持統はここで天皇に即位したのです。持統天皇作の歌は、ここから、高市大王の宮である「香久山宮」を望んで詠まれた歌です。
後の平城京の内裏や大極殿が、造り直された理由の一つが、この邸宅を、香具山京(藤原京)の中心として改竄したかったからです。つまり、この邸宅跡の真北に新たに、平城京の内裏や大極殿がを造ったのです。藤原氏による都の変更です。
藤原氏は、本来の、高市皇子の香具山の宮、そして長屋王の宮を消し去りたかったのです。
この藤原邸こそ本来の都の中心地であるとしたかったわけです。