奈良京遷都は、長屋王が即位した大宝元年の701年であり、平城京遷都は、745年です。
王が変わったから年号が変わったわけであり、王が即位したから都がかわったのです。
万葉集 巻三(328)
あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
「奈良京」と書かれた木簡が発掘されています。
奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などと表記されているとされますが、「平城」は「なら」
とは読めない。
この奈良京と平城京は異なります。奈良京は長屋王の都であり、平城京は聖武天皇の都です。
もう少し、この奈良京と平城京の謎について考えてみます。
長屋王は、太政官における事実上の最高位とされる、左大臣に就任していたとされます。
しかし、そうではなく、出土した木簡からの推測では大王でした。
大王である長屋王を死に追いやったのは藤原氏です。藤原氏は対立していた、王家、長屋王やお父さんである
高市皇子を大王に即位していたとはしたくないのです。天武崩御後から、王家と藤原氏の権力争いは始まっていました。
高市皇子や長屋王が大王だったとすると、その時代に天皇だったとする、持統、元明、元正は、
本来は王ではないのです。
これまで、何度も述べてきましたが、「天皇」は、本来は蘇我の王の呼称でした。元は蘇我の女帝の名称だった
かもしれません。
「大王」と「天皇」、王座がふたつあるといえる状態でした。
藤原氏は、この天皇たちを利用したのです。「天皇」の名称を利用して歴史を改竄したのです。
藤原氏が関係する天皇を、王家に繋げたのです。この歴史を改竄する操作は、二度行われている。
権力を握った、蘇我氏と藤原氏です、蘇我馬子もまた蘇我の王である、天皇、そう初代天皇である推古天皇を、
古代の王家に繋げたのです。
日本書紀・古事記、続日本記などは正史とされます。正史だから間違いないと、いつまでもこういう姿勢では本来の
歴史は見えてこない。
歴史書とは権力者の都合によって変えられる・・・というか、こういうのは歴史を変えるために書かれた書物である。
天皇とは本来は大王ではなかった。これ、今までの歴史がひっくり返ることですが、・・でも真実だからしかたない。
藤原氏は、この「天皇」の呼称を使って歴史を改竄したのです。本来は、もちろん「大王 おおきみ」です。
残念ながら万世一系なんてうそです。あくまで、呼称の問題だとしたいのですが、そうではない。
「大王」と「天皇」、王座が二つあるような時代があったわけです。
長屋王邸宅跡から出土した木簡からは、長屋王が「大王」だったという証拠がたくさんでています。
長屋王が大王だということは、この長屋王邸宅跡の地域が本来の都の中心だったわけです。
今回は、長屋王の奈良宮の範囲、そして本来の邸宅(内裏)の位置を考えてみます(^o^)丿
「奈良宮」と「平城宮」は異なる。そして、「大王」と「天皇」は異なる。これが理解できていないから謎解けていない。
写真は、高市皇子の香久山宮(藤原宮)です。
この高市大王の香久山宮(持統の藤原宮)は、中央、北から内裏、大極殿、そして、朝堂院が配置される形である。
東側、西側には、東方官衙、西方官衙 (これは仮称のようですが)、様々な官庁が存在していたとされます。
宮は、この東西官衙の中央に内裏、大極殿、朝堂院が存在する形である。
この北から内裏、大極殿、朝堂院が配置されている形が、本来の宮の形ではないのだろうか?
そして、この香久山宮(藤原宮)は、下ツ道、中ツ道の中央に位置します、同様に、王子である長屋王の宮、奈良宮も、
東西は下ツ道、中ツ道の間、その中央に位置していたのです。「北宮」との記載されている木簡が出土していますが、
これはもちろん香久山京の真北に長屋王の奈良京が存在していたからです。
今の奈良市役所の東側が、香久山宮(藤原宮)の真北の位置になり、長屋王邸宅跡とされる地域はこの奈良宮の、西側、
つまり西方官衙とされる地域です。出土した木簡の記述通り、奈良宮の務所、これは「つかさどころ」と読むそう
なのですが、行政の実務をおこなう官庁があったところです。
長屋王の奈良宮は、お父さんである高市大王の香久山宮(藤原宮)と同様に都の中央に位置し、周囲を囲まれた宮である。
中国の「周礼」に記載されている、理想的な都城の要素として正方形の都城の中央に宮をおくことなどが挙げら
れています。
藤原京の十条十坊説はこの書物の記事と一致することからも、従来言われていたよりも大きな都だったとされます。
しかし、問題点もあるように、後にこの十条十坊を取り入れ大きくしたのです。
当初天武が計画していた都、この藤原京の大きさは、従来いわれていたのは東西は下ツ道と中ツ道、南北は横大路、
山田道に囲まれた地域とされていました。しかし、京外に条坊道路が発見され、もっと広大な面積の都、平城京や
平安京を上回る規模だったのではとされています。
この藤原京を再現した、ジオラマが、橿原市藤原宮資料室に展示されています。藤原京の1000分の1サイズの
精巧なジオラマがあります。ありえないような大きさです。
この都はとても信じられないくらいの広大な面積だっとされます。
ジオラマを見た第一印象は、・・・「こんな大きな都だったはずはない」・・・そう感じました。( ゚Д゚)
この感想は私だけではないと思います。復元された藤原京は、ちょっと信じられないくらいの面積の都だったとされます。
しかも、この広大な都の中に隙間なく建物が再現されていたので、余計にそう思ったかもしれません。
本来は、こんなに大きな都であったはずはないし、これほどの建物があったようには思えない。
これは、後に大きく広げられたのでしょううが、本来は、従来言われていた大きさでいいように思うのですが?
後に十条十坊の考えをを取り入れ大きくしようとしたたのですが、未完成に終わっているということです。
これ、745年に平城京に遷都したときには、都を東西に伸ばし大きくした関係で、香久山京(藤原京)も
大きくしたのです。
この藤原京は短期間、694年から710年までのわずか16年間で平城京に移ったとされます。
理由は簡単です。高市皇子が崩御し、都が長屋王の住居のある北宮に移ったからです。
本来は、王が交代したという従来通りの簡単な理由です。
ウイッキベディア・・・
宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言われ、着工から28年が経過したことになる。
以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より
遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼けたと
されている『扶桑略記』
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藤原京跡地での発掘では、火災の痕跡は発見されていないとされます。これは、この藤原宮というのは、高市大王の
香久山宮ではなく、藤原氏の邸宅だという証拠であるわけです。
焼けたのは、持統が即位した藤原氏の邸宅である藤原の宮だということです。
もちろん、元明は天皇ですが大王ではないので、遷都の勅なんてだせるはずはありません。
何度も云いますが、「天皇」は「大王」ではない。高市大王、長屋王が大王だったことが消されている。
長屋王が、奈良京に遷都したのは、即位した大宝元年(701年)のことだと思うのですが・・・?
奈良京遷都は701年です。それまでは、持統天皇の藤原京ではなく、高市大王の香久山京です。
天武ー高市皇子ー忍壁皇子ー長屋王です。彼らが本来の大王たちです。
高市大王崩御、696年、長屋王即位701年。この間まだ幼かった長屋王に代わって忍壁皇子が即位していたのです。
ここはまた次回にでも・・・。
この長屋王の奈良京も、高市皇子の香久山京(藤原京)と同様の大きさである。下ツ道と中ツ道の中央に宮が存在し、
都城の中央に宮を置く形である。
そして奈良宮も、同様の宮であり、北から内裏、大極殿、朝堂院並ぶ配置である。つまり今、長屋王の邸宅跡と
される地域は、この西方官衙とされる場所である。木簡からの推測では、奈良宮の務所や政所などが存在して
いたと思われる。
したがって、この西方官衙の東側が中央であり、内裏、大極殿、朝堂院が配置されている。
地図を見てもわかりますが、平城宮は四角い形ではなく東南部分が欠けているでしょう。これおかしいでしょう?
誰も疑問に思わないのかなーぁ?
四角い形にできなかったのは、そこが奈良宮の西側にあたり官庁などが存在していたからです。
長屋王の邸宅跡とされる、イトーヨーカドー跡地もこの宮の西側にあたります。木簡からも明らかですが、
奈良宮の「務所」などが存在していた、西方官衛とされる地域です。
長屋王の奈良宮の大きさは平城宮の東南部分が欠けていることから推測できる。
この欠けた平城宮の東南部分が、奈良宮の北西部分である。
香久山の宮(藤原宮)から真北の位置、今の奈良市役所(これ偶然でしょうね?(^O^))の少し東側、
奈良市役所東の交差点がおよその中央の位置です。ですので今邸宅跡とされる場所は、宮の西側の地域になる。
宮の中央には内裏、大極殿、朝堂院が配置されていて、その東西には官衙(役所)が配置されていたようです。
この配置、北に内裏があって、その南に大極殿があるという形は、平城宮の第二次大極殿の配置と同じである。
つまり、第二次大極殿というのが最初に造られた大極殿である。
香久山宮(藤原宮)、北から内裏、大極殿、朝堂院が配置される形であるりこれが本来の宮の配置である。
平城宮の第二次大極殿は、まさにこの形であり、北から南に、内裏、大極殿、朝集堂院が並びます。
また、恭仁京の宮も同様の配置である。
第一次大極殿が最初に造られた大極殿だとすると、東西に、大極殿、内裏が並ぶ形でありおかしい。
この第二次大極殿というのが最初に建てられた大極殿である。これが、続日本記にある「藤原宮」である。
後に下ツ道に繋げるために、西側に大極殿を造り、平城京は新たに造られたのです。
つまり、長屋王の奈良京も同様の宮であり、今邸宅跡とされる東側に本来の、宮が存在する。
長屋王邸から出土した木簡からは、長屋王が大王に即位していたことの証拠が沢山でています。
これらの木簡の宛先の記述で多いのは、「務所」だそうです。奈良務所、奈良宮務所、務所、政所、司所、
などの記述です。どれも「つかさどころ」と読むようです。奈良宮の行政機関です。
そして、「長屋親王」、「長屋王家令所」という木簡も出土しています。
もう、これ答えが出ているじゃないですか。長屋王の邸宅跡じゃなくて、奈良宮の務所で、長屋王は大王
ということですよね。
木簡によると、長屋王が大王であり、この邸宅跡地が「奈良宮」だという決定的な証拠だといってもいいものです。
長屋王邸宅跡とされる場所は、宮の西側の、香久山宮(藤原宮)でいう、「西方官衛」とされるところです。
政治の実務を行う役所などの施設がある地域です。
長屋王の邸宅は佐保の地にあるとされます。この佐保の地名は今も残っています。いまの奈良市役所の場所が、
佐保の地の西側の端といわれ、長屋王邸宅跡とされる場所は、少しですが佐保の地から離れる立地である。
一条大路が、この時代佐保路ともいわれ、東大寺の転害門から、奈良市役所のラインまでが、佐保の地である。
長屋王の邸宅で詩宴会がたびたび開かれていたようですが、残されている詩の内容からも、佐保川が宮の南東部を
流れる自然豊かな環境にあったと思われます。
そして、長屋王邸宅、つまり奈良宮の内裏の傍には池があったのです。
「懐風藻」には、「秋日於長王宅宴新羅客」などの記述があり、 これは、長屋王宅で、新羅の使節の送る宴が開かれた
神亀三年(726)の晩秋のことだろうと思われます。長屋王の邸宅で詩宴会が開かれたようです。
このように長屋王宅では、しばしば宴会がなどが開催されていたようです。
ここが大王の住居であり、内裏であり、長屋王が大王だったという証拠です。
長屋王邸宅で、曲水の宴が開かれたときの詩が、この「懐風藻」に記載されています。
これらの詩から、長屋王の邸宅、つまり奈良宮の内裏の位置が特定できます。
晩秋於長王宅賓
従五位下備前守田中朝臣浄足
苒々秋云暮 飄々葉已涼 西園開曲席 東閣引珪璋
水底遊鱗戯 巌前菊気芳 君侯愛客日 霞色泛鸞觴
「苒苒として秋ここに暮れ・・・長屋王宅の西園に曲水の宴を設け、東の高楼に詩文の俊才を招く。
水底に遊魚の鱗が光り、巌前には菊花の香が芳しい。・・・。」
長屋王の邸宅の西側の庭に曲水の宴席を作って、そこには池があるという記述です。
今の跡地を長屋王の邸宅だと決めるのに、この池に関しては問題のあった点だとされます。
そう、長屋王の邸宅傍、西側には池があったのです。いま、長屋王の邸宅跡とされる、イトーヨーカドー跡地は長屋王の
邸宅の場所ではないということです。ここは木簡の記述どおりに、奈良宮の務所です。
宮の西側の西方官衙といわれる地域です。
この奈良宮の務所の東側が、下ツ道と中ツ道の中央であり、本来の内裏や大極殿があった場所です。
本来曲水の宴は、王が催したわけです。このことからも長屋王が大王だったということがわかります。
長屋王は大王に即位していました。つまり長屋王邸というのは、都の中心である奈良宮の内裏のことです。
それでは、この池はどこにあるのでしょうか?
この池とは、今、平城宮の「東院庭園」の池です。そして、その傍の法華寺の南端の阿弥陀浄土院跡もそうです。
実際の長屋王邸宅の庭園はもっと大きなものだったのです。
つまり、奈良宮の内裏、長屋王邸は、奈良市役所の北、「東院庭園」の東側の地域です。
この庭園は長屋王邸の庭園です(^o^)丿
ですの、この「東院庭園」は、本来は、長屋王邸宅の西側にあり「長屋王庭園」ということです。
後に藤原宮である、平城宮(第二次大極殿の方)が完成したため、この平城宮から見て東側に位置するため、この
長屋王の邸宅である奈良宮の内裏が「東宮」と呼ばれたのです。
この長屋王邸宅、つまり奈良宮の内裏は、長屋王が祟って後、つまり745年に平城京に遷都した時にあらたに
平城宮を中心に都造りをしたときに壊されたのです。
天平元年(729年)、長屋王が崩御すると、その年の8月には藤原光明子は皇后に立てられます。
この光明皇后の住居は、不比等の邸宅であり、後に法華寺になったとされます。法華寺は光明皇后の発願の寺院であり、
国分尼寺と されます。この法華寺も南の方向に伸ばし、長屋王の庭園の池も法華寺に取り込まれたのです。
それが、阿弥陀浄土院跡です。この阿弥陀浄土院は池の上に建てられているとされます。
写真は、およそですが、奈良宮の位置と範囲です。平城宮もこの奈良宮の内裏、大極殿、朝堂院と同じ規模だと
思われますので、平城宮を奈良宮に移してみました。
長屋王の奈良宮の大きさは、下ツ道と中ツ道の中央に位置し、北は一条大路、南は二条大路、東はこの平城宮の
欠けているラインの正方形の宮である。
これは高市大王の香久山宮(藤原宮)を、そのまま真北に移した、規模も同様の、およそ1km四方の大きさである。
宮も同様に、北から内裏、大極殿、朝堂院が配置される形の宮です。ですから、奈良宮の内裏の位置も容易に
推測できます。
奈良市役所東交差点付近が、およそ下ツ道と中ツ道の中央に位置します。
この場所にあったのが、宮の南に位置する最も重要な大伴門です。王家と関わりが深かった大伴氏の名が付けら
れています。
この大伴門は後に朱雀門との名称が変更されたとされますが、間違っています。大伴門と朱雀門は異なります。
奈良宮の南門が大伴門であり、平城宮の南門が朱雀門です。
宮の南西の角にあるのが、邸宅跡とされるイトーヨーカドー跡地です。ですがこの推測も間違っています。
曲水の宴を催したとされる、邸宅の西側の池がありません。
ここは木簡の記述どおり香久山宮(藤原宮)でいう西方官衙とされる地域です。奈良宮の官庁があった場所になります。
長屋王の邸宅というのが本来の内裏のことであり、この内裏と、東院庭園の間の空間が、阿弥陀浄土院が建立され
ていた場所です。ここは、曲水の宴を催した長屋王邸宅の池があったところです。
後に法華寺が南部に伸びこの池を法華寺に取り込み、阿弥陀浄土院が建立されのです。
ですので、阿弥陀浄土院は池の上に立っているのです。
下の写真は、東院庭園です。この庭園なぜか平城宮の東南のはずれにあるでしょう。
どうして、こんなところに庭園があるのだろう?私は初めこれが不思議でした。
だって、ふつうは家を建て、傍に庭をつくりますよね。王の住居、つまり内裏の傍に庭園を造るだろうと
考えるのが常識的な推測でしょう?これ、あたりまえのことでしょう?。
内裏から歩いて東院庭園に向かいましたが、結構距離がありますよ。どうして、こんな不便な場所に庭園を
造るのでしょうか?
そして、この庭園は、周囲に住居がないでしょう?でも、そんなわけないのです。だって「東宮」とよばれて
いた地域なので東院庭園と名付けたわけですから・・・。その東宮はどこにあるというのでしょうか?
東宮とは何なのか?全然説明できていない。
いまは、塀で平城宮の方に取り込まれていますが、本来は奈良宮の敷地内、そう内裏の西側の庭園だったのです。
長屋王の内裏が東宮ということです。
東院庭園が、平城宮の庭園ではないという決定的な証拠は、この庭園、東側を向いているのです。
そして、この庭園の東側にも池があったのです。本来はもっと大きな庭園だったのです。
称徳天皇の時代に、「東宮」から「東院」とよばれたとされます。それは、「東院玉殿」を建てたからですが、
それまでは、何のため、誰のための庭園だったのでしょうか?
庭の中の建物は、宴会や儀式の際に中心となった場所とされます。
どうして内裏から遠くの不便なところに庭園を造ったのでしょうか?
誰もおかしいとは思わないのでしょうか?「東院玉殿」を建てたのは、この「東宮」は壊されていたからです。
ですので呼称も「東宮」から「東院」に変わったのです。
この「東宮」というのは長屋王の邸宅であり、奈良宮の内裏のことです。写真のように藤原宮(第二次
大極殿の方の東側に位置するため、「東宮」と呼ばれたのです。ですので、本来は、「東宮庭園」であり、
奈良宮の内裏の庭園ということです。この「東宮」の呼称は、あくまで藤原側(平城宮)からみた呼称であり、
本来はこの時代の中心である奈良宮の内裏ことです。
逆に言えばこの奈良宮からみれば、平城宮は「西宮」になります。長屋王邸跡とされる奈良宮の務所からは
「西宮」と記された木簡が発見されています。この「西宮」とは藤原の宮である平城宮のことです。
木簡の記述にあるのに、この「東宮」も「西宮」も、現時点でどこにあったかは分かっていません。
いまのままでは、いつまで経っても永遠に見つかりませんから。
そうではなく、「東宮」とは奈良宮のことであり、「西宮」とは平城宮のことです。
そして、この東院庭園は、奇妙なことに東側が正面なのです。そう、何故か東側を向いているのです。
それは、もちろん東側に邸宅、つまり本来の奈良宮の内裏があったからですが・・・。
正面は東側で、傍には東面大垣という塀があり、その塀の方を向いているのです。これもおかしいとは思わないの
でしょうか?掲示物なのでは、春日山や御蓋山を眺めるためにという説明をしていますが、そうではない。
もともと東側には塀などなかったのです。
それは、この東院庭園の東側にも池があったのです。
奈良市役所東の北側、東院庭園の東側、つまり内裏と東院庭園の間、少しだけ空間があるでしょう。
実はそこにも池があったのです。つまり塀なんかなかったのです。長屋王の庭園はもう少し大きかったのです。
4、5、6枚目写真にあるように、「東院庭園」の東側、ここが阿弥陀浄土院が存在したとされる場所なのですが、
この寺院は池の上に立てられていたとされます。佐保川から水を引いたのだと思いますが、東院庭園の傍にも池が
あったのです。
この阿弥陀浄土院、池の上に建てられていたのか?あるいは、池が埋められたあとに、・・・つまり長屋王邸が
壊された時に、不比等の邸宅南部にあたるこの池が埋められ、そこに阿弥陀浄土院が建立されたので、池の上に
建てられたようになっているのか?
ともかく、阿弥陀浄土院が建立される以前には池があったのです。
この池は、本来は法華寺の池ではなく、長屋王邸宅西側の庭園だったのです。
745年に平城京に遷都され、都造りがなされたのです。おそらく、この時に長屋王の邸宅、
つまり東宮は壊されたのです。
この時に池も埋められ、その上に阿弥陀浄土院が建てられたのでしょうか?
光明皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりとされますが、これがまさに745年あり、二年後の747年に
法華寺は完成したのです。
そして、阿弥陀浄土院以前の遺構も、跡地から発見されているそうです。この寺院以前の遺構というのが、
本来の長屋王の庭園の遺構、あるいは奈良宮の内裏の一部の遺構です。
写真にあるように、東院庭園の中央建物が東側を向いていることからもわかりますが、奈良宮の内裏から、
この池の上の建物跡を通り、東院庭園の中央建物まで繋がっていたのではないのかな?そう、大王に相応しい大きな庭園
だったのです。
この池の東側が長屋王の邸宅、つまり奈良宮の内裏のがあった場所です。庭園は住居のそばにあり、ここでしばしば
曲水の宴が開かれていたのです。
光明皇后が皇后宮としていた、藤原不比等の邸宅を宮寺にしたのが法華寺であり、聖武天皇が平城京に遷都したとされる
745年に、平城宮を中心にした都造りが行われ、その時に、邸宅南部にあった、長屋王邸宅の庭まで伸ばし造られたのが
元の法華寺であり、阿弥陀浄土院はこの法華寺の一部である。
この745年というのが、本来の平城京遷都年です。
そして、池の上に作られていたとする阿弥陀浄土院は、長屋王の邸宅、つまり奈良宮の内裏の西側部分であり、
元は庭園の一部である。
この時に東院庭園に関しては、平城宮内に取り込まれたのです。称徳天皇の時代には、壊されていたので、そばに
「東院玉殿」を建てたのです。
香久山京(藤原京)が大きく拡大されたのは、この平城京を大きくしたので、それに合わせて拡大したのです。
長屋王の邸宅跡とされる出土した木簡には「奈良」、「奈良宮」との記述のある木簡が多数出土しています。
木簡の宛先の記述で多いのは、「務所」です。奈良務所、奈良宮務所、務所、政所、司所、などの記述だそうです。
これらの木簡の記述から、木簡が届いたこの場所こそが「奈良宮」内であり、奈良宮の西南に位置し、
行政の実務をおこなう官庁があった「西方官衙」といわれる地域です。平城宮などではありません。
長屋王邸宅の西側には池があり、また邸宅は佐保の地にあるとされ、跡地は佐保の地から少しばかりですが外れます。
これらのことから、今長屋王邸宅跡とされるイトーヨーカドー跡地は邸宅跡ではありません。
奈良市役所東側の北方、阿弥陀浄土院跡地の東側を発掘すれば、内裏跡が出てきます。ですが、もうすでに住居が立って
いるじゃないですか。何やってんだか・・・(>_<)
長屋王邸跡地から出土した木簡からの推測では、高市皇子やこの長屋王が大王に即位していたことがわかります。
すると、この長屋王邸跡地が、都の中心地であるという推測ができるでしょうに。
何故に、こんなの容易な推測もできないのでしょうか?
高市皇子や長屋王と対立していたのは、藤原氏です。大王を死に追いやった藤原氏は、彼らを王に即位していたとは
したくないわけです。
藤原が、天下を取った時代の続日本記なんて信用できない。
1、2、枚目の写真は、東院庭園の中央建物を東面大垣を背に東側から写しています。
建物にわたる平橋は、東側から渡るように作られています。
これが、平城宮の庭園だとすると、たとえ建物が東向きに造られていたとしても、この建物に渡る橋は、
西側から建物に繋がるように作られていなければおかしい。またこの庭園の東側にも池があったわけですから、
塀を作って遮るのもおかしい。
3枚目の写真は西側から撮ったものです。中央建物から平橋を渡ると、すぐに東面大垣があり、中央建物の正面からの
景色は庭を鑑賞するようにはできていない。それは、この東面大垣が視界を遮るようにあるからです。
本来はこの東面大垣なんて存在してはなく、さらに東側の池を鑑賞するように中央建物は東側を向いていたのです。
角の建物を隅楼という名称を付けていますが、その建物は隅に位置していたもの
ではなく、東側の池からこの庭園へのいわば通用門の役割をしていた建物である。
5,6,7枚目の写真は、東院庭園の東側です。ここにも池がったのです。ですので東院庭園は東の方を
向いているのです。
奈良京の内裏、つまり長屋王邸宅の西側の池です。後に、その池の上に作られたのが阿弥陀浄土院です。
住居が建っている辺りが、奈良京の内裏のあったところです。
この東院庭園と、東側の池を含めた庭が、大王である長屋王邸、つまり、奈良宮の内裏の西側の庭園です。
この奈良宮の内裏は、平城宮から見て東側に位置するので「東宮」と呼ばれていたのです。
本来はこちらの方が、奈良京の中心である奈良宮の内裏であるのです。