聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

台与はかぐやひめ。

2011年10月10日 | 卑弥呼は、伊香色謎命


古事記にある垂仁天皇の妃の「迦具夜比売命」こそ豊媛。台与ちゃん。
日本書紀においては、開化天皇妃の丹波竹野媛ではなく、・・・垂仁天皇の妃の竹野媛。
垂仁天皇は、丹波の五女を後宮にいれた。日葉酢媛・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛。
タカノヒメは姿形が醜いので本土に返した・・・。
この悪く描かれている竹野媛こそが台与ちゃん。かぐやひめ。
この豊媛の後胤こそ本来の畿内の王家。
カクヤヒメとは銅矢姫。銅はカグ。矢は物部。物部姫のこと。

この五人は丹波道主王の娘。(ミチヌシ王は、ワカヤマトネコフトヒヒ天皇(開化)の
子孫の、ヒコイマス王の子である。(一書はいう、ヒコユムスミ王の子)

丹波道主王は、彦坐王の子であり、彦湯産隅命の子であるとしている。

で、日本書紀は「気長足姫尊は、開化天皇の曾孫」という記述・・・
つまり伊香色雄命(開化天皇)―大新河命(彦湯産隅命)―息長宿禰王(丹波道主王)―息長帯比売命

息長水依比売と彦湯産隅命の子の息長宿禰王(丹波道主王)の娘のが、息長帯比売命。
息長帯比売命とされるのが、とよちゃん。息長帯比売命の妹とされる豊姫は、台与。
卑弥呼の台与。この豊姫と垂仁天皇との子が、誉津別命?
この豊姫を息長帯比売命として、誉津別命(ホムツ)を応神天皇(ホムタ)として改竄している。神功皇后のモデルはこの豊姫。魏志倭人伝の台与。
継体天皇はこの誉津別命の五世の孫?として正当な後継者と主張している。
この誉津別命の五世の孫?が継体天皇。

丹後国風土記のある羽衣伝説のトヨウケヒメも台与ちゃん。
伊勢神宮の外宮の豊受大神も台与。豊媛。
かぐやひめも豊媛。
豊国はもちろん台与の国。そこにある宇佐神宮の、比売大神も豊媛。台与ちゃんです。
景初二年に魏に朝貢した卑弥呼は台与。

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息長帯比売命の妹の豊姫

2010年12月15日 | 卑弥呼は、伊香色謎命


ヤマトというのは、もともと奈良盆地全体を指す言葉ではなく。盆地南東部地域だとい
われます。ヤマト王権、この三輪山麓一帯に発祥した王権も外部の力が加わって成立した。
高天原から地上に降臨した天孫瓊瓊杵尊より先に饒速日命は、十種の神宝を授かり天磐船
に乗って河内の河上の地に天降り、その後大和盆地に移動したとされています。
つまり初期のヤマト政権は、饒速日命を祖とする後の物部氏です。

この初期の物部王権は、九州北部から吉備、吉備から畿内に進出してきた、物部氏や
和邇氏・大伴氏なのどの天孫族です。
この王権が発生する以前には、初めて奈良盆地に農耕をはじめ定住した部族があった。
これが出雲族とも言われる銅鐸を祭祀に用いた部族。
邪馬台国は物部、卑弥呼の男弟の伊香色雄命王国。本拠地は近江。奈良盆地北部の山背、近江を勢力化に置いた部族が、奈良盆地を征服したのが倭国大乱。
卑弥呼共立以前は、邪馬台国の中心地は奈良盆地でなく、近江・山背。
倭国大乱後に大和盆地での拠点はこの三輪山山麓周辺の纒向。


邪馬台国の女王卑弥呼は、魏から親魏倭王という封号を与えられ、その証しである、
金印を授けられています。銅鏡100枚も与えられました。
この時の倭の女王は台与です。台与は「おきながたらしひめのみこと」こと神功皇后です。息長帯比売命の妹とされる豊姫は、台与。卑弥呼の台与。

また狗奴国との紛争時の王です。これらの事績が、記紀編纂時に全く分からなくなって
しまっていることは絶対ありえません。あきらかに削除しています。
倭人伝には、卑弥呼は王だとされています。卑弥呼が王でいいのなら、倭国大乱後に
共立されたとされる卑弥呼が初代ヤマト王権の王です。

物部氏王権であった、初期ヤマト王権。倭人伝の卑弥呼のことが気に入らない人物がいた。
それは持統天皇と、蘇我馬子である。
持統天皇の父は天智天皇、そして、母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘の蘇我遠智娘です。
物部氏と蘇我氏は対立関係にあったのは言うまでもありませんが、記紀編纂時には物部氏
は没落していました。
持統天皇は、和風諡号は2つあり、そのひとつに「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやま
とねこあめのひろのひめのみこと)というのがあります。
このヤマトネコという称号は7代孝霊・8代孝元・9代開化、22代清寧の諸天皇.
41代持統天皇後の42代文武・43代元明・44代元正など各天皇にも見られます。

これは、天智天皇は、葛城王朝?から続く正当な王朝であるという主張のようにも思われ
ます。
先代旧事本紀では、この葛城の地を支配していたのは、後の尾張氏です。
尾張氏の本拠地はここ、大和盆地南西部の葛城の地です。勿論、物部系の氏族です。
ですが、壬申の乱においては、夫の大海人皇子に多大な支援をしました。
大王家はもともとは、後の物部氏です。
持統天皇や蘇我馬子は、卑弥呼の王権である物部王権を初代としたくなかったので
はないでしょうか?ともかく、卑弥呼の事績を消し去ったのは蘇我馬子です。

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伊香色謎命と伊香色雄命

2010年10月21日 | 卑弥呼は、伊香色謎命


伊香色謎命(古事記は伊迦賀色許売命)は、孝元天皇の妃、でもあり、また開化天皇
の皇后でもあります。崇神天皇のお母さんです。
父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。
同母兄に伊香色雄命がいます。天孫本紀では、伊香色謎命の弟です。
この伊香色雄命は、神班物者に任じられ、祭祀をまかせられています。
また、孫には葛城氏・蘇我氏・紀氏・巨勢氏・平群氏などの中央諸豪族の祖とされ
ている武内宿禰がいます。
物部氏の繁栄は、この女性からともいわれています。
この時期、これほど重要な女性が他にいるでしょうか?

卑弥呼は巫女的な性格を持つ女性だろうとされています。
日巫女、日御子、姫御子などといわれます。しかし卑弥呼は王です。親魏倭王とされる
この女性はもちろん身分の高い女性のはずです。

九州倭国が東進していき、吉備国を建国、その後畿内に入り、河内から奈良盆地に進出
したのが、河内物部氏。
魏志倭人伝の邪馬台国は、物部氏の王国の時代だと思います。纒向遺跡は、物部氏の
王都です。卑弥呼も台与も王とされているわけですから、その事績が残っていなければおかしいはずです。
ですが、記紀はこの物部氏の事績を消し去っています。
「天皇記」「国記」は聖徳太子と蘇我馬子が編纂したといわれます。この物部王国の事績
を消し去ったのは、対立した蘇我氏、蘇我馬子かもしれません。

すでに畿内に進出していた海神族とも出雲ともいわれる勢力と、この九州倭国から東進
してきた勢力との争いが倭国大乱だと思います。

物部氏から、欝色謎命と伊香色謎命の二人の女性が、孝元天皇の妃となっています。
伊香色謎命はまた、開化天皇の皇后でもあります。
開化天皇と伊香色謎命との子供の崇神天皇に、孝元天皇と鬱色謎命との子の、大彦命の
娘の御間城姫を崇神天皇の皇后にしています。王の外戚となって権力を保持したので
はなく、この時期にはもう物部氏の時代です。
大和には、葛城王国といわれる既存勢力あり、その戦いにおいて、敗北した方が
女性を差し出したのでは?という説があります。
ですが、これは逆だろうと思います。これは後の藤原氏と同じで、王家と姻戚関係を結
んで、権力を奪取したのではないでしょうか。

伊香色謎命は何故か、開化天皇6年に皇后になっています。開化天皇は庶母を皇后とし
たということです。えらく不思議なとこですが、この時ではないでしょうか?
物部氏が権力を手中にし、卑弥呼が共立されたとするのは?
伊香色謎命女王は、大和の王と結びつき、開化天皇時に女王となり、畿内の勢力を
統一。
崇神天皇御世に畿内から吉備、丹波、北陸、尾張、東海、にいたる王国を樹立した。

四道将軍(崇神天皇10年に、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を
西道に、丹波道主命を丹波に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた)

倭人伝には、卑弥呼の死後、男王をたてたが国中服せず戦乱があったように記述され
ています。13歳の台与共立後に、国を治めたのは大新河命(彦坐王)です。

卑弥呼は、伊香色謎命。台与は気長足姫尊。男弟は伊香色雄命。
卑弥呼崩御後の男王とは伊香色雄命の大新河命。彼が彦坐王。崇神天皇は開化天皇と同一人物。邪馬台国は伊香色雄命王国。
魏志倭人伝には、この・・・「名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大、無夫壻。」
一文があるので、この女性を卑弥呼とする人はあまりいないように思いますが、
この女性しかいないようにも思います?
伊香色謎命は“イカガシコメ”と読まれますが、そんなことは絶対ない“イカガシキメ”
のはずです。卑弥呼は、伊香色謎命、亦の名カムオオイチヒメ。ですが卑弥呼は二人いる。景初二年に朝貢した倭の女王は、台与。この名はもちろん本当の名ではない。

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