今回は、百済救援を画策していた、百済からの渡来人であろうと推測できる天智や
藤原鎌足と王家との争いを考えてみます。
桓武天皇から書き始めたため長文になってしまいましたが、やっと書きたい
ところまでたどり着きました。おそらく誰も指摘していないところかな?
660年百済は滅亡します。その後、倭国(日本)は唐を敵に回し朝鮮に軍を三度派遣します。
百済の役です。第一波は661年、第二波は662年。そして、天智2年(663年)に
白村江の戦いで敗れます。
しかし、これは百済復興を目指す渡来人が行ったことです。この時代、戦乱を逃れるために、
百済から亡命してきた人々が多数いました。
この渡来百済人と、以前から渡来していた渡来人が百済復興の兵をあげたのです。
本来は、倭国、唐、新羅の三国同盟だったのです。
この時代の唐との国力の差を考えれば、唐と敵対する選択をするはずがありません。
倭国は、唐、新羅と結び百済を討とうとしていたのです。
その百済討伐のための朝鮮出兵が、渡来人によるクーデターにより百済救援の出兵
に代わってしまったのです。
その中心人物が、百済復興を画策していた渡来人である天智と後の藤原鎌足である。
661年から、天智が白村江に兵を派遣する663年まで渡来人と王家の争いが起きている。
古代の王家を滅ぼし、歴史を改竄した藤原氏の悪逆をここに暴いてやる凸(~_~メ)
乙巳の変では蘇我入鹿、蝦夷を暗殺し蘇我氏を滅ぼし、その後も、明らかなだけ
でも古人大兄皇子、蘇我倉石川麻呂、有間皇子暗殺している。
さらに孝徳天皇や押坂彦人大兄皇子の王子の山代王子(山背大兄王)
など本来の大王や、多数の王家の人物を殺している。
天皇家を凌ぐ権力を得て専横甚だしかった蘇我氏は悪であり、その蘇我氏を討ち大化の改新と呼ばれる
改革を断行した中大兄皇子、中臣鎌足らは英雄である。そういう記述ですよね。
正史である日本書紀に記述があるから真実であるといつまでもこういう姿勢では真の歴史はみえない。
彼らを謀反の疑いで静粛し、百済復興のために朝鮮に出兵した天智や藤原鎌足は渡来人である。
渡来人である天智は王であるはずがない。天智は天皇に即位していたと改竄したのは桓武天皇である。
その天智から繋がる桓武は渡来人の王である。
百済救援を画策していた、百済からの渡来人であろうと推測できる藤原鎌足と王家との争いを
考えてみます。古代の王家は藤原に乗っ取られている。
まず、百済渡来人と関係するであろう藤原氏の謎についてです・・・
上の写真は、興福寺の中金堂が実に300年ぶりに再建されました。夜間のライトアップの写真です。
この興福寺は鎌足ゆかりのお寺であり藤原氏の氏寺。とされます。東大寺もまた藤原氏により建設
されたお寺といえます。
藤原氏の祖とされる、中臣鎌足は、後に藤原姓を賜り藤原鎌足を名乗ったとされます。
もとは中臣氏ということですが、・・・これおかしいでしょう?
不思議に感じますよね?藤原氏は明らかに仏教推進派であるのですが、・・・中臣氏は神事や祭祀を
つかさどった神道側の氏族ですよね?
中臣鎌足のお父さんの中臣御食子は、神祇官の長官に就いていたともされます。
このあとも、中臣氏は 、代々神祇官・伊勢神官など神事・祭祀職を世襲しました。
中臣氏は、神事・祭祀をつかさどった中央豪族であり、物部氏とともに仏教受容には反対の立場だったとされます。
だから、矛盾しますよね。おかしいですよね?
平安京は倭国内の百済国であり、桓武天皇は秦氏が関わる天智天皇から繋がる渡来人の王です。
平安京は、百済からの渡来人であろう、この秦氏が開拓した土地です。
平安時代は仏教が興隆します。この桓武天皇や、その子供である嵯峨天皇が保護したのは、
最澄の天台宗、空海の真言宗です。
それは、この仏教に関しても奈良対平安の対立、つまり王家と渡来人の争いが起きていたからです。
最澄は応神天皇の時代に渡来したと称する渡来人です。空海も仏教を学ぶためには渡来人や秦氏と
関係していただろうと想像できます。
渡来人である秦氏や藤原氏は、日本の宗教である神道に対抗する仏教推進派である。
その藤原氏がもと中臣氏だというのは信じられません。
ウイッキペデア・・・
扶余 豊璋
百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。 ・・・『日本書紀』にも登場する
百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある 。
皇極天皇元年(642年)1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」とその家族および高官が
島に放逐され、4月にその翹岐らが大使として倭国に来朝したとされており、翹岐=豊璋同一人物説に
おいては当然、この時に倭国に渡来したとされている。
孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席している。
662年5月、倭国は豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵5000と軍船170艘を添えて
百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。 豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、
豊璋は百済王に推戴された
***********************
この中臣鎌足は百済からの渡来人である。642年に倭国に来朝したとされる、百済最後の王である
義慈王の王子の翹岐ではないのだろうか?
豊璋だろうという説が以前からありますが、百済王ともされるこの弟の翹岐のほうではないのかな?
同一人物説もあるようですが・・・?
日本書紀、皇極条にはこの翹岐の名が頻繁に現れますが、その後どうなったのかは不明です。
それは、後の藤原鎌足だからではないのか?
一方兄の豊璋は、後に百済に渡り百済王となり、唐、新羅と戦い、その後高麗に亡命したとされます。
まぁどちらでもいいですが、秦氏と関わる天智と関係し百済復興のために朝鮮出兵を画策した、
百済王家に関係する渡来人であるのは間違いないように思います。
百済復興のために来日した、この翹岐が協力を求めたのが、同じく百済からの渡来人であり、
この山背国で地盤を築いていた秦氏である。
そして天智天皇は、この秦氏の人物だからです。詳しくは書きませんが、天智天皇は、百済からの渡来人であり
秦氏の族長である、漢王こと秦河勝の甥の子供である。漢皇子とされるのが天智天皇である。
天智と天武は兄弟ではありません。桓武天皇は自身の皇位継承の正統性を述べるために、天智を本来の王家の
天武に繋げたのです。
藤原氏は、近江にも関係します。その近江には多数の百済から亡命してきた王族などの人物の居住地
だということが日本書紀などにも記述されています。
桓武天皇のお母さんである高野 新笠は、百済からの渡来人である和乙継の娘であり、この和氏は百済武寧王の
子孫を称しています。本当に武寧王の子孫かどうかはともかく、本来は言いたくはないところでもあるので、
渡来人であるのは事実だと思われます。
そして、この百済からの渡来人が中臣氏と繋がりを持つのは、この中臣氏の本拠地は山科だからなのではないのか?
秦氏の山背国と近江に挟まれた位置にあるのが山科です。
ウイッキペディア 中臣意美麻呂
叔父・藤原鎌足の娘を娶って婿養子となり、鎌足の実子である藤原不比等が成人するまで藤原氏の
氏上であったといわれている。
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本来は、もちろん中臣氏ではなかったのですが、・・・
この時に、つまり中臣 意美麻呂が、藤原鎌足の娘を娶ったときに初めて中臣氏と関係ができたのではないか?
そして中臣 意美麻呂は不比等が成人するまでの育ての親ともいわれます。
というか、・・・中臣氏は渡来人の勢力下にいたといえます。
不比等にとってもお父さんが百済の王家の人物であっても、倭国内では渡来人であるのでは自身の栄達には
都合が悪いため、関係が出来た中臣氏の系譜の中に、お父さんである翹岐?を組み入れ改竄したのではないのか?
だから遡って、藤原不比等により父である藤原鎌足は元は中臣氏だったと改竄したのでは?
それは渡来人だったからです。そして百済からの渡来人である藤原氏は仏教推進派です。
孝徳天皇と対立していたのは、この中臣鎌足(翹岐?)と天智天皇である。
ですので孝徳政権下において、内大臣であるはずはない。渡来人であるのならなおさらありえません。
つまり、孝徳政権下で内大臣だったとされる中臣鎌足は中臣鎌足(藤原鎌足)ではないのです。別人です((+_+))
これは、後に藤原朝臣姓を鎌足の子である不比等のみに継承させていることから判断できる。
では何故に中臣鎌足が選ばれたのかというと、この中臣鎌足は、孝徳政権において、内大臣という
高い地位にあったからだともいえます。
そしてもちろん渡来人だったことを隠蔽するためです。
不比等にとっても、渡来人では都合が悪いため実在の人物に変更したともいえます。
選ばれたのが後に関係を結んだ中臣氏です。
この中臣鎌足には二人の子供、兄弟がいたとされます。真人と不比等です。
長男である真人は、何故か仏門に入り定恵と改名し、遣唐使とともに唐に渡ったとされます。
不思議な話ですが、この謎も解けるように思うのですが・・・?
王家と渡来人の争いに関しての重要人物の一人がこの中臣真人です。
この長男である真人は643年の生まれとされ、僧となり唐に渡ったとされる遣唐使は653年のことです。
なんと11歳の時に唐に渡ったということになります。しかもこの時には不比等はまだ生まれていませんでした。
中臣鎌足は616年の生まれとされますので、この時代ではもうそう若くはないですよね。
それがどうして長男を唐に送らなければならなかったのでしょうか?
どうして神事を司る職にいた中臣氏、中臣鎌足が子供を僧にして唐に留学させるのでしょうか?
おかしい話ですよね。
この二人、実は中臣鎌足の子供ではないとの話が語られています。
真人は孝徳天皇の落胤であり、不比等は天智天皇の落胤であるととの伝説です。
孝徳天皇は、子供が男の子であれば、臣の子とし、女の子なら朕の子とすると云ったといわれます。
孝徳天皇は、後継ぎとしての子供は有間皇子しかいなく、男の子を手放すというのもおかしな話です。
また孝徳天皇の落胤であればなおさら、僧にして唐に送るというのもおかしい話です。
つまり、すべて作り話です。
後の藤原鎌足である中臣鎌足は中臣鎌足ではないということです。
中臣鎌足と、渡来人である後の藤原鎌足は別人である。
この定恵は、本来の孝徳大王の側近である中臣鎌足の子供ですが、不比等はもちろん百済からの渡来人
である翹岐の子供である。このふたりは、もちろん本当の兄弟ではありません。
遣唐使とともに唐へ渡った中臣真人こそ、本当の中臣鎌足の子供なのです。
孝徳大王時代に内大臣だったのは、後の藤原鎌足ではなく本来の中臣氏、中臣鎌足である。
孝徳大王と対立していたわけですから、藤原鎌足が孝徳政権の内大臣であるはずがない。
孝徳政権下で内大臣だった、本来の中臣鎌足の子供である中臣真人は、唐との交渉を行った外交使節である。
もちろん、僧ではなく、名前の定恵も年齢も改竄されている。本来は天智、藤原と対立していた孝徳大王側、
本当の中臣鎌足の子供である。
中臣真人は孝徳政権下の唐との外交使節であるすると、その行動は推測できます。
唐が朝鮮の内乱に加入しようとしていた時期です。
この時代は頻繁に遣唐使が行われています。
中臣真人は僧となり、653年の遣唐使で唐に渡り、665年に帰国したとされますがそうではない。
外交使節なら滞在せずに何度か往復しているはずです。
最終的には、659年の遣唐使で唐に渡り、660年の百済滅亡の翌年661年の帰国の便で帰っているはずです。
661年の4月に帰国し、百済復興を模索していた渡来人である天智や翹岐(藤原鎌足)に暗殺されている。
帰国後に暗殺をしたのは、孝徳政権と対立し朝鮮出兵を画策していた天智や鎌足である。
この暗殺した時が孝徳大王暗殺の時でもある。百済滅亡後、倭国内で百済渡来人が百済復興の兵をあげたのです。
661年から662年まで、王家と百済渡来人の争いが起きている。
それは、孝徳政権は唐との同盟を結ぼうとしていたからです。唐、倭国、新羅の三国同盟です。
ですので倭国内では百済渡来人との争いが勃発したのです。
この時代は、朝鮮半島の戦乱と、唐という巨大な統一王国がこの戦乱に関わろうとしていたことが
大きな影響を受けることになります。
唐は朝鮮半島を支配下におくために、この朝鮮半島の動乱に介入することになります。
まず、戦乱下にある、新羅と手を組み難敵であった高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一させたのちに
新羅を滅ぼし支配下にしようとしていました。
唐も日本が朝鮮の内乱に加担、特に百済側に加担することを恐れ、何度か使節を送っています。
もともと百済とは友好的な関係でしたが、唐が新羅に加担することになり孝徳政権としては、
百済側に付くことができなかったのです。
というか、・・・この時代の国力の差を考えると、唐を敵に回すという選択をするはずがありません。
つまり、この孝徳政権は百済と同盟関係を結ぶことに関しては反対の立場であったので、
百済渡来人とは対立していたのです。
中臣真人は、この唐との交渉のために唐に赴いていた孝徳政権の内大臣だった、本来の中臣鎌足の子供である。
帰国後に暗殺をしたのは、孝徳政権と対立し朝鮮出兵を画策していた百済からの渡来人である天智や鎌足である。
この暗殺した時期が、まさに倭国が百済討伐に出兵しようとしていた時期であり、王家と百済渡来人との
戦の時期であり、孝徳大王暗殺の時である。そして有間皇子も暗殺されたのはこの時である。
それは657年に新羅の使節である金春秋(後の武烈王)が来倭し、孝徳政権はこの新羅と同盟関係を
結んだのではなかろうか?
さらに、この翌年には新羅と唐が同盟を結んだことが影響している。
そう同盟関係を結んだのは大王である孝徳である。孝徳天皇崩御年は654年ではない。
そして百済と同盟関係になんてない。
日本(倭国)は唐、新羅と三国同盟を結んだのである。ですので、朝鮮出兵は百済救援のための出兵ではない。
百済討伐の軍である。
この事実と孝徳大王の暗殺である大逆罪を隠している。
それは、孝徳政権は唐との同盟により百済討伐の兵を派遣しようとしていたからである。
百済救援ではなく、百済滅亡後、百済で起こった鬼室福信による反乱を抑えるための出兵である。
660年、百済は滅びたとされますが、唐、新羅による三国統一はまでできていません。
そう高句麗との戦いがまでのこっていました。
661年、新羅は唐とともに高句麗遠征をします。金春秋も戦いに参加しましたが病に倒れることになりました。
百済滅亡後も、百済王族の鬼室福信の反乱軍による抵抗が続いていました。
本来は、百済はいまだ滅亡とは言える状態にはありませんでした。
この時(661年)、倭国は唐、新羅と連携し、この百済の反乱軍を抑えるため朝鮮に向かおうとしていたのです。
唐、新羅は高句麗と戦い、倭国は百済と戦おうとしていたのです。
倭国(日本)は百済と手を結ぼうとしていたのではない。孝徳政権は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。
661年一月、斉明天皇が百済出兵のために築紫に出征し朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦に備えたとされる
この出兵は、本来は孝徳政権による百済討伐軍である。百済復興のための救援軍ではない。
ですので、倭国内で百済討伐のための朝鮮出兵を阻止しようとして、百済や高句麗からの渡来人による
反乱が起きたのです。
百済討伐のため軍を九州に送ったため、畿内の都が手薄となり、百済渡来人よるクーデターがおきたのです。
これが王家と渡来人の争いである。
万葉集 巻一の八
熟田津に船ふな乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
有名な額田王の歌です。朝鮮出兵の様子を詠ったものともいわれます。
女性が出兵するはずもないので、おそらく額田王の歌ではないと思うのですが?
斉明天皇も九州の朝倉宮で崩じたとされますがそうではなく暗殺された。
この時、661年に、孝徳大王、斉明天皇そして王子である有間皇子、建王子は翌年の662年に暗殺されたのです。
この事実、大逆罪を隠蔽している。側近の唐との外交使節だった中臣真人が暗殺されたのもこの年です。
孝徳の側近たちもこの時暗殺されている。
ウイッキベディア・・・
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、
皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、
皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、
翌年病気になって崩御した。
*************************
孝徳天皇は何故に奈良盆地内に宮を造らずに難波の地に宮を造営したのでしょうか?
これは孝徳大王と対立していた天智側の主張です。孝徳は、天智に殺されたのです。
理由は山背大兄王一族の暗殺事件、乙巳の変と同様です。有間皇子の事件もそうです。
出兵に反対だった人物を暗殺し、この後天智は朝鮮に出兵しています。
百済からの渡来人である秦氏に関係する天智、そして百済からの渡来人である、中臣鎌足は朝鮮出兵を画策し
執拗に暗殺を繰り返します。孝徳大王との不和ももちろんそうです。彼らを暗殺してから、朝鮮に出兵しています。
孝徳大王は654年に崩御したとされますが、そうではない。654年に亡くなったのは、孝徳大王の皇后である
遠智娘、遠智天皇です。遠智娘は天智の后ではなく孝徳大王の皇后です。
子供の建皇子や大田皇女そして鸕野讃良皇女こと持統天皇もまた孝徳大王の子供たちです。
妹とされる姪娘もまた孝徳大王に嫁ぎ、子供の御名部皇女と阿閇皇女(元明天皇)も
また本来の王家の大王である、孝徳大王の子供たちです・・・ここはいずれ書きます。
661年、百済出兵のための軍を九州に送り出したため、都では百済渡来人によるクーデターがおきたのです。
クーデターは成功し、倭国内で百済政権を樹立することになり、百済討伐軍が百済援軍となったのです。
このクーデター後、百済王子とされる豊璋は5000の兵と共に百済に赴き百済軍に合流し百済王になっととされます。
百済救援のための朝鮮出兵に反対する多くに人物を暗殺してきた中心人物は天智や藤原鎌足です。
百済救援軍を送り出すことに成功しましたが、最終的には663年の白村江の戦いで大敗をし、
結局は百済再興はなりませんでした。
この百済復興のための戦いである白村江の戦いには、多くの渡来人が参戦しただろうと考えられ、
倭国内の渡来人勢力は弱体化しました。
この機会をとらえ、王家、天武は戦いを挑んだのです。これが壬申の乱です。
戦場は渡来人が多く居住していた近江です。多くの豪族は天武に味方しました。
壬申の乱は、皇位継承をめぐっての争いではない。
王家対百済渡来人(高句麗からの亡命渡来人も含まれていた)との争いです。
大化の改新なんてなかったといわれます。この元号の「大化」もなかったのでは?
日本初(本当は初ではない)とされる孝徳の元号は、大化ではなく「大和」ではないのかな?
国名を「大和」にし年号も大和だったんじゃないのか?
この「大化」は最初の元号とされますがそうではない。法隆寺の釈迦三尊光背銘にある、押坂彦人大兄皇子が
大王に即位した(摂政になったとされる)593年から624年までの「法興」が最初の元号である。
ウイッキベディア・・・高向 玄理
大化元年(645年)の大化の改新後、旻とともに新政府の国博士に任じられる。
大化2年(646年)遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、
新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋を伴って
帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった
************************
百済を助けるための朝鮮出兵に反対していた、蘇我氏を暗殺したのが、百済渡来人たちによるクーデター、
これが乙巳の変です。
大化元年(645年)、高句麗・百済・新羅の使者が朝貢しました。しかし任那の調を代行した百済の使者に対し、
調の不足を叱責したとされます。
この時です。乙巳の変が起こったのは。この変は蘇我氏の専横が理由とされますが、そうではない。
この時の王家、孝徳政権や蘇我氏は、親新羅であったのです。孝徳が大王に即位したのは644年である。
そして孝徳大王は、この乙巳の変の後、新羅に使いをしています。これは、倭国内の百済渡来人による
勢力に危機感を感じ、同盟関係を結んだともいえます。新羅もまた百済、高句麗との戦乱の中にいて、
唐との協力はえられていませんでした。
ですので、新羅の金春秋、後の武烈王が人質として日本に留まるということはありません。
金春秋の目的は、もちろん倭国を味方につけるためです。
それは新羅派である蘇我氏暗殺によるクーデターが起こったためです。
これは倭国側、つまり孝徳大王の要請による来倭ともいえます。この時に新羅とは軍事同盟が締結されたのです。
ですので、この647年に新羅の年号は、倭国の年号のである「大和」を使用したのです。
孝徳大王の年号は「大化」ではなく「大和」です。大化の改新というのは嘘話です。
金春秋は倭国と同名を結ぶことに成功し、翌年には、まさかの唐との軍事同盟を結ぶことに成功します。
唐は新羅を冊封国として支援することになります。ですので同様にこの時に唐の年号を使用し始めます。
つまり唐、倭国、新羅の三国同盟が締結されていたのです。
新羅と結んだことにより、倭国内の戦乱は激化したともいえます。
王家、新羅、蘇我氏対百済系渡来人(天智系天皇、藤原氏)の対立です。
ウイッキペディア・・・巨勢 徳多
斉明天皇4年(658年)1月13日左大臣在任中に病没した。冠位が大繍であったことが子孫の薨伝で知られる。
『公卿補任』では没年齢を66歳としているが、大化5年(649年)時には50歳としており、矛盾している
***********************
この巨勢 徳多 は孝徳の側近なので、死亡した年齢の矛盾点から改竄した箇所を推測してみます。
この巨勢 徳多も王家と百済渡来人の争いの中亡くなっている。
大化の改新・・・この「大化」は日本最初の元号であとされますが、そうではない。
大化なんて年号はありませんでした。
最初の元号でもないし、「大化」ではなく「大和」だったのではないのか?孝徳大王の元号は
この「大和」である。国名を大和にし、年号も大和にしている。
この大化は645年から650年とされますがこれもそうではない。もう何度も云いますが斉明(皇極)天皇は
天皇であるのですが、本来の王である大王ではない。つまり、もとの日本書紀には、皇極・斉明条なんてありませんでした。
押坂彦人大兄皇子ー茅渟王ー山代大王ー孝徳大王
皇極天皇が即位したという、642年です。本来は孝徳天皇が即位した年、644年が大和元年です。
これは押坂彦人大兄皇子の王子であり大王に即位していた、山代大王が暗殺された翌年です。
聖徳太子の王子である山背大兄王一族の暗殺事件の翌年である。
ですが、この年齢の矛盾に関しては、皇極元年から数えている。元年が642年なら5年というのは、
この646年である。この年50歳であるなら、没年66歳というのは、662年のことになります。
そして、日本書紀においては、この巨勢 徳多が亡くなるという記事は、斉明天皇条4年正月にあり、
5月には建王が八歳でなくなり、そのあとに有間皇子の事件が続きます。亡くなったのは同じ年、
斉明4年のことであるとされます。それはこの時に王家と渡来人による戦いが起きたからである。
つまり巨勢 徳多の没年が662年であるのなら、建王、有間皇子の没年も同年である662年である。
渡来人と王家との戦乱の期間である。
百済討伐のため軍を九州に集めたため都で百済渡来人によるクーデターがおきたのです。
有間皇子暗殺事件は、662年である。これは百済渡来人と王家とが争っていた時期である。
有間皇子の謀反というのは、あくまで天智側の主張である。本来は孝徳天皇の後、正統な大王に
即位すべき第一王子である。
王家と天智、藤原との対立であり、これもまた、陰謀である。
つまりこの時に、孝徳大王も殺されたのではないのか?あるいは有間皇子は大王に即位していたかです。
この巨勢徳多は孝徳政権で左大臣だった側近である。
有間皇子は、都から離れ、阿部氏とかかわりがあった紀南の豪族である塩屋鯯魚の地に避難したのです。
紀伊国日高郡の塩屋がこの塩屋鯯魚の拠点であり、有間皇子はここで暗殺されたのです。
そして建王もこの地で殺されている。
この建王は天智の皇子であり、持統天皇の同母弟とされますが、そうではない。持統もそうなのですが、
天智の子供たちではなく、孝徳大王の子供たちである。有間皇子も建王も次の大王である。
ウイッキペディア・・・金春秋
648年、唐に派遣された金春秋は太宗の厚遇を受け、「特進」(正二品 )の地位を与えられ、
新羅の支援を得ることに成功する。(唐・新羅の同盟)翌年、金春秋は息子の金文王を唐に残して帰国し、
唐の恭順を示すため、高宗の永黴元年(650年)からは、新羅独自の年号を廃止し、唐の元号を使用するようにした。
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唐の年号を使用したことと同じことが、 金春秋が来倭した時にも言える。
それは、唐の年号を使用する以前の新羅の年号が「大和」であるのです。647年、金春秋が来倭し、
倭国と同盟を結んだ時に倭国の使用していた元号である「大和」を使用したのではないのだろうか?
新羅は真徳女王の年号を「大和」に変更していたのではないのか?
唐との同盟関係が成立する以前、百済の攻撃により新羅は窮地に陥っていました。
まず最初に高句麗に協力を求めますがうまくいかず、その後倭国に協力を求めます。
金春秋が倭国に来倭したのは唐の協力を得る以前、647年であり、立場的には倭国にお願いし助けて
もらう立場であり、恭順を示すためにかどうかはわかりませんが同盟の証に年号を倭国の使用する「大和」に
変更したのではないのか?
つまり、後に唐の元号を使用するようになったのと同じ理由で、倭国の年号「大和」を使用するようになったの
ではないのか?644年が大和元年であり、そしてこの年号を国名にもしたのではないのか?
これ逆で新羅の使用していた「大和」を倭国の国名にしたともいわれますが、この時の倭国と、
新羅の立場的なことを考えると、そうではないように思う。
この対立していた孝徳天皇の年号である「大和」を「大化」に変更している。大化の改新なんてありません。
大化という年号も木簡などの資料からも確認できていません。
逆に木簡などの資料からは、大化の改新なんんてなかったとの指摘がされています。
「白鳳-朱鳥-朱雀-大宝・・・九州年号の謎」のところで書きましたが、・・・
天智天皇は大化の改新と呼ばれる改革を断行したとされます。しかし、そうではないとの木簡が出土しました。
「評」から「郡」に変更されているはずなのに使用されている。
そして、日本書紀に記述されている大化の改新は、およそ60年後に完成した大宝律令と
一致する文が存在するのです。
どうしてこんなことをしたかというと、この時大王だったのが長屋王だからです。
つまり、大宝律令は長屋大王が作った律令だということになります。大化の改新ではなく、
本来は、長屋大王や忍壁大王が行った「大宝の改革」ということになります。
その功績を天智天皇の功績として取り込んでいる。それは、桓武天皇は天智系天皇だからです。
日本書紀は編纂後に改竄された偽書である。