聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

聖徳太子はいなかった?・・・聖徳太子架空説

2016年02月02日 | 聖徳太子の謎


聖徳太子はいなかった?・・・と、最近言われますよね。
でも実際に、法隆寺や四天王寺など聖徳太子を祀っている寺院は多く存在します。
架空の人物を祀っているというのは、やはりおかしいですよね。
もちろん、実際に存在している人物なのですが、異なった人物として、系譜の変更がなされ
ていることに加え、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の間違った解釈により、さらに大きな謎に
なっています。
推古天皇の息子の竹田皇子と、押坂彦人大兄皇子の二人の事績が、ひとりの聖徳太子として
ひとつにまとめられています。

敏達天皇の第一皇子である、押坂彦人大兄皇子が、推古天皇時に大王として存在するのは
都合が悪いので異なった人物、厩戸皇子として系図を変更がなされていて、大王ではなかっ
たとされています。用命天皇と穴穂部間人皇女の皇子というのはもちろん嘘です。
だから、架空といえば架空なのですが・・・子孫を全員抹殺したのは系譜を改竄し異なった
架空の人物を作り出したからです。

系譜を変更しなければならなかったのは、蘇我氏であり天智系の天皇であり藤原氏です。
それは、彼から繋がる大王家の人物を殺害しているからです。殺害した人物が大王では具合
悪いからです。大王の呼称を使用せずに天皇の呼称を使用したのはこれが理由です。

継体天皇以降、天智天皇までで、実際は王ではなかったのですが天皇とされている人物が
複数います。記紀が無視をする大王は、本来の上宮家である天武系の大王と物部系の大王た
ちです。
天智と天武は対立していました。そして系譜が変更されています。
天智系の天皇や、藤原氏にとっては下記の系図、つまり押坂彦人大兄皇子やその子供たちが
大王家の人物であり、大王では都合が悪いわけです。

押坂彦人大兄皇子ー舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子

天智系の天皇や、藤原氏にとっては、対立していた孝徳天皇や、長屋王が本来の大王家の
王であり、彼らに繋がる、押坂彦人大兄皇子や茅渟王が大王だと都合が悪いというのは、こ
の系図を見れば解ります。

今回は、蘇我氏もまた系譜を変更しなければならなかったのじゃないのか?・・・というと
ころを少し考えてみます。

天皇記・国記編纂時に、蘇我馬子によって改竄された可能性があるのでは?

物部系の大王を王ではないとするためと、欽明と、宣化天皇の皇女たちから繋がる、本来の
大王家である物部系の王を、蘇我稲目宿禰女である堅塩媛と小姉君の系図に取り込んでいて、
蘇我の王ということに改竄しているのでは?。


聖徳太子とされる厩戸皇子のお母さんである、穴穂部間人皇女の穴穂部は、石上穴穂宮で
養育されたことに由来するとされます。これ、石上は物部氏の領地ですよね。
穴穂部間人皇女は、欽明と蘇我稲目宿禰女の小姉君の娘とされます。
何故、明日香の地ではないのでしょうか?これ、おかしいと思うのですが・・・?

継体天皇以降、蘇我稲目の時代から蘇我氏は大王家と姻戚関係を持ち、特に仏教を受け入れる
かどうかの問題に関して物部氏と争うようになります。
この争いは、この時代、蘇我馬子、物部守屋の時代にまでおよびます。蘇我氏は、さらに絶
大な権力を保持するようになり物部氏と対立します。
聖徳太子のお母さんとされる、この穴穂部間人皇女は丹後国に避難したという伝説が存在し
ます。

ウイッキペディア・・・
京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、穴穂部間人皇女に因
むものと伝えられている。穴穂部間人皇女は蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄
せ、宮に戻る際に自分の名を贈ったが、人々は「皇后の御名をそのままお呼びするのは畏れ
多い」として、皇后が(その地を)退座したことに因み「たいざ」と読むことにしたという。

      ****************************

そう、争乱を避けたというのは、彼女は蘇我の女性ではなく、物部の女性なのでは?
物部に関係する人物を蘇我氏の系譜に組み入れているのでは?

蘇我氏が初めて王家と関係するのが欽明です。この欽明に二人の蘇我の娘が后になっていま
す。蘇我稲目宿禰の娘の、堅塩媛と小姉君です。

欽明と、この二人の蘇我稲目宿禰の娘の子供たちに注目してください。
そう、彼女たちは非常に多くの子供をもうけています。
堅塩媛にいたっては、13人(7男6女)もの子供を産んだことになります。
まー、ありえないことではないかもしれませんが多すぎますよね。これ、不自然のように
思うのですが?どうでしょうか?
それに比べ、宣化天皇の皇女たちの子供は少ないですよね。宣化天皇の皇女たちの子供を、
二人の蘇我の娘の系譜に取り込んでいるのでは?
宣化天皇の皇女たちの王子しか、大王になる資格がなかったように思うのですが?


物部守屋が、用明天皇の後、皇位につけようとしたのは穴穂部皇子です。
穴穂部皇子は、欽明天皇と蘇我稲目宿禰の女の小姉君の子供とされます。
だとすると、全く蘇我の皇子ですよね。
どうして、物部守屋は蘇我の皇子を皇位につけようとするの?おかしいですよね???
この穴穂部皇子や穴穂部間人皇女は、当然、物部氏の子供たちだったのでは?

そしてこの時、蘇我馬子は泊瀬部皇子を後継者として推して物部守屋と対立します。
彼も本当に小姉君の子供なのでしょうか?この泊瀬部皇子は、後の崇峻天皇であり、彼ら、
穴穂部皇子と崇峻天皇は、蘇我馬子によって殺害されます。
何故、蘇我馬子は蘇我の皇子を殺すわけ?
聖徳太子の皇子である山背大兄王もそう。全く蘇我の皇子じゃないですか。
どうしてこんな不思議な話を信じることができるのでしょうか?

本当に彼らは蘇我の皇子だったのでしょうか?
さすがに、おかしいので、いろいろな説があるようですが、単純に系譜が変更されたのだ
と思うのですが・・・。
本来は、宣化天皇の皇女の王子以外には、大王にはなれないように思うのですが・・・?
それは、この宣化天皇の皇女たちは雄略天皇から繋がる本来の王家である物部の女性たちだ
からです。

雄略天皇の皇女の春日大娘皇女―橘仲皇女―欽明天皇の皇后の石姫皇女、后の稚綾姫皇女、
小石姫皇女


厩戸皇子だけでなく、欽明天皇と蘇我の娘の子供たちとされる以下の彼らに関しては、系譜
の変更がなされている。彼らの名前からも判断できるように思いますが?

大兄皇子、石上部皇子、桜井皇子、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、 泊瀬部皇子。

これら地名である、石上、桜井、穴穂部、泊瀬は物部領地。大兄皇子に関しては名前がない。

つまり、宣化天皇の皇女とされる、石姫皇女、稚綾姫皇女、日影皇女は物部系の女性であっ
て、彼女たちの子供が、蘇我氏の女性の系図に組み込まれているのでは?
これは、物部の大王たちを王としたくないからです。

宣化天皇の娘の日影皇女の、お母さんは不詳とされるのは物部の女性だったからなのでは?
彼女の兄弟ともされる宅部皇子は、穴穂部皇子とともに、物部側にいて蘇我氏と戦ったと
されるのは、そう彼も物部の皇子だったからですよ。

押坂彦人大兄皇子の父である、敏達以外の宣化天皇の皇女たちの本来の大王たちを、蘇我氏
に関係するように系譜の変更がされていて、蘇我の皇子として王家と関係ないように変更さ
れています。これは、この物部氏が、古代から続く本来の王家であるのですが、蘇我氏にと
っては、物部の大王たちを王としたくないからです。
丁未の乱において、蘇我馬子と物部守屋は争い物部氏は滅びます。仏教受容の名目での争い
ですが、本来は権力争いです。日本の古代史を変えたのは蘇我馬子です。

継体以降、推古までで問題となる人物は、用命天皇、崇峻天皇です。
敏達天皇は、お母さんが宣化の娘の石姫なので、彼が大王ということには問題ないのですが、
この30代敏達と33代推古の間の、天皇記作成時以前の用命と崇峻が問題。

彼らが、蘇我の女から生まれている限り大王ではない。また、天皇の呼称もこの時は存在し
ない。蘇我馬子によって編纂された天皇記作成時以降です。
ですから、ここ変更されている。つまり、蘇我による物部系の大王たちの殺害を隠すための
系譜の変更が行われているのでは?

欽明天皇の皇后の石姫皇女の王子である箭田珠勝大兄皇子を、大兄皇子(用命天皇)として、
蘇我氏の娘の系譜に取り込んで天皇だとしているのでは?
崇峻天皇こと泊瀬部皇子もまた、宣化天皇の皇女の王子なのでは?
天皇とは蘇我の王であり、宣化天皇の皇女の王子以外には大王にはなれない。

推古天皇以前の、このふたりの系譜の変更は天皇記における蘇我氏によるものなのでは?
蘇我氏が殺害した王たちは、大王ではなく蘇我の王である天皇だったということ。

天皇記、国記編纂時には、天皇は王ではなかったので、大逆罪には当たらないとするため。
天皇記・国記編纂の理由は物部の王を消し去ることと、大王である崇峻殺害の大逆罪を隠蔽
するためでもあったと思うのですが・・・?

厩戸皇子や山背皇子に関しての系譜の変更は、記紀において?天智系天皇や藤原氏によるも
のです。日本書紀は720年に完成したとされます。
日本書紀下巻の王は、全て押坂彦人大兄皇子から繋がります。
完成時には彼が王だとして記載されていたのですが、その後、天智系天皇や藤原氏によって
に変更された可能性はないのでしょうか?




写真は、明日香にある乙巳の変の舞台としてしられる、皇極天皇の板蓋宮跡と石舞台古墳です。
この古墳は蘇我馬子のお墓とされます。お墓の封土を剥し、暴いたのは天武です。
天武は、蘇我氏を憎んでいました。それは、祖父である押坂彦人大兄皇子や、上宮家の大王
たちを殺害したからです。
蘇我の皇子である、推古天皇の息子の竹田皇子の事績を消し去ったのもまた天武です。



               




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