聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

「親魏倭王」卑弥呼の謎

2019年12月17日 | 魏志倭人伝の謎


7世紀、隋が滅び、この唐という巨大な統一国家が出現したことで、地続きにある朝鮮半島は戦乱時代になります。この戦乱が倭国にも影響することになります。

卑弥呼の時代もそうです。大陸での紛争ですが、島国である倭国にも影響を及ぼしている。
景初二年(238年)に、卑弥呼は魏に朝貢します。魏志倭人伝においては、何故この年に朝貢したのかの記述はされていません。
主な理由と思われる、魏が建国した年なので、朝貢したわけではありません。卑弥呼が王に即位した年であるので朝貢したということでもありません。

何故に卑弥呼は魏に朝貢したのかを推測するのは、魏志倭人伝の謎を解くことにおいては重要なことです。
卑弥呼が朝貢した時期は、倭はどういう状況下におかれていたかを考慮しなければ、魏志倭人伝の謎を解くことはできません。

この時代、朝鮮半島で勢力を誇っていたのは、遼東地方を本拠地とし、楽浪郡や帯方郡を支配下においていた公孫氏です。
魏書 東夷伝韓条において、韓や倭はこの帯方郡に帰属したと記述されています。

卑弥呼が朝貢した年、景初二年の238年に、この公孫氏と魏の争いが戦争に発展します。結果、この遼東公孫氏は滅亡しました。
卑弥呼が朝貢した時期には、公孫氏は本拠地の遼東の地で籠城し瀕死の状態でした。
遼東地方と帯方郡は遠く離れていますので、倭が帰属していた帯方郡はもうすでに魏の支配下にあったと推測できます。魏は倭国についてはあまり詳しくは知らなかったようなのですが、帰属していという帯方郡には倭に関する情報がありました。
魏は倭国を味方にしようとしたのです。


三国志、魏書 東夷伝韓条・・・是後倭韓遂屬帶方

倭国は公孫氏に帰属していたとされます。当然ながら交流もあるわけで、公孫氏は、帯方郡に命じて倭国の調査をしているはずです。
この推測ができれば、魏志倭人伝の謎ときも難しいものではありません。
魏志倭人伝は卑弥呼朝貢後の魏の使者たちの紀行文と、それ以前に帯方郡が倭国(北部九州)を調査した時の文献が参照されている。
この時代が異なる文献を、時代の変化を考慮せずに一つに纏めたため矛盾するものになっている。

公孫氏の領地、朝鮮半島の北西部は魏が治めることになりました。もちろん倭が帰属していた帯方郡も魏の支配下になったということです。
魏は戦争に勝利し、領土を広げることができる結果となりましたが、それによって新たな問題が生じました。

朝鮮半島における他の国々、高句麗や南の韓の国々と領土を接することになり、軋轢が生じます。
三国時代、魏、呉、蜀のうち、蜀漢は衰退していましたが呉はまだ健在です。この呉は、公孫氏が滅んだ後になってはしまいましたが援軍を送り、魏と争っています。呉はこの時期に遼東半島を占拠しています。
敵の敵は味方になります。遠交近攻という戦法です。

魏もこの戦法を用いたのです。朝鮮半島を手中にするため、魏は倭国を味方にしようとしたわけです。朝鮮半島南部の韓の国々の反乱を抑え支配下にするために、倭を利用しようとしたわけです。

卑弥呼が朝貢した理由、それは・・・「お前たち倭は我ら魏の支配下になったわけであるので朝貢に来い」・・・という、いわば命令があったので、卑弥呼は朝貢したのです。卑弥呼の朝貢はこの朝鮮半島での戦乱が関係する。

卑弥呼が朝貢し、魏から親魏倭王の金印や銅鏡100枚などが送られています。
「親魏倭王」とあるように、魏は倭と同盟関係を結すぼうとしたわけです。倭が韓の国と手を結ぶことになると魏にとっては厄介な問題になるからで、先手を打ったともいえる良い判断です。
「親魏倭王」の「倭」の文字は卑弥呼の「卑」の字と同じく悪字ともされまが、人偏であるのでそうとも言えないともされます。
この倭国とは、もとは西暦107年に後漢に朝貢した北部九州にある筑紫平野を統一した帥升の国のことです。

そして後に、黄幢(軍旗)も送られていることからも判断できますが、これは朝鮮に出兵しろとの命令なわけです。

卑弥呼は南の狗奴国との戦いを報告しますが、これは狗奴国との戦いがあるので朝鮮に出兵ができませんとの言い訳です。
結局、卑弥呼(台与)は出兵することになるのですが・・・(*^▽^*)
魏志倭人伝の謎はいづれ書きます。




280年、魏から政権を引き継いでいた晋(西晋)は呉を滅ぼし統一王朝が誕生することになります。しかし不安定な状態が続き、この西晋は滅びました。その後、東晋として復活するのですが、華北地帯は、五胡十六国時代の戦乱の時代となります。

この時代に、晋の弱体化により朝鮮半島において台頭してきたのが高句麗です。高句麗は、勢力を広めるため南下します。楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も手中にします。

4世紀になり、馬韓諸国のなかの伯済国を母体として百済が、辰韓諸国の地においては新羅が台頭してきます。

高句麗の南下政策により、これらの国々、百済や新羅と対立するようになります。
広開土王碑文にあるように、特に百済とは4世紀後半から5世紀にかけて激しく争います。百済が救援を求め、それに応じたのが倭です。

倭の五王の時代には、倭国は朝鮮に出兵しています。百済は倭の支配下にあったといってもいいくらいです。百済渡来人により改竄された日本書紀が、倭の五王を無視するのはこれが理由のように思います。

475年高句麗の攻撃により、百済は滅亡します。

弱体化していた百済が復興することができたのは、倭国の力です。滅んだ百済を復興したのは倭国です。ですので、復活百済は倭国の一部です。

倭の五王の上表文、朝鮮半島における前方後円墳の出現、任那日本府の問題からも推測できます。倭国の墓制である、前方後円墳が作られていることからも、卑弥呼の時代以降は、朝鮮半島南部は倭の支配下にあったのです。
復活百済は、朝鮮半島における倭国といってもいいくらいです。
この百済が滅んだ時期に、渡来してきたのが秦氏である。

ウイッキペディア・・・
『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされる。
   ***************************
「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できるという説は決定的な論拠といっていいと思います。

弓月君は、百済の120県の人民を率いて帰化したと、日本書紀に記述されています。この表現は、広範囲の地域からの、かなり多数の亡命渡来人であったと思われ、まるで国そのものが渡来してきたような記述です。
これは国が滅ぶ時期にしかありえないように思います。

日本書紀は卑弥呼の時代、卑弥呼を神功皇后として描いているので応神天皇の時代は3世紀になっていますが、本来はもう少し後、倭の五王の時代、高句麗の南下政策により、百済が滅亡の危機にあった時、475年頃の話です。


この秦氏が、勢力を拡大し、そして新たな渡来人を取り入れ大きな勢力になっていたのです。
この秦氏の本拠地が、「やましろ」の地です。この「やましろ」に都を移した、天智系天皇である、桓武天皇は秦氏の人物です。

渡来人、秦氏の本拠地である、「やましろ」に使用されている文字の記述は、古事記では、「山代」、日本書紀では、「山背」に統一されています。そして794年に「山城」に変更されたとされます。

この「やましろ」は、本来は奈良盆地の山の向こう側の意味であり、「やまのうしろ」の「の」の文字が取れ、「やまうしろ」から「やましろ」に転化しとされます。本居宣長の説であり、そのとおりのように思います。

つまり、本来は「山背」、山の背後の意味が本来のものであると思えます。
これは、奈良側からの視点の言葉であり、渡来人側からすればよい言葉ではありません。

ですので変更しているのですが、変更したため矛盾がおきている。

実はこの3つ中で、一番良い文字といえるのは、「山代」なのです。
「山代」・・・古代、王が統治することを、シラス、シロス、シロシメスとい言葉が使われています。
この「山代」という文字は、王が統治している土地であるという意味になり、渡来人が権力を握り王座を簒奪し、この「やましろ」の地を都とした時代に書き換えられた文字である。
渡来人たちは本拠地の呼称を、「やまのうしろ」からの転化ではなく、初めから「やましろ」だったとしたいわけです。

古事記は、712年に編纂されました。日本書紀は720年です。
たった八年で、文字が変わっているのもおかしいですが、ふつうは後に良い文字に変更すると思われるからです。
古い古事記の方に、「山代」の文字が使われていて、日本書紀に「山背」の文字が使われているということは本居宣長の説とは矛盾します。
つまり、どういうことかというと、本来は古事記が最後に作られているという可能性があるということが推測できます。意図的に変えている。

古事記は、続日本紀において古事記への言及がないことが疑問視されていて、古事記偽書説があります。
古事記は、続日本紀(797年編纂)よりも後の時代に編纂された可能性があるとの指摘です。一番古い古事記にこの「山代」の文字が使われているにはおかしいともいえます。

私は、古事記、日本書紀、続日本紀はほぼ同じ時期に編纂されているよう思う。
それは、歴史を改竄したからです。変更した内容を矛盾しないように統一しなければならないからです。

続日本紀が797年編纂されています。これは藤原の時代、藤原の都合で書かれた、藤原の主張する歴史書ともいえます。
この藤原の歴史書に合わせて、まず日本書紀を改竄し、その後に古事記も内容を変更している。

文武天皇以降、大王家を滅ぼし藤原が天下を取った時代のものです。ですので、歴史書を作る必要があったのです。

我々の方が正統であると主張している、この藤原の歴史書の内容に合わせる
必要があるからです。藤原の関係する人物の方が正統であると改竄している。

この続日本紀の編纂時に、これら3つの書の内容が矛盾しないように、日本書紀や古事記も同じ時期に編纂、・・・ではなく改竄している。

797年に、続日本紀を編纂し、その内容に合わせるように日本書紀を改竄し、おそらく最後に古事記を改竄したと思います。


794年に「山城の文字に変更されたとさえますので、続日本紀の後なら、「山城」を使えばいいのですが、そうすると後の改竄がばれてしまうので使えません。ですので、「山背」を使えばよかったのですが、本来は「山代」だという主張をしたかったのだと思いますが、古事記にこの「山代」を使ったばっかりに矛盾することになっている。

続日本紀を作りながら、日本書紀や古事記に矛盾する箇所がないように編纂しなおしている。
編纂したのは、渡来人である秦氏や藤原氏である。

現存する古事記は、14世紀のものであり、この平安時代に、秦氏、藤原氏の手で作られたものを参照して編纂されている。古事記もまた偽書です。

聖徳太子の王子である、山背大兄王は、いうまでもなく、本来は山代大兄王です。山代大兄王に関しては、悪い文字の方に変更しています。
聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の王子であり、同じ名前をもつ山代王のことです。
山背大兄王暗殺を、蘇我入鹿のせいにしたのは、対立していた、秦氏、藤原氏である。暗殺したのは、秦氏、藤原氏である。
この押坂彦人大兄皇子こと、日十大王の後胤と対立し、王座を簒奪したのが渡来人である、秦氏や藤原氏である。

今回は、「殺戮の時代・・・丙辰の乱」、「談山神社創建の謎と中臣鎌足」から続いての話、大王家と渡来人との争いの予定でしたが、長くなるの次回に書きます。



写真は、国営平城宮歴史公園です。
第一次大極殿(本当は第二次)や朱雀門はすでに再現されていますが、この平城宮跡は、国営平城宮歴史公園として新たに整備しなおしています。

しかし、今再現しようとしている宮は、渡来人である藤原氏の方の宮です。
無能な歴史学者のせいでとんでもないことになっている。
本来の大王家の宮は、平城宮ではなく奈良宮です。

奈良宮は長屋大王の宮である、平城宮とは対立する藤原氏の宮である。ですので、呼称に関してもこの都を平城京と呼ぶのは良くない。
本来はもちろん、奈良京です。
藤原の宮である平城宮は、奈良宮の一部であり、本来の王の住まいではない。

「藤原宮」と「平城宮」は、大王家と対立していた藤原氏の宮である。
この呼称は使用すべきでない。
なんども書いていますが、王の宮を臣下の名である「藤原」なんて名付けるはずはありません。
改竄された日本書紀や古事記を正史とする限り真実は見えてこない。

本来の大王の宮ではない、そして大王家を滅ぼしたといえる藤原氏の宮である、平城宮を復元しようとしています。
「藤原宮」の名称で世界遺産に登録しようともしています。間違っています。

本来の「奈良宮」の場所にはもうずでに多くの建物が立ち復元は不可能な状態です。

長屋王邸とされる場所から出土した木簡の内容をみると、長屋王は大王であったとの推測は容易です。木簡の「長屋親王」の記述は、長屋王の父親である高市王子は大王に即位していたとの記述です。もちろん長屋王も大王でした。

高市大王や長屋大王が王だとすると、この時代に天皇だとされる持統天皇や元明天皇は本来の王ではありません。

持統天皇の宮である、藤原の宮、元明天皇や聖武天皇の宮である平城宮は本来の大王の宮ではなく藤原氏の宮です。
本来は、万葉集、柿野本人麻呂の挽歌にあるように高市大王の香久山宮です。

長屋王の宮は、もちろん奈良宮です。

万葉集 巻三(328)
    あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
「奈良京」と書かれた木簡が発掘されています。 
奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などと表記されているとされますが、「平城」は「なら」とは読めません。

この長屋大王と対立し、殺害したのは渡来人である藤原氏である。藤原氏にとっては都合の悪い事柄です。大王家を乗っ取ったため歴史を変える必要があったわけです。歴史は勝者の歴史です。残念ながら最終的な勝者は藤原氏です。
もうずっと藤原氏によって改竄された歴史によって騙され続けている。

藤原氏により改竄された、偽書である日本書紀・古事記を正史として扱ってきたためとんでもないことになっています。
現天皇家と関わることになりますので、いまさら間違っていたとはできないかもしれませんが。

古代の大王家を滅ぼし、歴史を変えた秦氏、藤原氏を私は許しません( ̄ー ̄)凸

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秦の始皇帝と天皇家、秦氏の謎

2019年12月05日 | 日本書紀の謎


天皇家とは百済王家である。日本史においての最大のタブーであり問題点です。
天智系天皇である桓武天皇は、秦氏、藤原氏の王である。その桓武天皇から繋がるとされる、今の天皇家は、百済王家、百済渡来人である藤原氏と秦氏の王である。平安京はこの秦氏の本拠地である。
百済は475年に滅亡しました。しかし、この後に倭国の力で復活します。
この復活百済は朝鮮半島における倭国です。

今回は、もしかしたらですが、・・・
いまの天皇家は秦の始皇帝と繋がるという話です(*^▽^*)
トンデモ話に思われるでしょうが、古代の文献が真実を語っているのならこうなります。それは、今の天皇家は秦王家だからです。

まず、藤原氏。藤原氏の祖である藤原鎌足は百済からの渡来人であるという説は以前からあります。
百済最後の王である義慈王の王子とされる豊璋ではないのかという説です。
私は豊璋の弟の翹岐の方だと思うのですが?どちらでもいいですが、百済王家の人物だということです。この説を支持する学者先生は多くいて有力な説です。
この後の歴史の流れを考えても百済からの渡来人であるということは間違いないように思います。

藤原氏は、天皇家と関わることになります。藤原摂関政治です。藤原氏の娘を天皇の后にして、生まれてきた子供を次の天皇に即位させ天皇家と関係をもち権力を維持してきました。
つまり、藤原鎌足が、百済王家の人物であるのなら、天皇家は百済王家と関わるということです。

桓武天皇の母親は、百済系渡来人である和氏の娘、高野 新笠です。和氏は続日本紀においては、百済武寧王の子孫とされます。このことからも天皇家は百済と関わります。これは、続日本紀に記述があるということで誰も否定しない事実ともいえます。
本来は渡来人の娘が后になるなんてこともありえないし、その渡来人の娘の子供が王に即位するなんてこともはありえません。

今の天皇家はこの桓武天皇から繋がります。天皇家は秦氏、百済王家です。
桓武天皇の后たちは本来は全て渡来人の娘です。渡来人である藤原の娘や百済関係の氏族の娘です。
あたりまえの話ですが、渡来人の娘が后になれるわけありません。
そして渡来人の娘以外は早良大王の后です。桓武天皇を大王家の系図に組み入れています。
桓武天皇は秦氏の王であり、平安京は秦氏の本拠地です。

新撰姓氏録によれば、秦氏の祖とされる弓月君は、秦の始皇帝の三世の孫であるとされます。孝武帝の子孫であると称していますが、これは信じがたい話ですよね。

この新撰姓氏録は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑です。これもすでに記述してきましたが、嵯峨天皇は桓武天皇の皇子です。桓武天皇は秦氏の王であり藤原氏が関わることになります。

藤原氏が権力を握るようになったのは、秦氏と関わったからです。
この秦氏の謎を考えてみます。

天智系天皇である桓武天皇は秦氏の王である。


ウイッキペディア・・・秦氏
いくつかの説があります。ウイッキペディアを参照させてもらいます。
『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされるが、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって、真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。

秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)。

新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していたが、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である(平野邦雄・直木孝次郎・上田正昭)。

百済系渡来氏族。「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する(笠井倭人・佐伯有清)。

中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す(田辺尚雄)。

景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。(佐伯好郎)。

    ****************************
始祖、ルーツを有名な人物にするという操作はよくあることなので秦の始皇帝の末裔というのは確かに怪しい話ですが、これが真実なら、今の天皇家は秦の始皇帝から繋がることになります。桓武天皇は秦氏の王だからです。

応神天皇の時代、3世紀に渡来というのは真実ではないようにも思われますよね?だってこれ卑弥呼の時代ですよね。ですが、卑弥呼の時代にも内乱はありました。卑弥呼(台与)が、魏に朝貢したのも朝鮮半島の内乱が関係します。しかし百済は建国していませんよね。

日本書紀は卑弥呼の時代、卑弥呼を神功皇后として描いているので応神天皇の時代は3世紀になっていますが、本来はもう少し後、倭の五王の時代、高句麗の南下政策により、百済が滅亡の危機にあった時の話です。


秦の始皇帝の後胤だとするのであれば、この秦韓(辰韓)からの渡来という説がいいように思うのですが?そうであれば、5世紀末から6世紀はじめのころ秦韓(辰韓)が新羅に滅ぼされる時期に渡来して来たのだろうとも推測できます。

ただし、百済からの渡来であると明記がされていてこれは真実だろうと思います。

478年の倭王武の上奏文において「都督倭 百濟 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 七國諸軍事安東大將軍 倭國王」・・・と百済と秦韓の名がでてきます。秦韓と百済は異なります。

ウイッキペディア・・・辰韓
国が滅びるとき、この辰韓からも多数の人々が渡来してきたのではないのか?ですが秦氏ではない。

『後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、『北史』巻94新羅伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代〜前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。秦人は王にはならず、辰韓は常に馬韓人を主(あるじ)として用いており、これは代々相承(親から子へ受け継がれる)のものであった。


『三国志』魏書巻30辰韓伝

辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。

辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと称している。城柵を立て、言語は馬韓と同じではない。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と呼ぶ。
    ***************************
『後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、『北史』巻94新羅伝に記載があります。
後漢書が最も古い文献ですので、後の文献はこの後漢書を参照したと思われます。後漢時代は、時代的にも近いものであり真実味があります。

使われていた言語においても、秦人に類似しているため、秦韓と呼ばれたともされます。
この辰韓の国土の位置は、新羅と重なる位置にあります。「新羅」を国号にしたのは6世紀はじめ、503年とされ、この時代に朝鮮半島南東部にあったとされる、斯蘆国(後の新羅)が辰韓を滅ぼし新たに国を建てたいうことが推測できます。
秦の時代に圧政に苦しんでいた人々が朝鮮半島に移住し、秦韓を名乗ったとされるのは、これら中国の歴史書に記載があり有力な説ともされます。

古代から、朝鮮半島と、特に九州は海によって隔てられていますが、距離的には近く、交流は頻繁にあったとも考えられます。

秦韓の人々は祖国滅亡時に倭国に渡来したと考えられます。
これは隋書に記載があります。

上遣文林郎裴清使於國 度百濟行至竹南望羅國經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也
   ************************
聖徳太子の時代、小野妹子を隋に派遣し、その答礼として使節、隋の国書を持参していた裴世清の見聞録です。九州北東部、豊前地方と思われる地域に、秦王國があったとされます。その風俗が「華夏」、中国と同じだということで使者である裴世清は驚いています。

この九州に居住した一族が、新羅によって国を滅ぼされた秦韓から渡来した人々だろうとも思えます。

この滅亡時に倭国に多数の亡命渡来人がいただろうと推測できますが、秦韓と百済は異なります。だからこの説は正しくないようにも思います。

秦韓から渡来人ついて少し書いたのは、これまで大王家と渡来人の争いについて書いてきましたが、この秦韓からの渡来人は百済救援の朝鮮出兵に賛成の立場の人々だったと思われるからです。後の戦乱に大きく関わるようになると思います。ここは次回に続きます。


「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録決定・・・へ(^o^)丿のところで書きましたが、秦氏は倭の五王の時代の朝鮮半島の戦乱時に百済から渡来してきたのではないのかな?「百舌鳥」は本来は「百済 モズ」であり、百済渡来人が多く居住していたところです。

478年の倭王武の上奏文において「都督倭 百濟 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 七國諸軍事安東大將軍 倭國王」・・・との記述文です。
百済と秦韓は異なる国です。  

この478年は、おそらく倭王武が大王に即位した年です。倭王の五王の時代にはこれら朝鮮半島の国々はすでに倭国の影響下にありました。
438年、「宋書」夷蛮伝において、倭王珍は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求めています。この時期にはすでにこれら朝鮮半島の国々は倭国の支配下にあったと思われます。

任那に拠点を置き、朝鮮半島のこれらの国々をを支配下に置いていた時代に秦氏は渡来している。

475年、高句麗の攻撃によって王都漢城を包囲され百済は破れます。この時、一時的に百済は滅んだとされます。高句麗によって領土が占領された戦乱期に、倭国に多数の亡命してきたのでは?

秦氏が渡来してきたのは倭の五王の時代、これは百済が倭国の勢力下にある時代ともいえますが、高句麗の攻撃によって百済が滅んだ、この5世紀中頃であると思います。

渡来人が倭国に多く亡命する事態になるのは、いつの時代においても大きな戦乱が関係します。祖国を捨て渡来してきているということは、他国に侵略され国が亡ぶという危機にあったからです。120県の人民という表現は、広範囲の地域からの、かなり多数の亡命渡来人であったと思われます。
国そのものが渡来してきたような記述であり、これは国が滅ぶ時期にしかありえないように思う。

日本書紀は、桓武天皇(秦氏)に時代、秦氏、藤原氏(百済)によって改竄されている。それは天智から繋がる桓武天皇は秦氏の王であり、本来の大王家の人物ではなく、もちろん大王に即位することなんてできない人物だからです。

新撰姓氏録にある、弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝は信じていいように思います。新羅からの渡来という説がありますが、これは歴史の流れからもありえません。
来朝を妨害した新羅に対して兵を派遣してその罪を問うた、とも記述されています。この後に弓月君の子孫たちは秦氏を名乗ることになります。
新撰姓氏録は嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑です。
桓武天皇の皇子である嵯峨天皇は秦氏の王です。秦氏の根源に関しては嘘を書く必要なんてありませんので、秦氏は百済からの渡来人です。


秦氏は非常に広範囲に勢力地を広げ、巨大な勢力になっていました。この秦氏が、百済出兵に関して大王家と対立するようになりました。
それは、孝徳大王は、強大な唐とは敵対する道を選ばず、唐や新羅と結ぶ道を選んだからです。
倭国、唐、新羅の三国同盟です。
 

百済が、滅亡の危機にあった時に百済救援の出兵に協力したのはこの秦氏である。そして秦韓からの渡来人も秦氏に協力している。それは、秦韓を滅ぼしたのは斯蘆(後の新羅)だからです。
新羅が国号を「斯蘆」から「新羅」としたのは503年とされ、およそ150年位前の出来事であり、そう遠い昔の話ではありません。秦韓の人々にとっては、祖国を滅ぼした憎き新羅ということになります。


秦氏、祖先である弓月君は秦の始皇帝の三世の孫であるという主張が正しいものなら、今の天皇家は始皇帝と関係するということです。
それは天智系天皇である桓武天は秦氏の王だからです。秦氏の祖先を始皇帝に繋げる改竄をしている。本来は百済からの渡来人である。

この秦氏は、本拠地ともいえる山背国(今の京都)以外にも近畿周辺、近江、河内、摂津、大和などから中国、四国、東海、北陸にまでも進出し大きな勢力となっていました。
百済が滅亡の危機にあった時、亡命渡来人たちが協力を仰いだのがこの秦氏である。そして秦氏の皇子が天智です。

天智系天皇である桓武天皇の都であった平安京の地、山城はこの秦氏が開拓した土地であり本拠地である。この地を都としたのはもちろん、桓武天皇は秦氏の王だからです。遷都の理由はこれ以外はありえませんが・・・。
ですが本来は遷都なんてもちろんしていません。桓武天皇は渡来人である秦氏の王であり、本来の王ではありません。

ですので平安京は本来の都ではないのです。天智天皇の近江京も同様、渡来人の都です。
残念ながら最終的には渡来人の勝利となり、渡来人の都の方が本来の都のように書き換えられているのです。
歴史書を改竄し渡来人側の主張の方が正義となっている。

桓武天皇の平安京や、天智天皇の近江京が、本来の都だと主張しているのは、これら渡来人、秦氏や藤原氏です。
聖武天皇の平城京、さらに持統天皇の藤原京も同様です、これら秦氏、藤原氏が主張する方の都です。

本来は、藤原京は、万葉集にあるように高市大王の香久山京です。
そして、平城京も秦氏、藤原氏の都の名称です。本来は長屋王の奈良京です。

日本書紀や古事記、続日本紀は、秦氏、藤原氏が権力を握った時代に改竄された偽書です。
もう千年以上もこれら改竄された偽書によって私たちは騙され続けている。


百済が滅亡の危機にあった7世紀、実際には滅亡するということになるのですが、この時期にも多数の渡来人が亡命してきました。
その中には王族関係の人物も多くいました。この亡命渡来人たちが頼ったのが既に倭国において地盤を築いていたこの秦氏です。

亡命渡来人の中心人物が、百済最後の王である義慈王の王子とされる、豊璋や弟とされる翹岐です。中臣鎌足こと、百済渡来人です。この秦氏の王子が中大兄皇子、後の天智天皇である。

秦河勝の妹の孫、大甥にあたるのが天智である。高向王の子供の漢皇子というのが天智天皇の正体です。ただし、斉明天皇の子供ではありません。


百済救援のための出兵は強大な唐と敵対することになるため、大王家はもちろん蘇我氏、阿部氏、大伴氏など有力豪族も、百済側に付くことに関しては反対の立場であったのです。

聖徳太子(押坂彦人大王)の王子である山背大兄王の殺害、蘇我氏本宗家滅亡に追い込んだ乙巳の変、孝徳天皇と天智天皇との争い、天武天皇と天智天皇の争い。これらは全て、朝鮮半島出兵に関しての争いです。

多くの殺戮を繰り返し、百済救援のために、巨大な唐と敵対する政策を行った天智天皇は渡来人である秦氏の人物です。天智から繋がる桓武天皇は、本来の王家とは何ら関係のない人物である。これらの悪行を隠蔽するための日本書紀の改竄である。

その桓武天皇から繋がるとされる、今の天皇家は秦氏、百済王家ともいえます。

天智系天皇である桓武天皇は自らの即位の正統性を述べるために、本来の大王である天武と天智を兄弟とし、大王家に繋ぐ操作をしている。敵対していた天智と天武は兄弟ではありません。

そして天智の血を大王家に入れるための操作、天智の4人の娘を、弟である天武に嫁がせたという不思議なはなしです。本来の王家の系譜を改竄している。
日本書紀はこの桓武天皇の時代に改竄されている。




天智天皇は、中大兄皇子として知られますが、本来の名、諱は「葛城」です。
何故に、中大兄皇子の名が「葛城」なのか?皆様は不思議に思われたことはないでしょうか?
私は以前から大きな謎でした。だって中大兄皇子が葛城に関係するとは思えないからです。
「葛城」という有名な地名が存在するわけですから、この「葛城」は、地名にちなむものと思われるからです。

今回、秦氏のことを調べていてやっと謎解けました。秦氏の畿内においての初めての居住地が、葛城なのです。新撰姓氏録に記述されていますが、葛城地方、大和の朝妻の掖上です。

だから秦氏の王子である中大兄皇子の諱が「葛城」なのです。

神武天皇と崇神天皇は、ともに「ハツクニシラススメラミコト」とされ、初めて国を治めた天皇といわれます。
この初代神武天皇と10代崇神天皇の間の、2代から9代は欠史八代ともされ、後世に創作された天皇とされます。皇室の起源の古さと権威を示すための後の改竄です。讖緯説が有名で定説になっています。

これらの人物は、天皇としては存在していない人物ですが、ではまったく実在していない人物なのか?と問われるとそうでもないようにも思います。
この欠史八代の天皇たちは、葛城に関係する人物が多いことから、崇神王朝以前に葛城王朝が存在していたという説があります。

これ、秦氏の居住地が葛城であるので、問題とされているこの欠史八代の謎も解けるように思います。欠史八代の天皇たち(すべてではない)ですが、この秦氏の人物でもあるのでは?

秦氏による、ご先祖様を、本来の大王である、崇神天皇より早くに、この大和の地を治めていたとする改竄であるように思うのですが・・・?

つまり、蘇我氏(新羅)も、この秦氏(百済)も元は葛城氏配下の渡来人であるということです。
蘇我氏は、武内宿禰を祖とすることからも推測できますが、神武天皇というのはこの武内宿禰のことであり、葛城氏の祖です。
武内宿禰、名前は武内ではなく、武です。武の内宿禰(たけのうちのすくね)です。神様の武で神武天皇ということです。
神武の東征というのは、本来は4世紀以降における大和王権内の内乱(物部系と葛城系)のことです。

いままで何度も記述してきたところですが、初代の天皇を本来の大王家である物部系ではなく葛城系を始祖として描いているのはこれが理由のように思います。
古代の歴史は、2度変更されている。権力を握った蘇我氏、蘇我馬子と、秦氏の王である桓武天皇の時代に自家を大王家に繋ぐ操作がなされている。
秦氏、藤原氏は、葛城系である蘇我氏、蘇我馬子と聖徳太子が編纂した、蘇我氏の歴史書である天皇記・国紀を参照して、日本書紀、古事記を改竄している。本来「天皇」とは蘇我の王の呼称である。

秦氏は何故か歴史の表舞台から消えたとされますが、とんでもない消えるはずはない。秦氏というのは今の天皇家のことです。

平安京の大内裏(天皇の住居)は、秦氏の族長であった秦河勝の邸宅跡に建設されていたという伝説が存在します。
村上天皇御記
「大内裏は秦河勝の宅なり。橘はもとの太夫の宅なり。南殿前庭の橘の樹は旧跡によってこれを植う」

天智天皇はこの秦河勝の妹の孫であり、秦氏の皇子である。大王家の人物ではない。
つまり、天智系天皇である桓武天皇もまた秦氏の王であり、天智天皇は大王家の人物であり、天皇に即位したいうことはこの桓武天皇による改竄である。渡来人である天智は、もちろん王(天皇)に即位していません。
桓武天皇は天智が大王家の人物であり、天皇に即位したと改竄する必要があったのです。

秦氏は平安京造成に大きな役割を果たしたとされますがそうではない。
平安京こそ秦氏の都であり、渡来人の都である。天智天皇の近江京も同様。渡来人の都である。

最後に・・・
何度か書いてきましたが、何回も書いてやるぅぅぅ(ーー;)凸
殺戮を繰り返し、大王家を滅ぼした、渡来人を私は許しません。

有名な扶桑略記の記述です・・・
扶桑略記
 同月五日,大友皇太子,即為帝位。【生年廿五。】一云,天皇駕馬,幸山階鄉,更無還御。
永交山林,不知崩所。【只以履沓落處,為其山陵。以往諸皇,不知因果,恒事殺害。】山陵,山城國宇治郡山科鄉北山。

天智天皇は、戦争責任を問われ、暗殺されたのではないのだろうか?という記述です。
白村江の戦いの後、唐の使者である郭務悰は、使者といえないような人数、これは軍といってもいい人数をを率いて来日します。
唐の要求は、唐と敵対する政策を行った戦争責任者である、天智の首です。
扶桑略記の記述にあるように、靴だけ残っていたのは、処刑し遺体を郭務悰のもとに、運んだからです。
唐の使者である、郭務悰は天智の死を確認してから帰国しています。ざまあみろです。

日本書紀 天智天皇条
唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻

天武天皇条
元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。
      **********************
日本書紀は天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄されている。ですので、もちろん真実が語られているわけありません。郭務悰は、天智の死を告げられ、東に向かって三度頭を下げて哀悼の意を表したと記述されていますが、そんなわけありません。

唐の使者である郭務悰は、白村江の戦以前にも何度か倭国を訪れています。
これはいうまでもなく、唐と敵対するのではなく、同盟を結ぶように要求してきたのです。
孝徳政権は、もちろん唐と手を結ぶ道を選んでいます。倭国、唐、新羅の三国同盟です。

しかし、百済からの渡来人である天智天皇(秦氏)や藤原氏はクーデターを起こし唐と敵対するという政策を行いました。
唐の使者である郭務悰の要求は、いうまでもないですが、戦争責任者の追及です。天智天皇の遺体を確認してから帰国しています。
唐は朝鮮半島を手中にし、その後に倭国を支配下にするという計画だろうと考えられています。
強大な唐との力の差は歴然であり、本来は唐に攻め滅ぼされる危機にありました。
全く愚かな政策としかいいようがありません。


ここ・・・以往諸皇,不知因果,恒事殺害。・・・問題箇所とされているそうですが、ここは、もちろん天智天皇が、常に殺害をこととしてきたことの因果(暗殺された)だということを諸侯はしらないという意味です。

日本書紀は、この天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄されているので不都合な事実は隠しています。
720年に編纂されたとされますが、現存する最古の日本書紀はこの桓武天皇の時代のものです。この時代以前の日本書紀は存在しません。
それは、もちろん内容を秦氏、藤原氏の都合により変更しているからです。
古事記も712年に編纂されたとされますが、続日本紀において古事記への言及がないことが疑問視されています。
現存する古事記は14世紀のものです。
古事記と日本書紀は、ともに藤原の歴史書ともいえる続日本紀編纂後に改竄された歴史書である。

暗殺を繰り返してきたのは、渡来人である、天智(秦氏)や藤原氏の祖とされる藤原鎌足(百済渡来人翹岐)です。
対立していた、蘇我入鹿、蘇我蝦夷、 蘇我倉山田 石川麻呂、古人大兄皇子 、有間皇子や大王である孝徳天皇や山代王、斉明天皇たちも彼らによって殺害されています。
古代から続く本来の大王家を滅ぼしたのは、渡来人である。



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