7世紀、隋が滅び、この唐という巨大な統一国家が出現したことで、地続きにある朝鮮半島は戦乱時代になります。この戦乱が倭国にも影響することになります。
卑弥呼の時代もそうです。大陸での紛争ですが、島国である倭国にも影響を及ぼしている。
景初二年(238年)に、卑弥呼は魏に朝貢します。魏志倭人伝においては、何故この年に朝貢したのかの記述はされていません。
主な理由と思われる、魏が建国した年なので、朝貢したわけではありません。卑弥呼が王に即位した年であるので朝貢したということでもありません。
何故に卑弥呼は魏に朝貢したのかを推測するのは、魏志倭人伝の謎を解くことにおいては重要なことです。
卑弥呼が朝貢した時期は、倭はどういう状況下におかれていたかを考慮しなければ、魏志倭人伝の謎を解くことはできません。
この時代、朝鮮半島で勢力を誇っていたのは、遼東地方を本拠地とし、楽浪郡や帯方郡を支配下においていた公孫氏です。
魏書 東夷伝韓条において、韓や倭はこの帯方郡に帰属したと記述されています。
卑弥呼が朝貢した年、景初二年の238年に、この公孫氏と魏の争いが戦争に発展します。結果、この遼東公孫氏は滅亡しました。
卑弥呼が朝貢した時期には、公孫氏は本拠地の遼東の地で籠城し瀕死の状態でした。
遼東地方と帯方郡は遠く離れていますので、倭が帰属していた帯方郡はもうすでに魏の支配下にあったと推測できます。魏は倭国についてはあまり詳しくは知らなかったようなのですが、帰属していという帯方郡には倭に関する情報がありました。
魏は倭国を味方にしようとしたのです。
三国志、魏書 東夷伝韓条・・・是後倭韓遂屬帶方
倭国は公孫氏に帰属していたとされます。当然ながら交流もあるわけで、公孫氏は、帯方郡に命じて倭国の調査をしているはずです。
この推測ができれば、魏志倭人伝の謎ときも難しいものではありません。
魏志倭人伝は卑弥呼朝貢後の魏の使者たちの紀行文と、それ以前に帯方郡が倭国(北部九州)を調査した時の文献が参照されている。
この時代が異なる文献を、時代の変化を考慮せずに一つに纏めたため矛盾するものになっている。
公孫氏の領地、朝鮮半島の北西部は魏が治めることになりました。もちろん倭が帰属していた帯方郡も魏の支配下になったということです。
魏は戦争に勝利し、領土を広げることができる結果となりましたが、それによって新たな問題が生じました。
朝鮮半島における他の国々、高句麗や南の韓の国々と領土を接することになり、軋轢が生じます。
三国時代、魏、呉、蜀のうち、蜀漢は衰退していましたが呉はまだ健在です。この呉は、公孫氏が滅んだ後になってはしまいましたが援軍を送り、魏と争っています。呉はこの時期に遼東半島を占拠しています。
敵の敵は味方になります。遠交近攻という戦法です。
魏もこの戦法を用いたのです。朝鮮半島を手中にするため、魏は倭国を味方にしようとしたわけです。朝鮮半島南部の韓の国々の反乱を抑え支配下にするために、倭を利用しようとしたわけです。
卑弥呼が朝貢した理由、それは・・・「お前たち倭は我ら魏の支配下になったわけであるので朝貢に来い」・・・という、いわば命令があったので、卑弥呼は朝貢したのです。卑弥呼の朝貢はこの朝鮮半島での戦乱が関係する。
卑弥呼が朝貢し、魏から親魏倭王の金印や銅鏡100枚などが送られています。
「親魏倭王」とあるように、魏は倭と同盟関係を結すぼうとしたわけです。倭が韓の国と手を結ぶことになると魏にとっては厄介な問題になるからで、先手を打ったともいえる良い判断です。
「親魏倭王」の「倭」の文字は卑弥呼の「卑」の字と同じく悪字ともされまが、人偏であるのでそうとも言えないともされます。
この倭国とは、もとは西暦107年に後漢に朝貢した北部九州にある筑紫平野を統一した帥升の国のことです。
そして後に、黄幢(軍旗)も送られていることからも判断できますが、これは朝鮮に出兵しろとの命令なわけです。
卑弥呼は南の狗奴国との戦いを報告しますが、これは狗奴国との戦いがあるので朝鮮に出兵ができませんとの言い訳です。
結局、卑弥呼(台与)は出兵することになるのですが・・・(*^▽^*)
魏志倭人伝の謎はいづれ書きます。
280年、魏から政権を引き継いでいた晋(西晋)は呉を滅ぼし統一王朝が誕生することになります。しかし不安定な状態が続き、この西晋は滅びました。その後、東晋として復活するのですが、華北地帯は、五胡十六国時代の戦乱の時代となります。
この時代に、晋の弱体化により朝鮮半島において台頭してきたのが高句麗です。高句麗は、勢力を広めるため南下します。楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も手中にします。
4世紀になり、馬韓諸国のなかの伯済国を母体として百済が、辰韓諸国の地においては新羅が台頭してきます。
高句麗の南下政策により、これらの国々、百済や新羅と対立するようになります。
広開土王碑文にあるように、特に百済とは4世紀後半から5世紀にかけて激しく争います。百済が救援を求め、それに応じたのが倭です。
倭の五王の時代には、倭国は朝鮮に出兵しています。百済は倭の支配下にあったといってもいいくらいです。百済渡来人により改竄された日本書紀が、倭の五王を無視するのはこれが理由のように思います。
475年高句麗の攻撃により、百済は滅亡します。
弱体化していた百済が復興することができたのは、倭国の力です。滅んだ百済を復興したのは倭国です。ですので、復活百済は倭国の一部です。
倭の五王の上表文、朝鮮半島における前方後円墳の出現、任那日本府の問題からも推測できます。倭国の墓制である、前方後円墳が作られていることからも、卑弥呼の時代以降は、朝鮮半島南部は倭の支配下にあったのです。
復活百済は、朝鮮半島における倭国といってもいいくらいです。
この百済が滅んだ時期に、渡来してきたのが秦氏である。
ウイッキペディア・・・
『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされる。
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「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できるという説は決定的な論拠といっていいと思います。
弓月君は、百済の120県の人民を率いて帰化したと、日本書紀に記述されています。この表現は、広範囲の地域からの、かなり多数の亡命渡来人であったと思われ、まるで国そのものが渡来してきたような記述です。
これは国が滅ぶ時期にしかありえないように思います。
日本書紀は卑弥呼の時代、卑弥呼を神功皇后として描いているので応神天皇の時代は3世紀になっていますが、本来はもう少し後、倭の五王の時代、高句麗の南下政策により、百済が滅亡の危機にあった時、475年頃の話です。
この秦氏が、勢力を拡大し、そして新たな渡来人を取り入れ大きな勢力になっていたのです。
この秦氏の本拠地が、「やましろ」の地です。この「やましろ」に都を移した、天智系天皇である、桓武天皇は秦氏の人物です。
渡来人、秦氏の本拠地である、「やましろ」に使用されている文字の記述は、古事記では、「山代」、日本書紀では、「山背」に統一されています。そして794年に「山城」に変更されたとされます。
この「やましろ」は、本来は奈良盆地の山の向こう側の意味であり、「やまのうしろ」の「の」の文字が取れ、「やまうしろ」から「やましろ」に転化しとされます。本居宣長の説であり、そのとおりのように思います。
つまり、本来は「山背」、山の背後の意味が本来のものであると思えます。
これは、奈良側からの視点の言葉であり、渡来人側からすればよい言葉ではありません。
ですので変更しているのですが、変更したため矛盾がおきている。
実はこの3つ中で、一番良い文字といえるのは、「山代」なのです。
「山代」・・・古代、王が統治することを、シラス、シロス、シロシメスとい言葉が使われています。
この「山代」という文字は、王が統治している土地であるという意味になり、渡来人が権力を握り王座を簒奪し、この「やましろ」の地を都とした時代に書き換えられた文字である。
渡来人たちは本拠地の呼称を、「やまのうしろ」からの転化ではなく、初めから「やましろ」だったとしたいわけです。
古事記は、712年に編纂されました。日本書紀は720年です。
たった八年で、文字が変わっているのもおかしいですが、ふつうは後に良い文字に変更すると思われるからです。
古い古事記の方に、「山代」の文字が使われていて、日本書紀に「山背」の文字が使われているということは本居宣長の説とは矛盾します。
つまり、どういうことかというと、本来は古事記が最後に作られているという可能性があるということが推測できます。意図的に変えている。
古事記は、続日本紀において古事記への言及がないことが疑問視されていて、古事記偽書説があります。
古事記は、続日本紀(797年編纂)よりも後の時代に編纂された可能性があるとの指摘です。一番古い古事記にこの「山代」の文字が使われているにはおかしいともいえます。
私は、古事記、日本書紀、続日本紀はほぼ同じ時期に編纂されているよう思う。
それは、歴史を改竄したからです。変更した内容を矛盾しないように統一しなければならないからです。
続日本紀が797年編纂されています。これは藤原の時代、藤原の都合で書かれた、藤原の主張する歴史書ともいえます。
この藤原の歴史書に合わせて、まず日本書紀を改竄し、その後に古事記も内容を変更している。
文武天皇以降、大王家を滅ぼし藤原が天下を取った時代のものです。ですので、歴史書を作る必要があったのです。
我々の方が正統であると主張している、この藤原の歴史書の内容に合わせる
必要があるからです。藤原の関係する人物の方が正統であると改竄している。
この続日本紀の編纂時に、これら3つの書の内容が矛盾しないように、日本書紀や古事記も同じ時期に編纂、・・・ではなく改竄している。
797年に、続日本紀を編纂し、その内容に合わせるように日本書紀を改竄し、おそらく最後に古事記を改竄したと思います。
794年に「山城の文字に変更されたとさえますので、続日本紀の後なら、「山城」を使えばいいのですが、そうすると後の改竄がばれてしまうので使えません。ですので、「山背」を使えばよかったのですが、本来は「山代」だという主張をしたかったのだと思いますが、古事記にこの「山代」を使ったばっかりに矛盾することになっている。
続日本紀を作りながら、日本書紀や古事記に矛盾する箇所がないように編纂しなおしている。
編纂したのは、渡来人である秦氏や藤原氏である。
現存する古事記は、14世紀のものであり、この平安時代に、秦氏、藤原氏の手で作られたものを参照して編纂されている。古事記もまた偽書です。
聖徳太子の王子である、山背大兄王は、いうまでもなく、本来は山代大兄王です。山代大兄王に関しては、悪い文字の方に変更しています。
聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の王子であり、同じ名前をもつ山代王のことです。
山背大兄王暗殺を、蘇我入鹿のせいにしたのは、対立していた、秦氏、藤原氏である。暗殺したのは、秦氏、藤原氏である。
この押坂彦人大兄皇子こと、日十大王の後胤と対立し、王座を簒奪したのが渡来人である、秦氏や藤原氏である。
今回は、「殺戮の時代・・・丙辰の乱」、「談山神社創建の謎と中臣鎌足」から続いての話、大王家と渡来人との争いの予定でしたが、長くなるの次回に書きます。
写真は、国営平城宮歴史公園です。
第一次大極殿(本当は第二次)や朱雀門はすでに再現されていますが、この平城宮跡は、国営平城宮歴史公園として新たに整備しなおしています。
しかし、今再現しようとしている宮は、渡来人である藤原氏の方の宮です。
無能な歴史学者のせいでとんでもないことになっている。
本来の大王家の宮は、平城宮ではなく奈良宮です。
奈良宮は長屋大王の宮である、平城宮とは対立する藤原氏の宮である。ですので、呼称に関してもこの都を平城京と呼ぶのは良くない。
本来はもちろん、奈良京です。
藤原の宮である平城宮は、奈良宮の一部であり、本来の王の住まいではない。
「藤原宮」と「平城宮」は、大王家と対立していた藤原氏の宮である。
この呼称は使用すべきでない。
なんども書いていますが、王の宮を臣下の名である「藤原」なんて名付けるはずはありません。
改竄された日本書紀や古事記を正史とする限り真実は見えてこない。
本来の大王の宮ではない、そして大王家を滅ぼしたといえる藤原氏の宮である、平城宮を復元しようとしています。
「藤原宮」の名称で世界遺産に登録しようともしています。間違っています。
本来の「奈良宮」の場所にはもうずでに多くの建物が立ち復元は不可能な状態です。
長屋王邸とされる場所から出土した木簡の内容をみると、長屋王は大王であったとの推測は容易です。木簡の「長屋親王」の記述は、長屋王の父親である高市王子は大王に即位していたとの記述です。もちろん長屋王も大王でした。
高市大王や長屋大王が王だとすると、この時代に天皇だとされる持統天皇や元明天皇は本来の王ではありません。
持統天皇の宮である、藤原の宮、元明天皇や聖武天皇の宮である平城宮は本来の大王の宮ではなく藤原氏の宮です。
本来は、万葉集、柿野本人麻呂の挽歌にあるように高市大王の香久山宮です。
長屋王の宮は、もちろん奈良宮です。
万葉集 巻三(328)
あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
「奈良京」と書かれた木簡が発掘されています。
奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などと表記されているとされますが、「平城」は「なら」とは読めません。
この長屋大王と対立し、殺害したのは渡来人である藤原氏である。藤原氏にとっては都合の悪い事柄です。大王家を乗っ取ったため歴史を変える必要があったわけです。歴史は勝者の歴史です。残念ながら最終的な勝者は藤原氏です。
もうずっと藤原氏によって改竄された歴史によって騙され続けている。
藤原氏により改竄された、偽書である日本書紀・古事記を正史として扱ってきたためとんでもないことになっています。
現天皇家と関わることになりますので、いまさら間違っていたとはできないかもしれませんが。
古代の大王家を滅ぼし、歴史を変えた秦氏、藤原氏を私は許しません( ̄ー ̄)凸
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