聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

伊香色謎命と伊香色雄命

2010年10月21日 | 卑弥呼は、伊香色謎命


伊香色謎命(古事記は伊迦賀色許売命)は、孝元天皇の妃、でもあり、また開化天皇
の皇后でもあります。崇神天皇のお母さんです。
父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。
同母兄に伊香色雄命がいます。天孫本紀では、伊香色謎命の弟です。
この伊香色雄命は、神班物者に任じられ、祭祀をまかせられています。
また、孫には葛城氏・蘇我氏・紀氏・巨勢氏・平群氏などの中央諸豪族の祖とされ
ている武内宿禰がいます。
物部氏の繁栄は、この女性からともいわれています。
この時期、これほど重要な女性が他にいるでしょうか?

卑弥呼は巫女的な性格を持つ女性だろうとされています。
日巫女、日御子、姫御子などといわれます。しかし卑弥呼は王です。親魏倭王とされる
この女性はもちろん身分の高い女性のはずです。

九州倭国が東進していき、吉備国を建国、その後畿内に入り、河内から奈良盆地に進出
したのが、河内物部氏。
魏志倭人伝の邪馬台国は、物部氏の王国の時代だと思います。纒向遺跡は、物部氏の
王都です。卑弥呼も台与も王とされているわけですから、その事績が残っていなければおかしいはずです。
ですが、記紀はこの物部氏の事績を消し去っています。
「天皇記」「国記」は聖徳太子と蘇我馬子が編纂したといわれます。この物部王国の事績
を消し去ったのは、対立した蘇我氏、蘇我馬子かもしれません。

すでに畿内に進出していた海神族とも出雲ともいわれる勢力と、この九州倭国から東進
してきた勢力との争いが倭国大乱だと思います。

物部氏から、欝色謎命と伊香色謎命の二人の女性が、孝元天皇の妃となっています。
伊香色謎命はまた、開化天皇の皇后でもあります。
開化天皇と伊香色謎命との子供の崇神天皇に、孝元天皇と鬱色謎命との子の、大彦命の
娘の御間城姫を崇神天皇の皇后にしています。王の外戚となって権力を保持したので
はなく、この時期にはもう物部氏の時代です。
大和には、葛城王国といわれる既存勢力あり、その戦いにおいて、敗北した方が
女性を差し出したのでは?という説があります。
ですが、これは逆だろうと思います。これは後の藤原氏と同じで、王家と姻戚関係を結
んで、権力を奪取したのではないでしょうか。

伊香色謎命は何故か、開化天皇6年に皇后になっています。開化天皇は庶母を皇后とし
たということです。えらく不思議なとこですが、この時ではないでしょうか?
物部氏が権力を手中にし、卑弥呼が共立されたとするのは?
伊香色謎命女王は、大和の王と結びつき、開化天皇時に女王となり、畿内の勢力を
統一。
崇神天皇御世に畿内から吉備、丹波、北陸、尾張、東海、にいたる王国を樹立した。

四道将軍(崇神天皇10年に、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を
西道に、丹波道主命を丹波に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた)

倭人伝には、卑弥呼の死後、男王をたてたが国中服せず戦乱があったように記述され
ています。13歳の台与共立後に、国を治めたのは大新河命(彦坐王)です。

卑弥呼は、伊香色謎命。台与は気長足姫尊。男弟は伊香色雄命。
卑弥呼崩御後の男王とは伊香色雄命の大新河命。彼が彦坐王。崇神天皇は開化天皇と同一人物。邪馬台国は伊香色雄命王国。
魏志倭人伝には、この・・・「名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大、無夫壻。」
一文があるので、この女性を卑弥呼とする人はあまりいないように思いますが、
この女性しかいないようにも思います?
伊香色謎命は“イカガシコメ”と読まれますが、そんなことは絶対ない“イカガシキメ”
のはずです。卑弥呼は、伊香色謎命、亦の名カムオオイチヒメ。ですが卑弥呼は二人いる。景初二年に朝貢した倭の女王は、台与。この名はもちろん本当の名ではない。

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「倭國者、古倭奴國也。倭國之極南界也。

2010年10月18日 | 魏志倭人伝の謎



何度もいっているとこですが、大きな平野に大きな国が出現するはずです。
北部九州の地形だったら、大陸との位置関係を考えても筑紫平野(佐賀平野も含む)
と福岡平野ですよね。
それで、倭人伝において、福岡平野の大国は奴国としたらですよ、筑紫平野は何国なの
でしょうか?
記述がないのが不思議なのですよ。九州説なら問題ないのですが・・・

つまり九州に「倭國」という国が存在したのでは。

「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」

この大国の倭国と奴国で、倭奴國。その他の小国も含めるので、倭國王帥升等になると
考えています。ですので生口も多いわけです。
もちろん金印も「倭奴國王」。多分この時(57年)には、すでに北部九州の国々は倭国
の勢力下に統一されていたのだと思うのですが?

倭人伝・・・女王國より以北~の国名だけの小国の情報は、おそらくこの57年の倭奴國の朝貢時のもの考えています。
「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。」

北部九州の国だろうと考えられる、対海国、一大国、末盧国、奴国、不弥国の
副官は四カ国とも卑奴母離です。つまり同じ勢力下にあると考えられますよね。
(官名の記載ない末盧国はもとから倭国の支配下にあった国)

わたしは、もともとは官だけで、副なんてなかったのだと思います。
支配する側が、これらの国々の行政に介入する目的で設置した官だと思うのです。
奴国には卑奴母離がおかれているので、支配される側だと考えています。
それで、伊都国にはもちろん一大率ですよね。わたしは、軍隊だと思うんですよ。
この一大率は、主に大国の奴国に対するものだと考えています。

『北史』、『隋書』 倭国伝・・・
「安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國」

『旧唐書』倭国・日本国伝・・・
「倭國者、古倭奴國也。」(倭国とは、古の「倭奴国」なり)

この「倭國王帥升」の王の名前は“帥”で、升は尊称だと考えています。北部九州筑紫平
野にあった倭国の王。ですから帥升等で問題ないわけです。
七支刀の銘文にある「倭王旨」や、「倭の五王」といわれる漢字一字の王も、遣使の記録が、
記紀に見られないように、もしかすればこれらの王は九州倭國の王だという可能性が
あるのではないでしょうか?すべて畿内の政権からの朝貢じゃないような・・・?
好太王の碑文にあるように、この時期朝鮮半島に進出していたのは九州の倭国で、
畿内の政権ではないと考えています。

「倭」という文字は「ヤマト」とはよめません。これは畿内の王権が、中国や朝鮮の文献
にある九州の「倭」と畿内の「ヤマト」との呼称はもちろん事績を統一するために、倭を
ヤマトと読ませた。もともとは日本列島全体を指すものではなかった。

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短里は帯方郡の韓人の尺度

2010年10月18日 | 魏志倭人伝の謎


九州島内だろうと考えられる、不彌國までの行程記述で、問題視されているのは
ここですよね・・・
「東南陸行五百里、到伊都國」

で、末盧國が、唐津で、伊都國が前原だとすると、方角が違うし、地形から判断しても、
また、伊都国で滞在するのなら、ここまで船できたらいいわけですよね。
陸行とは考えられないわけですけど、陸行とされています。

そんで、筑紫平野の倭国と、福岡平野の奴国が対立していたら、倭国が、中国にむかう時、
北部九州西側の複雑な地形を考えると、当然、この末盧國から東南の佐賀平野に出る道
は存在していたようにわたしは思います。

で、この行程が魏の使者の報告によるものとしたら、梯儁と張政の二人の報告書
が、存在するわけですよね。

そんで、問題はこの・・・「郡使往來常所駐」だろうと思うのです。

つまり使者が来た時は、いつもここに滞在するというわけでしょう。
で、梯儁は倭国にいって倭王に会っています。
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・倭王因使
上表答謝恩詔」

するとね、一方(梯儁)が、伊都国に寄らず、末盧國から東南に貫けるこのルートを
佐賀平野まで、陸行していたとしても、間違っている?と判断するの可能性があるのでは?

それで、張政は、倭王にあっていませんよね。「黄幢」を難升米に渡しています。
おそらく伊都国から出ていないように考えています。

倭王に面会した梯儁は、末盧国に上陸してから東南に陸行して佐賀平野にはいり倭王の
宮にむかった。この「東南陸行五百里」までと「自郡至女王國萬二千餘里」は短里。
この短里ですが・・・
中国で使用例がない?もちろん倭では使われていないとすると、この短里は、おそらく
韓人の使用していた尺度という可能性があるのでは?

標準里では説明できない箇所・・・「始度一海、千餘里至對馬國」・・・など。
韓伝においても・・・「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。」
などがあるように思います。漢、魏尺の一里は、およそ435m、千里は435kmにも
なります。
もちろん、中国の文献に短里が使用されている例があるのなら、問題ないので
すが・・・。

伊都国のところに・・・・「郡使往來常所駐。」こう記述されています。
おそらく帯方郡からの使者は、彼ら魏の使者が来る以前から往来があった。
この使者は韓人。短里は韓人が使用していた尺度なのでは?
魏の使者は、帯方郡にあるこれら韓人が集めた倭国にたいする情報をとりこんで、
報告書として纏めた可能性があるのでは?

さらに、官名や戸数、方角も全て韓人が集めていた情報なのでは?
島の面積、(対馬國の方四百余里ばかり。一大國方三百里ばかり。)などや、
倭の地・・・周施五千余里ばかりなり。などは、魏の使者が訪れたときに計測したとは
到底思われない。戸数についても調べられるはずはない。
ですので、倭に関することに事前に調べてあった資料が帯方郡に存在したのでは?

魏が帯方郡をおいたときから、朝鮮半島の東南に位置する島(日本列島)の「倭」につい
ては調べられていたはずです。また魏から倭国へ使いを出すにあたっては、当然、帯方郡
に、倭国まで案内するように命令があったはずですし、随行して倭国まで案内したのは属
国でもある、海を挟んで九州島と近距離に位置する韓の国々の人々なのではないでしょう
か。

この時代、朝鮮半島南部の国々は大きく、馬韓、辰韓、弁韓の三韓に分けられて
いました。三韓の一つの弁韓国は鉄の産地であり倭との交流も多くあったようです。
当然これらの国々は、倭についての情報を多く持っていたはずです。帯方郡も彼らから
多くの倭についての情報を得ていたのでは?
この情報のうちの1つに、末盧國(唐津)から、・・・「東南陸行五百里、・・・」という行程情報が
存在していたように思うのですがどうでしょうか?





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