聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

倭国、唐、新羅三国同盟と孝徳大王

2020年03月02日 | 日本書紀の謎


日本書紀は、720年に編纂されたとされ、今年は編纂1300年の記念の年になります。しかしながら今に残る日本書紀は、平安時代のものです。
それは、大王家と対立していた渡来人、秦氏の王である桓武天皇時代に、この秦氏や藤原氏の都合により内容を変更したからです。古事記もまた後の時代に改竄されている。

古事記・日本書紀は正史とされますが、歴史書は信用できません。
この改竄された箇所を暴いてやる(*^▽^*)凸
特に大王家との権力争いにより古代から繋がる王座を簒奪したという事実と、自らの正当性を主張するための歴史の改竄である。

朝鮮半島の動乱に、唐という巨大な国家が関わることになり、倭国にも大きな影響を及ぼすことになりました。この時代は戦乱の時代です。
孝徳政権は、唐と手を結ぶ方針だったのです。強大な唐と敵対する判断をするはずはない。倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。

結果は倭国内の渡来人との争いに発展することになります。秦氏の協力のもと、百済復興を画策する百済渡来人勢力は巨大なものとなっていました。

対立は孝徳政権以前からです。聖徳太子(押坂彦人大兄皇子)の王子である山背大兄王(山代王)の暗殺事件。そして645年の乙巳の変も、蘇我氏の専横が理由ではなく、唐と敵対することになる百済救援に対して反対の立場であった蘇我氏との対立であり、原因は全て朝鮮半島出兵に関わることです。

「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところでも記述してきましたが、倭国、孝徳大王は唐と手を結ぶ方針を選択していました。当然ながら百済復興を願う百済渡来人勢力とは対立するようになり、戦乱へと繋がります。
663年の白村江の戦に出兵するまでの期間に、大王家と渡来人勢力の間で大きな戦乱が起きている。


今回は「殺戮の時代・・・丙辰の乱」「談山神社創建の謎と中臣鎌足」からの渡来人との戦乱の続きになります。
百済救援のために出兵した、白村江の戦いに関することです。これは王座を簒奪した渡来人勢力が行ったことです。

孝徳大王は、この渡来人との戦乱に備え、飛鳥京を守るために大規模な土木工事を行い、飛鳥京の防御を固めました。
この孝徳大王や、後の天武大王が、奈良盆地の中央部ではなく、南に位置する飛鳥の地を都としたのは、複数の丘陵に囲まれ、特に北からの攻撃に対して防御しやすい地形だったからです。そう、敵(秦氏)の本拠地は山城の地です。

新たに石塁で守られた後飛鳥岡本宮を建設し、多武峰にも新たに宮を造っていました。これが斉明天皇(本来は孝徳大王)の宮とされる両槻宮である。
多武峰の山頂付近に石垣や高殿を築いたととされる、この高殿こそが、両槻宮のことである。
今もこの石垣は山頂に残っています。この石垣とは、もちろん城を守る石垣であり、斉明天皇の両槻宮とは、戦乱に備えての避難用の山城である。

しかし戦乱の結果は、飛鳥京を守ることができず、避難用に作っていた多武峰の両槻宮に撤退することになります。ここでも戦いは起き、この地で、孝徳政権において左大臣だった、本来の中臣鎌足が戦死している。
戦死した地に、葬ってお墓を作っているのです。

お墓は両槻宮の傍にあることからも、この地で戦死したと推測できます。
この中臣鎌足を祀るためお寺が、妙楽寺(後の談山神社)である。

談山神社本来の発祥の由来は、この655年か、656年に、斉明天皇(本当は孝徳大王)が多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたというのが発祥の由来であり、この時にこの城で、孝徳大王と側近だった本来の中臣鎌足が渡来人との戦争に関しての軍議をおこなったというのが談山の名の由来である。
654年に孝徳大王は崩御したとされますが、これは事実ではない。

藤原不比等は後に中臣氏と関係を持つことになります。中臣氏の本拠地は山科ということから、山城や近江を勢力地とする渡来人勢力の中に取り込まれる状態、つまり支配下にありました。
この時に、中臣鎌足の名を騙って系譜を改竄している。それは、渡来人であることを隠蔽するためです。
中臣鎌足と渡来人である藤原鎌足は別人です。

さらに孝徳大王は、避難用に吉野にも宮を建設していました。これが、吉野宮滝宮です。



飛鳥から吉野に行く場合は、稲淵、栢森から妹坂(芋坂)峠を越えて吉野に出るのが便利でいいのですが(実際に持統天皇はこのルートを使いなんども飛鳥と吉野を往来している)、この吉野宮滝宮は何故か峠を越えて吉野川に至り、そからさらに東に4km程の位置になります。たしかに景色のいい場所であるのですが、少し遠方です。

これは、多武峰を越え東部に脱出し、そこから南に向かって山を越え吉野に逃れるルートを作ったからです。
吉野にも宮を造ったのは避難場所であるわけで少しでも遠方に造ったのです。

残念ながら孝徳大王は、明日香での戦いに敗れ、多武峰の両槻宮へ、そして吉野宮への逃走ということになりました。しかしここ吉野宮にも戦地になり追手がせまりました。
大海人皇子(天武)は、この吉野宮よりさらに東に逃亡しました。この伝説は今も残ります。
写真は吉野宮より東に7km程ですが、大海人皇子が逃れ村人がかくまったとの伝説が残る場所にある神社です。おそらくこの伝説はこの戦乱時のものです。国栖奏で有名な吉野町の浄御原神社です。天武天皇を祭っています。





国栖奏のこと
大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に見方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて、国栖の翁よ、と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月十四日に天武天皇を祀る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。
                           吉野町観光課

大海人皇子はなんとか逃避することができました。壬申の乱へと繋がります。
白村江の戦の敗北により渡来人勢力は弱体化しました。この機会をとらえ大王家、大海人皇子は戦いを挑んだのです。
多くの豪族は大海人皇子側に付き、渡来人勢力と戦いました。
これが壬申の乱の真実です。


孝徳大王たちは、吉野川(紀ノ川)を使い、紀ノ國へ逃れることになります。孝徳大王自身は、唐との交渉ということもあり、阿部氏の領地である難波宮を建設していてひとまずはこの地に逃れました。
孝徳大王は、利便性を考え阿部氏の本拠地でもある難波にも宮を建設していました。
しかし難波は都に近く決して安全とはいえません。子供はさらに安全な紀南の地に避難させることになります。


倭国は百済救援のための出兵はしていない。出兵したのは百済渡来人たちである。倭国、孝徳政権は唐、新羅との三国同盟を結んでいる。
663年、渡来人勢力による白村江の戦に出兵するまでに、孝徳大王と渡来人の争いがおきている。この時孝徳大王は殺害されたのです。

この事実が変更されている。渡来人側の勝利により、百済討伐の軍が百済救援の軍に変わってしまっている。
660年百済は滅亡したとされますが、そうではない。この後、倭国(日本)は唐を敵に回し朝鮮に軍を三度派遣したとされます。百済の役です。
第一波は661年、第二波は662年。そして、天智2年(663年)に白村江の戦いで敗れます。
しかし、これは百済復興を目指す渡来人が行ったことです。この時代、戦乱を逃れるために、百済から亡命してきた人々が多数いました。
この渡来百済人と、以前から渡来していた渡来人が百済復興の兵をあげたのです。

百済救援のための出兵は、この時に大王だった孝徳大王が行ったことではなく渡来人勢力が行ったことです。
百済救援の出兵を実行した天智天皇は、百済からの渡来人である秦氏の王子です。百済復興を目指す亡命渡来人たちは、倭国で基盤を築いていた秦氏を頼ったのです。秦氏の本拠地である山城の地に都を移した、天智天皇から繋がる桓武天皇は秦氏の王です。
桓武天皇以降は、藤原氏の娘との皇子が天皇に即位することになります。藤原摂関政治です。

秦氏は壬申の乱以降、表舞台から消えてしまったとされますが、そうではありません。いまの天皇家とは秦氏のことです。
天智系天皇である桓武天皇が、歴史を変更しなければならない大きな理由です。

実際に朝鮮半島での戦乱になった、663年の白村江の戦までの間の大王家と渡来人との争いの経緯をを続けて考えていきます。
難しい推測なのですが・・・。


この動乱期の日本書紀の不思議な話について・・・

ウイッキペディア・・・阿倍 比羅夫
斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。

四年春正月甲申朔丙申、左大臣巨勢德太臣薨。夏四月、阿陪臣闕名率船師一百八十艘伐蝦夷、齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降・・・五月、皇孫建王、年八歲薨・・・絞有間皇子於藤白坂。是日、斬鹽屋連鯯魚・舍人新田部連米麻呂於藤白坂。

     ************************
もう何度も記述してところですが、阿部氏は孝徳政権における重要な豪族であり、秦氏、藤原氏にとっても大きな反対勢力でした。
日本書紀、斉明天皇条には、実に11回もの蝦夷記事があり、そのうちの6回は阿部臣、阿倍比羅夫の蝦夷討伐の記事です。
阿部氏が戦ったのは渡来人である。それを蝦夷討伐の記事に変更している。

ここは、私の推測ですが、間違ってはいないように思うのですが・・・。
この時期(朝鮮半島動乱期、大王家と渡来人との戦乱期)に、関係のない北方の蝦夷討伐に軍をだすなんてありえないように思います。朝鮮半島に出兵するための軍事力が必要な時期に、蝦夷討伐なんてありえません。

この話は真実ではない。蝦夷討伐ではなく、九州における渡来人勢力との戦いを記述していたものを変更しているように推測します。

「秦の始皇帝と天皇家、秦氏の謎」のところで記述しましたが、この九州の渡来人勢力とは、新羅によって国を滅ぼされた秦韓から渡来した人々だろうとおもいます。隋の国書を持参していた裴世清の見聞録にある、九州北東部、豊前地方にあった秦王國です。新羅憎しの秦韓から渡来した人々はもちろん百済救援に賛成の渡来人側の勢力です。

つまり孝徳大王の命のもと阿部氏による九州の渡来人勢力を制圧し孝徳大王は九州に移ったのだと思います。
孝徳大王は畿内が渡来人勢力にのため危険な状態にあったため九州の地に逃れることになる。

「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところで、書きましたが、この斉明天皇四年とは、本来は662年のことです。この年に大きな戦乱となっている。
同じ内容ですが、重要ですのでもう一度書きます。

ウイッキペディア・・・巨勢 徳多
斉明天皇4年(658年)1月13日左大臣在任中に病没した。冠位が大繍であったことが子孫の薨伝で知られる。
『公卿補任』では没年齢を66歳としているが、大化5年(649年)時には50歳としており、矛盾している
   ***********************
この巨勢 徳多 は孝徳の側近なので、死亡した年齢の矛盾点から改竄した箇所を推測してみます。この巨勢 徳多も王家と百済渡来人の争いの中亡くっている。

大化の改新・・・この「大化」は日本最初の元号であとされますが、そうではない。大化なんて年号はありませんでした。最初の元号でもないし、「大化」ではなく「大和」だったのではないのか?孝徳大王の元号はこの「大和」である。国名を大和にし、年号も大和にしている。

この大化は645年から650年とされますがこれもそうではない。もう何度も云いますが斉明(皇極)天皇は天皇であるのですが、本来の王である大王ではない。つまり、もとの日本書紀には、皇極・斉明条なんてありませんでした。

押坂彦人大兄皇子ー茅渟王ー山代大王ー孝徳大王

皇極天皇が即位したという、642年です。本来は孝徳天皇が即位した年、644年が大和元年です。これは押坂彦人大兄皇子の王子であり大王に即位していた、山代大王が暗殺された翌年です。
聖徳太子の王子である山背大兄王一族の暗殺事件の翌年である。

ですが、この年齢の矛盾に関しては、皇極元年から数えている。元年が642年なら5年というのは、この646年である。この年50歳であるなら、没年66歳というのは、662年のことになります。

そして、日本書紀においては、この巨勢 徳多が亡くなるという記事は、斉明天皇条4年正月にあり、5月には建王が八歳でなくなり、そのあとに有間皇子の事件が続きます。亡くなったのは同じ年、斉明4年のことであるとされます。それはこの時に王家と渡来人による戦いが起きたからである。
つまり巨勢 徳多の没年が662年であるのなら、建王、有間皇子の没年も同年である662年である。渡来人と王家との戦乱の期間である。
有間皇子暗殺事件も、この662年に起こったもです。これは百済渡来人と王家とが争っていた時期である。白村江の戦に出兵の一年前です。
有間皇子の謀反というのは、あくまで天智側の主張である。本来は孝徳天皇の後、正統な大王に即位すべき第一王子である。王家と天智、藤原との対立であり、これもまた、陰謀である。


斉明天皇の筑紫の朝倉宮というのは、本当は孝徳大王の宮である。662年に都は九州に存在していたのです。しかしながらすぐに戦乱になっている。

ウイッキペディア 斉明天皇
百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。

斉明天皇6年(660年)7月に百済が唐と新羅によって滅ぼされると、斉明天皇は難波などを経て斉明天皇7年(661年)3月25日に娜大津(諸説あり後述)より磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入り、さらに5月9日に朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦に備えた。しかし、7月24日に同地で死去した。
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斉明天皇7年は、なんと年齢68歳の時に百済出兵にために九州は朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦に備えたとされますが、これは事実ではない。
年齢に関してはすでに書いてきましたが、朝倉宮に遷幸したのは斉明天皇ではなく、孝徳大王です。斉明天皇は天皇ですが大王ではない。本来の王は孝徳大王です。大王殺害を隠蔽するための斉明天皇の重祚の記述である。
何度も主張しているところですが、斉明天皇は天皇ですが、大王ではない。
斉明天皇が九州の地に赴いたとは思えないのですが・・・?

この孝徳軍は百済救援の軍ではなく、百済討伐軍である。660年百済は滅んだとされますが、そうではありません。

孝徳大王は九州の地にも宮を建設していました。しかし662年に大王家と渡来人との戦争がこの九州の地と畿内で起きている。干支から名付けるなら壬戌の変である。

残念ながら渡来人側の勝利により、百済討伐軍が百済救援軍になっている。663年に百済救援のための出兵は渡来人勢力が行ったことです。
百済討伐の兵が、百済復興の出兵に変わってしまった。これが白村江の戦の真実である。
この時、百済出兵時の孝徳大王殺害の事実を消している。九州の地で国家転覆のクーデターが起きている。

日本書紀・・・
或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人一日兩夜邀牟婁津、疾以船師斷淡路國。使如牢圄、其事易成。
   ************************
紀南に避難していた有間皇子は、阿部氏に関わるこの地の豪族ある塩屋連の海軍の協力を得て、新田部連とともに淡路島に赴き、この地で畿内からの渡来人の海軍を迎え撃ち、その後九州の孝徳軍に合流する計画を立てていたと推測しています。
九州の地で勢力を回復する計画ではなかったのか?残念ながら事前にこの計画が発覚し先手を打たれ紀南の地で戦争となった。

この有間皇子や建皇子が亡くなるという記事は、斉明天皇の四年にありますが、これはつまり662年のことです。

孝徳大王は畿内が危険な状態にあったため子供たちを、安全であろうと思われる紀南の地に避難させていました。
しかしこの地にも追手がせまり、次期大王候補である有間王子、建王子は殺害されることになります。
次回に続きます・・・

有間皇子が療養と称して赴いたとされるのが牟婁の湯です。写真は南紀白浜の景勝地である、円月島に千畳敷、三段壁の写真です。









万葉集に孝徳大王の王子である有間皇子の有名な歌があります。
磐代(和歌山県日高郡みなべ町西岩代)の地で皇子が詠んだ2首の辞世歌とされます。
有間皇子は天皇への謀反計画が発覚し処刑されたとされますが、そうではない。万葉集は歌の内容は変更していませんが、前書きといわれる題詞を変更している。

万葉集・・・
二巻 百四十一
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

二巻 百四十二
家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
     **********************

これらの歌は、既に指摘されているところでもあるのですが、歌の内容だけ見れば決して挽歌ではなく、旅の歌である。処刑の時の辞世歌などではなく、紀南の地に避難するときの旅路の歌です。明日香で戦争が起き都周辺は危険な状態にあったのです。
この磐代とは、今の和歌山県日高郡みなべ町西岩代とされます。この地を支配する豪族は、塩屋連です。阿部氏が関わるこの紀南の豪族である塩屋連を頼って危険な都から避難していたのです。弟の建王子も同様に避難していました。
これらの歌は紀南の地に避難するときに詠まれた歌である。
避難したところは紀南の有間村(今はこの地名は残っていません)かな???
避難場所に有間皇子に名が残っているようにも思うのですが・・・?

孝徳大王は、飛鳥京が危険な状態にあったため子供たちを阿部氏が関わる塩屋連の勢力地である紀南の地に避難させていました。
しかし計画が発覚し、戦乱はこの紀南の地にも拡大することになります。



写真は和歌山県海南市にある藤白神社です。境内には有間皇子を祀る神社があります。処刑の地とされ近くの藤白坂にはお墓があります。このお墓は近年に造られたもので、有間皇子はここで処刑されたものではなく、この地で埋葬もされてはいません。

藤白神社は、鈴木姓発祥の地とされます。境内には何本かのクスノキの巨木があります。天然記念物になっていて、南方熊楠の名はこの藤白神社の「楠」と子守楠神社の「熊」の二文字を授かったという話は良く知られています。
観光地というわけでもないので訪れる機会はあまりないでしょうから簡単な動画を撮影しました。

https://www.youtube.com/watch?v=WnBt4J2CQkk&t=15s







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