聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

魏志倭人伝2

2009年10月15日 | 魏志倭人伝の謎


魏志倭人伝・・・三国志の著者の陳寿は、もちろん倭国には来ていない。当然地理も知らないと考えられるわけです。
ですからなんらかの文献・情報を参考にしてこの魏志倭人伝を書いただろうと想像できます。いまの時代のように簡単に情報を得ることはできません。ですから当然、間違いがあると考えられます。陳寿が間違っているんじゃないだろうか?と言うことについてはあまり議論されていないように思います。
よくいわれる文献至上主義というものです。私は、陳寿が勘違いしていると思うところは、“時間の経過と変化”についてことです。
倭国王帥升の国が、東進して、この時期にはすでに、北部九州から畿内に及ぶ連合体が存在していたと言うことです。
そして時間の経過とともに、政治的な中心地が畿内にある邪馬台国に移動している。この連合体の代表として、魏への朝貢は畿内の邪馬台国の卑弥呼がおこなっていますが、狗奴国と直接争ったのは、北部九州の倭国です。ですから魏の使者は九州の倭国に行っています。この倭国を女王国としたのが混乱の元です。
倭国といえばこの九州の倭国でもあり、連合体でもあるわけです。また女王国とは邪馬台国でもあり連合体のことでもあるわけです。ですから間違いではないのですが・・・。私たちは女王国というと、邪馬台国だと勘違いする訳です。

陳寿がおもに参照したと思われる文献は・・・
*後漢書の孝安帝紀東夷伝にある、倭国王帥升等が謁見を請うた時の情報。
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」

*正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が倭国に行った時の報告書。
「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。」

*正始八年に、張政等が詔書・黄幢を難升米にわたした時の報告書。
「その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」

*秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとされた時の情報などです。
倭人伝には、卑弥呼の墓は「径百余歩」とされています。大きな墓だと考えられ、築造には年数がかかったと想像できます。
卑弥呼没年は248年頃と考えられ、、魏の使者の張政等もその頃来たとされています。卑弥呼没後、混乱があったわけですから、この大きな墓がすぐに完成したとは考えらません。ですので、卑弥呼の墓等についての事は、この朝貢時の情報のように思います。
あるいは張政等が帰国した後、卑弥呼が亡くなり、その後台与が女王になった時に再び張政が遣わされたという説です。張政が2度来たという説です。これなら矛盾なく説明できますがどうなのでしょう?
これ以外にもあるかもしれませんが、私は主に正始元年の建中校尉梯儁等が倭国に行った時の報告書を基にしていると考えています。この時、倭国に行って倭王に会っていますが、伊都国から九州倭国の王都までの、距離や方角などの行程記述はありません。
伊都国近隣の、奴國や不彌國は、倭国(九州説の邪馬台国)までの行程途中にある国ではないように思います。
それで、この倭国の王都はどこなのでしょうか?、博多湾沿岸地域が奴国だとすると、有明海に面する九州最大平野、筑紫平野以外には考えられないと思いますが・・・。すると王都は吉野ヶ里なのでは?

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天照大神と丹生都比売

2009年10月07日 | 朱砂女王卑弥呼
中国では日本人を「呉の太伯の子孫」だという伝承があります。この伝承は、まったくトンデモ・・・と思っていたのですが、稲作伝来の時期と重なるのであれば、話は違ってきます。この呉は春秋時代の呉(紀元前585年頃 - 紀元前473年)です。君主の姓は「姫」です。有名な「呉越同舟」、「臥薪嘗胆」の言葉からも、隣の越の国と常に戦乱状態でした。
そしてこの時期、この呉から稲作が伝わったとも言われます。また呉の風習は、魏志倭人伝に書かれている風習にも似ているといわれます。風習や、稲作が伝わったということは、人間が多数渡来してきたということでもあります。
渡来人といわれる人々が、中国や朝鮮半島からやってくる主な原因は、戦乱から逃れるためです。呉が滅亡後に、かなりの人々が日本にやってきたと考えられるように思います。
紀ノ川沿い、伊都郡かつらぎ町に、丹生都比売神社があります。中央構造線上にあり、辰砂などの鉱物を産出しやすいところです。
祭神の丹生都比売こそ稚日女命といわれ、なんと呉の太伯の血を受け継ぐ女性だそうです。天照大神(大日女)の妹神ということになっています。
つまり、天照大神(大日女)も丹生都比売(稚日女命)もともに、呉から渡来した、太伯の血を受け継ぐ姉妹と言うことになりますが?天照大神の妹というのは、後に繋がりをもたらされたものでしょうけど、興味深い伝説です。
大王家は応神・仁徳王朝で狗奴国、邪馬台国は倭国王帥升の国と考えています。ですが、九州の倭国(邪馬台国)も、南の狗奴国も、ともに中国は呉の太白の子孫が建てた国だとも考えられるように思いますが?争っていましたが、もとは、同じ神様を祭る同じ氏族なのかな???
秦の始皇帝の統一まで、戦乱期が続いたとも考えられ、おそらく大量の渡来人が海を渡って日本に来ました。
人種が変わるほど多数の渡来人です。弥生時代の始まりです。稲作が伝えられ、定住しはじめ、また食料が安定して供給されるようになり、人口も増え、国としての形体が整っていったのだと思います。
朝鮮半島でも、衛氏朝鮮が漢の武帝により紀元前1世紀頃に滅ぼされます。この時に、朝鮮半島から多数の渡来人が北部九州に渡ってきます。おそらく銅の精錬技術伝えた人々です。この渡来人の中から山陰地方に渡っていった集団がありました。この集団こそ銅鐸を作った人々だと考えています。山陰は出雲、さらに東に進み近畿地方北部から、畿内に進出しました。この部族こそ、出雲族ともいわれる集団だと考えています。この出雲族も辰砂などの鉱物を求め、畿内に進出してきたのでは?

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卑弥呼の鏡

2009年10月05日 | 朱砂女王卑弥呼
卑弥呼の鏡といわれているのは、画文帯同向式神獣鏡や三角縁神獣鏡です。
それで・・・これらの鏡が卑弥呼の鏡であろうと、なかろうと、またこれらの鏡が中国産であろうと日本産であろうと、3世紀になると、中国からの鏡の分布が畿内中心になっています。三角縁神獣鏡は、畿内の有力古墳からの出土が多く、畿内を中心に分布しています。画文帯神獣鏡の出土も、畿内と瀬戸内東部に偏っています。これらの鏡の出土は、主に畿内で、中国鏡の輸入が三世紀前半以降には畿内に移行している。つまりこの時期には、畿内が政治的主導権を保持していたと考えられるのでは?
纏向遺跡は2世紀末に出現していて、卑弥呼の時代と重なります。また纏向遺跡には関東から九州までにわたる広範囲の土器が出土します。この時代の中心地です。この時期に纏向に匹敵する遺跡がないのでは?
魏志倭人伝が九州内のことしか記述されていないのであれば、巨大な墳墓を作るこの畿内の勢力を何故無視するのか考えづらいわけです。ですが、魏志倭人伝はほとんど九州内のことしか記述されていません。これは陳寿が、倭国王帥升の国から、卑弥呼共立までの時間の経過、変化を考慮に入れなかった間違いなのでは?また地理もほとんど理解していなかったようにも思われます。
三角縁神獣鏡には、卑弥呼が朝貢した年とも考えられる、景初三年の年号が入ったものがあります。この年は魏王朝 明帝なくなり次の皇帝の斉王が即位したことによる、朝貢とも言われます。ですから景初二年は三年の誤りだろとも言われます。景初二年と記述されているわけですから、景初二年でいいようにも思うのですが・・・?また景初四年のものもありますが、これこそ鏡が日本で作られたものではなく、中国でつくられた証拠のように思います。
ともかく魏の年号が入っているかぎり、この鏡は魏で作られたものに他ならない。ですから、この三角縁神獣鏡こそ、卑弥呼の鏡のように思います。もちろん画文帯同向式神獣鏡もです。それで、鏡が大量に作られたのはなんらかの理由があるはずです。それは辰砂との交易のために中国側が鏡を大量に作くったように思うのですが? (写真は大神神社)

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神様の国譲り

2009年10月05日 | 出雲族
出雲の国譲りは、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受けるという神話です。
この舞台はもちろん、此処大和盆地です。出雲ではありません。大国主は、出雲での宮殿建設と引き換えに国を譲ることになります。
大国主とされていますが、素戔嗚尊です。スサノオこそ、出雲族の神であり、三輪山(ミモロ)の神様です。スサノオは朱砂王です。
このスサノオ2番目の妻のカムオオイチヒメこそ卑弥呼だと考えています。魏志倭人伝には、卑弥呼は共立されたとされています。九州からきた、天津神系の氏族と、出雲からきた、円錐形の山を神が宿る山として、銅鐸を祭祀に使用した国津神系の氏族との、いわば神婚です。おそらく卑弥呼が、三輪山の祭祀を行なうことで争いが治まったのだと思います。これは融和策です。
大神神社の神様は、蛇だとも言われています。これはとんでもないことです。あまりにもひどい。そして有名なのが注連縄(シメナワ)です。逆向きです。
これは出雲大社もそうです。謎だといわれていますが、これは神様を封じ込めている以外に考えられないわけです。三輪山が、神体山なのですが、拝殿正面に、三輪山がない。出雲大社もそうです。神様は横を向いています。神様を拝ませないようにしています。争いがあり、敗北し征服された方の神様は、普通抹殺されるはずですが、日本はそういうことはしません。祟りが怖いからです。ですが場所を移動させられます。ですからここ大和から、出雲へ追いやられているわけです。神様の国譲りです。
卑弥呼の宮はここ大神神社です。
(写真は大神神社拝殿です。三輪山山頂は左後方になり正面にはありません。)

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応神天皇即位270年が基点

2009年10月02日 | 応神・仁徳王朝
初期の天皇は在位期間が長く、また事績が記述されていないことなどにより、その実在性が疑問視されています。記紀は万世一系を主張したいわけですが、これが実は全くそうではなかったわけです。それで邪馬臺國や出雲などの他家の歴史をも取り込み、変更しているのではないでしょうか?ですが、どうすることも出来ないのが、魏志倭人伝などの他国の文献です。
それで・・・まず邪馬台国・卑弥呼の事績ですが・・・
おそらく庚寅390年に、この応神天皇が即位した?という伝説があったのだと思います。よく言われるように、これを干支二巡繰り下げて、庚寅270年に即位したことにし、神功皇后治世、201年~269年にして卑弥呼、臺与の事績を消してる?
あるいは270年に、祟神天皇???が即位したという伝説があり、これを干支二巡繰り上げて、390年に応神天皇が、即位したというふうにしているのか?
ともかく、邪馬台国・卑弥呼の事績を改竄しているのは明らかなのでは?
応神天皇即位270年を基点とし、これに、讖緯説をとりいれ、神武天皇即位を紀元前660年とし、応神天皇即位270年との間に、残りの13人の天皇を組み込んでいる。それと応神天皇即位を、270年にもってきたので、その後の天皇の在位ものびているということなのでは?
祟神天皇も狗奴国の王ですが、この応神・仁徳王朝こそ、後に九州から東進してきた大王家(狗奴国)です。つまり大王家の東進は2回あったとも考えています。270年は邪馬台国滅亡の年でしょうか?(写真は岡山県 吉備津彦神社です。吉備津彦は倭迹迹日百襲媛命の弟とされています。また吉備津彦は桃太郎のモデルです。倭迹迹日百襲媛命は卑弥呼ともいわれます。だとしたら桃太郎のお姉ちゃんは卑弥呼やん・・・・これはトンデモです。)


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万世一系

2009年10月02日 | 出雲族
記紀が主張したいのは、天皇の神格化と万世一系です。それでこの「万世一系」なのですが、わたしは此処、つまり大和を初めて王として統治したのは我々だと主張したかったのだと思うのです。つまり事実は異なっていたということです。また欠史八代の王は東進してきた天皇家の畿内での王でも、九州時代の王のことでもないように思います。また架空の人物でもないように思います。
これら欠史八代の王は、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「天皇記」「国記」に出雲族の王として名と事績が記載されていたように思うのですが?
蘇我氏は出雲系の有力豪族だと思います。ですので、これらは出雲族系の歴史書で、スサノオを神とする国津神系の神話と系譜が記載されていたように思うのです。天照大神を神とする、天津神系の系譜が付け加えられたのはこの後です。
古事記・日本書紀編纂時において歴史の改竄があった。その改竄された歴史に合わせて、まず天皇家の系譜が作られる。この天皇家の系譜に整合するように、各氏族の系譜が作られたと考えられると思います。
持統天皇5年・・・「祖等の墓記を上進らしむ」といわれています。各氏族の伝承を献上させて、歴史を作り変えたと考えられるます。
記紀編纂時には、これら出雲族の王を天皇家の王として取り込む、または改竄するのには問題がなかった。つまり葛城氏や蘇我氏などの出雲系有力豪族は、滅んでしまったか没落していた。神武天皇をこれら出雲系の王より以前に持って行き始祖王としているのでは?  (写真は和歌山県有田市にある須佐神社)

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蘇我氏は出雲族

2009年10月02日 | 出雲族
記紀には、卑弥呼のことがほとんど記述されていません。これはどうしてなのでしょうか?卑弥呼は非常に重要な人物だと思います。たしかに伝説などは伝わりにくい時代だったとしても、やはり卑弥呼の事績が消されたのは、意図的なものだとしか考えられないように思います。それで、邪馬台国・卑弥呼の事績を消し去ったのは、もしかしたら、蘇我馬子の可能性があるのでは?
歴史は勝者の歴史ともいわれ、歴史書もその時の権力者の都合に改竄されます。蘇我馬子の時代、蘇我氏は天皇家の外戚になり権力を保持していたといわれています。
それで・・・
「天皇記」「国記」は聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされています。
「帝紀」と「旧辞」は天智天皇の子供の勅命により編纂。
「古事記」「日本書紀」とも天武天皇系、元正天皇時代に完成したとされています。
それで、天皇記なのですが、天皇という称号は推古天皇からだといわれていましたが、いまは天武天皇からだとも言われています。蘇我馬子が編纂している。それと天皇という称号は後のものだとすると、この「天皇記」というのは、おかしいとも考えられますよね?おそらく記紀とは異なった歴史、系譜が記述されていた、そして蘇我氏の都合のいいように改竄されていた。ですから、焼失したということにされているということが考えられるわけでしょう?
蘇我氏は6世紀になって台頭してきました。これは渡来人との結びつきによるものが大きいでしょうけど、蘇我氏や葛城氏、紀氏などの地名由来の氏族は、先に大和に来ていた出雲系といわれる氏族のように思います。
ですが、たとえ蘇我氏によって邪馬台国・卑弥呼の事績が改竄されていたとしても、邪馬台国と天皇家が関係あるなら、記紀に卑弥呼の事績は書きあらためられているはずですから、やはり邪馬台国と天皇家は王朝が異なると思います。邪馬台国は物部氏だと考えています。(写真は大神神社)

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櫛墓の神大一比売 

2009年10月02日 | 卑弥呼はカムオオイチヒメ
記紀に邪馬臺國、卑弥呼の記述がない限り、もうこれは王朝が変っているとしか考えられません。国名は変っていませんが・・・。しかし大王家は「万世一系」でなくてはなりません。この大きな墓が、他家のものでは都合悪いわけです。
ですので、この大きな墓に眠る女性を「孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命」として、自分たち歴史に組み込むということをしているのでは?それで・・・まず、名前は必ず変更するはずですよね。それでは、卑弥呼は誰?名前は?・・わかりませんよね。ですが・・・私は完全に卑弥呼のことを抹殺することは出来なかったと思うのですが・・・どうでしょう?以下想像ですが・・・。
倭迹迹日百襲媛命は、神大市比売ともいわれています。それで、このカムオオイチヒメが本当の名前の可能性があるのでは?この箸墓も大市墓といわれています。普通、所在地から付けるということで、地名の大市からから名付けられたと言われています。市場の神だといわれているのですが、どうでしょうか?纏向が卑弥呼共立後に発展していったのであれば、これは逆ということもあるのでは?それと大市ではなく大一なのでは?つまり・・・神大市比売が葬られているから、この墓は大市墓と呼ばれ、大市墓があるので、此処が大市という地名になったと思うのですが・・・?
ですからこの箸墓の被葬者はカムオオイチという名で、此処、大和に邪馬臺國が存在していたなら、卑弥呼の名は、神・大・一・比売(カムオオイチヒメ)なのでは?カムオオイチヒメ・・・卑弥呼に相応しい名だと思うのですが。スサノオの2番目の妻とされている、神大市姫命こそ卑弥呼なのでは?スサノオこそミモロの神です。朱砂の王です。この神婚こそ邪馬台国と出雲族の融和策です。卑弥呼が、三輪山の祭祀をおこなったのだと思います。
それでどうして箸にしなければならなかったのでしょう?ハシにちかい言葉で呼ばれていたからだと思うのです。それで箸墓(ハシハカ)でなくて、やはり櫛墓(クシハカ)かな???

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三輪山は神奈備 

2009年10月02日 | 卑弥呼はカムオオイチヒメ
畿内に邪馬臺國が存在していたとしたら、もう大和(奈良盆地)しかありえなわけですよね。大和に邪馬臺國が存在していたなら、纏向が中心地なわけです。どうして此処が中心地かというと、この纏向に辰砂(水銀)が集められ、中国に輸出されたのだと思います。この時期大量に産出されたように考えています。近くから集められた辰砂を川を使って運びだすには、適地だったのだと思います。多くの労働力が必要とされたため、人々が集まって来たのだと思われます。
そしてやはり、三輪山が神として存在しているからです。三輪山は神奈備です。この時代の祭祀の重要性を考えると、此処がやはり中心地です。この時代は自然崇拝ですよね。三輪山は、神が宿る場所、依り代です。それで、この三輪山の神の依り代から、神懸かりして神託などを伝えたのが卑弥呼なのでは?ですので、魏志倭人伝には鬼道とか記述されていますが、・・・三輪山が大神として、神の依り代として存在している限り、卑弥呼の祭祀は三輪山への祭祀です。
魏志倭人伝には、卑弥呼は共立されたとされます。共立されて争いは治まったのですが、これは卑弥呼が、融和策として三輪山の祭祀を行なうことで争いが治まったということだと思います。この時代はまだ自然崇拝や祖霊信仰などの原始宗教です。ですので、卑弥呼の居住地は、三輪山から遠く離れることはありえないように思います。
卑弥呼は此処、箸墓に眠っています。それと臺与はホケノ山古墳だと思うのですがこれはどうなのでしょうか?ともかく、卑弥呼は、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命ではないと思います。 (写真は三輪山)

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三輪山伝説

2009年10月02日 | 卑弥呼はカムオオイチヒメ
箸墓古墳は卑弥呼の墓の有力候補です。この箸墓には、伝説があります。三輪山伝説です。しかしこの伝説にはおかしなところがありますよね。以前から指摘されているところです。箸の伝来の時期にとズレがあるというところです。ですので、墓を作った土師氏の墓だから箸墓になったと言う説がありますが、・・・そんな墓を作った氏族の名が墓の名になるわけないでしょう。これはやはり、書記に箸で陰を憧いて死んだと記述されているからでしょう。
これ、箸の伝来時期を考慮にいれなかった記紀編纂時のミスじゃないでしょうか?ですので、この伝説は改竄されています。だいたいにおいて、この伝説がおかしいと思うのですが・・・?三輪山の神が蛇になったとか、その三輪山の神との約束を破って、箸で陰を憧いて死んだという箇所がおかしいと思うわけです。
悪く書かれていますよね。この女性は、三輪山の神と結婚し、巫女として、神懸かりして人々を災難から救くい、信頼され、愛され、それで人々はこの大きな墓を作った・・・というような伝説のはずです。
倭国大乱は、倭国の勝利となったように思います。しかし内政においては、神への祭祀の問題があるわけです。銅鐸を放棄させたものの争いは続き、それで卑弥呼を王?に共立し、三輪山の祭祀を行うことで争いは収まったわけです。三輪山伝説の三輪山の神(出雲の神)との神婚は、融和政策だと考えられます。
神の宿る山、三輪山は三諸山ともいわれます。伝説は、三輪山の神は大物主大神としていますが、スサノオなのでは? (写真は箸墓古墳)

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九州王国

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
倭国王帥升の国が東進して、卑弥呼共立時には九州から畿内までの連合体が存在した。しかし、あくまで連合体です。九州倭国にも王はいます。南九州の狗奴国と直接争ったのは、邪馬臺國連合体(倭国連合体)であるこの北部九州の倭国です。
それで狗奴国は、また九州の倭国はこの後どうなったのでしょうか?狗奴国は、邪馬臺國連合体の中に組み込まれたように思うのです。つまり北部九州の倭国と、南部九州の狗奴国は合体し九州は統一した。しかし、この合体九州王国の主体は狗奴国だったと思います。それでこの後も、この九州王国は畿内の邪馬臺國とは別に、大きな勢力として九州に存在していた。というか・・・この九州の勢力が、4世紀後半、再度畿内へ東進していった。これが応神天皇の東進(神武の東征)。天皇家の初代王。ヤマト王権。ここで初めて畿内の勢力と九州の勢力の合体した。この九州王国は、高句麗の南下政策による、南部朝鮮の国々から(主に百済)の多数の渡来人の流入により、大きな勢力となり、やがて東進していき、畿内の勢力と合体し、巨大な墳墓を築く勢力にまで発展していった。
4世紀中頃から広開土王碑文にある時期位までに、朝鮮半島に出兵しているのは、この九州王国の勢力なのでは。  (写真は箸墓古墳と、三輪山)

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出雲族

2009年10月02日 | 出雲族
朝鮮半島からの渡来人に関しては、新羅本紀と百済本紀と比べてみてもあきらかなように、また地理的、歴史的にも当然、新羅との関係がより密接です。百済との関係は、おそらく百済建国後、早くても5世紀になってからです。ですので、製銅、製鉄技術を伝えた初期の渡来人は、新羅(もちろん新羅以前も含めてですが)からの渡来人なのでは。出雲族とは、朝鮮半島、新羅系の渡来人で、製銅技術を伝えた集団の一つなのではないでしょうか?
紀元前1世紀頃から、日本でも銅を生産し始めたといわれます。これは、衛氏朝鮮が漢の武帝により紀元前1世紀頃に滅ぼされですので、おそらくこの時多くの渡来人がやって来たのだと思われます。まず九州に渡来し、その後出雲には、銅鐸を祭祀に使用する集団が渡っていったのでは?この出雲族が東進していく、これはもちろん、土着の人々と融合しながら移動していくということです。
それで当然、海岸沿いを移動していくはずです。銅鐸の出土分布からも、山陰地方から近畿北部、琵琶湖、淀川を下り、奈良盆地に移動したと考えられると思います。この時代はまだ採取狩猟生活も続けられていて、私たちが想像する以上に活動的だったように思います。
出雲の大山、滋賀の伊吹山、大和の葛城山、金剛山、三輪山など、大きく美しくまた奇怪な山を、神の宿る山とし銅鐸を使い祭祀を行っていたのがこの出雲族なのでは?すでに2世紀には、この出雲の勢力が畿内に存在していたのではないでしょうか?唐古・鍵遺跡は、出雲から邪馬臺國より先に大和に来ていた、銅鐸を使い三輪山の祭祀を行う出雲族の遺跡。三輪山の神は出雲族の神。この出雲族の勢力と、九州倭国から東進してきた勢力との争いが倭国大乱だと思います。これは畿内の辰砂(水銀)めぐる争いではないでしょうか?
出雲族は、後の国津神系の豪族で、葛城氏、蘇我氏、紀氏などです。この地名由来の氏族は、先に大和に来ていた出雲系といわれる氏族のように思います。後の大和中央豪族です。天津神系の豪族は、物部氏や中臣氏などで、もちろん天皇家も九州から東進してきた氏族だと思います。 (写真は、唐古・鍵遺跡の復元された楼閣)

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纏向の朱砂王

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
この時代は、大陸に近い九州地方が中心地のはずです。ですが、畿内が発展していきます。それは、人々が集まったからだともいえます。まさに水銀ラッシュと言えると思います。これは、この辰砂(水銀)が、中国との交易に使われからだと思います。中国における辰砂の、主な産地は呉の国ということもあり、中国側、特に魏は日本産の辰砂をほしがったのでは?辰砂との交易品のひとつとして、魏は鏡を製造したのではないでしょうか?中国との交易により発展していき、また人間が集まり畿内が中心地となったのだと思います。それで大きな墓を作ることが可能になったのだと思います。纏向には運河が作られています。この地から運びだされた辰砂(水銀)は、瀬戸内海をとおり北部九州まで運ばれ、そして中国との交易が行われたのだと思います。つまりこの交易により畿内から北部九州までの連合体が成立したわけです。それでこの交易の恩恵にあずかれなかったのが、南部九州の狗奴国です。ですので、争いになったのです。この南部九州の狗奴国と直接争ったのは、北部九州の倭国です。この争いにより、交易がしづらくなったため、畿内の卑弥呼と九州の倭国の王が、魏に朝貢したのです。倭人伝において、倭女王は卑弥呼ですが、倭王とは九州倭国の王です。ですから魏の使者は、九州の倭国にしか行っていない。それで・・・その後、この九州は狗奴国主体に統一されたんだと思います。この統一九州王国こそ大王家です。この統一九州王国が、その後東進します。これが応神・仁徳王朝です。この狗奴国こそ大王家です。 (写真は大神神社、一の鳥居と、天香具山です。)


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倭国大乱は辰砂(水銀)めぐる争い

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
倭国王帥升の国が東進していったのだと思います。中国地方の高地性集落については、いままでいわれていた時期より半世紀さかのぼるといわれています。これこそ倭国東進の証拠だと思います。そして畿内の高地性集落は、倭国大乱の時期と重なると言われています。また銅鐸が消えていく時期とも重なります。ですので、倭国大乱とは、北部九州から吉備国を建国して東進してきた倭国と、出雲族といわれる、山陰から畿内に来ていた先住民との争いです。
そして、この争いは、畿内の辰砂(水銀)めぐる争いとしか考えられないように思います。畿内説の、これは私にとっても最大の問題点なのですが、北部九州が支配地でないなら、畿内が発展するはずない訳です。ですから、2世紀末に、少なくても畿内から、北部九州までの領土を保持することができるのだろうか?これは、たとえ連合体のようなものだとしても可能だろうか?と言うところです。武力で治めたとは、考えられないわけです。纏向遺跡には、外部からの多数の土器が出土します。つまり沢山の人々が奈良盆地目指してやってきたわけです。遠方からの土器も出土しています。ここに来る何らかの理由があるわけです。これは単に市場があり交易が行われたということでなく、この地にしかない重要なものが、此処、纏向に存在したからに他ならない。それは辰砂(水銀)しかない。おそらくこの時期には大量に産出されたのだと思います。 (写真は、唐古・鍵遺跡の楼閣。弥生時代の環濠集落遺跡といわれています。)

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魏の使者は畿内の邪馬臺國には行っていない

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
倭国でいいのに女王国としています。ですので、女王の境界といわれる30カ国の小国と思われる国は邪馬台国の領国ではなく、・・・斯馬国~奴国は、・・・九州の倭国領国。この倭国は、筑紫平野周辺で、そこから北部九州の奴国までが領国。おそらく吉野ヶ里が中心地でしょうか?もしかしたら、この30カ国の小国だと思われる国々はおそらく、倭国王帥升が朝貢した時の文献からの引用された可能性があるのではと思うのですが?
ですので、南の狗奴国とは熊本平野です。これは、正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が九州の倭国に行った時の情報が書かれた文献と、倭国王帥升が朝貢した時の記録が記載されている文献を参考にした、陳寿の勘違い、間違い。混乱はここから。
つまり倭国王帥升の時代から卑弥呼共立までの時間の経過、変化を考慮に入れていない。この九州の倭国王帥升の国が東進し、卑弥呼共立時には、北部九州から畿内におよぶ連合体のようなものが存在していたということです。
魏志倭人伝には、郡より女王國に至ること萬二千余里と記述されています。郡より邪馬台国に至ること萬二千余里ではありません。つまりこれは、郡より倭国に至ること萬二千余里ということです。ですから魏の使者は、九州の倭国にしか行っていない。そして、正始八年の張政等は、伊都国からでていないように思います。
気候・風俗などが記述されている箇所が、九州の倭国の記述だとすると・・・畿内の邪馬臺國のことはほとんど記述されていない。つまり魏の使者は畿内の邪馬臺國には行っていない。魏の使者が向かったのは、九州の倭国(女王国)です。
この距離については、短里が用いられています。帯方郡から伊都国までの行程距離を合計すると一万五百里になります。残り千五百里余りになり九州を出ることはない。また畿内の邪馬台国に、中国の使者が行っているなら・・・「南、邪馬臺國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月」こんないい加減な行程記述のわけがない。普通、目的地が近くなるほど詳細に記述されているはずです。これは臺与が、邪馬臺國から郡まで朝貢した時の行程情報で、単に北を南に変えたもののように思います。

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