聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

法隆寺再建の謎と金堂薬師如来像光背銘

2015年05月18日 | 聖徳太子の謎


法隆寺は、謎が多くあるとされます。なかでも再建されたのかどうかということが、
大きな謎とされているようです。

ですが、この法隆寺再建の謎は、わたしにとっては凄く簡単な謎です。
斑鳩宮と斑鳩寺は、推古の息子の竹田王子の宮と寺とするわたしには、こんなの謎でも
なんでもない。
もーーーーーぅ、どうしてこんな簡単な問題が解決していないのか不思議なくらいです。


斑鳩寺を、創建法隆寺というのなら法隆寺は再建されたいうことですが、斑鳩寺は
法隆寺ではありません。
法隆寺は再建されたのではなく、天武朝に初めて建てられました。
いま再建されたといわれている時が、創建された時です。

法隆寺再建の問題は、火災にあった若草伽藍跡が見つかったために法隆寺は再建された
ということになっていました。
しかし、五重塔の心柱の用材が、樹木の年代がかなり正確に解ると言われている、
年輪年代法によって594年に伐採されたヒノキ材だったということが判明し、新たに謎が
深まったとされています。
ですが、そーーーではないのです。

法隆寺再建の謎が、これによって解決したということです。

聖徳太子が建立に関わったとされる、七大寺(法隆寺、四天王寺、広隆寺、橘寺、中宮寺、
法起寺、葛木寺)や、それ以外にも創建の由来を聖徳太子にしているお寺が多くあります。
実際、同時期にこんなに沢山造れるわけでもないわけです。
ほとんどは、聖徳太子が生きていた時代以降に建てられたものですが、創建の由来を
聖徳太子しています。
実際に創建には関わっていないので、この法隆寺と四天王寺以外は「聖徳太子ゆかりの寺」
とされています。

この法隆寺は、聖徳太子が実際に関わったとされていますし、誰もがそう思って疑うことを
しないところに問題があります。
そう法隆寺も同じです。法隆寺も、「聖徳太子ゆかりの寺」です。四天王寺もです。
あくまで、・・・ゆかりです、もちろん実際に創建には関わっていません。

法隆寺は天武が皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大兄大王を祀るために建てたものです。
斑鳩宮と斑鳩寺は推古の息子の竹田王子の宮でありお寺です。
そして、この斑鳩寺は藤ノ木古墳と関係するのは、まず間違いないように思います。


法隆寺と斑鳩寺は、ことなるということは日本書紀に記述されています。

日本書紀 天智天皇条・・・
八年
十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。 

九年
夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。

天智天皇条において斑鳩寺と法隆寺とが書き分けているわけですから、斑鳩寺は法隆寺
ではありません。しかも8年と9年、半年も経っていません・・・。


天武は祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るために、また、官営の寺として建設を開始する
ために、法隆寺の創建を聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の時代に持っていく必要が
あったわけです。

法隆寺金堂薬師如来像光背銘は、天武が押坂彦人大兄皇子を祀るこの法隆寺を、
古くから天皇の発願による勅願寺であったとするための捏造分です。
薬師仏の信仰は、天武朝時代であり薬師寺が造られたころです。

法隆寺金堂薬師如来像光背銘

池邊大宮治天下天皇大御身。勞賜時。歳次丙午年。
召於大王天皇與太子。而誓願賜我大御病太平欲坐故。
将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。
小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王。
大命受賜而歳次丁卯年仕奉


そして、天智九年の・・・
夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。

日本書紀のこの記述こそ捏造です。大雨の中、全焼ってもっと考えなさいよって
思うんだけど・・・これ、わざとわかるように記述していると思うんだけど・・・?

この法隆寺火災の記述は、金堂薬師如来像光背銘の文を正当化するために、また法隆寺
創建を押坂彦人大兄皇子存命の時代に持っていくために必要な記述だったわけです。

斑鳩宮と斑鳩寺は、推古の息子の竹田皇子の宮であり寺であるわけで、蘇我氏によって
造られたものです。四天王寺もです。

日本書紀推古天皇・・・
十四年・・・秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經
於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。

こう記述されています。ここも斑鳩寺と記述されていて法隆寺でありません。
推古が大変喜んだと記述されているように、この皇太子とは息子の竹田皇子です。


つまり、凄く簡単なお話ですが、日本書紀にも法隆寺再建の記述がないように、
法隆寺は天武朝に初めて建てられたものです。再建されたものではありなせん。

天武が祖父の押坂彦人大兄皇子を祀ったのがはじまりですが、後に権力を握った藤原氏や
天智系の女帝にとっても彼を祀る必要があったわけです。

これは、前に藤原不比等の謎で述べた、ふたつの系図をみればわかります。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)ー舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子

彼を聖人にする必要があったわけです。

そして、日本書紀の記述のように、斑鳩寺(若草伽藍)は火災にはあってはいても全焼と
いうわけでもなかったわけです。

全焼したのなら同じ場所に建てればいい訳ですが、建物や周囲に巡らしていた塀が残って
いた場合は、撤去して同じ場所に立てるより隣に新たに造る方が効率的です。
その建築時、再利用できるものがあれば利用すればいいわけです。

問題とされる法隆寺の西院伽藍の五重塔の心柱の用材は、斑鳩寺の五重塔の心柱です。
塔の心柱は再利用されたものです。ですので、古い(594年に伐採されたヒノキ材)のです。
斑鳩寺を再利用したため高麗尺で設計されているのです。

証拠は塔の敷石です。斑鳩寺の塔の礎石は再利用されていないのです。
塔の心柱は残っていたのです。もっとも再利用されてもいいはずの礎石は再利用されて
いない。新たに、隣に伽藍を設計して、建設しながら斑鳩寺を撤去していったからでは
ないでしょうか?

だから、法隆寺の西院伽藍は、もとの斑鳩寺(若草伽藍)の位置とは異なるのです。
今の西院伽藍は、尾根を削り、谷を埋めて整地した後に建てられたとされるのは、若草伽藍
は火災に遭ってはいても全焼したわけではないということです。



そして、前に述べた法隆寺金堂も釈迦三尊像の台座の墨書きの
「相見(了 変換できない)陵面 楽識心陵了時者」・・・
「陵墓に葬られている人の心が鎮まるように陵墓にお参りしなさい」

この陵墓というのが、藤ノ木古墳のことなら、金堂の釈迦三尊は斑鳩寺にあったもので
あって、若草伽藍(斑鳩寺)は火災に遭ってはいても全焼したわけではないということです。

藤ノ木古墳は、暗殺された崇峻天皇と穴穂部皇子のお墓であり、斑鳩寺はこの藤ノ木古墳に
葬られている二人の王を祀るために竹田皇子により造られたものです。


斑鳩宮と斑鳩寺は聖徳太子こと厩戸皇子の宮であり寺だとする限り謎は解けません。


              
     




    


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叡福寺北古墳と釈迦三尊像の台座の墨書き

2015年05月11日 | 聖徳太子の謎


叡福寺
聖徳太子ゆかりの寺といわれます。
ここには、聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳あります。
お母さんの穴穂部間人皇女と、妃の膳部菩岐々美郎女と一緒に埋葬されているとされて
います。
しかし、日本書紀にも厩戸皇子のお墓に、妃やお母さんと、一緒に埋葬されたなんて
記述ありません。

残念ながら、ここは厩戸皇子ゆかりの寺でもお墓でもありません。
竹田皇子が亡くなった時、大野岡に墓が築かれたいう、大野岡とはここです。
その後、つまり推古天皇崩御後に息子の竹田皇子が眠るこのお墓に合葬されたわけです。
お母さんと后とともに埋葬されたであろうという伝説があるのは、この竹田皇子です。

日本書記・・・推古天皇36年条「葬竹田皇子之陵」

そうここは、推古天皇と敏達天皇との子の竹田皇子の墓所です。
竹田皇子と同時期に亡くなった后の膳部菩岐々美郎女が埋葬されていました。
後に、お母さんの推古天皇が合葬されていたのです。
竹田皇子のお墓は植山古墳などではありません。

植山古墳・・・
*前述してきたように、竹田皇子の没年は624年であり古墳の築造年と合わない。
石室の築造は東側が6世紀末で、西側が7世紀前半と推定されそうですが、ともに
竹田皇子、推古天皇の没年と合致しません。

*最初から2つの石室をもつ墳墓として築かれていたというのは全くおかしいじゃあり
ませんか?推古の遺言で合葬されるようになったのでは?しかも同じ石室に葬られてい
なければおかしい。ともかく竹田皇子のお墓は植山古墳ではありません。


それで、さすがに推古のお墓はこれじゃーダメだっていうことで、隣に大きなお墓を
作ったわけ、それがいまの推古天皇稜とされる磯長山田陵。
蘇我氏が関係する方墳に改葬されたわけです。この時代の蘇我氏の王墓は方墳です。
ここに改葬されたのですよ。磯長山田陵に現在3人埋葬されている。

磯長山田陵は、山田高塚古墳といわれる方墳です。
古墳内部には、二つの横穴式石室があるとされています。
ひとつは推古天皇と息子の竹田皇子が合葬された石室であり、もうひとつは
后の膳部菩岐々美郎女が葬られている石室です。


ウイッキペディア・・・叡福寺北古墳
*円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。
*明治12年(1889年)の修復調査が実施された・・・調査の際に、棺は確認できたが、
遺骸は風化して残っていなかったとされている。

       ****************

遺骸は風化して残っていなかったのではなく、お隣の磯長山田陵移されただけです。

ほぼ同年代の藤ノ木古墳(こちらの方が古い)には、人骨が残っていて副葬品あったわけですよ。
ここ、なにもなかったわけでしょう?副葬品もですよ・・・?
聖徳太子の棺の中に、なんの副葬品もないわけ?おかしいでしょうに?
遺骸は風化しても副葬品は残っているでしょうに???
何らかの副葬品があったという記録もないのでしょう?そう空だったからですよ。
これ、誰も不思議に思わないのでしょうか?

ですので、このお墓(叡福寺北古墳)を祀ってもしかたありません
残念ながら、ここに聖徳太子は眠ってはいません、というか誰もいません。
推古天皇稜である磯長山田陵を祀ってください。本当の太子こと竹田皇子はここにいます。



それじゃー、厩戸皇子のお墓はどこなのでしょう?

*厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇と皇后の広姫の子である。

*敏達天皇はこの広姫のお墓に埋葬されている。
 だとすると厩戸皇子のお墓は敏達天皇稜そばなのではないでしょうか?

*一ヶ月も経たないうちに埋葬されていることから、大きな規模の墳墓ではない。

*押坂彦人大兄皇子と竹田皇子は同時期になくなっている。
 2月5日が、厩戸皇子がなくなった日で、2月22日が、竹田皇子がなくなった日。

*つまりお墓は同時期に造られ同規模のものではないのか?

*河内の磯長に葬られたとされている。

*この敏達と広姫が埋葬されている古墳は、河内磯長古墳とされますが、もうひとつの
候補が、越前塚古墳だとされています。


越前塚古墳が敏達と皇后の広姫の合葬古墳であり、そばにある「かまど塚古墳」が
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子のお墓です。

「かまど塚古墳」
径45mの円墳で,北側の丘陵と堀り込み,馬の蹄の形をした珍しい堀をめぐらしています。
内部には7世紀前半に造られた大型の横穴式石室がありました。 
聖徳太子御廟と似た規模・構造をもつ重要な古墳です

     **************************

厩戸皇子と竹田皇子はほぼ同時期になくなっています。
そう、内外構造が叡福寺北に類、しかも馬の蹄の形をした珍しい堀は厩戸皇子に相応しい。


そして、法隆寺の金堂釈迦三尊像は、もともとは、叡福寺北古墳そばの西方院で祀られて
いたものが、後に(法隆寺建設時以降)に移動した可能性があるのでは?

ウイッキペディア 西方院・・・ 

『河内名所図会』等に見える伝承によれば、622年に聖徳太子が死去した後に出家した
三人の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善
(俗名玉照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として
法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めた
と伝わる。
聖徳太子が造ったとされる阿弥陀如来像が本尊らしいのですが、本当ならこの像は
国宝でしょうね。



法隆寺の金堂釈迦三尊像の台座の墨書き・・・

「相見(了 変換できない)陵面 楽識心陵了時者」

意味は、「陵墓に葬られている人の心が鎮まるように陵墓にお参りしなさい」
というような意味だそうですが、問題はこの陵墓とはどこなのでしょうか?
藤ノ木古墳か、この叡福寺北古墳しかないようにおもうのですが・・?
どうなのでしょう?


ウイッキペディア 叡福寺・・・

太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが
叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で
東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、このことは正史には
見えず、史実かどうか定かではない。
叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。


竹田皇子が、叡福寺北古墳に葬られた後に、母である推古天皇が、墓守りの住む堂
を立てたのが始まり・・・という由緒はいいように思いますが・・・???
叡福寺に関しては後の建設であるわけですから、この陵墓というのが叡福寺北古墳という
なら、この釈迦三尊像は、そばの尼寺といわれる西方院にあったものでは?


日本書紀の記述にあるように、若草伽藍にあったもとの法隆寺は全焼したとされて
います・・・???
実は、火災があったのは斑鳩寺です。(法隆寺の謎はまた後ほど)
しかし本尊ともいわれる、この釈迦三尊像には火災の跡がありません。
これは、この釈迦三尊像は、もとは叡福寺北古墳そばの西方院で祀られていたものが、
後に(法隆寺建設時以降)に移動したものか、あるいは、この陵墓が藤ノ木古墳なら、
斑鳩寺にあったものなのではないでしょうか?

写真は、推古天皇稜とされる磯長山田陵。
そして叡福寺と、押坂彦人大兄皇子の陵墓である、かまど塚古墳です。
聖徳太子が、お母さんと后と一緒に埋葬されているなんて記述ありません。
遺言により、息子の竹田皇子と后とが眠るお墓に合葬されたのは推古です。

     
                             




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法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の「法興元」の謎

2015年05月04日 | 聖徳太子の謎


天武が皇祖と仰ぐのは押坂彦人大兄皇子であり、日本書紀において皇祖と表現されて
いるのはこの押坂彦人大兄皇子と皇祖天照大神のみです。
敏達天皇と王后であった物部氏の姫である穴穂部間人皇女との子であり第一王子です。
皇后であったとされる広姫はお母さんではありません。


竹田皇子は、推古は女帝ですから両親が天皇だという極めて重要な人物です。
このふたりが日本書紀にほとんど登場しないなんてありえません。

そう、もう何度も登場しています。皇太子の名称で。
押坂彦人大兄皇子も竹田皇子も、ともに皇太子であるわけです。

そもそも、厩戸皇子が用明天皇と穴穂部間人皇女との子であるなら、この二人をさしおいて
皇太子と呼ばれることはありえない。

聖徳太子の名称はもちろん後のものです。この二人の皇太子の事跡が、
一人の聖徳太子という名称でひとつにまとめられているのです。
だから聖徳太子は超人的な人物になっているのです。
ふたりでひとりの聖徳太子なのです。

日本書紀は、この押坂彦人大兄皇子が王に即位したことが消されています。
押坂彦人大兄皇子を大王としたくないのは対立していた渡来人である天智系天皇の
桓武天皇や藤原氏なのです。
この押坂彦人大兄皇子が大王なら、皇太子は竹田皇子です。


法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の謎を解きます。
この法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の解釈に関しては、大きな二つの間違いがあると思います。
一つは前述した「上宮法皇」です。

もう一つは「法興元」です。

この法興の元年とは、崇峻天皇4年(591年)ではなく、聖徳太子が大王になった593年です。
推古元年ではなく、聖徳太子元年である。法興寺の刹柱の礎の中に佛舍利を置いた年です。
こういうのは王が交代してからでしょうが??

王が交代した元年であり、この年号の名称の「法興」はもちろん法興寺からとられてる。
この問題は、ごくごく常識的に考えたら解ると思いますが・・・?

法興寺は飛鳥寺のことで、蘇我氏の氏寺であるわけですから、
もちろん蘇我馬子と竹田皇子が著した天皇記における蘇我氏の私年号です。

日本書紀・・・
元年(593年)春正月壬寅朔丙辰、以佛舍利置于法興寺刹柱礎中、丁巳建刹柱。


この法興元年ですが、・・・釈日本紀に伊予国風土記の逸文が残っていて、法興六年は推古4年
にあたり591年だそうです。

法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣・・・ 

どうして591年なのでしょう?元年を591年にする理由がなにもないでは
ありませんか?おかしいとは思わないのでしょうか?

日本書紀に、上宮聖徳法王帝説に、釈日本紀に記述されているから間違いないと
するのはどうなのでしょう?

日本書紀において、推古の年齢を冒頭において間違えています。

日本書紀推古天皇条

豐御食炊屋姬天皇、天國排開廣庭天皇中女也、橘豐日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女、
姿色端麗、進止軌制。年十八歲、立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歲、
渟中倉太珠敷天皇崩。

ここ、日本書紀 山田宗睦 訳 
注釈そののままですが・・・
36年3月7日条の崩年75歳とすると(18歳は欽明32年に当たる)
敏達との死別は、34歳ではなく32歳となる。即位は39歳。

ほら、2年間違えてる、これがどう影響したかはわかりませんが・・・?
こういうには、王が交代した元年でしょうと思うのですけど?

日本書紀には聖徳太子が大王に即位したことが消されています。

日本書紀のこの文章が問題箇所のように思います・・・
元年春正月壬寅朔丙辰、以佛舍利置于法興寺刹柱礎中、丁巳建刹柱。夏四月庚午朔己卯、
立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也、母皇后曰穴穗
部間人皇女。・・・

ここ、おそらくですが、591年に天皇に即位したのが推古であり、593年に大王に
即位したのが厩戸皇子なのでは?

この捏造文の挿入により、推古条の「皇太子」は全て厩戸豐聰耳皇子になってしまっている。

夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲大王、仍錄攝政、以萬機悉委焉。
こうだったように思うのですが・・・???

本来は、推古ではなく、聖徳太子の御世であるわけですから、元年の表示は聖徳太子元年の593年です。


法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣・・・
ここも法王は竹田皇子、大王は押坂彦人大王です。病気がちだったのは竹田皇子です。

そして大きな問題は、上宮聖徳法王帝説の著者の法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文のトンデモ解釈です。
この解釈の影響がいまも続いています。
この法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にある上宮法皇を、竹田皇子ではなく、厩戸皇子だとして間違って解釈
(銘文後半部分)している?
おそらく、この間違った解釈のもとは天寿国繍帳の捏造銘文における上宮聖徳法王帝説の著者の法隆寺金堂釈迦三尊像
の銘文の間違った解釈です。


上宮聖徳法王帝説・・・
鬼前大后(かむさきのおおきさき)は、即ち聖王の母の穴太部間人王(あなほべのはしひと
のひめみこ)也。鬼前と云うはこれ神前(かむさき)也。何故に神前の皇后と言うとあらば、
この皇后の同母弟、長谷部天皇(崇峻天皇)、石寸神前宮(いわむらのかむさきのみや)に
天の下治しめしき。若し疑うらくは其の姉の穴太部王、即ち其の宮に坐すが故に神前皇后
(かむさきのおおきさき)と稱す也。

もし疑うのであればって云っていますが、なんか自信のない表現ですよね。
それでは、疑ってあげます・・・
というか、・・・ここおかしいって指摘は多くあるじゃないですか?
なのに、何故信じられているのでしょうか?

崇峻天皇の宮は倉梯柴垣宮であり、石寸神前宮ではありませんよね?
(でもこれが本当の宮かもしれません)
神前は神じゃないですか、神はカムですが、鬼ですよ。名前に鬼の文字を使うのでしょうか?

この鬼前太后を名前として、お母さんの穴穂部間人皇女のことだとしています。
ただ名前に「鬼」の文字をさすがに使うわけないとは思うのですが?

この「鬼」は「魄」の省字で、月の朔(ついたち)のこと。あるいは晦日のこととも
いわれますが、この「鬼」は日付の意に解釈するのがいいのではないでしょうか?
鬼で区切って、前太后とするのがいいのでは。

この著者も「上宮法皇」は厩戸皇子だとして全く疑っていないからです。
でもね、日本書紀をみれば誰もがそう思いますよね。


それで、推古と敏達の子の竹田皇子の后は誰だかわかりません。
この竹田皇子は、日本書紀などの資料から記述がなくなっているので早くに亡くなったとされています。
そーではないのです。何度も登場しています。そう皇太子の名称で。
上宮太子とはこの竹田皇子です。日本書紀の推古条の皇太子とはこの竹田皇子です。

竹田皇子の后は、聖徳太子の妃とされている女性たち、この菟道磯津貝皇女、
膳部菩岐々美郎女、橘大郎女、刀自古郎女の4人でいいと思うのですが・・・?
本当の聖徳太子とはこの竹田皇子です。
聖徳太子の謎は、わかりやすくいえば厩戸皇子は聖徳太子ではないということです。


この前太后は、おそらく厩戸皇子(押坂彦人大兄皇子)の姉妹の東宮聖徳(竹田皇子)
に嫁いだとされる菟道磯津貝皇女です。皇后は敏達と広姫の娘であるこの女性です。
この、東宮聖徳の東宮は、忍坂の宮で、竹田皇子のことです。

そして、もうひとつの王后も「干食王后」とよむ説もあり、この干食王后は、
膳部菩岐々美郎女だそうです。
「かしわで」と読むそうなのですが???これも無理でしょうに?読めるの?
ここも、「干食」こんな文字を名前に使うのでしょうか?
ここは、病に倒れて寝込んでしまい、食べ物を摂ることもできずに病状はよくな
かったという意味でしょう?

ただ、この王后は、「かしわで」とは読みませんが、偶然ですが膳部菩岐々美郎女で
いいように思います。


上宮法皇は竹田皇子で、日本書紀の推古天皇条において皇太子と表現されているのは、
この竹田皇子のことです。
蘇我馬子が、推古の息子である可愛い蘇我の皇子のことをなんら記述しないってことは
ありません。

蘇我馬子は竹田皇子の病気が回復するように神様にお願いしています。

隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等
取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえの
みこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴
沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて
開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。


日本書紀は、重要な厩戸皇子の命日を間違えているとされていますが、病気になって
なくなったのは推古の子である竹田皇子です。

624年の2月5日が厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の命日で、2月22日が竹田皇子の命日です。
ほぼ同時期に亡くなっています。
蘇我馬子がこの鏡を作らせ奉納した翌年に亡くなっています。聖徳太子の没年は624年です。

隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の内容と、法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文の内容は合致します。

上宮法皇とは、推古天皇の子供の竹田皇子です。
法皇と「皇」の文字がつくのは、本来は蘇我の王のことです。


両親を天皇にもつ竹田皇子は、非常に重要な人物なのに、書記にはほとんど
その事績がないのは、彼の事績が聖徳太子のことだとされているからです。
蘇我氏憎しの天武は、天皇記の推古条において皇太子と表現されていた
竹田皇子の事績を、祖父の押坂彦人大兄皇子こと厩戸皇子の事績として
取り込んだからです。
厩戸皇子が大王に即位すれば皇太子はこの竹田皇子です。

この釈迦三尊像は、竹田皇子が倒れてから、造られたものではありません。
従来の説では、この釈迦三尊像は一年程で完成したとうことになりますが、
それは不可能だとも言われます。
倒れる以前から、病気がちだった皇子の回復を祈って皇后や王子が造ったものです。

そして、この銘文は亡くなってから彫られたものです。
だから奇妙な文になっている。
病気が治癒するようにお願いするはずなのに、なぜか治らなければ浄土にいけるように
と願っているのは、この像は、存命中の623年に完成しているのだけど、銘はなく
なってから彫られたものだからです。



法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文・・・

法興の元(593年推古元年 本当は聖徳太子元年)より三十一年(623年)、歳は辛巳に次る十二月鬼(一日?)、
前太后(竹田皇子の前の皇后、おそらく菟道磯津貝皇女(東宮聖徳に嫁いだ))崩ず。

明年(624年)正月二十二日、上宮法皇(竹田皇子)、病に枕し、干食し悆からず
王后(竹田皇子の次の妃膳部菩岐々美郎女)、よりて労疾を以て、ならびに床に著きたまふ

時に王后(膳部菩岐々美郎女)・王子等、及び諸臣と與に、深く愁毒を懐きて、
共に相ひ発願す
仰ぎて三宝に依りて、当に釈像の尺寸王身なるを造るべし。
此の願力を蒙り、病を転じ寿を延し、世間に安住す。
若し是れ定業にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、
早く妙果に昇らむことを。

二月二十一日癸酉の日、王后即世す。翌日法皇登遐(崩御)す。

癸未年(623年)の三月中、願の如く敬みて釈迦の尊像ならびに侠侍、及び荘厳の具を
造り竟りぬ。
斯の微福に乗り、信道の知識、現在には安隠にして、生を出でて死に入らば、
三宝を紹隆して、共に彼岸を遂げ、六道に普遍する法界の含識も、苦縁を脱することを
得て、同じく菩提に趣かむ。
司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。

つまり、本来は聖徳太子が大王に即位した年を元年(593年)としていたのを、推古が天皇に即位した
年(591年)を元年とした間違えだと思うのですが・・・。
聖徳太子没年が622年とされているのは、法興元年を本来は593年からなのに591年から
数えているからです。


              






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