聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

持統天皇の謎と藤原京

2017年08月19日 | 日本書紀の謎


写真は藤原京跡です。
天武天皇は、新たに王都の造営を開始しました。現在の藤原京跡地は、大和三山に囲まれていますが、
本来は、この大和三山が王都の中に治まるほど広大な都だともされます。そして、天武の遺志を継いで、
皇后である持統が造営したとされます。

持統は、690年にこの藤原の宮で即位したとされ、694年に遷都しました。この694年から
710年まで、持統・文武・元明天皇3代にわたる都だったとされます。
本当なのでしょうか?持統天皇、藤原不比等によって歴史は変更されている。
日本書紀、古事記は偽書です。本来の歴史は闇の中に・・・。( ノД`)シクシク…

それで、この藤原京の名称なのですが、・・・なぜに藤原なのでしょうか?おかしいでしょうに?
日本書紀に藤原宮との記述があるから、藤原京と名付けたようなのですが・・・藤原京???

なにが藤原京、藤原宮じゃああああああーふざけるなー・・・て言いたいんですけど?

何故に臣下の名を都の名に付けるのでしょうか?何かおかしいとは思いませんか?わたしは
凄く不思議に感じるのですけど・・・?名付けた学者も学者なんだけど、誰も反対しなかったのでしょうか?


そして、ここは持統の宮とか言っているけど・・・そうでしょうか?
ここはもちろん大王の宮。そう天武の長男である第一皇子の高市皇子の宮であり、王都であるのです。
高市皇子の子供は長屋王です。彼らが大王で、大きな宮に遷都していたのでは対立していた
藤原氏には都合が悪いのです。そう彼らが大王に即位していて、この王都が彼らの王都、宮だった
ことが変更されているのです。

藤原京ではなく「新益京・あらましのみやこ」でいいんじゃないですか?
宮とは建物のことをいうのですが、・・・この藤原の宮は、都の中心にある建物、天皇の住む内裏、大極殿、
朝堂院などのこととされますが、その中心の建物が、藤原の宮なんて呼ばれていたはずはない。絶対にありえません。

藤原ですよ???こんなの常識的に考えても分るでしょうに???

つまり新益京の中に藤原宮(藤原氏,不比等の住居)があり、持統はこの藤原不比等の住居で
天皇に即位したということです。

持統の後ろ盾になっていたのは藤原不比等じゃないですか。
ですが天皇とは大王ではない。持統は息子の草壁皇子 や孫の軽皇子を王位に就かせたいために
藤原氏の力を借りたわけです。
そして、藤原氏は、文部天皇に藤原宮子、聖武天皇に藤原光明子を嫁がせ天皇の外戚となって
権力を保持することになります。藤原氏は関係するこの文部天皇、聖武天皇の方が王に相応しい
と系譜を改竄したのです。天孫降臨です。

つまり、持統は天皇ですが、大王は高市皇子です。天武の長男である第一皇子の高市皇子が、
当然大王に即位している。この高市皇子と、その皇子の長屋王と対立していたのは、持統天皇や
藤原氏です。天皇と大王、王座が二つある状態でもあったわけです。彼らの系譜もまた改竄されている。

天武天皇が、当初に計画していたのは凄く広大な都でした。しかしわずか16年の短命に終え、
平城京に遷都されます。凄く不思議なはなしですよね。何故に短期で平城京に遷都されたかというと、
この王都が、高市皇子と長屋王の王都だったからです。持統が天武の遺志を継いで道営したのではない。

この藤原京の名称は明治時代に名付けられたものなのですが、良くない。これじゃーまるで藤原氏の
王都という印象を受けるじゃないですか。
臣下の名を王の都に付けるべきではない。これは変更するべきです。

ウイッキベディア・・・倭京。歌の記述があるので参照させてもらいます。

676年以降の「京」に関連して渡辺晃宏は、『万葉集』の「大君は神にし坐せば赤駒のはらばふ
田ゐを都となしつ」(大伴御行)、「大君は神にし坐せば水鳥のすだく水沼を都となしつ」(作者不詳)
の両歌は、飛鳥浄御原宮のことではなく、新益京(藤原京)の造営を詠ったものとみてよい、と述べている
  **************************
この王都は、もとは天武が造り始めたわけです、天武の後は、もちろん第一皇子の高市皇子の王都であったわけです。
それとこの歌に注目してください、もう何度も言いますが、大君(おおきみ)であって天皇ではないですよね。
天武は「おおきみ」って呼ばれていたわけです。本来、天皇は大王ではなかったわけです。

記紀が大王ではなく、天皇の呼称を使用したのは、持統が即位したのが天皇だったからでもあるのです。
天皇は大王ではない。持統そして、元明、元正も天皇だったからです。
古事記・日本書紀は、この天智の娘である元明天皇の時代に編纂されている。

それで、面白いこと気づいたのですが、・・・

初代天皇は推古です、2代目は大安寺伽藍縁起并流記資材帳にある、袁智天皇(茅渟王の娘 遠智娘 持統のお母さん)、
3代目は持統、4代目は元明、5代目は元正、(草壁皇子の立太子そは軽皇子(文武天皇)の即位を正当化
するために後世作為 )・・・あれ???みんな女性ですよね。蘇我の女帝が天皇?
持統はお母さんが即位していた天皇に即位したのです。

古代の歴史を改竄したのは、蘇我馬子、藤原氏、光明皇后、そしてもうひとり、それは持統天皇なの
ではないだろうか。
持統は天智の娘であり、その天智は渡来人の血が入る人物だったからです。そして、持統は本来は
蘇我の王である天皇に即位したのであって大王ではない。そして天武の皇后は額田王であって持統ではない。

持統が天皇時に大王に即位していたのは、もちろん天武の長男である高市皇子であって、
彼は天武と額田王との王子です。

天武の最初の后は 額田王であり、彼女が皇后です。持統ではありません。
第一皇子である高市皇子と第一皇女の十市皇女はともに、天武とこの 額田王との子供たちです。
ですが、高市皇子が大王に即位したのを消すために系譜の改竄がされている。 王家の女性である額田王の出自と、
高市皇子のお母さんを胸形徳善女の尼子娘という身分の低い女性に変更されている。


そして、持統は自身と息子である草壁皇子 、孫の軽皇子を王として即位したとするために、
お父さんである天智の系譜を改竄する必要があったのです。それは天智は渡来人、
そして蘇我氏の血を引く人物だからです。
持統は孫の軽皇子 の皇位継承の正当性を述べるためには系譜の改竄を必要としたのです。

天武崩御後に天皇になったとされる、持統、文武、元明、元正天皇 聖武天皇 は大王ではありません。
天皇です。持統もまた天皇の呼称を使用してたのです。
天武のあとは、もちろん第一皇子である高市皇子、そして長屋王・・・彼らが大王でした。
長屋王の死後、天皇が大王にとってかわったのです。

今回は、蘇我氏とは、もと息長氏なのでは?・・・という疑問から、あらためてもう一度、
持統のお父さんである天智天皇と祖父である舒明天皇の謎を考えてみます。

以下もう何度も記述してきましたが・・・
ウイッキベディア・・・
皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、
臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
 『日本書紀』推古28年是歳条
******************************
聖徳太子(竹田皇子)と蘇我馬子は、天皇記・国記を編纂したとされます。蘇我馬子が編纂
したということからも判断できますが、
これ本来は蘇我氏の歴史書です。天皇とは本来は蘇我の王の呼称でした。

蘇我馬子により、古代の王家に蘇我氏を繋げる改竄がなされている。

この古代の王家とは、後に物部とされた氏族です。何故かっていう理由は簡単。
それは、この物部氏は非常に広範囲に分布するからです。これはイコール広大な領地を
保有していたということです。こんな単純なことが全く理解できていない。

この物部氏は、九州から関東、北陸まで広範囲に分布します。また関係する物部神社も同様に
広範囲に存在します。いうところのヤマト王権、大和朝廷です。

古代は力の時代です。大きな領地、大きな軍事力を持つものが他を征服するわけです。
古代から天皇家っていう氏族が存在していたとするなら、天皇家の支配していた領地って
どこにあるのでしょうか?どこにもないじゃないですか?
今の象徴天皇の感覚で考えては理解できない。
天皇家なんて存在していない。本来は大王と呼ばれていたわけで、天皇なんて呼ばれていたわけではない。
蘇我氏が権力を得、蘇我の王である天皇と、大王が存在するようになった。

この天皇記・国記の推古条には推古の息子の竹田皇子が皇太子の名称で書かれていました。
この蘇我氏の歴史書である天皇記・国記を基に、後の歴史書は編纂されている。
歴史は勝者によって書かれるわけです。勝者は天智系天皇と藤原氏です。

するとですよ、何故に、後の、つまり日本書紀・古事記は、本来の王の称号である「大王」ではなく、
蘇我の王である「天皇」の呼称を使用したのでしょうか?それは、持統が即位したのが天皇だからと
もいえるのですが、謎は、天智天皇にあるように思います。もしかしたら天智は蘇我氏にも関係する人物なのでは・・・?

複雑になっているのは持統天皇はこの天智の娘だからです。そして、彼女もまた改竄された
系譜に関わる人物であるからです。
持統のお母さんである遠智娘は 、大王であることを消された、茅渟王の娘です。
ですので、持統は母系で王家と繋がりますが、問題は天智です。

持統はお父さんである天智の地位を上げる操作をしている。そして、持統は天皇に即位したのであって、大王ではない。
記紀が天皇の呼称を使用した一つの大きな理由です。

蘇我氏とは、もと息長氏なのでは?この息長氏に関しても、多くの謎がある氏族といわれます。

蘇我馬子と聖徳太子によって編纂されたという、天皇記、国記は蘇我氏の歴史書です。
この歴史書は、応神天皇から、推古天皇までを記述されていたと考えられます。つまり、
この応神天皇は蘇我の神様です。

その蘇我の神様が、何故息長氏に関係する人物なのだろうか?疑問はここから始まりました。
そして、何故に、後の歴史書、日本書紀、古事記は蘇我の王の呼称である「天皇」の呼称を用いたのだろうか?

この息長氏の代表的な人物といえば、息長帯日売こと神功皇后 です。
神功皇后は、応神天皇のお母さんであり、応神天皇から継体天皇に繋がります。
そして、蘇我氏が祖とする、武内宿禰 (神武天皇)こそ応神天皇のお父さんであるというような記述の仕方もしています。

息長氏の重要人物は、蘇我氏の重要人物に関係する。

そして、蘇我氏が関係する、舒明天皇は何故か 息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)です。
どうしてなのだろう?

これは、蘇我氏が関わる人物だという名前なのではないのだろうか?謎は、天智、天武のお父さんとされる、
舒明天皇の謎に関わります。

つまり、この舒明天皇は欽明天皇と同様に蘇我の天皇である。彼らは蘇我氏が関係する天皇であり、
実際に大王ではなかった人物です。すると、彼は蘇我氏と関係し蘇我の血が入っているはずです。
では、舒明天皇とは一体誰なのだろうか?


蘇我氏が王家と関わる人物、欽明天皇と舒明天皇の謎を考えてみます。
この二人は実際には大王には即位していない、いわば蘇我の王(天皇)です。
天皇とは、本来は蘇我の王の呼称でした。

この舒明天皇の謎から、日本書紀、古事記は何故に、「大王」ではなく、蘇我の王の呼称である
「天皇」の呼称を用いたかの理由も謎解けるようにも思うのですが・・・?

この舒明天皇とは、誰なのだろうか・・・?

謎を解く鍵は、この漢風諡号にあります。舒明天皇の漢風諡号の息長足日広額天皇とされます。
これ、つまり舒明天皇は、息長氏の人物、つまり蘇我の天皇だという諡号なのだと考えられるのではないだろうか?
漢風諡号は、天武天皇の皇子、淳仁天皇の御代だと考えられています。

そして、蘇我は、もともと息長だったのではないだろうか?息長氏の本貫地は河内であり、
本来は「磯長」「科長」・・・「シナガ」だったのでは?
息長はシナガなのでは?この地は神功皇后誕生の地という伝承も存在するとされます。

蘇我稲目から蘇我氏であり、それ以前は「息長、しなが」だったのでは?
この舒明天皇は欽明天皇と同様に蘇我の天皇である。蘇我氏が関係する天皇であり、実際に大王ではなかった人物です。

彼は蘇我氏と関係し蘇我の血が入っているはずです。では誰なのだろうか?
系譜の改竄は、案外単純なものなのではないのだろうか?
宝女王は2度結婚しています。最初の夫が高向王であり、次の夫は舒明天皇だとされます。
そうではなく、これまで、なんども記述してきましたが、天智と天武は兄弟ではない。
最初の夫はが高向王で次の夫が天武のお父さんである 山代王である。舒明天皇とは、この二人をまとめたような人物です。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―山代王―天武天皇―高市皇子―長屋王

天武のお父さんは、厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の王子である山代王であるのですが、
ここが消されている。これは藤原氏による改竄です。上記の彼らが本来の王家の大王では都合が悪いのです。
山代王を暗殺したのは、「山背大兄王暗殺の謎と中臣鎌足」で書きましたが、中臣鎌足 と天智天皇の祖父?
である秦河勝 です。

乙巳の変と山背大兄王暗殺は、関係ないような記述ですが、そうではなく理由は同じです。
百済救援に反対の彼らを暗殺したのです。

宝女王の最初の夫とされるが高向王こそ舒明天皇ではないのだろうか?
つまり、この舒明天皇というのは架空に人物である。いわば、高向王と山代王、二人を一人に纏めた人物が舒明天皇である。

それでは、この高向王とは一体何者なのだろうか?

ウイッキベディア・・・
田目皇子

用明天皇の第一皇子。母は蘇我石寸名(蘇我稲目の娘)または意富芸多志比売。
子に男子一人(一説では高向王(宝女王の最初の夫、漢皇子の父)と佐富女王がいる。聖徳太子の異母兄。

  ******************************
この用明天皇の第一皇子である田目皇子の子供が高向王だという説があるようです。
この説は詳しくはわかりませんが・・・?ここから推測していきます。

この田目皇子 は、別名、豊浦皇子ともされます。これは蘇我の皇子といえる名前であり、蘇我氏が関わる人物です。
この蘇我稲目の娘を母に持つ豊浦皇子 こと田目皇子の子供が高向王ともいわれます?
つまり、蘇我の女性を母とする蘇我の皇子である、田目皇子の子供が高向王こと舒明天皇なのではないだろうか?
すると彼は。蘇我の王であるわけです。
蘇我馬子が編纂した、天皇記・国記を編纂時に、蘇我の王である天皇とされていた人物です。

そうすると蘇我蝦夷はなぜに舒明天皇を擁立したかとうい説明もつきます。
系譜どおりに、押坂彦人大兄皇子と、糠手姫皇女 との皇子では、まったく蘇我氏と繋がらないわけで矛盾します。
舒明天皇こと高向王は蘇我蝦夷によって、天皇にたてられた、蘇我の皇子です。

舒明天皇のお父さんは、田目皇子であり、お母さんは、何度も記述してきましたが、漢王の妹とされる大俣王 です。
この田目皇子と大俣王との子供が高向王であり、舒明天皇です。

つまり舒明天皇なんて存在していない、・・・というか舒明天皇とは、系譜を改竄するための人物
(王家と繫げるための人物)であり、本当はこの高向王のことなのでは?

舒明天皇は、押坂彦人大兄皇子 の子供だとされているのは、天智を本来の王家に繫ぐためであるわけです。
そうすると、持統は男系で王家と繋がるわけで、天武の皇后だったと主張できるわけです。本当の天武の皇后は額田王です。

そして、寶女王こと、斉明天皇と高向王との皇子の名が「漢皇子」ですよね。
これ、祖母が漢王の妹とされる大俣王だからに他ならないようにも思うのですが、・・・?

じゃー、この「漢王」っていうのは誰なのでしょうか?

この「漢皇子」というの天智のことなら、つまりこの「漢王」というのは、これも既に何度も記述してきましたが、
天智はこの百済に関係する秦河勝の子供か、あるいは年齢的には孫であであると推測してきました。

舒明天皇の謎から推測すると、秦河勝の妹の孫が天智なのでは?つまりこの「漢皇子」こそ天智であり秦氏の血を引く人物なのでは?

この「漢王」というのは、つまり中国の王という意味であり、この名をを名乗るからには、もちろん渡来人であり、
この時代その渡来人の王は秦氏の族長である、秦河勝であり、そのルーツを秦の始皇帝に求める 彼は「漢王」を
名乗ったのではないのだろうか。

そうすると、天智天皇はまったく王家と関わりのない人物ではなく、また寶女王と高向王との子供の名が何故に
「漢皇子」かも説明がつきます。
ただ出自的には、渡来人の血が入り次期の王としての候補者としては遠い位置にいたわけです。


でも、どうなのだろう?お母さんは本当に寶女王なのだろうか?ここに関しても私には疑問があるのですが・・・?
渡来人を祖母に持つ天智系天皇、つまり持統天皇などは、本来の王家に繫ぐ必要があった。
これは持統天皇による改竄なのでは?
つまり、天智天皇を本来の王家、押坂彦人大兄皇子こと日十大王に繫ぐ改竄がなされている。 寶女王の子供なら女系でも繋がる。


天智のお母さんは、本当はこの寶女王(皇極天皇・斉明天皇) ではないのでは?

寶女王の弟の孝徳天皇と争ったのはこの天智であり、お父さんである茅渟王 や押坂彦人大兄皇子が大王だったことが消されているからです。

寶女王は天武のお母さんであって、天智のお母さんではない。
では天智のお母さんは誰なのだろうか? 

系譜の改竄は案外単純なものです。舒明天皇 の后とされる誰かなのですが・・・簡単に見つけられます。
舒明天皇の后に、実に不思議?な女性がいます。

そう敏達天皇と推古天皇との皇女の 田眼皇女です。敏達・推古両天皇の皇女なのに子女は不詳であり、
しかも皇后ではありません。おかしいですよね。これ系譜が改竄されているからなのですが・・・。
彼女はこそ高向王の后であり、天智のお母さんなのではないだろうか?

ウイッキベディア・・・田眼皇女

甥の舒明天皇の妃となり、子女は不詳とされている。父・敏達天皇が敏達天皇14年8月15日(585年9月14日)
に崩御したことと、同母妹に桜井弓張皇女がいることから判断すると、遅くとも敏達天皇14年の生まれとなり、
推古天皇元年(593年)生まれと言われる夫の舒明天皇より8歳以上年上となる。尚且つ桜井弓張皇女は田眼皇女
の同母妹であるにも拘らず、舒明天皇の父・押坂彦人大兄皇子の妃となったと言われる。日本書紀の舒明紀には
舒明天皇の后妃紹介記事に載せられていないことや、敏達・推古両天皇の皇女である彼女よりも天皇との血統が
遠い(敏達天皇の曾孫)宝女王(のちの皇極天皇)が舒明天皇の皇后とされている点から、舒明天皇即位前に亡くなったと推測される。

  ******************************
系譜の改竄がおこなわれたために、不自然になっている箇所が記述されています。

*敏達・推古両天皇の皇女なのに子女は不詳
*敏達天皇の晩年の子供だとしても,夫の舒明天皇より8歳以上年上
*桜井弓張皇女は田眼皇女の同母妹であるにも拘らず、舒明天皇の父・押坂彦人大兄皇子の妃となった
*敏達・推古両天皇の皇女である彼女よりも天皇との血統が遠い宝女王が舒明天皇の皇后とされている

これ、つまり、田眼皇女は敏達 と推古の娘ではないからです。

それでなのですが、・・・この皇女は田目皇子と同じ名前でしょう。
田目皇子の娘が田眼皇女ではなのではないだろうか?

つまり、天智のお父さんは、田目皇子と、漢王(秦河勝)の妹とされる大俣王との子供の高向王であり、
この高向王と異母妹?の田眼皇女との子供が「漢皇子」こと天智天皇なのではないだろうか?
天智は渡来人の血が入っているため本来は王に即位するには遠い存在だったのではないか?
持統はこの系譜を改竄する必要があったわけです。

用明天皇、蘇我石寸名ー田目皇子、 漢王の妹の大俣王(秦河勝妹)-高向王(舒明天皇)、田眼皇女ー
天智天皇(漢皇子)、遠智娘 ー持統天皇

舒明天皇の第一皇子とされる古人大兄皇子と天智は、異母兄弟であって、お母さんが馬子の娘の蘇我法提郎女
ということもあり、蘇我入鹿は 天智ではなく、彼を次期天皇に擁立しようとします。
乙巳の変をおこす理由のひとつです。そう秦氏対蘇我氏の権力争いでもあるわけです。

用明天皇の皇子がこの田目皇子であるなら、聖徳太子を用明天皇の皇子として系譜を改竄したため、
来目皇子は聖徳太子の弟ということになっていますが、本来は、この田目皇子の弟が来目皇子なのでは?

舒明天皇の謎は最近発見された、小山田遺跡からも推測できます。
この古墳ははまさしくこの舒明天皇こと高向王であり、彼は蘇我氏の血が入った蘇我の皇子であります。
ですので蘇我氏の拠点である明日香に存在し蘇我氏の墳墓である方墳なのです。

それで、ここが蘇我蝦夷のお墓だともされています。それは、ここが蘇我氏の拠点に存在するからです。
ですが、この高向王もまた蘇我の血が入った蘇我の王であるわけです。
だから明日香の地に眠るわけです。
この小山田遺跡が方墳であるのは、蘇我氏に関係する人物のお墓であるということであり、王墓ではない。
つまり、舒明天皇とは高向王のことであり、彼は王ではなかった人物です。

舒明天皇の初葬地とされる「滑谷岡」とはここ小山田遺跡です。こんな大きな古墳に埋葬されていたのに
何故に押坂内陵に改葬されたのでしょうか?おかしいですよね。
額田王の謎と推古天皇の謎でも記述していましたが、舒明天皇は改葬されて、
押坂内陵(段ノ塚古墳)に改葬されたとされますが、これは真実ではない。

何故にこんな嘘がかかれているかというと、改竄した系譜を正当化するためです。
そう舒明天皇というのは架空の人物です。天智を天武と同等の位に上げるための人物ともいえます。
系譜を改竄しないと、天智の娘である持統、その子供や孫はは王位に就けないからです。
この高向王もまた蘇我馬子や蝦夷、入鹿と同様に明日香の地に改葬されている。完成後すぐに破壊されたのは、
天武によって磯長に移葬されたのです。
こんな大きなお墓に埋葬されていたのに、すぐに破壊されたのは、移葬されたからに他ならない。



最後の2枚のの写真は薬師寺です。

天武の本来の皇后は額田王であって、彼女の出自が改竄されている。ですので、この薬師寺の建立の由緒に
ついても疑問があるのですが・・・?
天武は鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願したとされます。そう日本書紀においては、
鵜野讃良こと持統が皇后とされているわけですから、天武天皇9年(680年)11月12日条の、「皇后」は持統に
なるわけです。でもわたしは信じない。
もとはこの新益京(藤原京)の中にあったのですが、平城京に移転に伴い現在の場所に移転されました。
それで、日本書紀のこの「皇后」なのですが、・・・持統は額田王が亡くなってから皇后になった可能性は
あるとは思うのですが、本来の天武の皇后は額田王です。ですので、建立時に病気だったのは、本当は額田王
だったように思うのですが?どうなのだろう?
額田王は、後に天智天皇の后となったという説がありますが、やはり、これは疑問ですよね?

天武天皇と、この額田王との子供の十市皇女から、女系ですが、古代の大王家と今の天皇家は繋がっています。

                                   





     




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