聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳の謎

2017年01月29日 | 聖徳太子の謎


今回は、古墳のお話です。明日香にある、見瀬丸山古墳は、最後の前方後円墳です。
そして奈良県最大であり、全国でも6番目の巨大古墳です。
なのに、いまだこの古墳の被葬者を特定できていません。
それは、日本書紀、古事記を参照しているからです。記紀は歴史を改竄するための偽書です。

今回は、この見瀬丸山古墳の謎を考えていきます。多くの謎があるとされ、被葬者不明のままの
この見瀬丸山古墳こそ、 聖徳太子の御陵なのでは?

この丸山古墳は、もとはこんなに巨大な前方後円墳ではありませんでした。聖徳太子改葬時に、
大きなお墓に造り直したのです。

ふたりの聖徳太子。推古の息子の竹田皇子は、推古天皇陵である、磯長山田陵に改葬されています。
そして、もう一人の聖徳太子、そう厩戸皇子こと天武の祖父の押坂彦人大兄皇子のお墓こそ、この
丸山古墳なのではないだろうか・・・?
もうひとりの聖徳太子こと厩戸皇子もまた改葬されて、この巨大な前方後円墳に眠っているのでは
ないだろうか?天武によって、皇祖の名にに相応しいお墓に改葬されている。
この古墳の謎に関しても、・・・聖徳太子はふたりいたとする私には謎解けるように思うのですが?

謎は、隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王こと、天武の祖父の押坂彦人大兄皇子や、王子の
茅渟王、 山代王が大王だったことが消されていることが関係します。。
彼らが大王では、都合が悪いのは蘇我氏や天智系天皇、そして藤原氏なのです。当然、大王なら、
もちろん大きなお墓に葬られているはずです。


それでは、継体天皇陵、欽明天皇陵の謎から、推測していきます。
記紀を信用してはいけません。特に蘇我氏に関する系譜は改竄されている。
この継体天皇、欽明天皇は蘇我氏に大きく関係する人物です。

欽明のお父さんである継体天皇に関しては、実在が確実視されていて、この後、万世一系で現天皇
まで繋がっているとされます。しかし残念ながらそうではありません。継体は王に即位していません。
王に即位していない人物が、巨大なお墓に葬られることはありえません。
古代の天皇陵の治定には、多くの間違いがあるともされます。考古学的な知見により、治定されている
築造時期がおかしいからという理由なのですが、実際に大王だった人物を、王ではなかったとして改竄
したために、特に巨大な古墳の被葬者を変更しなければならなかったからです。
これは、記紀によって歴史を改竄されているからです。前王朝は物部氏が大きく関わるため、大王だった
ことが消されている人物が沢山います。
古代の王のお墓だろうと考えられる巨大な古墳の治定は、ほぼ全部間違っています。

ですので、記紀の記述を参照しての治定はとんでもないことになります。
特に、古代の大王のお墓とされる巨大な前方後円墳については改竄されている。そう、前方後円墳は
物部系の大王たちのお墓です。それは、王家とは後の物部氏だったからです。
蘇我馬子は、歴史を改竄したため、大きなお墓の被葬者も変えなければならなかったからです。
また、天武系(物部系)の大王と対立する、天智系天皇や藤原氏も同様に、大王だとしたくない人物が
巨大なお墓の被葬者にすることができなかったための改竄もあります。
記紀を参照して、丸山古墳の被葬者は欽明天皇と堅塩媛が有力だとされていますが、これはありえません。
また、蘇我稲目のお墓というのは論外です。


以前にも少し触れましたが、・・・
これも最終期の前方後円墳ともされる、欽明天皇陵とされる檜隈坂合陵の謎から推測していきます、・・・

壬申の乱で、勝利した天武天皇は、翌年即位し、それまで蘇我氏が拠点としていた、明日香の地に宮を
営みます。飛鳥浄御原宮です。後の持統天皇もまたこの地で営まれたため、天武・持統朝ともいわれます。

そして、天武・持統陵は、明日香にある檜隈大内陵(桧隈大内陵、ひのくまのおおうちのみささぎ)
に治定されています。古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされます。考古学名は
野口王墓古墳といいます。

この、天武・持統陵である、檜隈大内陵の傍に、欽明天皇陵とされる檜隈坂合陵があります。
梅山古墳とよばれます。北隣に見瀬丸山古墳があります。
いまは五条野丸山古墳ともいわれるようです。両古墳ともに、最終期の前方後円墳とされます。
これら前方後円墳が消えていく理由は簡単です。物部が滅び蘇我氏が天下を取ったからです。
いわば物部系の王のお墓が前方後円墳であり、それを避けて蘇我氏に関係する王墓は方墳にしたわけです。
蘇我馬子は、物部氏を滅ぼし、蘇我氏に関係する天皇が権力を握ります。


天武・持統陵の傍に存在する、このふたつの前方後円墳古墳は、ともに天武に関係する大王たちのお墓なのでは?
どちらも欽明天皇陵であるはずがないし、また蘇我氏のお墓でもありません。
天武の、お父さんと伯父さんのお墓です。後に皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大兄皇子が移葬されたのです。

もう何度も記述してきましたが、押坂彦人大兄皇子と、その王子たち、 茅渟王、 山代王が大王だったことが
消されています。
理由は以下の系図です・・・
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―山代王―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子


蘇我氏が関係する欽明は、王ではありません、後に繋がる蘇我の王たちを、古来から繋がる王家と
関係していたとするための改竄です。蘇我馬子は初代天皇である、推古のお父さんの欽明を遡って
王にしたのです。もとは天皇は大王ではありませんでした。天皇とは蘇我の王の呼称でした。

蘇我氏が歴史を改竄するために、蘇我氏と関係していた、畿内北部の王である 継体の皇子を、王、
つまり天皇の呼称を使用して改竄したのです。
過去にさかのぼって、継体と欽明を、王(天皇)だったとしているわけです。
この改竄は、蘇我馬子によって編纂された、天皇記・国記の編纂時においてです。
ですので、彼らのお墓は巨大なものではありません。
欽明天皇は、王家(物部)の陵墓である巨大な前方後円墳に埋葬されるはずは絶対にない。
記紀はこの蘇我氏の歴史書である天皇記・国記をもとに編纂されている。

この古墳に関しての改竄において、解かり易い例は、この欽明天皇のお母さんであり、仁賢天皇の皇女
とされる、手白香皇女のお墓です。
もう以前に記述しましたが、この手白香皇女は、仁賢天皇の皇女とされます。
欽明のお父さんや、お母さんを古代の王家に繫ぐための系譜の改竄が行われている。
市辺押磐皇子から繋がる、顕宗、 仁賢 は王ではありません。
蘇我氏の女帝である、推古は、古代からの王家の血を引く天皇だとして改竄したのです。
顕宗、 仁賢を王に即位していたとして祖母を、古代の王家に繋げたのです。つまり、継体天皇の
后の中で、この手白香皇女だけが、王家の血を引き、その王子である欽明こそが正統であるというように
改竄しているわけです。蘇我の天皇たちは、この欽明から繋がります。

この改竄の結果、継体天皇と手白香皇女との皇子である欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖と
なったとされます。ですが、そうなるように系譜が蘇我馬子によって改竄されている。
いわば、欽明は蘇我の王であり、王には即位していません。

ですので、欽明と、お父さんである、継体、お母さんの手白香皇女のお墓は大きなものとして、
後に蘇我馬子によって改竄されている。推古の系譜を古代の王に繋げるため、また、欽明から
繋がる蘇我の天皇たちのほうが、古代の王家の血を引き継ぐ、正統な王だとして系譜の改竄がなされている。

この手白香皇女のお墓である、衾田陵は、西殿塚古墳が治定されていますが、これは明らかに
間違っていて、全く時代が異なるとされます。
古代の王家の王たちのお墓である、大和古墳群の中の巨大古墳が彼女のお墓であるわけがない。
おそらく、古代の王家と関連付けるための改竄です。

同じく、欽明、継体天皇に関しても巨大な前方後円墳ではありえない.巨大な古墳は、もちろん
大王のお墓であるわけで、お墓の被葬者を変更しなければならない理由です。箸墓古墳に関しても
同じ理由です。物部姫である、倭人伝の台与のお墓では都合が悪いわけです。記紀を信用してはいけません。


それでは、欽明天皇陵の謎に関してです。ここは以前に少し触れましたが・・・

欽明天皇陵とされる、梅山古墳の傍に吉備姫王(吉備島皇祖母命)のお墓があります。
猿石 と呼ばれる4体の石像があることで有名です。また、近くの鬼の雪隠傍にあるカナヅカ古墳という
お墓が、本来の吉備姫王ともされますが、どちらにしろ、吉備姫王のお墓は、梅山古墳の陪塚とされます。

すると、梅山古墳の被葬者とは近い関係にある近縁者なわけでしょう?
まず、当然のように吉備姫王の夫である茅渟王のお墓なのでは?と推測できますよね。

これ、ごくごく自然な推測でしょう・・・・でも、なんでこんな簡単な想像もできていないかと
いうと、欽明は天皇であり、茅渟王 は事績不明の人物であるからです。もちろん天皇だったという
記述もありません。しかもお父さんである、押坂彦人大兄皇子も王に即位したとの記述がありません。
ですので、大きな古墳の被葬者とは考えられていないからです。
これが、被葬者を特定できない一つの理由です。


本来は、この茅渟王は大王でしたが、大王だったことが消されています。
理由は上記系図です。天智系天皇や藤原氏もまた彼を大王だとはしたくないのです。この茅渟王の王子の
孝徳天皇、その王子の有馬皇子と争ったのは天智であり、 高市皇子、長屋王と争ったのは藤原氏です。
ともに 押坂彦人大兄皇子こと、日十大王から繋がります。推古が天皇の時代に大王でした。

押坂彦人大兄皇子、茅渟王、 山代王、彼らが大王だったことが消されています。聖徳太子の王子こと、
山背大兄王とは、この押坂彦人大兄皇子の皇子であり、同じ名前をもつ山代王のことです。
彼の子孫を消し去っているということは、ここが改竄個所ともいえます。
蘇我氏や天智系天皇、藤原氏にとっては、大王であることを消した人物が、こんな大きなお墓の被葬者
では都合が悪いのです。大きなお墓は、もちろん王のお墓です。

そして、この檜隈坂合陵の北となりに奈良県最大の前方後円墳とされる見瀬丸山古墳があります。
この古墳も、もちろん天武に関係する人物のお墓ではないのだろうか?ここもまた、欽明天皇陵なんかで
あるはずがない。この見瀬丸山古墳 の被葬者も謎だとされています。蘇我稲目のお墓という説や欽明天皇
と堅塩媛のお墓だという説ももあるようですが、これも絶対にありえない。それは、欽明は蘇我の天皇であり
大王ではないからです。

この、巨大な前方後円墳である見瀬丸山古墳こそ聖徳太子の御陵です。

この古墳は、巨大な前方後円墳であるので、もちろん本来の王のお墓です。
梅山古墳は茅渟王のお墓であり、その梅山古墳のそばに並んで造られていることからも、天武に
関係する人物以外考えられない。
この古墳、もとは押坂彦人大兄皇子の王子である、茅渟王の弟の山代大王のお墓だと思うので
すが・・・。つまり、7世紀中ごろに造られたものです。
そこに父である押坂彦人大兄皇子が、天武により後に改葬されたのです。

この山代大王こそ、天武の本当のお父さんであり、また茅渟王は持統の祖父です。彼はもちろん大王でした。
ですので、天武持統陵を傍に造ったのです。天智、天武の争いはこのお父さん暗殺により始まります。

山代大王のお墓が、最後の前方後円墳とされる見瀬丸山古墳であり、天武により後に山代大王の
お父さんである押坂彦人大兄皇子が改葬されたのです。それは、蘇我の人物として取り込まれ、
科長に埋葬されていたからです。
押坂彦人大兄皇子のお墓は、お父さんの敏達と広姫(本当は、もちろん穴穂部間人皇女)が
埋葬されている古墳の傍にあります。この科長は、蘇我氏の本来の本貫治でもあります。
科長は息長のことです。

蘇我の人物として系譜を改竄された人物たちがこの時代の墓所である科長に葬られている。
そして、敏達天皇は、この磯長陵から大塚山古墳 に改葬されたともいわれます。これも、
天武によって行われたと思うのですが?
丸山古墳と同様の方法で改葬されて、この大塚山古墳も巨大な前方後円墳になっている。

推古天皇の息子の竹田皇子のお墓と同様に、押坂彦人大兄皇子のお墓は小さなお墓でした。
これは何らかの理由(伝染病かな?)で早くに葬らなければならなかったからとも考えられます。
おそらく、蘇我の皇子と同等のお墓にしたのだと思います。
このもう一人の聖徳太子こと竹田皇子は、後にお母さんの推古の陵墓である磯長山田陵 に合葬されています。


見瀬丸山古墳の謎・・・

この見瀬丸山古墳に関しては、多くのの謎があります。そては、明治時代に、英国人ウィリアム・ゴーランド
により、内部が調査されたからです。内部には、巨大な横穴式石室に2基の石棺が入っていることが知られ
ていて、これらの被葬者も謎だとされています。

しかも、後から埋葬された人物のほうが奥に埋葬されているのも不思議だとされています。
つまり、後から埋葬された人物のほうが、いわば位が上の重要人物であるわけです。
そして、この見瀬丸山古墳こそが欽明のお墓なのではないだろうかという推測もされています。
これは、后の堅塩媛が後に合葬されたという記述があるからですが、この理由(後の人物のほうが位が上)
からも、ありえないわけです。また、古墳に葺石が敷き詰められていないことからも、記紀の記述と
矛盾があり問題があるとされます。

多くの謎があるとされる見瀬丸山古墳、特に墓室に関する謎ですが、・・・この謎も難しいものではない。
何故に謎解けないのでしょうか?

この見瀬丸山古墳は天武のお父さんである、山代王のお墓なのでは?そして、後に改葬された人物の
ほうが位が上だとすると、天武が皇祖と仰ぐ、 厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子しかいない。
推古天皇時に、大王だった人物であり、この山代王のお父さんであり天武の祖父です。日十大王です。

天武は、皇祖と仰ぐこの祖父が、小さな古墳、しかも蘇我の本貫地に葬られていたために、彼の王子の
お墓に改葬したのではないだろうか?

この丸山古墳は、押坂彦人大兄皇子を改葬した時に、もとよりさらに大きなサイズに作り直しているのです。
それは、墓室の位置が墳丘の中央よりずれていることにより判断できる。土をもって古墳のサイズを大きく
したのです。
天武が皇祖仰ぐ祖父の押坂彦人大兄皇子を改葬したときに、大きく造りなおしたのです。
これは横穴式であるということと、後から埋葬された人物のほうが奥にあること、そして巨大な
前方後円墳だということから謎解ける。


では、どう造り直したのか・・・
まず、もとの墳丘部の外部に、新たに石を組んで石室を作り埋葬したのです。そして墳丘部から石棺を
掘りだし、元の石棺を新たな石室に移動させたのです。だから、新しい石棺のほうが奥で、古い石棺の
方が手前にあるのです。

石室を外に造ってから、土で覆って墳丘部を大きく型作りしたのです。当然墳丘のサイズは手前に
大きい円丘になり、墓室の位置が中央から手前にズレたのです。新たに墳丘部の手前に石室を作り、
そのあと土をかぶせたために横穴式石室のようになっているだけです。本来は、もちろん墳丘の
中央に墓室がありました。石室の長さだけ経が長くなったのです。

改葬時に 墳丘部に、横穴を掘り、石室を新たに作ったのではありません。
横穴を掘ったのではなく逆です。墳丘外部に、新たに石を組んで石室を作ったのです。
この石室の長さの分を含めた、大きな円丘になり、中央から石室がずれたのです。

これは、大きな石を組んで石室を造っていることからも推測できます。
横穴を掘っての新たな石室造りの作業は困難です。まず、無理なように思います。

墳丘中央部には、本来の石室の跡の残っているはずです。日本古来の伝統が破られたわけではありません。      
当然、後円部が大きくなった関係で、方墳部も大きくし、前方後円墳の終末期の古墳であるにも関わらず、
奈良県最大の巨大な前方後円墳になったのです。もとはこんなに巨大な古墳ではありませんでした。

築造時期に関しても、横穴石室の形状や、石棺の材質などにより新たな推定がなされています。この古い方の
石棺でも、7世紀のものとされ、この古墳の築造年は、以前に言われていた6世紀の築造ではありません。
7世紀の中ごろです。欽明や、蘇我稲目のお墓ではありえません。
何度もいいますが、記紀を信用しての治定はとんでもないことになります。歴史を変更するための
歴史書だからです。

厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子が崩御したのは624年です。そして、天武が大王に即位 したのが、
673年です。この時に、天武により科長から息子たちが眠るこの地に移葬されたのではないでしょうか。

もとはこれほど、巨大な前方後円墳ではなかったのですが、押坂彦人大兄皇子を改葬して巨大な古墳に
造り直したのです。

このお墓こそ聖徳太子のお墓です。天武のお父さんと祖父のお墓です。

これらの改葬を行ったのは、天武あるいは、しばしば工事を行ったとされる斉明天皇の時代から、
改葬が行われ始めたかもしれません。斉明天皇の宮も飛鳥板蓋宮です。
この斉明天皇のお墓は、牽牛子塚古墳が陵墓として有力視されています。
いま治定されている、越智崗上陵は天智の后(本当は孝徳天皇の皇后)の袁智天皇こと、茅渟王の娘の
遠智娘のお墓です。宝皇女こと斉明天皇とは異母姉妹になります。

この牽牛子塚古墳もまた、梅山古墳の近くにあり陪塚といってもいいと思います。
そう、斉明天皇のお父さんは、茅渟王であり、お母さんは吉備姫王です。
梅山古墳の被葬者こそお父さんの茅渟王です。

そして、同じく梅山古墳の陪塚といってもいい、岩屋山古墳 が、牽牛子塚古墳の傍にあります。
このお墓こそ、茅渟王の王子であり、斉明天皇の弟の孝徳天皇のお墓です。
この孝徳のお墓は、大阪磯長陵に治定されています。円丘であるとされますが、これは絶対にありえません。
孝徳が、蘇我氏の墓域である、磯長に葬られることはありえません。

梅山古墳の被葬者こそ、押坂彦人大兄皇子の王子である茅渟王であり、そばに后の吉備姫王のお墓、
そして子供たち、斉明天皇(牽牛子塚古墳)と孝徳天皇(岩屋山古墳 )のお墓です。
牽牛子塚古墳、岩屋山古墳は、ともに八角墳とされます。

聖徳太子の有名な「唐本御影」の肖像画、これは、百済の阿佐太子の筆とされていますが、その服装などから、
天武朝に描かれたものといわれます。
天武朝の制作ということは、皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大兄皇子の肖像画であり、左右に王子たち、
天武のお父さんである山代王 と、この 茅渟王の肖像だと思うのですが?


継体天皇陵に関しては、太田茶臼山古墳と比定されていますが、築造時期が明らかにおかしいとされます。
だから、近くにある今城塚古墳こそ継体天皇陵だと治定されるのもおかしな話ですよね。

蘇我馬子により、蘇我氏が関係する欽明のお父さんであり畿内北部の王である、継体を奈良北部に位置する
大きな前方後円墳を、継体天皇陵として改竄しただけです。
王でなかった人物を王だとして改竄したため、特に蘇我氏にとって重要な、この継体、欽明、そしてお母さん
の手白香皇女のお墓は巨大なものにする必要があったわけです。

築造時期が明らかに異なる、大きな古墳を継体陵に比定していることからも
明らかにおかしい。巨大な古墳はもちろん王のお墓です。
ですが、継体は大王ではありません。こんな巨大なお墓に眠るわけありません。蘇我馬子によって、
欽明のお父さんを過去にさかのぼって王だったとして改竄しているだけです。

生誕の地とされる高島市にある、鴨稲荷山古墳こそ継体天皇陵でいいのでは?彼は畿内北部の王であるのですが、
大王(天皇)として即位していません。



最初の写真は天武・持統陵です。上下の写真は、丸山古墳です。
この巨大な古墳は、もちろん大王のお墓だろうと推定でき陵墓参考地に治定されています、
墳丘部は立ち入り禁止なのですが、方墳部に入ることができます。写真は前方部から撮影したものです。
全長がおよそ318mもあります。大木が古墳全体を覆っているわけではなく、写真にあるように前方部に
は登ることができ、その大きさを実感できます。とにかく大きい。丘陵の傾斜地を利用しているとはいえ、
こんな巨大な古墳をよく造ったものだと感動しました。訪れる価値のある古墳です。


ウイッキベディア・・・
古墳は丘陵上の傾斜地に設けられている。極めて大規模な前方後円墳であり、全長は318メートル、
前方部高さ15メートル、幅210メートル、後円部の径155メートル、高さ21メートル、前方部の幅210メートル
におよぶ。これは景行天皇陵を上回って奈良県下では最大、日本全国においても河内大塚山古墳に
次いで 6位の規模であり、古墳時代後期後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。
   ***************************
横穴式石室の全長は28.4メートルとされます。つまり、改葬後には、およそ30メートル程、墳丘部の径が
長くなったのです。後円部が大きくなった関係で、前方部も大きくなり、巨大になったのです。
石室へつながる通路に当たる羨道が長いは、出来るだけ石室を中央に位置するようにするためです。

新たに外部に石室を造り土を被せたので横穴式のようになっているだけです。この時代には石舞台古墳に
あるように、石室を造る石が巨大になっています。横穴を掘って石室を造るのは困難な作業になるはずです。
そうではなくて、石室を外に組んでから土を被せたので巨大な前方後円墳になったのであり、また大きな
古墳にする意思があって巨大な古墳になっているのです。それは、天武が皇祖と仰ぐ祖父と父親のお墓で
あるからです。

この丸山古墳は、奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にある古墳です。
この地名である、五条野は条坊制における五条とはもちろん全く関係がなく、本来は御廟野(御陵野)
からの転訛であるとされます。
ですので重要な古墳であり、被葬者は誰であるのかはもちろんわかっていたはずですが、後に消されている。
奈良県最大の前方後円墳であるこの古墳は、本来の大王の古墳であるわけです。
3世紀や4世紀の古墳ならまだしも、この古墳の被葬者が誰かわからなくなっているということは、本来あり
えません。これは意図的に改竄され消されている。

それはこの古墳の被葬者は、天武が皇祖と仰ぐ押坂彦人大兄皇のお墓であるからです。
藤原氏は、この押坂彦人大王の後胤と対立し、後に彼が大王であることを消したからです。大王であることを
消した人物が、奈良最大の陵墓の被葬者とすることが出来ないからです。
天武が作ろうとしていた日本書紀、その下巻においてはこの押坂彦人大王から後の全ての天皇に繋がることが
証拠ともいえます。しかしながらこの日本書紀は、後に藤原氏によって改竄されたのです。
この押坂彦人大兄皇子こそ聖徳太子でもあるわけです。見瀬丸山古墳こそ、 聖徳太子の御陵です。









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額田王の謎と推古天皇

2017年01月01日 | 日本書紀の謎


推古天皇は、額田部皇女とされます。彼女は何故に額田なのだろうか?以前から疑問がありました。幼いころ、額田部氏に養育されたとされます?本当なのでしょうか?これは理由が見つからないからの推測でしかありません。

そして、額田というと、天武天皇の妃で、歌人としても有名な額田王(ぬかたのおおきみ)を連想します。額田王は、日本書紀においては、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとされます。
はたして、推古はこの額田王と関係あるのだろうか?

この額田王も、日本書紀、古事記の謎を解くのに重要な人物です。額田王は、「おおきみ」ですので、もちろん王家の女性です。では何故出自が不明なのでしょうか?それは、彼女の出自が改竄された系譜に関わってくるからでもあります。そして、天武の本来の皇后
だったからです。

額田王は、蘇我馬子が、消し去った本来の王家の人物から繋がるからでもあり、また、天智系の天皇や藤原氏による改竄した系譜に関わってくるために、彼女の本当の出自を書けないからでもあります。天智の娘たち(大田皇女と鸕野讃良皇女) は、女系で王家とは繋がりますが,(お母さんの遠智娘は茅渟王の娘)男系では王家と繋がらない。
天智が彼女を欲したのは、遠智娘と同様に男系で繋がる王家の姫王だったからです。

この、額田王こそが、古代から続く王家の血を引く天武の本来の皇后です。

今回は、額田王の出自の謎を、彼女のお姉さんであるとされる、忍阪(押坂、おしさか)
にある鏡王女のお墓と、彼女たちの名前から謎ときます。

額田部皇女とは、推古天皇のことではない。

延喜年間(901~923)に編纂が行われた、延喜諸陵式(諸陵寮を管理する役所)によれば、陵内には糠手姫皇女の押坂墓、大伴皇女の押坂内墓、鏡女王の押坂墓があるとされます。ここ忍阪には、糠手姫皇女、大伴皇女、鏡女王、3人の女性が眠るお墓が、隣接して同じ領内あります。この延喜諸陵式には、舒明天皇のお墓であるなんて記述はありません。
そう、この地は王家の女性が眠る墓地です。

もう何度も登場していますが、押坂彦人大兄皇子の妃であり、嶋皇祖母命とされる糠手姫皇女も重要人物です。同じ場所にお墓があるこの三人は血縁関係があります。そう親子です。額田王の、お姉さんと、祖母と曾祖母です。後にお母さんが、祖母の糠手姫皇女の押坂墓に合葬されたのです。そして、額田王自身のお墓も、もとはこの地にあったとされます。
前述してきましたが、糠手姫皇女は舒明天皇のお母さんではない。糠手姫皇女の押坂墓は舒明天皇陵ではない。

日本書紀の下巻の天皇たちは、天武が皇祖(本来は王祖)と仰ぐ押坂彦人大兄皇子(日十大王)から繋がります。本来は彼が大王だとして記述されていました。その時、天武は自身の系譜に関係する人物を皇祖の尊称ををつけました。嶋皇祖母命とされる彼女こそ、宝皇女(皇極、斉明天)、軽皇子のお母さんであり、本来の王家の血を引き継ぐ人物です。彼らは、いわば、天武系の王たちです。
蘇我氏が関係する舒明のお母さんではありません。
彼らは皇祖の尊称で繋がります。

天智のお父さんを舒明として改竄したため、舒明の地位を上げるため、敏達の皇女である、糠手姫皇女を舒明のお母さんとして改竄している。逆に、孝徳のお父さんである、茅渟王 の位を下げるために、敏達の皇女ではない漢王の妹とされる大俣王 をお母さんとしている。ここ、お母さんが交換されている。
つまり、糠手姫皇女の子供は、茅渟王 と桑田王であり、女性とされるこの桑田王こそ、額田王のお母さんであり、彼女の出自を書けなかった理由です。改竄された、天智天皇の系譜に関わるからです。

そして、この糠手姫皇女のお母さんが、同じ場所に眠る大伴皇女のことであり、彼女こそ額田部皇女なのでは?

謎はこの大伴皇女の名前から推測できます。

この糠手姫皇女の、糠手は本来は額田なんじゃないのだろうかか?そして、額田王はこの糠手姫皇女から繋がる人物なのでは?

大伴皇女は、欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩姫との間の皇女とされ、推古とは姉妹になります。だとすると、全く蘇我の女性ですよね。おかしいですよね。何故、大伴なのでしょうか?

ごくごく、常識的に考えれば、大伴皇女の大伴は、もちろん大伴氏が関わると考えられますよね。この時代、大伴氏には、 安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えたとされる大伴 金村という人物います。この金村の子供に 大伴糠手古という人物がいます。女性なのか男性なのか不明ですが・・・名前からの推測ですが、女性であり、糠手姫皇女の糠手は、この祖母の名、大伴糠手古から名付けられたのでは?

この大伴氏は物部側の豪族です。安閑、宣化天皇の擁立者となり 、蘇我氏と対立していました。後に秦氏、藤原氏とも対立することになります。蘇我の女性が、大伴の名前を持つのはおかしい。

ですので、大伴皇女は欽明天皇と堅塩姫との間の皇女 ではなく、大伴 金村 の娘(大伴糠手古?)と宣化天皇の王子の誰か、王子は、3人います(上殖葉皇子、火焔皇子 、 宅部皇子 、との王女です。蘇我氏が関係する欽明を王だったとして改竄したために、王として即位したことを消された王子たちです。

継体天皇や欽明天皇は、推古のお父さんや祖父を王だったと後に蘇我馬子によって改竄されたものであり、本来の王家とは関係ない人物です。彼らは王として即位はしていません。

この大伴皇女のお母さんの大伴糠手古 ?は、大伴 金村 と額田部氏の娘との子供です。糠手は額田なのでは?そして、大伴皇女と敏達の子供が、糠手姫皇女なのでは。すると古代から繋がる王家の女性です。額田王も、宣化天皇から繋がる王家の人物なのは間違いないように思います。すると、天智の娘たちよりは位が上のはずです。だから本来は彼女が皇后だったのでは?天武の最初の后です。

宣化天皇から、額田王までの系譜に関しては、 かなりややこしいので纏めます。
それは、生年月日が全く不明だからです。ですので名前からの推測もあるのですが・・・

*同じ墓域内に、糠手姫皇女、大伴皇女、鏡女王、3人の女性が眠るお墓があるとされていて、彼女たちは血縁関係があるのでは?これ、当然の推測ですよね。改竄された系譜の矛盾が、こういうところから判明する。彼女たちは額田王の、お姉さんと、祖母と曾祖母です。

*大伴皇女は欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩姫との娘とされますが、そうではなく、大伴氏が関係する娘である。これも、まず間違いないように思うのですが・・・?

*大伴 金村の娘に、大伴糠手古という人物がいます。糠手は額田なのでは?つまり糠手古のお母さんは、額田部氏の娘なのでは?
大伴 金村と額田部氏の娘との子供が大伴糠手古なのでは?

*宣化天皇の王子か、あるいはその子供から繋がる人物、上殖葉皇子の王子である十市王かな?(名前からの推測ですが、額田王の子供が十市皇女)この十市王と、大伴 金村の娘の大伴糠手古との子供が、大伴皇女なのでは?大伴皇女に関しては推測するしかないのですが、・・・。

*大伴皇女は、大伴 金村から繋がる女性である。額田部皇女とは、推古のことではなく、この大伴皇女のことであり、推古が額田部皇女とされるのは、本来、大伴皇女が敏達の皇后だったからなのでは?権力を握った蘇我馬子による、蘇我の女帝である、推古の地位を上げ、対立する、大伴氏の女性の地位を低くする操作が行われている。

*大伴皇女と、敏達の子供が、嶋皇祖母命とされる押坂彦人大兄皇子の后である糠手姫皇女。 宝皇女(皇極、斉明天皇)や軽皇子のお父さんである茅渟王や、桑田王 のお母さんである。舒明天皇のお母さんではない。

* 押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女の子供で娘の桑田王と、鏡王との娘たちが、 鏡王女と額田王なのでは?王家の女性だから、「おおきみ」なのです。

*そしてこの鏡王もまた、宣化天皇から繋がる王家の人物とされます。 額田鏡王とされています。つまり、額田王は男系・女系からも繋がる姫王です。

  ウイッキベディア・・・
 『古代豪族系図集覧』(近藤敏喬編)によると
宣化天皇-火焔皇子-阿方王ー額田鏡王-額田女王とある。
      ********************
額田王の系譜・・・
宣化天皇ー上殖葉皇子ー十市王・大伴 金村の娘の大伴糠手古ー大伴皇女

大伴皇女(額田部皇女)・敏達天皇ー糠手姫皇女

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー桑田王・鏡王ー鏡王女、額田王

天武の本来の皇后なのですが、天智系の天皇たちは、天智の娘、鸕野讃良皇女 こと持統を皇后にしている。そのために、額田王の本当の出自が消されている。

そして、もうひとつ彼女の系譜を表せない大きな理由があるように思うのですが、・・・これが本当の理由かな?

なんども、記述してきましたが、藤原氏が対立してきた長屋王に関係します。天武の皇子でもう一人気になる人物がいます。それは 長屋王のお父さんである 高市皇子です。

この長屋王に繋がる系譜、押坂彦人大兄皇子から長屋王に繋がる系譜もまた改竄されている。天武系の系譜です。藤原氏は、高市皇子の息子の長屋王と対立していました。彼らは、大王だったの
ではないのだろうか?

ウイッキベディア・・・
『万葉集』巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、『万葉集』中最長の壮大な挽歌が収められている。ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。この尊称から彼が立太子されていたのではないかとの説がある。

高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もある ・・・
     ************************
このウイッキペデア7の指摘にあるように高市皇子は立太子してたのでは?
長屋王と対立していた藤原氏にとっては、彼らが大王では都合が悪いので、系譜が改竄されている。そう、身分を低くされている。身分を低くするには、お母さんを王家と関係ない人物にすることです。長屋王家とされる場所から出土した木簡の記述からの推測では、長屋王や父親である高市皇子は明らかに大王に即位しています。

長屋王のお父さんの高市皇子は、 天武と、胸形徳善女 の尼子娘とされますが、どうなのでしょうか?天智の娘たちの皇子をさしおいて、立太子しているということは、・・・つまり、 高市皇子は、天武と、胸形徳善女 の尼子娘 ではなく、古代の王家から繋がる女性との王子である。すると、額田王しかいない。

第一皇子である高市皇子と第一皇女の十市皇女はともに、天武と 額田王との子供たちなのでは?日本書紀・古事記は編纂後に、天智系天皇や藤原氏によって書き換えられている。

藤原氏は本来の大王だった、長屋王を殺害しました。そして長屋王は藤原氏に祟ることになりました。長屋大王が大王に即位していたということを消すためには、父親である高市王子が大王に即位していなかったとすることです。

天武大王の第一王子であるのに、高市王子が大王に即位していないとするには、母親の身分を下げることです。胸形徳善女の娘の尼子娘という地方豪族の娘ということに変更されています。藤原氏による系譜改竄箇所です。
額田王は采女や巫女などの低い身分の女性ではありません。額田王(ぬかたのおおきみ)の呼称どおり王家の女性です。

「市」の文字が共通する第一王子である高市王子と第一皇女の十市皇女は同母姉弟です。額田王の子供たちです。

万葉集には高市王子作の十市皇女への三首の挽歌です。
万葉集巻第二 156~158番

三諸の神の神杉 巳具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜そ多き

三輪山の山辺真麻木綿 短木綿 かくのみゆえに長しと思ひき

山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく


写真は、舒明天皇陵とされる押坂内陵(糠手姫皇女押坂墓)に、同じ陵域内にある大伴皇女押坂内墓と、鏡女王押坂墓です.

この舒明天皇陵(段ノ塚古墳 )を始まりとし、八角墳が採用されたとされます。これ以降は、斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)、天武天皇陵、天武・持統合葬陵、草壁皇子の墳墓(束明神古墳)文武天皇陵(中尾山古墳)と、舒明天皇に始まり皇孫の文武天皇まで採用されているとされます。これは、天武系の王たちです。

そして、斉明天皇陵は、いままで地定されていた越智崗上陵ではなく、牽牛子塚古墳です。越智崗上陵は天智の后の袁智天皇こと、茅渟王の娘の遠智娘のお墓です。宝皇女こと斉明天皇とは姉妹です。「段ノ塚」が八角墳なのは、もちろん、糠手姫皇女は押坂彦人大兄皇子 の后であり、宝皇女・軽皇子の祖母だからです。しかし、この「段ノ塚」と呼称されるこの古墳は、舒明天皇陵であるとのとの伝承はありませんでした。滑谷岡に葬られ後に、ここに葬られたかは定かではありません。日本書紀の嘘です。

そして、八角墳はこの段ノ塚古墳 が始まりではなく、斉明天皇陵が始まりですよね?それは、この糠手姫皇女はかなりの長命だったからとされるからです・・・?斉明天皇は661年に亡くなったとされ、糠手姫皇女はなんと664年に亡くなったとさます。そして舒明天皇が移葬されたのは663年であるとされます。

糠手姫皇女は、およそ90歳位まで生きたことになります。今の時代なら、なんら問題のない年齢ですが、この時代としてはかなりの長命です。これ舒明のお母さんを交換したからだと思うんだけど・・・?この没年は、本当の舒明のお母さんである、大俣王の没年ではないのだろうか? つまり、舒明は今考えられている生年より、もっと後の生まれである。

同じく、斉明天皇に関しても同じことが言えます。彼女は594年生まれとされますが、これはありえない。それは、祖父の押坂彦人大兄皇子は、572年生まれだからです。つまり、お父さんの茅渟王が、この592年頃の生まれと考えられるからです。舒明も斉明もともに615年頃の生まれだったのでは?斉明を615年の生まれとすると、皇極天皇として即位したのが27歳で、斉明天皇として即位したのが40歳になり、妥当な年齢になります。日本書紀においては、斉明として即位したのが62歳という、この時代ではありえない即位の年齢です。

ともに、626年生まれの、天智を舒明と宝女王の皇子とするための改竄だとおもうのですが・・・?
押坂彦人大兄皇子、茅渟王、山代王、大王だった彼らの年齢を不詳にする理由です。
天武の生年が不明なのも、本来は天智の方が年上なのですが、宝女王の最初の子供(高向王との子供の漢皇子)を天武にする意図があるのでは?天智と天武は兄弟ではなく、明らかに身分の差がある。「段ノ塚」が八角墳なのは、もちろん、糠手姫皇女は押坂彦人大兄皇子 の后であり、宝皇女・軽皇子の祖母だからです。

新たに発見された、舒明の最初のお墓ではないのだろうかとされる、小山田遺跡に関しても、蘇我氏の墳墓である方墳であり、押坂彦人大兄王子の舒明のお墓ではありえなく、蝦夷のお墓の可能性が高いともいわれています。ではここに合葬たのはだれなのでしょうか?祖母のお墓に額田王のお母さんが合葬され八角墳に作り直されたのではないでしょうか?

天武、持統に関わる人物の墳墓を八角墳にしている。舒明は押坂彦人大兄皇子の皇子なのですが、
お母さんの身分より、即位したのは山代王 です。舒明は天智や天武の本当のお父さんではない。

額田王自身のお墓に関してですが、もとはこの陵域内にあったともされます。後に、孫である葛野王により天武・持統天皇陵の傍に移葬されたそうです。この葛野王 は額田王の娘の十市皇女の子供です。

そして姉とされる鏡王女ですが、・・・彼女は,額田王本人だとも、あるいは妹だともいわれています。お墓が別に存在するとされますので別人だとは思うのですが・・・。
そして、この鏡王女は天智天皇から大化の改新の功績を称えられた中臣鎌足に褒美として下げ渡されたとさます。中臣鎌足が百済王である義慈王の王子、翹岐?だとするとね、これ、天智より、位が上なわけです。下げ渡されたのではなく献上されたわけですが、 彼女が藤原不比等のお母さんともされ、お墓は談山神社の管理となっています。そうすると、藤原不比等は天智天皇(王家の人物ではない)の落胤でなくても、女系で王家の血が流れているわけで、この後の彼の異例の出世も納得できます。
しかし、額田王の姉の「鏡王女」と、不比等の母親である「鏡姫王」は別人です。




写真1、2枚目は、舒明天皇陵とされる押坂内陵(糠手姫皇女)です。
ここから丘を少し登れば鏡女王押坂墓(7,8枚目)です。さらに奥に100mほど登れば大伴皇女押坂内墓(9、10枚目)があります。
近くに日本最古といわれる石仏(石造浮彫伝薬師三尊像)が安置されている石位寺があります。この石仏は、もとは 額田王の念持仏として作られ、本来は近くの栗原寺にあったものです。この栗原寺建立のいきさつは、談山神社の三重塔の伏鉢の銘文に残されています。

由緒によると中臣大島が、草壁王子のために発願し比売朝臣額田が造営したお寺とされます。この比売朝臣額田は、もちろん額田王であり、その言い伝もいまに残ります。額田王のお墓も、もとはこ地にあったとされます。この石仏こそ、額田王の墓石のようなもの?であり、石位寺こそもとの額田王のお墓だったところではないでしょうか?後に、額田王の娘の十市皇女の子供の葛野王によって、この地から天武・持統陵傍に移葬されたといわれます。

厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子も押坂であり、聖徳太子が少年期までをすごしたとされる、上之宮の地名も、ここから2km程西側にいまも残ります。隅田八幡神社人物画像鏡にある意柴沙加宮はこの付近こそが、意柴沙加宮とされます。また、雄略天皇の泊瀬朝倉宮もこの地の傍にあり、ここいらへんは古くから宮の存在した場所であり、交通の要所でもあります。

この上之宮の名称は、父の宮の上方に営まれたという理由で名付けられました。聖徳太子こと、押坂彦人大兄皇子のお父さんは、敏達天皇であり、宮である訳語田幸玉宮(桜井市戒重)は、まさしくこの上之宮遺跡の北に位置します。



 



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