漢風諡号の「天智」は、中国の暴虐な王として知られる殷の紂王の愛した天智玉から
名付けられたとされます。
そう天智こそ、百済からの渡来人を父に持つ王家簒奪の王なのでは・・・。
天智と天武に関することで、誰もが不思議に感じるのは、中大兄皇子から大海人皇子へ、
そう兄から弟へ4人の娘、(大田皇女、鸕野讃良皇女、新田部皇女、大江皇女)を
嫁がせていること。これは、明らかに不自然で、説明できない。
これ、お母さんが異なるっていうのならありますが、ともに舒明と皇極の子です。
こんなの明らかに、おかしいわけ。天智と天武、この二人には身分の差がある。
そして、記紀編纂に、かかわったであろう娘の持統天皇と、元明天皇姉妹は、
中大兄皇子のお父さんが渡来人ということなら、もちろん王になる資格なかった。
これは、王家とは男系で繋がりません。
記紀作成の理由のひとつは、この出自を隠すため。
蘇我の女を母に持つこの二人は、渡来人の血を多くひく女帝です。
だとすると、・・・この天智天皇の、出自に関するところを改竄し消し去って
いるはずです。当然、記紀には何も記述されていないのだけど・・・
どうなのでしょうか?
じつは、ひとつだけ消し去れない証拠がの残っているように思う。
それは・・・
持統天皇の名前、諱の、鸕野讚良(うののさらら)です。
どうして、彼女が「讚良 さらら」の名を持っているのか?
わたしは、はじめこれが不思議でならなかった。
このサララはシルラ、そう新羅のことです。そして讚良郡という地名があるのです。
そう、こういうのは、そこで生まれたか育ったところと考えられますよね。
地名が名に付く例が凄く多くあります。
讚良郡鸕野村です。もとは、新羅からの渡来人の居留地だったところです。
この讚良郡とは、いまの大阪の四條畷、寝屋川市、大東市周辺であり、
もともと古来から渡来人の居留地。
秦氏の本地は京都ですが、河内にも多くのの拠点がありました。
特に北河内は新たに百済から渡来した人々が住んでいたともいわれます。
この地にも、秦・太秦といった秦氏ゆかりの地名があります。
この時代、ここ讚良郡と京都周辺を支配下に入れていた部族長は、渡来人
である秦河勝であるといわれます。
この秦氏は百済からの渡来人か、新羅からの渡来人かはいろいろ議論あるようですが、
百済や伽揶諸国の滅亡による、多量の渡来人の影響がこの時期ありました。
この秦河勝こそ、天智天皇のお父さん。持統のおじいちゃんです。
この秦氏の先祖とされる弓月君は、応神天皇の時代、百二十県の民を率いて百済から
渡ってきて帰化した渡来人です。
おそらく、かなりの数の人々が渡来してきたと考えられます。
そう、百済と北方の大国である高句麗との戦いの時です。
倭国も朝鮮半島に出兵し、百済から七支刀が贈られたときです。
多量の渡来人があるのは、戦乱時においてです。
出兵の見返りに技術集団を要求したのだと思います。
秦氏は、もともとは、「波多」?であり、後に秦の始皇帝の末裔として中国にルーツを
持っていき「秦」という文字を充てたともされています。
もちろん、朝鮮半島からの渡来人は、百済からだけではなく、新羅、高句麗、伽揶諸国
などからもありました。そう、戦乱時には、朝鮮半島側の倭国を味方に付けようと
しました。
百済、加羅諸国とは、この4世紀から緊密な関係にあり、友好関係を維持してきましたが、
新羅とは敵対関係にあることが多かったようです。ですので、百済からの渡来人が多くなります。
特に、大阪の河内、摂津、泉は、百済からの渡来人が多く住み百済国ともいわれ、
今も多くの地名や神社仏閣が残ります。
百済王神社、百済寺、百済群、百済神社、百済川、百済橋・・・
この地名に関しては、百舌鳥・・・百済(モズ)が有名です。百舌鳥百済村です。
大仙古墳など河内の古墳が巨大になったのも、彼らの労働力によるものです。
多くの渡来人により人口が増え、古墳が巨大になりました。
百舌鳥古墳群ともいわれます。
奈良盆地から河内へ権力が移行したのも、この渡来人による人口増加が理由です。
この多数の百済からの渡来人が、倭国を百済側につけようと、秦氏の王である秦河勝と
宝皇女(皇極)の子の中大兄皇子に近づきます。
中大兄皇子が王になれたのも、彼らの後ろ盾があったからです。
もともと、渡来人というのは新羅からが多かったでしょうけど、
この7世紀には、唐が新羅と結んだため百済は敗北し、ついに660年に唐と新羅の
連合軍に滅ぼされます。
多数の亡命者がこの時もあり、この百済や伽揶諸国からの多数の渡来人が、大きな影響
を与えたと考えられます。
日本書紀天智4年、5年、8年と百済からの渡来人を、移住させた記述があります。
移住しただけでも、三千人以上になります。
特に、近江に多く移住したことも記述されています。
この秦氏の領地である京都側の近江の大津に、天智は遷都しています。
もちろん、ここいらへんも秦氏の領地といってもいいと思います。
そう、中大兄皇子はお父さんである秦河勝のもとに遷都しました。
これはもちろん、白村江の戦の戦争責任追求から逃れるため。
以下、天智天皇のお父さん(あるいは、祖父)が渡来人の秦河勝なのでは?といところ纏めてみました。
*天武朝に、「帝紀」「旧辞」を作成したのに、なぜ持統・元明・元正朝に記紀を作成
する必要があったのか?天智系の女帝に都合のわるいことがあったのでは?
天智天皇のお父さんが渡来人であったなら、父系で王家と繋がらない。
*中大兄皇子の娘4人が大海人に嫁いでいる。しかも同父同母の兄から弟へ。
これは、あきらかにおかしく、この二人には身分の差があるからなのでは?
*斉明天皇条、冒頭に、用明天皇の孫の高向王に嫁して、漢皇子を生んだ。
という記述がある。この漢は、東漢氏などと同じアヤであり、高向王と
いうのははたして誰なのか?不明ですが、渡来人との子を生んだことが、
暗示されているのでは?
実は、・・・これは天武の年齢が意図的に記載されていないことに関係する。
これは、天智天皇の出自を隠すために、あたかも天武の方が年上で、高向王の子の、
漢皇子(渡来人)だとしたかったわけ。
ここ誰もが騙されている。この高向王とは秦河勝のこと。
*持統天皇の諱の鸕野讚良(うのささら)、このサララはシルラのことで、
そう新羅のことで、古くからの渡来人の居留地。
この時代、ここ讚良郡は秦河勝の支配地であり。秦・太秦といった秦氏ゆかりの地名があります。
川勝町という地名が今も存在し、彼の墓所はここにもあります。
*皇極天皇条には、この秦河勝は神だという不思議な記述がある。
太秦は 神の中の神 聞こえも高い 常世の神を 打ち懲めなさった
*どうも、秦河勝は蘇我入鹿とあらそっていた。これは、乙巳の変の一年前の
皇極3年(644年)こと。 (大避神社由緒書き)
ウイッキペディア・・・由緒書き
河勝は太子死後の皇極3年(644年)、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって坂越に移り、
千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去したという・・・。
*中大兄皇子が、乙巳の変に加担したのは、秦河勝が蘇我入鹿と争っていたから。
これは、おそらく朝鮮半島への出兵に関してだと思う。
蘇我氏は新羅からの渡来人であり、出兵には反対していた。
*乙巳の変の時、古人大兄皇子は彼を「韓人」と表現している。
「韓人、鞍作(入鹿)を殺しつ」の韓人とは、もちろん中大兄皇子のこと。
この韓人とは百済人ということ。
*乙巳の変後、中大兄皇子が即位できなかったのは、もちろんお父さんが渡来人だから。
王になれる身分ではなかったから。
*天智天皇は、秦河勝の領地であろう近江の大津に遷都している。
この近江にも湖東三山の一つとして知られる百済寺があります。
*秦氏は百済からの渡来人で、この時期も百済から多量の渡来人が帰化して
大きな勢力になった。この大きな後ろ盾を基に、天智天皇は朝鮮出兵を実行した。
そして、この時代秦氏の族長は秦河勝である。
*額田王は、おおきみであり、これはいうまでもなく王家に関係する人物。
天智と天武は、彼女を巡ってあらそったとされます。
これは彼女が美しかったとか、才能豊かであったとかではなく、渡来人を父に
持つ天智が欲したのは、王家の血、彼女の血統なのでは?
あかねさす紫野行き標野行き
野守は見ずや君が袖振る
紫のにほへる妹を憎くあらば
人妻故に われ恋ひめやも
*壬申の乱のとき、多くの豪族は天武に味方した。
この戦は、わかりやすくいえば、百済渡来人対日本・新羅渡来人だったのではないでしょうか。
天武朝になって、遣唐使が途絶え、逆に新羅へ使者を送ることが多くなり新羅からも
多くの使者が訪れるようになります。
左の写真は、紅葉の名所として知られる多武峰にある談山神社です。
はたして、藤原 不比等は天智天皇の子だったのでしょうか。